願正寺発コロナ情報
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5段階のレベルに分けて対策を行うとする考え方
政府の新型コロナ分科会は、「医療のひっ迫の度合い」をより重視して5段階のレベルに分けて対策を行うとする考え方を示しています。
分科会は、医療がどれだけひっ迫するかは各都道府県で異なるため、レベルの判断は都道府県が行うとしています。これを受けて内閣官房は、都道府県がどのレベルにあるか判断するための指標として「医療提供体制等の負荷」と「感染の状況」の2つを示しています。
※以下の表に掲載している「各都道府県が判断した現在のレベル」は、政府が集約して発表した時点のものです。都道府県によっては、この発表後にレベル判断を変更している場合があります。最新の情報は、都道府県ごとの最新ニュースのページで確認できます。(表の下にリンク先の一覧を掲載しています)
※以下の表にある「推移」のボタンを押すと、これまでのデータの推移をご覧いただけます。
【2022年03月17日時点】
内閣官房が発表したのは北海道、青森県、岩手県、宮城県、秋田県、山形県、福島県、茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、新潟県、富山県、石川県、福井県、山梨県、長野県、岐阜県、静岡県、愛知県、三重県、滋賀県、京都府、大阪府、兵庫県、奈良県、和歌山県、鳥取県、島根県、岡山県、広島県、山口県、徳島県、香川県、愛媛県、高知県、福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、大分県、宮崎県、鹿児島県、沖縄県のデータです。
【「11の知識(2月版)」最新版に更新しました】
Facebook 厚生労働省さん曰く
皆さまぜひ各所でご活用ください。
全国の新規感染者はオミクロン株への置き換わりとともに急増しています。
Facebook 厚生労働省さん曰く
コロナと向き合う:願正寺からの情報発信
「“さよなら”のない死を考える」 - 視点・論点 - NHK
私は作家として現場を訪ね、現場で立って考えるということを大事にしております。
1年前の3月11日のことです、あの東日本大震災から9年が経っていました。
児童や先生方84人が犠牲となった宮城県三陸沿岸部の大川小学校の遺構を訪ねた時のことです。
あるご遺族の話を聞いていると、近くの荒れた草むらの中で、小型のシャベルカーで、土を掘り起こしている男性の姿が目に止まりました。
何をしているのですか、と案内のご遺族に伺うと、9年経っても行方不明のままになっている我が子を探して、学校周辺の地面を慎重に掘り返しては何か手がかりはないかと調べているのだといいます。
私は津波にさらわれた幼いわが子の遺体も見つからずに、生死も不明になっているということが、残された人の心に残す消えることのない辛さは、他者にはとても計り知れないほど苛酷なものだろうという思いがこみあげてきて、胸が締めつけられるような痛みを感じました。
そうした震災被災地への取材の旅から帰って間もない同じ昨年3月の末のことです、新型コロナの感染拡大が始まっていました。
コメディアンの志村けんさんがコロナ感染で亡くなられたことが、大きく報道されました。
火葬場から遺骨を受け取って帰宅したお兄さんが、記者団に悲痛な表情で語った内容に、私は衝撃を受けました。けんさんが亡くなる時、感染防御のために身内の人たちさえ、誰も付き添うことも看取ることも、遺体と対面することも、出棺を見送ることもできなかったというのです。
人生の長い物語の最終章と言うべき、あの世への旅立ちを前にして、「さよなら」のない別れを余儀なくされるのは残された人の心の傷(トラウマ)となり、葛藤を引きずることになります。
この40年あまりにわたって、生と死の問題を取材し多くの本を書いてきました。
しかし、コロナ死は病気による死の中でも全く違った形で、家族の面会が許されない中で、死と死別の刻(とき)が突然やってくる、という厳しい問題を突きつけてきました。
はじめに紹介した2つの問題に私が強く心を動かされたのは、数年前から、津波で行方不明になった人の遺族や福島の原発事故で故郷に帰れなくなった避難者の複雑な葛藤やトラウマのケアに取り組んでいる臨床心理学の専門家たちから「『さよなら』のない別れ」というものについて学ばせて頂いたからです。
