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鉄の友

最新情報

北陸新幹線・敦賀~新大阪(小浜・京都ルート)に新設される駅の詳細な位置案

2024-08-29

国土交通省と鉄道・運輸機構は8月29日、北陸新幹線・敦賀~新大阪(小浜・京都ルート)に新設される駅の詳細な位置案を関係各県との連絡会議で示し、公表した。4駅のうち3駅はJRの既設の新幹線駅や在来線駅のすぐそば。残り1駅は近くに既設の駅がなく、新幹線と在来線の連絡が課題になりそうだ。

JR武蔵野線の沿線で静態保存「夢空間」西武池袋線沿いの公園へ

2024-08-21
「夢空間」のダイニングカー。【画像:m3firm/写真AC】

東京都清瀬市は、かつてJR東日本が運用していた豪華客車「夢空間」3両のうち2両を西武池袋線沿いにある同市の中央公園に設置して静態保存することを決めた。現在の保存場所からの搬入費用などをクラウドファンディング(CF)で調達する。
「夢空間」のラウンジカー。【画像:m3firm/写真AC】
超豪華寝台列車「夢空間」神戸夢物語号

Facebook 乗り物のページ一/管理i人は当山住職、除くスーツ 交通 / Suit Train

【アーカイブス編】思い出の鉄路

あの日、あの時 東京モノレール開業  今から58年前の1964年9月17日、

2022-09-17

facebook 鉄道博物館さん曰く


鉄道150年 あの日、あの時 東京モノレール開業
 今から58年前の1964年9月17日、
東京モノレールが開業した事から、9月17日は
「モノレール開業記念日(モノレールの日)」に制定されました。
 通常の鉄道が2本のレールの上を走行するのに対し、1本(Mono)の走行軌条を用いて車両を走らせることから、モノ(単一の)+レールで、モノレールと名付けられました。レールにまたがる跨座(こざ)式と、レールからぶら下がって走る懸垂(けんすい)式の2種類があります。
 写真は東京モノレール開業時の頃の写真です。いかがでしょうか?とても洗練されていて過去の写真なのに何故か未来を感じる方も多いのではないでしょうか?
 1964年開催の東京オリンピックを契機として、首都高速道路の開通、地下鉄日比谷線の開通、東海道新幹線の開業、東京モノレールの開業など交通インフラが一気に整備され、空を縫うように走るモノレールは未来を感じる革新的な公共交通機関として大きな注目を集めました。
 当館にあるモノレールに関連した展示として、本館2F科学ステーションの鉄道ワンダーにて跨座式モノレールの分岐器(ポイント切り替え)が動く様子の映像を見ることができます。
 ご来館の際には是非、ご覧ください。
東京モノレール 首都高速道路 東海道新幹線 交通網の多層化がわかる
車内の様子 台車が車体中央部にあるため、高い位置に座席が設けられている。

