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戦争当事者達

【戦争と人間】闘いの歴史の中で、人はどう生きたか?

第二次世界大戦後、降伏を拒否した日本兵たち

2025-03-16
©Public Domain
第二次世界大戦は、1945年9月2日に日本が降伏したことで正式に終結した。しかし、これは一部の男女にとっては必ずしも第二次世界大戦の終結を意味するものではなかった。敗戦の知らせを敵のプロパガンダとして受け流した者もいれば、戦争が終わったという知らせすら受けなかった者もいた。ジャングルの奥深くに隠れ、数十年後まで刀を捨てなかった残留兵もいた!

このギャラリーでは、最も有名な日本の最後の抵抗の数々を知ることができる。クリックして彼らのストーリーをみてみましょう。

軍人にして、ノーベル平和賞受賞者

2020-12-31
ジョージ・C・マーシャル元米陸軍元帥
Facebook都築清高さんの投稿


本日は軍人でノーベル平和賞を受賞した稀有な、ジョージ・C・マーシャル元米陸軍元帥の誕生日。米軍人としては珍しく陸軍士官学校(ウェストポイント)以外の出身者としては異例の出世をした人物。一次大戦時は大佐に任官されていたが、上層部の低い評価によって終結後に少佐へと降格されるも、二次大戦勃発の1939年までには時勢に恵まれ陸軍少将へと昇進。時の大統領ルーズベルトによって陸軍参謀総長に指名。ただし、少将では参謀総長には就けない為、戦時階級として大将へ一挙に昇進。これまでの対日戦略の担当から、東西両戦線によって疲弊したナチスドイツを壊滅させるための欧州侵攻作戦の計画を指導。(映画「プライベート・ライアン」の一部で、マーシャル将軍(本人ではないが)の登場シーンがある) 戦後は軍を辞し、政治畑を歩む。国務長官、国防長官を歴任。欧州復興計画(マーシャル・プラン)の立案・実行の功績で、1953年ノーベル平和賞受賞。6年後の1959年、ワシントンD.C.にて死去。享年78歳

スターリン、赤い暴君 - 完全なドキュメンタリー

2023-08-29
1953 年 3 月 9 日、スターリンはモスクワで 100 万人の前で埋葬されました。
真の半神にふさわしい葬式。 
20 世紀の歴史の中で最も恐ろしい犯罪者の 1 人と見なされている男にとって、究極のパラドックスです。 
30 年間の絶対的な統治の中で、「人々の小さな父」は 2000 万人以上の人々を死に追いやったからです...美しい理想の担い手は、すぐに忘れ去られ、彼に反対するすべての人々を恐れることなく打ち砕きます。」考えても」。
 監督:イヴァン・ドゥムランドル、マチュー・シュワルツ、セルジュ・ド・サンピニー 完全なドキュメンタリー
ナチスに対するスターリン
スターリン・トルーマン、冷戦の幕開け
これは、地球上で最も強力な2人の男、ソビエト連邦のリーダーであるスターリンと米国の大統領であるトルーマンを8年間戦わせた対決の物語です。
この対立は世界を緊張状態に陥れ、冷戦へと導きました。
 1945 年の春にトルーマンが権力を握ったとき、第二次世界大戦はまだ終わっていませんでしたが、米国とソビエト連邦は同盟国であり、ナチス ドイツに対して共に戦いました。
しかし、ひとたびヒトラーが敗北すると、紛争中に眠っていた敵意と野心が再び浮上した。
数か月後、立場が固まり、2 つのブロックが対立し、和解できなくなります。
これが冷戦の始まりです。 
この映画が語るのは、私たちの歴史の中で極めて重要な時期です。
米国とソ連が核兵器を取得し、緊張が高まった時期。 
1953 年にスターリンが亡くなるまで、危機は相次いだ。
機密解除されたアーカイブ、元スパイとトルーマン大統領の孫の並外れた証言のおかげで、私たちは物語を内側から追体験し、冷戦の恐ろしいスパイラルがどのように設定されたかを理解します. 
エピソード 1: ヤルタ、巨人の黄昏   • 動画   
エピソード 2: トルーマン-スターリン: 冷戦の夜明け
 エミリー・ランソンが脚本・監督を務めた映画 マルタンジュ・プロダクション