日本で新型コロナが広がり始めてから、はや1年あまりが過ぎました。
この間にコロナによって亡くなった人は、1万人に近づこうとしています。
これはもう新たな災害とみるべきでしょう。
コロナ死の問題は、自らの「生と死」の問題に真剣に向き合ってこなかった、いわば呑気さを、それでよいのかと、問題を突き付けられたものと受け取るべきでしょう。
ではコロナ時代に、私たちは「死と死別」という問題にどう向き合ったらよいのか、ここで1年間取材し考えてきたことを、まとめて話したいと思います。
コロナ感染拡大の初期のころ、病院においては入院患者への厳しい面会規制がとられました。患者、家族にとっては、会うことも言葉を交わすこともできない。
特に人工呼吸器やECMOをつけると本人の意思確認さえできなくなります。
看取りも、別れの言葉かけもできない。亡くなるとウイルス拡散のために、ビニール製の納体袋(のうたいぶくろ)に入れられ、家族の対面も許されず、霊安室で棺に入れられ密閉されてしまう。まさに「『さよなら』のない別れ」になっていたのです。
しかも院内クラスター発生を防ぐために他の一般病棟でも面会が規制されるようになりました。
そんな中で、一部の病院では、患者家族や医療者と家族の間で、タブレットやスマホを介在させてのコミュニケーションを可能にする取り組みが始まりました。
例えば、川崎市にある聖マリアンヌ医科大学病院を訪ねますと、治療チームとは別に「家族ケアチーム」が作られ患者の病状の家族への報告や、患者・家族間がタブレットやスマホなどによる画像を介しての会話のアシストをする、といった取り組みをしたのです。
そして昨年の暮れ以降になりますと、コロナ禍の第三波が猛威をふるい始めた頃ですが、医療界にコロナ死への対応に変化が少しずつ見られるようになりました。
聖マリアンヌ医科大学病院の場合は、集中治療室で重病患者の治療とケアに当たるスタッフの一人一人が、それまでの「家族ケアチーム」が対応してきた家族とのコミュニケーションケアの心がけ、そういった対応ができるスキルを身に着け「家族ケアチーム」にまかさなくても、自分達でこなせるようになったのです。
しかし、全国的に見ますと、病院のスタッフの人手不足や、重病患者が多いことから、いまでも「『さよなら』のない別れ」を余儀なくされている例が少なくありません。
最近の日本では、がんなどで死が避けられなくなった場合の医療の受けた方について、Living Will(生前の意思表示)を書面に書いておくことが広がっています。
しかし、コロナ罹患の場合は予備知識が乏しい上に、病状の悪化が急に襲ってくることが少なくないものですから、万一の事態になった時の自分の意思表示を家族や医療者に伝えられないまま、 逝ってしまう例が少なくありません。
そこで私が提案したいのは新しいLiving Willへの個人個人の取り組みです。
平時から用意しておくLiving Willの書面に、がんや脳卒中、心臓麻痺の場合だけでなく、コロナに感染し重篤した場合の家族や医療者への要望事項を書いておく必要があると思うのです。
それは、コロナ時代の「死と死別」について、日頃から自分なりの死生観を持ち、家族とも話し合っておくという新しい「生と死」の文化を創造していくことにつながる行為でもあります。
一方、医療環境の整備の必要性についても要望したいと思います。
コロナ死も当事者にとっては、がん死と同じように、人生の物語の最も大事な通過点です。
コロナ患者の救命のために、懸命に努力している医療機関の財政負担は大変です。
マンパワーも足りません。
そういう中でコロナ死が避けられなくなった患者へのよりよい緩和ケアを実現する新しい医療制度の確立を急いでほしいと思います。
死者が1万人に近づこうとしている中でそうした取り組みは切実になっていると思います。
以上、私がこの1年間コロナ死を巡って、また災害を巡って取材し、考えてきたことをかいつまんで話させていただきました。
法話お手紙
思惟する時
思惟する時
コロナウイルス感染症の拡大が続き、福岡県にも緊急事態宣言が発せられました。 勤務校では、昨年度の卒業式を何とか無事に終え、前年度の入学生も含めた2021年度入学式を挙行し、9割近い授業を対面で行っていました。しかし、宣言の発令とともにほとんどの授業を遠隔で行うこととなり、再び学生はキャンパスで過ごす時間が少なくなりました。変異株ウイルスによる感染者が増え、再び不要不急の外出を自粛するよう求められる中、皆さんも大変な日常をお過ごしのことと存じます。お寺での行事や研修も、中止や延期がまだまだ続くようです。