まいど 札の辻陸橋から。南行 北行 の京浜東北線 ツーショットです。

2022-09-08
facebook 石川進さん曰く、。蒲田行が 101系、大宮行は 103系 でした。 1966. 5. 14 撮影

鉄路の昭和史「スピードへの挑戦 戦後編」

2022-09-07
特急つばめ号です。

一等車からグリーン車へ

2022-08-28
Facebook Miyake Taiji  さん曰く

サヨナラ「一等車両」
昭和44年5月10日、
当時の国鉄が運賃の改定に伴い、
それまでの一等車両を廃止して代わってグリーン車両をスタートさせました。


正面衝突事故

2022-07-31

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1991(h3)年】-2
◎信楽高原鉄道事故
*1991.5.14/ 信楽高原鉄道で、列車同士の正面衝突事故が起こり42人が死亡する。
 1991(h3)年5月14日10時35分頃、滋賀県甲賀郡信楽町(現甲賀市信楽町)の「信楽高原鉄道」信楽線小野谷信号場 ~ 紫香楽宮跡駅間で、信楽発貴生川行きの上り普通列車(4両編成)と、京都発信楽行きのJR西日本の直通下り臨時快速列車「世界陶芸祭しがらき号」(3両編成)とが正面衝突した。
 両方の先頭車両は原形をとどめないぐらい押しつぶされ、JR西日本側乗客の30名、信楽高原鉄道側乗員乗客の12名、合わせて計42名が死亡し、双方の乗員乗客600名以上が重軽傷を負う大惨事となった。臨時快速列車は乗客で超満員の状態(定員の約2.8倍)であったため、人的被害が非常に大きくなった。
 信楽高原鉄道は、JR西日本草津線の貴生川駅から分岐し、 信楽駅に至る全長14.7kmの非電化単線路線で、もとはJR西の信楽線が転換され、第三セクター鉄道事業者の信楽高原鉄道(株)によって運営されていた。
 信楽町は滋賀県の南東(甲賀地方)に位置し、奈良時代には聖武天皇の「紫香楽宮」が存在したとされ、現在は狸の陶磁器などの「信楽焼」で有名である。普段は山間にあるひっそりとした町だが、当時は「世界陶芸祭しがらき'91」が4月20日から開催されており、信楽高原鉄道の輸送能力をはるかに超える来場者輸送に追われていた。
 「世界陶芸祭セラミックワールドしがらき'91」の開催にあたって、信楽高原鉄道の輸送力が不足するので、実行委員会は信楽高原鉄道とJR西日本に対し協力を要請し、信楽高原鉄道は行き違いのできる無人の「小野谷信号場」を設けるなど、大幅な増強工事を実施するとともに、JR特別列車が直接乗り入れることを可能なシステムを構築した。
 しかしそのために複雑な信号システムとなり、そこに信楽高原鉄道とJR西日本という運転システムが異なる慣れない乗務員が乗り入れることになり、十分な事前訓練もなされないまま、世界陶芸祭への臨時運行ダイヤが組まれた。
 改修した急造の信号システムはトラブル続きで、その都度信楽高原鉄道の社員が、非常時対応マニュアルも整備されないまま手動で対応することになった。その上、信楽高原鉄道・JR西はそれぞれ別個に、各自無許可で信号制御の改造をしており、両社の意思疎通も取られていなかった。
 このような状況で5月14日10時18分、JR西の京都駅発下り臨時列車「世界陶芸祭しがらき号」は、2分遅れで貴生川駅を発車した。一方、信楽高原鉄道上り普通列車は、信楽駅の出発信号機が出発指示に変わらず待機していたが、10時24分手動信号に切り替え、10分遅れで列車を出発させた。
 「貴生川駅」から「信楽駅」を結ぶ信楽高原鉄道は全線単線区間で、交互入れ替えできるのは新規設置された「小野谷信号場」だけであった。したがって、小野谷信号場より下り区間(信楽駅側)及び、信号機より上り区間(貴生川駅側)のそれぞれの区間は信号機による閉塞方式として、決して両側からの列車が同時に入らない仕組みとされていた。
 出発信号が出ないため信号トラブルと考えた信楽高原鉄道側は、手動制御に切り替えるため小谷野信号場に車で社員を向かわせたが、渋滞で信号場に到着しない間に見切り発車させてしまった。これは明らかに運行手順違反であり、事故の第一の原因は信楽鉄道側にあるとされた。
 しかし信楽駅からの上り列車の誤出発が検知された場合、小野谷信号場の下り列車用の信号が赤になるはずであったが、小野谷信号場の信号は青になっており、唯一生き延びたJR特別列車の運転士は、信号を信用して信号場を通過した。
 信楽駅から信号場の区間には幾つかの小駅があるが、すべて単線通過駅であり、行き違い線は設けられていない。しかも信号場に最寄りの紫香楽宮跡駅を、信楽鉄道普通列車はすでに通過していた。そして10時35分、JR西快速501D列車と信楽鉄道534D列車とは正面衝突し、多数の犠牲者を出す大事故が発生した。
(この年の出来事)
*1991.4.26/ 自衛隊のペルシャ湾への掃海艇派遣部隊が出発する。
*1991.6.3/ 雲仙普賢岳の噴火で、大火砕流発生し死者・行方不明者43人を出す。
*1991.9.17/ 南北朝鮮が国連に同時加盟する。
*1991.1.5/ 宮沢喜一内閣が発足する。
タブレット交換
徳永 裕明さん曰く
一過性の催事対応なら、複雑な信号システムではなく、国鉄単線区間で用いられていた「タブレット交換」を導入していたら事故を防げたかもしれませんね。
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