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戦争当事者達

【戦争と人間】闘いの歴史の中で、人はどう生きたか?

皇道派・統制派、そして二・二六事件

2022-06-19

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【歴史コラム】17.皇道派・統制派、そして二・二六事件
 「皇道派」は、天皇親政の下での国家改造(昭和維新)を目指し、政財界の堕落を批判する陸軍士官学校(陸士)卒の若手将校たちが中心であったが、それに対して「統制派」は陸軍大学(陸大)出身者の上級エリートが主体で、陸軍の中堅幹部として、軍内の規律統制を尊重する穏健派が主体となった。
 皇道派は、「荒木貞夫」(大将)や「真崎甚三郎」(大将)をリーダーと仰ぎ、荒木が犬養内閣の陸軍大臣に就任し、陸軍内の主導権を握ると、真崎は参謀次長に就任し、実質上、参謀本部を取り仕切るようになった。荒木は、自分の閥で要職を固め、過激思想の青年将校らを東京の第1師団に集め、この頃から荒木・真崎の取り巻き連が皇道派と呼ばれるようになった。
 以前、荒木は教育総監部本部長、真崎は陸軍士官学校校長をつとめるなど、若手士官の教育に携わり、青年将校を中心に圧倒的な信望を集めていた。宇垣一成陸相のもとでの宇垣軍縮で、将校達の待遇が悪化し昇進も遅れると、青年将校たちの間で不平不満が激化、さらに昭和恐慌で農村が疲弊して、農村出身の青年将校たちは、宇垣ら軍閥を始め、財閥・重臣・官僚閥などがその因を作っていると考えた。
 荒木や真崎は、日露戦争時期を理想とし、天皇親政のもとで国体を明徴にし、日本の国力強化、軍の拡大が必須で、それを拒んでいる「君側の奸」を討つべしと唱え、青年将校らの崇敬を一身に集めた。しかし荒木や真崎には、明確な国体像や国政のビジョンはなく、青年将校らは思想家「北一輝」の国家社会主義的な政体思想などに指導された。
 それだけに、成果の見込みの有無を問わず危険な行動に走る皇道派を、危険視する空気が強く、犬養内閣時に荒木貞夫陸軍大臣に断行された露骨な皇道派優遇人事に、陸軍中堅層が反発し結集した結果、それが「統制派」とされるようになった。統制派には、皇道派のような明確なリーダーや指導者はおらず、初期の中心人物と目される陸軍省軍務局長の「永田鉄山」も、軍内での派閥行動には否定的な考えをもっていた。
 1934(s9)年11月には、皇道派青年将校と陸軍士官学校生徒らが重臣、元老を襲撃する計画「陸軍士官学校事件」が発覚する。その背景には皇道派と統制派の抗争があったとされるが、解明されず曖昧に処理された。さらに翌1935(s10)年8月、皇道派青年将校に共感する相沢三郎中佐が、統制派の軍務局長永田鉄山少将を、陸軍省において斬殺するという「相沢事件(永田斬殺事件)」を引き起こす。
 これらの事件では、荒木・真崎の関与は示されなかったが、荒木は1934年1月病気で陸相を辞任した。後任候補として真崎を望んだが容れられず、真崎は教育総監に回ったが、1935年教育総監をも罷免される。荒木の辞職、真崎の更迭によって、皇道派は中央での基盤を失い、焦った皇道派青年将校らが二・二六事件の暴発を引き起こすことになる。
 二・二六事件が鎮圧されたあと、荒木・真崎は直接の関与なしとなったが予備役になり、その他の皇道派の将校も予備役に追いやられ、大規模な粛軍人事によって皇道派はほぼ壊滅した。統制派では、相沢事件で暗殺された永田鉄山に代って、「東条英機」が中心に立ち、陸軍内での対立は統制派の勝利となると、陸軍内での勢力を急速に拡大し政治色を増してゆき、最終的に、東条英機の下で、全体主義色の強い東条内閣を成立させるに至る。
 二・二六事件で岡田啓介首相が辞任した後、短命内閣が続くが、1937年6月待望された近衛文麿内閣が成立する。近衛文麿内閣は、組閣直後に盧溝橋事件が起こり、日中戦争(支那事変)が勃発、不拡大方針を発表するが、軍部のコントロールに苦慮する。東条英機は、このとき陸軍次官として軍部の意向を代表し、1940年7月の第2次近衛内閣で陸軍大臣に就任する。
 優柔不断な近衛首相が右往左往するなか、対米戦争必至となると、近衛は内閣を投げ出し、1941年10月東条英機が首相拝命、ハルノートを受けて日米開戦となる。ところが実はこれらの背景に、「コミンテルン」(第三インター・国際共産主義運動の指導組織だが事実上スターリン支配下のソ連指揮下にあった)の工作員による大きな影響があったという説がある。
 近衛文麿首相の周辺や軍部の統制派の周りには、コミンテルンの工作員が多数配置されていて、日米開戦を促進させたとされ、また、アメリカのF・ルーズベルト政権の内部にも、日本との開戦を工作したスパイが存在したとされる。しかしこれらには明確な証拠がなく、日本の歴史学者の多くからは陰謀論扱いされてきており、主として右翼系研究者などから指摘されることが多い。
 しかし事実上、スターリン・ソ連の都合の良いように展開したという状況証拠だけでなく、日米開戦の直前には「ゾルゲ事件」が発覚し、近衛内閣嘱託の尾崎秀実も工作員だったことが判明し、コミンテルン工作の一端を覗かせた。また、「ベノナ文書」として、米国に潜入したソ連スパイがモスクワに配信した多数の暗号電文が、ソ連崩壊後に公開され、その中にも、米側に日本との開戦を促す動きが残されている。
 ヒトラーのドイツとの開戦を必至とみていたスターリンは、極東で日本と対立する2方面作戦は避けたい。そのため、公的には日ソ不可侵条約を結び、裏では日本の中枢に工作員を送り込み、日本軍の大陸勢力を南進させるように仕向けた。南進によって英・仏・蘭および米の権益と対立し、最終的に米と交戦するように工作させたというわけである。
【統制派】軍務局長永田鉄山少将
【皇道派】「荒木貞夫」(大将)や「真崎甚三郎」(大将)
【統制派】相沢事件で暗殺された永田鉄山に代って、「東条英機」が
1937年6月待望された近衛文麿内閣が成立する。