今年度の入学式における式辞の中で、新入生に対し次のようなメッセージをお伝えしました。
様々な情報に追われ、SNSの対応などに迫られる日々の中で、深く物事を考える時間を持っていただきたい、静かに落ち着いて考える時間、「思惟する時」をもってほしいということです。皆さんが物事をじっくりと考えているときは、どのような姿勢、姿をとっていますか。腕を組む、上を向く、顎に手をあてるなど様々でしょう。
考えている人の姿を造形作品として表したものといえば、皆さんの多くがロダンの考える人の姿を思い浮かべることでしょう。岩の上に座り、両足をぐっと引き寄せ、拳を歯にあて、やや背中を丸めた姿勢で考えています。全身の筋肉から緊張感がみなぎっています。
「実り豊かな思索が彼の頭脳の中でゆっくりと確かなものになってゆく」とロダンは述べています。
同じ考えている姿を表現した造形作品に「半跏思惟像」と呼ばれる仏像、菩薩像があります。本年3月21日まで、大学のすぐ傍にあります九州国立博物館に、奈良中宮寺の国宝である「半跏思惟像」が展示されていました。飛鳥時代七世紀に造られたこの像は、片足を反対の足の腿に置き(半跏)、背筋が伸び、右手中指を頬にあて、思惟する姿を現しています。そのお顔には、微笑みをたたえています。苦悩する人々をいかにして苦しみから救い遂げるか、永い永い時間をかけて思惟する姿です。
全く異なる時代と地域で作られた対照的な「考え・思惟する」姿がなぜそのような表現をとり、人々の心を引きつけ、魅了するのでしょうか。その答えを探し求めることが、大学で学ぶことの楽しさや喜びにつながります。
パンデミックにより実感させられている、思い通りに生きることができないというこの経験をどう活かし、また、未来に向け持続可能な社会を創造するために、今何をなすべきか。思惟すべき課題は皆さんの前にいくつも横たわっています。姿や場所はどうであれ、「思惟する時」をもつことを、ぜひ大切にしてください。
以上が、私から新入生へのメッセージです。
親鸞聖人が最も大切にされた『仏説無量寿経』の冒頭には、法蔵菩薩がいかにして苦悩する衆生を救いとげようかと、「五劫」という気が遠くなるような永い時間をかけて思惟されたと説かれています。聖人による「正信念仏偈」では、「五劫思惟之摂受」と表されています。その思惟の上で、教えに向き合うことなく悩み苦しむものたちを救う手立てとして、四十八よりなる願い(誓願、本願)を選び取られたということ(摂受)です。
外出もままならならず、お聴聞のご縁をいただくこともかなわない毎日がしばらく続きますが、思い通りにならない娑婆をどう生きるべきか、これからどのような社会になったらよいか、などと「思惟する時」を持たれてはどうでしょう。
コロナと私はどう向き合うか? 【ヨキヒトの仰せ】
和田しげし先生のことば
病気になって死んだ、
戦争にあって死んだ、
交通事故で死んだ。
そんなことは何も死の原因ではない。
原因は生まれたということである。
我々はこんな簡単なことを忘れてしまっとるんですね。
そして新聞を見ても誰々八十何歳、心筋梗塞。
みんな原因として書いてあります。
死因。
そんなものは死の原因ではない。
本当の原因は生まれたということが原因だとはっきりしとるですねえ。
そんなら本当に驚くべきことちゅうのはなんや。
それは、「私はどこから来て、どこへ行くのか」。
「何で人間に生まれてきたのか」。
「今ここにこうしておるということは、一体どういう意味があるのか」。
そういうことが何もはっきりしないまんまで生涯を終わらねばならん。
これこそおどろかねばなんことですね。
和田稠先生のことば
宗教心とは何か、人間とは何か・・・。
生きるということの根本問題を尋ねる法話CD。
※当時の録音機器の状況等により、一部お聞き苦しい点があります。
2020年12月5日西恩寺報恩講法話 池田勇諦
コロナと私はどう向き合うか? 【ちょっと気になることは】
コロナと向き合う:大分県日田市の場合
ソーシャルメディア一覧/日田市 (city.hita.oita.jp)
日田市から発信する情報をいち早くお届けします!
