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ちょい話【釈尊編】

お釈迦様の生涯と教え

世親(ヴァスバンドゥ)は兄の無著(アサンガ)と共に法相宗の始祖と呼ばれる高僧。壮年の顔立ちで左を向き、遠くを見ている。

2020-12-12
【奈良・興福寺/世親菩薩立像(1208年)】玉眼、寄木造。手には持物があったと思われる。彩色は欠落。

【達磨とは】

2020-10-07
出典Wikipedia
Facebook平野めぐみさんの投稿
達磨、達磨祖師、達磨大師ともいいます。「ダルマ」というのは、サンスクリット語で「法」を表す言葉です。達摩との表記もありますがいわゆる中国禅の典籍には達磨、古い写本は達摩と表記しています。画像では、眼光鋭く髭を生やし耳輪を付けた姿で描かれているものが多いです。
曇林が伝えるところによると、南インドのタミル系パッラヴァ朝において国王の第三王子として生まれ、中国で活躍した仏教の僧侶です。5世紀後半から6世紀前半の人で、道宣の伝えるところによれば宋_(南朝)の時代(遅くとも479年の斉_(南朝)の成立以前)に中国にやって来たとされています。中国禅の開祖。『景德傳燈錄』によれば釈迦から数えて28代目とされています。インドから中国南方へ渡海し、洛陽郊外の嵩山少林寺にて面壁を行う。確認されているだけで曇林、慧可の弟子がいます。彼の宗派は当初楞伽宗と呼ばれた。彼の事績、言行を記録した語録とされるものに『二入四行論』などがあります。
達磨は嵩山少林寺において壁に向かって9年坐禅を続けたとされていますが、これは彼の壁観を誤解してできた伝説であるとも言われています。壁観は達磨の宗旨の特徴をなしており、「壁となって観ること」即ち「壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅」のことです。これは後の確立した中国禅において、六祖慧能の言葉とされる坐禅の定義などに継承されています。
永安元年10月5日(528年11月2日)
に150歳で遷化したとされます。一説には達磨の高名を羨んだ菩提流支と光統律師に毒殺されたともいわれています。
達磨が面壁九年の座禅によって手足が腐ってしまったという伝説が起こり、玩具としてのだるまができました。これは縁起物として現在も親しまれています。
だるまが何度転んでも起き上がるのを縁起としたのです。
この風習は、養蚕(ようさん)地帯に多く見られます。 春蚕(はるご)が当たるとだるまの片目を入れ、秋蚕(あきご)もよいと一方の目を入れる習いです。この大師の9年間貫き通した不屈(ふくつ)の坐禅修行と、150才までもの長寿にあやかったのが、赤いダルマさんです。

【奈良・興福寺/無著菩薩立像(1208年)】

2020-09-05

 

Facebook仏像リンクより

【奈良・興福寺/無著菩薩立像(1208年)】像高194.7cm。弟の世親の像とともに弥勒如来像の脇に立つ。運慶の指導のもとに、六男の運助が作成したと伝えられている。

法隆寺金堂壁画が消失いたしました。

2020-10-02
Facebook佐々木信雄さんの投稿
『Get Back! 40's / 1949年(s24)』
(法隆寺金堂 壁画焼失)
○1.26 [奈良] 法隆寺金堂から出火、模写中の壁画12面が全焼する。
 1月26日早朝、法隆寺の金堂に火災が発生した。当時は模写事業のため解体中で、一部の文化財はは無事であったが、模写中の壁画12面が焼損した。出火原因はさまざまな説があるが、結局原因不明で不審火とされた。インド・アジャンター石窟群の壁画、敦煌莫高窟の壁画などと並び、アジアの古代仏教絵画の到達点を示す文化財であったが、焼損のためその価値は失われた(壁画は黒焦げ状態で保管されている)。
 昭和30年代には、焼損した壁画中の写真の菩薩像が、封書に貼られる10円切手に描かれていたので、いまでも記憶にとどめてる人が多いと思われる。翌年の金閣寺焼失と併せて、戦時中の空襲の火災から焼失を免れた貴重な文化財が、戦争が終わってから焼け落ちるのは極めて残念なことである。
 現在、法隆寺金堂にある壁画は1967年から1968年にかけて、当時の著名画家たちによって模写されたものである。焼け焦げたオリジナルの壁画は、法隆寺内の大宝蔵殿の隣の収蔵庫に、焼け焦げた柱などと共に保管されているが公開はされていない。
*この年
アメリカンファッション全盛/ビアホール復活
【事物】成人学校/香料入り広告/お年玉付年賀ハガキ/JISマーク
【流行語】厳粛な事実(労農党代議士松谷天光光と民主党代議士園田直の結婚)/ノルマ/ワンマン
【歌】銀座カンカン娘(高峰秀子)/悲しき口笛(美空ひばり)
【映画】晩春(小津安二郎)/野良犬(黒沢明)/戦火のかなた(伊)
【本】日本戦没学生手記編纂委員会「きけわだつみのこえ」/三島由紀夫「仮面の告白」/チャーチル「第2次大戦回顧録」