終わりなき沖縄戦 ~ 牛島司令官、最後の命令

2022-06-23

6月23日は、沖縄の慰霊の日。この日は、多くの人が「沖縄戦終結した日」と考えているのではないでしょうか。しかし、正確ではありません。

牛島満軍司令官は自決の前に最後の命令を出しました。それは、「最後まで敢闘し、悠久の大義に生くべし」…つまり、最後の一兵まで戦えと命じたため、終わりなき沖縄戦が生み出されたのでした。残った日本兵は、その後も投降を許されず、遊撃戦を続行しました。その終わりなき沖縄戦によって、一体何がもたらされたのでしょうか。

 渡嘉敷島久米島では、日本兵による住民虐殺事件が何度も起きました。それは、牛島満軍司令官が自決した6月22日以降にも、玉音放送のあった8月15日以降にも起きました。「防諜(スパイ対策)に厳に注意すべし」と生前の牛島満司令官が訓示した通り、スパイ対策は日本軍の最重要課題の一つだったのです。米軍と接触した住民は、スパイ扱いして虐殺するという徹底ぶりでした。久米島では、乳飲み子も含め、家族を皆殺しにするという残虐な事件にもなっています。

沖縄の日本軍が正式に降伏調印をしたのは、ミズーリで調印が行われた9月2日よりも遅く、9月7日のことでした。それまで沖縄の住民は、「殺されるかもしれない」という恐怖から解放されなかったのです。

自決の数日前に発した「最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし」との牛島司令官の最後の軍令

“立派なおじいちゃん”は沖縄戦で自決した司令官だった

〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

 運命に手繰り寄せられるように沖縄戦と向き合ってきた人がいる。東京都在住の小学校教諭、牛島貞満さん(62)だ。日本陸軍第32軍(沖縄守備軍)の牛島満司令官の孫として、沖縄戦の実相を探り、後世に語り継ぐ責務を自身に課している。

<沖縄県民 斯か ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ>

2022-06-23
 県民の4分の1が犠牲になったとされる沖縄戦で、海軍の地上部隊を率いた大田実少将(死後に中将)は、本土宛ての電文の末尾にこう記し、命を絶った。
 県民の4分の1が犠牲になったとされる沖縄戦で、海軍の地上部隊を率いた大田実少将(死後に中将)は、本土宛ての電文の末尾にこう記し、命を絶った。<沖縄県民  ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ>。大田中将の三男で元海上自衛官の落合 たおさ さん(82)は、本土復帰50年の節目に、父が「遺言」に込めた思いをかみしめている。(狩野洋平)(●は田の右に俊のつくり)

自決前、大田中将が海軍次官にあてた電文(全文)