日田市では新型コロナウイルス感染症に対しての支援情報やイベント情報など、様々な情報を市公式SNSでいち早くお届けしています。日田市から発信する情報を受け取るために、是非、ご登録をお願いします!
日田市公式LINEがリニューアル!/日田市 (city.hita.oita.jp)
日田市公式LINEが4月1日から新たに機能を追加してリニューアルしました!イベント・キャンペーン、募集、子育て・教育などの生活に密着した情報の中から、選択した情報だけをお届けします。また、ごみ収集日を事前に通知する機能や、ごみ分別検索もでき、大変便利です!是非、ご活用ください。
【注意】日田市公式LINEでは、個人情報を取り扱っていないため、個人情報が流出することはありません。
【注意】PC版LINEでは受信設定などのメニューが表示されません。モバイル版でご利用ください。
【まとめ版】新型コロナウイルスに係る支援情報/日田市 (city.hita.oita.jp)
1月の陽性者数は240名を数えました。
Facebook 中野 哲朗さん曰く
年初めのひと月が、あっという間に、過ぎ去ろうとしています。
本日の日田市の新型コロナウイルス陽性者は、27名でした。
毎日、夕方になると、議会事務局が当日の陽性者数と年代、性別、接触状況等をまとめた報道発表資料を送ってくれます。
コロナ、今、私達に出来る事( 2020年7月30日までの情報)!
【Shows at Home】民衆の歌 / Do You Hear The People Sing ? - Les Miserables -
民衆の歌 The People's Song 「レ・ミゼラブル」より
https://www.youtube.com/watch?v=MNIyjmd-LwI
◆ジャン・バルジャン/吉原光夫
◆ジャベール/伊礼彼方
◆ファンテーヌ/濱田めぐみ
◆エポニーヌ/昆 夏美
◆マリウス/海宝直人
◆コゼット/生田絵梨花
◆アンジョルラス/小野田龍之介
◆テナルディエ/駒田 一・斎藤 司
◆マダム・テナルディエ/森公美子
◆コンブフェール/中井智彦
◆クールフェラック/持木悠
◆フイイ/杉浦奎介
東京五輪「中止検討せざるを得ない」組織委顧問の千玄室氏 現状での開催に危機感
新型コロナウイルスの感染拡大で1年延期された東京五輪・パラリンピックについて、大会組織委員会の顧問を務める茶道裏千家の千玄室前家元(97)が、京都新聞社の取材に応じた。千氏は「来年までに世界各国で収束しないと準備ができない」と話し、現状での五輪開催に危機感を示した。
延期が発表された3月24日、安倍晋三首相と国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長は、中止はないと確認。一方で、組織委員会の森喜朗会長は、再延期は「絶対ない」との見方を示し、バッハ会長も今月、英BBC放送のインタビューで、来年開催されなかった場合、中止となる見通しを示している。
https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/263872?fbclid=IwAR0TSMWXC_ZhLFj9e23wDePy029e2OZhPYp_vf4dE9zdsrDcZ4nhIuDg-HY
関西でも宣言解除
社説:京都も宣言解除 油断せず冷静に行動を
コロナ情報について (2020年5月11日までの情報)
コロナに思う♯14 田中耕一氏 02年ノーベル化学賞 島津製作所
内田樹の研究室 Facebook 桑門 超さんのシェアより
市民たちの相互監視が始まっている。
GWの外出自粛を受けて、県外の車を煽ったり、傷をつけたりする事例が出ている。休業要請に従わず開業している店舗に落書きをしたり、備品に傷をつけたりする人も出て来た。