【歴史解説】仁川上陸作戦 ”朝鮮戦争” 

2022-12-29
 強すぎた北朝鮮軍!?マッカーサーの大博打!?【ゆっくり解説】

教戒師 花山信勝師の音声記録

2020-09-21
 花山信勝さんは戦後、GHQ管理の下、戦犯者が収容されていた「巣鴨プリズン」で、教誨師を勤めていた僧侶です。
青木さんの父親・順正さんと親交のあった花山さんは、処刑に立ち会った約3か月後に蓮成寺を訪問。
「(花山さんの話を聞くために) 人が庭まであふれているんですね。たくさんの身内を亡くした人たちも、日本の指導者にひどい目に遭わされた。その人(東条)がどんな形で亡くなったかというのは関心があったわけですね」(蓮成寺 青木住職)
青木さんの父親・順正さんと親交のあった花山さんは、処刑に立ち会った約3か月後に蓮成寺を訪問

カセットテープの音: 「いよいよ死に直面したこれらの人たちの気持ちを、子々孫々へ伝えねばならないのです」  穏やかな声で語り続ける男性。一体誰なのでしょうか? 「教誨(かい)師の花山信勝という方」(蓮成寺 青木住職)

教誨師とは、刑務所などで受刑者に対して精神的なケアなどを行う人のこと。  花山信勝さんは戦後、GHQ管理の下、戦犯者が収容されていた「巣鴨プリズン」で、教誨師を勤めていた僧侶です。

このテープは、晩年の花山さんが当時の体験を記録として残したものでした。
故・花山信勝さん(カセットテープの声): 「誰も知っていない東条さんの最後が、どうであったかということの点を申し上げたい」  
花山さんは、太平洋戦争開戦時の首相で、A級戦犯として絞首刑になった東条英機とも面談していたのです。
故・花山信勝さん(カセットテープの声): 「(東条英機は)“巣鴨プリズンに入ってから、初めて人生という問題について考える余裕ができた”と言われたのです。気の毒な人だったなと思います」

 1948年12月、東条らA級戦犯者7人の死刑が執行され、連合国の代表らとともに、唯一の日本人として立ち会ったのです。
「これが初めて(花山さんが) このお寺にみえた時の写真なんですね」(蓮成寺 青木住職)
青木さんの父親・順正さんと親交のあった花山さんは、処刑に立ち会った約3か月後に蓮成寺を訪問。  講演で、当時の様子を語りました。 「(花山さんの話を聞くために) 人が庭まであふれているんですね。たくさんの身内を亡くした人たちも、日本の指導者にひどい目に遭わされた。その人(東条)がどんな形で亡くなったかというのは関心があったわけですね」(蓮成寺 青木住職)
A級戦犯の最期に立ち会った人物の声
花山信勝 文学博士、巣鴨プリズン教誨師

花山信勝は、石川県金沢市にある宗林寺の十二代目住職にあたり、東京大学教授(日本仏教史)。

昭和10年、「聖徳太子御製法華義疏の研究」に対して帝国学士院恩賜賞を受賞している。

戦後、終戦連絡中央事務局・司法省の指名により、昭和21年 2月28日より巣鴨拘置所(巣鴨プリ

ズン)の初代教誨師となり、戦犯受刑者34名(A級 7名、BC級 27名)の最期を看取った。


光寿無量院之碑 

碑文

昭和廿三年極月廿三日午前〇時一分 巣鴨にて処刑のA級戦犯七士直前の絶筆

ABC級諸士成三菩提の為に

昭和四十年七月建立      花山信勝誌

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