金閣炎上

2020-10-10
京都での今日は1955年 に 1950年7月2日に焼失した鹿苑寺(金閣寺)が再建され落慶法要が行われた日です。
Facebook平野めぐみさんの投稿
京都での今日は1955年 に 1950年7月2日に焼失した鹿苑寺(金閣寺)が再建され落慶法要が行われた日です。
鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺院です。建物の内外に金箔を貼った3層の楼閣建築である舎利殿は金閣(きんかく)、舎利殿を含めた寺院全体は金閣寺(きんかくじ)として知られています。相国寺の山外塔頭寺院です。
寺名は開基(創設者)である室町幕府3代将軍足利義満の法号・鹿苑院殿にちなみます。山号は北山(ほくざん)。寺紋は五七桐です。義満の北山山荘をその死後に寺としたものです。舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築でした。
【金閣とは】
鹿苑寺の舎利殿を金箔で貼られているので金閣と呼ばれています。
一層は「寝殿造り」で『法水院』(ほっすいいん)、二層は「武家造り」で『潮音洞』(ちょうおんどう)、三層は「禅宗仏殿造り」で『究竟頂』(くっきょうちょう)と呼ばれ、それぞれの層で異なる様式が採用され、それを見事に調和させた室町時代を代表する建築物です。
二層と三層には漆地に純金の箔が貼られ、屋根は椹(さわら)のこけら葺、頂上には金銅製の鳳凰が置かれています。 
慈照寺の観音殿(銀閣)、西本願寺の飛雲閣とともに「京の三閣」の一つに数えられています。
【金閣の焼失】
昭和25年(1950年)に修行僧による放火により焼失しました。
この事件を題材に、長編小説では三島由紀夫『金閣寺』や、水上勉『五番町夕霧楼』が書かれました。
水上勉は舞鶴市で教員をしていたころ、実際に犯人と会っていると述べています。1979年のノンフィクション『金閣炎上』は舞鶴の寒村・成生の禅宗寺院の子として生まれた犯人の生い立ちから事件の経緯、犯人の死まで事件の全貌を詳細に描いたもので、事件の経緯を知るための一次史料となっています。
その金閣の再建が1955年の10月10日だったのです。
【金閣再建】
その後、再建から10年あまりで金箔が剥落して下地の黒漆が見えるようになり、金閣ならぬ黒閣とさえ言われるほどでした。その漆も紫外線で劣化するようになったため、昭和61年2月から翌62年10月まで1年8ヶ月、総工費約7億4千万円(当時)を投じて「昭和大修復」が行われ、漆の塗り替えや金箔の貼り替え、天井画の復元等の修復工事が行われました。この修復工事に際し、金箔は通常(約0.1µm)の5倍の厚さ(約0.45 - 0.55µm)の「五倍箔」約20万枚(約20kg)、漆は国産の「浄法寺漆」約1.5tが使用されていました。
最上層の天井板は「楠天井の一枚板」であったと伝えられますが、それは誤りであり、複数の板を用いた鏡天井でした。
この大修理の様子は、NHKプロジェクトXで「金閣再建」として放送されました。
【なぜ金閣寺が世界遺産に登録されたのか】
1994年、金閣寺は世界文化遺産の構成資産として認定されました。しかし、1950年の火事によって重要文化財はすべて焼失してしまった金閣が、なぜ登録されたのでしょう。
答えは世界文化遺産の登録基準の中にありました。
世界遺産の登録基準
(1)人類の創造的才能を表現する傑作。
(2)ある期間を通じてまたはある文化圏において建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
(3)現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
(4)人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
(5)特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている、ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落または土地利用の際立った例。
(6)顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と、直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。
最初の金閣寺が室町時代に建てられた事実よりも、現存する金閣寺にどのような評価を付けることができるかが重視されたということです。
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