「こういうこと」ができるのは、「そういうことをしても許される社会的な空気」を彼らが感知しているからである。いまなら「そういうこと」をしても処罰されない、少なくとも「私は市民として当然の怒りに駆られたやったのだ」という自己正当化ができると知ると「そういうこと」をする人たちがいる。
私はそういう人たちをこれまで何度も見て来た。前にも書いたが今度も繰り返す。
私たちの社会は「自分がふるう暴力が正当化できると思うと、攻撃性を抑制できない人間」を一定数含んでいる。彼らがそのような人間であるのは、彼らの責任ではない。一種の病気である。
人間は「今なら何をしても処罰されない」という条件を与えられたときにどのようにふるまうかで正味の人間性が知れる。これは私の経験的確信である。前に嫌韓言説について書いたときに私はこう書いた。読んだことがある人もいると思うが、大切なことなので再録する。
嫌韓言説の一番奥にあるほんとうの動機は「おのれの反社会的な攻撃性・暴力性を解発して、誰かを深く傷つけたい」という本源的な攻撃性である。「ふだんなら決して許されないふるまいが今だけは許される」という条件を与えられると、いきなり暴力的・破壊的になってしまう人間がこの世の中には一定数いる。ふだんは法律や常識や人の目や「お天道さま」の監視を意識して、抑制しているけれども、ある種の「無法状態」に置かれると、暴力性を発動することを抑制できない人間がいる。
私たちの親の世代の戦中派の人々は戦争のときにそれを知った。ふだんは気のいいおじさんや内気な若者が「今は何をしても処罰されない」という環境に投じられると、略奪し、強姦し、殺すことをためらわないという実例を見たのである。戦中派の人たちは、人間は時にとてつもなく暴力的で残酷になれるということを経験的に知っていた。
私も60年代の終わりから70年代の初めに、はるかに小さなスケールだが似たことを経験したことがある。大学当局の管理が及ばない、あるいは警察が入ってこないという保証があるときに、一部の学生たちがどれほど破壊的・暴力的になれるのか、私はこの目で見た。
最初は三里塚の空港反対闘争に参加したときに、学生たちが無賃乗車したのを見たことである。数百人が一気に改札口を通ったのだから、駅員には阻止しようがない。切符を買っていた私が驚いていたら、年長の活動家が笑いながら、「資本主義企業だから階級的鉄槌を下されて当然だ」という政治的言い訳を口にした。
しかし、降りた千葉の小さな駅で、屋台のおでん屋のおでんを学生たちが勝手に食べ出したのには驚いた。「やめろよ」と私は制止したが、学生たちはげらげら笑って立ち去った。おでん屋は別に鉄槌を下すべき資本家ではない。ただの貧しい労働者である。その生計を脅かす権利は誰にもない。でも、学生たちは「衆を恃んで」別に食べたくもないおでんを盗んだ。今なら盗みをしても処罰されないという条件が与えられると、盗む人間がいる。それもたくさんいる、ということをそのとき知った。
学生運動の渦中で多くの者が傷つき、殺されたが、手を下した学生たちにも、その人を傷つけなければならない特段の事情があったわけではない。ただ、政治的な大義名分(「反革命に鉄槌を下す」)があり、今なら処罰されないという保証があったので、見知らぬ学生の頭を鉄パイプで殴りつけたり、太ももに五寸釘を打ち込んだりしたのである。その学生たちはそののち大学を出て、ふつうのサラリーマンになった。今ごろはもう年金生活者だろう。
私はこういう人たちを心底「怖い」と思っている。こういう人たちを「大義名分があり、何をしても処罰されない」という環境に決して置くべきではないと思っている。だから、できるだけ法律や常識や世間の目が働いていて、「何をしても処罰されない」という環境が出現しないように久しく気配りしてきたのである。(ここまで)