大田実司令官が出した電文

(旧海軍司令部壕ホームページより)

《原文》

062016番電

 発 沖縄根拠地隊司令官

 宛 海軍次官

 左ノ電■■次官ニ御通報方取計(とりはからい)ヲ得度(えたし)

 沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ 県ニハ既ニ通信力ナク 三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付 本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非(あら)ザレドモ 現状ヲ看過スルニ忍ビズ 之(これ)ニ代ツテ緊急御通知申上グ

 沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来 陸海軍方面 防衛戦闘ニ専念シ 県民ニ関シテハ 殆(ほとん)ド 顧(かえり)ミルニ 暇(いとま)ナカリキ

 然(しか)レドモ本職ノ知レル範囲ニ於(おい)テハ 県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ 残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ 僅(わずか)ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支(さしつかえ)ナキ場所ノ小防空壕ニ避難 尚砲爆撃下■■■風雨ニ曝(さら)サレツツ 乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ

 而(しか)モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ゲ 看護婦烹炊(ほうすい)婦ハモトヨリ 砲弾運ビ 挺身(ていしん)斬込隊スラ申出ルモノアリ

 所詮(しょせん) 敵来リナバ老人子供ハ殺サレルベク 婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ 親子生別レ 娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ

 看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ 衛生兵既ニ出発シ身寄リ無キ重傷者ヲ助ケテ■■ 真面目ニテ一時ノ感情ニ駆ラレタルモノトハ思ハレズ

 更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ 自給自足 夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者 黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ 之ヲ要スルニ陸海軍沖縄ニ進駐以来 終止一貫

 勤労奉仕 物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ■■ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只管(ひたすら)日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ 遂ニ■■■■与ヘ■コトナクシテ 本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形■■■■■■

 一木一草焦土ト化セン 糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂(い)フ 沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ

 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ 賜ランコトヲ


(■は判読できず)


《現代語訳》

昭和20年6月6日 20時16分

 次の電文を海軍次官にお知らせ下さるよう取り計らって下さい。

 沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告されるべきですが、県にはすでに通信する力はなく、32軍(沖縄守備軍)司令部もまた通信する力がないと認められますので、私は、県知事に頼まれた訳ではありませんが、現状をそのまま見過ごすことができないので、代わって緊急にお知らせいたします。

 沖縄に敵の攻撃が始って以来、陸海軍とも防衛のための戦闘に専念し、県民に関しては、ほとんどかえりみる余裕もありませんでした。しかし、私の知っている範囲では、県民は青年も壮年も全部を防衛のためかりだされ、残った老人、子供、女性のみが、相次ぐ砲爆撃で家や財産を焼かれ、わずかに体一つで、軍の作戦の支障にならない場所で小さな防空壕に避難したり、砲爆撃の下でさまよい、雨風にさらされる貧しい生活に甘んじてきました。

 しかも、若い女性は進んで軍に身をささげ、看護婦、炊飯婦はもとより、防弾運びや切り込み隊への参加を申し出る者さえもいます。敵がやってくれば、老人や子供は殺され、女性は後方に運び去られて暴行されてしまうからと、親子が行き別れになるのを覚悟で、娘を軍に預ける親もいます。

 看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵がすでに出発してしまい、身寄りのない重傷者を助けて共にさまよい歩いています。このような行動は一時の感情にかられてのこととは思えません。さらに、軍において作戦の大きな変更があって、遠く離れた住民地区を指定された時、輸送力のない者は、夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。

 これをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて以来、県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約をしいられ、ご奉公をするのだという一念を胸に抱きながら、ついに(不明)報われることもなく、この戦闘の最期を迎えてしまいました。

 沖縄の実績は言葉では形容のしようもありません。一本の木、一本の草さえすべてが焼けてしまい、食べ物も6月一杯を支えるだけということです。

 沖縄県民はこのように戦いました。県民に対して後世特別のご配慮をして下さいますように。

映像でつづる昭和史・第四部(昭和35年以降)

2025-05-22

第二次世界大戦後、降伏を拒否した日本兵たち

2025-03-16
©Public Domain
第二次世界大戦は、1945年9月2日に日本が降伏したことで正式に終結した。しかし、これは一部の男女にとっては必ずしも第二次世界大戦の終結を意味するものではなかった。敗戦の知らせを敵のプロパガンダとして受け流した者もいれば、戦争が終わったという知らせすら受けなかった者もいた。ジャングルの奥深くに隠れ、数十年後まで刀を捨てなかった残留兵もいた!

このギャラリーでは、最も有名な日本の最後の抵抗の数々を知ることができる。クリックして彼らのストーリーをみてみましょう。

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