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鉄の友

【アーカイブス編】思い出の鉄路

正面衝突事故

2022-07-31

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1991(h3)年】-2
◎信楽高原鉄道事故
*1991.5.14/ 信楽高原鉄道で、列車同士の正面衝突事故が起こり42人が死亡する。
 1991(h3)年5月14日10時35分頃、滋賀県甲賀郡信楽町(現甲賀市信楽町)の「信楽高原鉄道」信楽線小野谷信号場 ~ 紫香楽宮跡駅間で、信楽発貴生川行きの上り普通列車(4両編成)と、京都発信楽行きのJR西日本の直通下り臨時快速列車「世界陶芸祭しがらき号」(3両編成)とが正面衝突した。
 両方の先頭車両は原形をとどめないぐらい押しつぶされ、JR西日本側乗客の30名、信楽高原鉄道側乗員乗客の12名、合わせて計42名が死亡し、双方の乗員乗客600名以上が重軽傷を負う大惨事となった。臨時快速列車は乗客で超満員の状態(定員の約2.8倍)であったため、人的被害が非常に大きくなった。
 信楽高原鉄道は、JR西日本草津線の貴生川駅から分岐し、 信楽駅に至る全長14.7kmの非電化単線路線で、もとはJR西の信楽線が転換され、第三セクター鉄道事業者の信楽高原鉄道(株)によって運営されていた。
 信楽町は滋賀県の南東(甲賀地方)に位置し、奈良時代には聖武天皇の「紫香楽宮」が存在したとされ、現在は狸の陶磁器などの「信楽焼」で有名である。普段は山間にあるひっそりとした町だが、当時は「世界陶芸祭しがらき'91」が4月20日から開催されており、信楽高原鉄道の輸送能力をはるかに超える来場者輸送に追われていた。
 「世界陶芸祭セラミックワールドしがらき'91」の開催にあたって、信楽高原鉄道の輸送力が不足するので、実行委員会は信楽高原鉄道とJR西日本に対し協力を要請し、信楽高原鉄道は行き違いのできる無人の「小野谷信号場」を設けるなど、大幅な増強工事を実施するとともに、JR特別列車が直接乗り入れることを可能なシステムを構築した。
 しかしそのために複雑な信号システムとなり、そこに信楽高原鉄道とJR西日本という運転システムが異なる慣れない乗務員が乗り入れることになり、十分な事前訓練もなされないまま、世界陶芸祭への臨時運行ダイヤが組まれた。
 改修した急造の信号システムはトラブル続きで、その都度信楽高原鉄道の社員が、非常時対応マニュアルも整備されないまま手動で対応することになった。その上、信楽高原鉄道・JR西はそれぞれ別個に、各自無許可で信号制御の改造をしており、両社の意思疎通も取られていなかった。
 このような状況で5月14日10時18分、JR西の京都駅発下り臨時列車「世界陶芸祭しがらき号」は、2分遅れで貴生川駅を発車した。一方、信楽高原鉄道上り普通列車は、信楽駅の出発信号機が出発指示に変わらず待機していたが、10時24分手動信号に切り替え、10分遅れで列車を出発させた。
 「貴生川駅」から「信楽駅」を結ぶ信楽高原鉄道は全線単線区間で、交互入れ替えできるのは新規設置された「小野谷信号場」だけであった。したがって、小野谷信号場より下り区間(信楽駅側)及び、信号機より上り区間(貴生川駅側)のそれぞれの区間は信号機による閉塞方式として、決して両側からの列車が同時に入らない仕組みとされていた。
 出発信号が出ないため信号トラブルと考えた信楽高原鉄道側は、手動制御に切り替えるため小谷野信号場に車で社員を向かわせたが、渋滞で信号場に到着しない間に見切り発車させてしまった。これは明らかに運行手順違反であり、事故の第一の原因は信楽鉄道側にあるとされた。
 しかし信楽駅からの上り列車の誤出発が検知された場合、小野谷信号場の下り列車用の信号が赤になるはずであったが、小野谷信号場の信号は青になっており、唯一生き延びたJR特別列車の運転士は、信号を信用して信号場を通過した。
 信楽駅から信号場の区間には幾つかの小駅があるが、すべて単線通過駅であり、行き違い線は設けられていない。しかも信号場に最寄りの紫香楽宮跡駅を、信楽鉄道普通列車はすでに通過していた。そして10時35分、JR西快速501D列車と信楽鉄道534D列車とは正面衝突し、多数の犠牲者を出す大事故が発生した。
(この年の出来事)
*1991.4.26/ 自衛隊のペルシャ湾への掃海艇派遣部隊が出発する。
*1991.6.3/ 雲仙普賢岳の噴火で、大火砕流発生し死者・行方不明者43人を出す。
*1991.9.17/ 南北朝鮮が国連に同時加盟する。
*1991.1.5/ 宮沢喜一内閣が発足する。
タブレット交換
徳永 裕明さん曰く
一過性の催事対応なら、複雑な信号システムではなく、国鉄単線区間で用いられていた「タブレット交換」を導入していたら事故を防げたかもしれませんね。
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