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逸品の世界

ちょっと気になる逸品の世界

高取焼宗家

2023-08-19

茶器という用の美への探求。一味違ったこだわりを感じる作品。
黒田藩の御用窯として現在も伝統技法を守り続けている。
今でも長石や陶土を唐臼でつき登り窯や穴窯による焼成を続けている。

唐臼が響く小鹿田の里「伝統を今に」職人達の思い 大分県日田市

2023-08-19

陶土の採取、成形、焼成に至るまで全て手作業で行われる小鹿田の器づくり。
この技法は江戸時代から受け継がれ、今でもそのやり方は変えていない。
1995年には、陶芸技法が国の重要文化財に指定された。
 繋いできた伝統を変わりゆく今の時代に生かす。 魂込めて作られた器。
その作り手の想いが届きますように・・・ 
音で味わう陶芸 | 小鹿田焼の里【沸騰大分】

大分県が誇る、陶芸の里「小鹿田焼の里」にてHaruka Stylesは国の重要無形文化財として登録された小鹿田焼の伝統的技法に触れます!

 【目次】
 00:23 小鹿田焼の里 
01:46 唐臼
 02:36 水簸
 04:23 菊練り
 05:52 飛び鉋
 06:20 釜焼き
 07:44 釉薬 
10:19 日田まぶし千屋 
沸騰大分【おんせん県おおいた観光チャンネル】 ~日本一のおんせん県おおいたの見どころ満載~ 魅力あふれるおおいたの観光情報を余すことなく発信しています。 
小鹿田焼の里

約300年もの永きにわたって続いている小鹿田焼の窯。
山の土を川の力をかりて唐臼で砕き、時間をかけて素朴な陶器を手作りでひとつひとつていねいに作られています。
国の需要無形文化財に指定されています。

鳥瞰図

2023-07-20

鳥瞰図とは? パノラマ地図を眺めてみませんか?

鳥瞰図(ちょうかんず、鳥目絵(とりめえ)・俯瞰(ふかん)図・パノラマ図とも言います、英語 bird’s eye view)とは、空を飛ぶ鳥の視点から地上を見おろしたように描いた図のことで、建物や山などの立体感や遠近感がよく描かれ、街の広がりや地形などを把握するのに適しています。
現在の地図ような真上から見おろした形の地図表現が定着する以前に、鳥瞰図による市街図などが作成されていました。現在でも観光地の案内図などに鳥瞰図が使われているのをよく見かけます。

http://www.geo-prd.co.jp/birdseyeview  

facebook 株式会社ジェオ - GEO

https://www.facebook.com/geoprd/?ref=embed_page

鳥瞰図絵師 黒澤 達矢 氏
吉田初三郎は京都生まれの鳥瞰図絵師
吉田初三郎式鳥瞰図データベース
大正から昭和初期に起こった大観光ブーム。そのブームの中、日本内外の旅行パンフレットに鳥瞰図を取り入れたのが「大正の広重」と呼ばれた吉田初三郎です。「吉田初三郎式」として人気を集めた彼の鳥瞰図の最大の特徴は極端なデフォルメで、大胆な構図と鮮やかな配色による豊かな表現に彩られ、今日と比べても遜色ないほどの詳細な情報が盛り込まれた旅行案内が多数出版されました。
 吉田初三郎は京都生まれの鳥瞰図絵師で、最初の『京阪電車御案内』(大正2年)が、皇太子時代の昭和天皇から「これは奇麗で解り易い」と賞賛されたことに喜び、生涯に1600点以上もの作品を描いたと言われています。
 国際日本文化研究センターでは吉田初三郎、および彼の影響のもと同時代の絵師が描いた鳥瞰図の網羅的な収集を行ってきました。本データベースではその全体像を把握できるようにするとともに、画像を共有するための国際的な枠組、IIIF (International Image Interoperability Framework)を採用し、一般市民から世界の研究者まで広く活用されることを目的としています。

涼し気な明珍の風鈴 姫路藩のお抱え甲冑師

2023-07-11
facebook 畠山 紘さん曰く
明珍の打ちたる兜や鎧の胴は、刀では切れず、 鉄砲のたまも通らなかった」
涼し気な明珍の風鈴
姫路藩のお抱え甲冑師
江戸時代になると明珍義時が幕府の大老である酒井忠清(ただきよ)の
お抱え甲冑師となり、現在の群馬県前橋市に住むようになりました。
明珍宗房の時、主君酒井忠恭(ただずみ)が姫路藩主となったため、
姫路に移り住むことになりました。
「姫路藩兜鍛冶明珍」と題する古絵にも
「明珍の打ちたる兜や鎧の胴は、刀では切れず、
鉄砲のたまも通らなかった」と記されています。

蝦夷錦

2023-07-05
蝦夷錦とは、もともとは中国の江南地方で作られた絹織物で、北京からアムール川(黒竜江)を下り、間宮海峡を渡ってサハリン(樺太)に至り、南下して現在の北海道にもたらされたと言われています。 江戸時代中期に描かれた蠣崎波響筆の『夷酋列像』には色鮮やかに蝦夷錦が描かれています。

私たちのアイヌの文化に対する知識というのはかなり貧弱なものではないでしょうか。
クマやシャケを捕り、顔に入れ墨をして、アッシと呼ばれる麻の衣服を着ている?
ところがどっこい。

調べてみますと、アイヌ民族は、記録の残る江戸時代に限ってみるだけでも、かなりの名商人であったことがわかっています。

19世紀まで、当時の日本では中国の黒竜江流域を山丹といい、そこに住む人をサンタン人と呼びました。そしてこの人達が樺太(からふと)に渡り、樺太や北海道のアイヌとの間に展開した交易をサンタン交易といったそうです。
当時、鎖国中であった日本では東西からの貿易品は全て長崎を通じて入ってきていましたが、北では密かに独自の交易が行われていたというわけです。

清王朝の宮廷ではたらく官吏たちが着ていた官服。豪華な絹織物であったこの官服もこのとき北海道にもたらされ、「山丹(サンタン)服」と呼ばれていました。

江戸時代、アイヌの人々にとってはかなりの不平等な交易を強いていた松前藩、とくにこの「山丹服」にご執心でした。ご禁制の舶来品と知りながらなんとか交易を続けたい松前藩、幕府への献上品に「蝦夷錦」と呼ばわって納めていたといいます。そして、幕府もその実情は知りながら、これを「蝦夷のものならば」と容認していたフシがあります。
「赤穂の塩」がメキシコ産だったり、ゾーリンゲンの刃物が燕市で作られていたり、のような「ラベルのからくり」はこの頃から既にあったのですね。(笑)

「山丹服」はアイヌ社会の中でも社会的地位の高い族長が着たといわれます。

写真の人物は山丹服を纏ったアイヌの英雄国後(クナシリ)の総長ツキノエ。500人の部下を率いた優れた軍人でもあったといわれます。(1774年(安永3)アイヌに対し過酷な収奪や酷使、虐殺を行った飛騨屋(ひだや)久兵衛の船を襲撃し、松前藩との交易を一時停止させますが,のち藩と和睦。1789年(寛政元)の国後・目梨(めなし)のアイヌ蜂起ではアイヌを説得して事態をおさめ,その功を松前藩に賞されました。)

独自にロシアとの交易も行い、まさに北の交易の拠点を束ねて栄えたアイヌの人々。「山丹服」はその象徴なんですね。

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