いま、コロナウィルスの感染が広がる中で、行政が明確な休業指令を出さず、民間の「自粛」の委ねてしまったせいで、「自粛に従わないものには市民が処罰を下してもよい」という口実で暴力行使の正当化をする人たちが出て来た。
これは嫌韓言説に乗じて、市民生活の中では決して許容されないような卑劣で醜悪な攻撃性を発揮していた人たちと「同類」の人々である。「自粛」というあいまいな行政指導は市民たちの相互監視を督励する。そして、それは単なる監視にとどまらず、「自粛しない市民を攻撃しても処罰されない」という心証をかたちづくった。
彼らはちゃんと法律が機能し、常識が有効であり、「世間の目」が光っているときなら、そんなことはしない人たちである。でも、少しでもその規制が緩むと、自分の中の攻撃性を抑制することができなくなる。
そのことは例えばSNSで激しい攻撃的な言葉を書き送る人たちの多くが匿名であることから知れる。彼らは「自分が誰であるかを特定される気づかいがない時・自分の言動が処罰されない保証があると知れると、過剰に暴力的になる人間」である。そして、たぶん彼らは「あらゆる人間はそうだ」と思っている。でも、それは違う。世の中には、「自分が誰であるかを特定される気づかいがない時・処罰されるリスクがない時」でも、「お天道様」が見ているという自制を失わず、常識的に、ジェントルに、節度をもってふるまう人がいるからである。この人たちは「あらゆる人間が自分と同じだ」とはたぶん思っていない。でも、自分はそういう人間であり続けようと思っている。
この二種類の人たちはいずれも少数派である。おそらくそれぞれ集団の10%内外だと思う(この辺の数字は私の経験知であるので、厳密ではない)。残りの80%はこのどちらが優勢であるかによってふるまい方を変える。
「どんなことがあっても穏やかに、市民的にふるまう人」はいつも同じようにふるまう。平時でも非常時でも変わらない。一方、「処罰するリスクがないときに過剰に暴力的になる人」は「処罰のリスク」という可変的な条件に従って、ふるまい方をがらりと変える。まったく違う人間に見えるほど変える。人が変わったように変わる。それが可視化されるかどうかは「処罰のリスク」というごく散文的な条件によるのである。
「外出自粛」は行政が明確な基準も、それに対するペナルティも示さなかったことによって、この人たちのうちに「今なら人を攻撃しても処罰されない」という確信を醸成した。
いま、あちこちで罵声が聞こえる。スーパーの店員にどなりつけたり、ATMの列でどなりつけたりしている人たちは全員が「自分は社会的な正義を執行している」と思ってそうしているのである。今なら、どれほど暴力的になっても、それを正当化するロジックがあると思ってそうしているのである。だから、止められない。彼らを止める方法は一つしかない。 法律が機能し、常識が機能し、「世間の目」が機能するようにしておくことである。
大阪では休業要請に従わない店名を公表するということが行われた。これは「この店に対してはどのような攻撃的なことをしても処罰されない」という保証を間接的に与えるものである。少なくともそういう解釈の余地を与えた。大阪府知事は、人間が条件次第でどれほどでも攻撃的になり得ること、その機会をつねに窺っているということを知らないか、あるいは知っているが知らないふりをしているのだと思う。市民が相互に監視し合い、相互に告発し合い、相互に攻撃し合う社会はおそらくある種の人々にとっては「管理コストが非常に安く上がる」社会に見えるのだろう。
ゲシュタポはきわめて効率的に反政府的な人々を逮捕していったが、それは彼らの捜査能力が高かったからではない。逮捕者のほとんどは隣人の密告によるものだったからである。
市民を相互監視させることによって統治コストは劇的に削減される。それは事実である。けれども、その代償として、「大義名分をかかげて隣人を攻撃し、屈辱感を与える」ことに熱中する人々の群れを解き放ってしまう。それがどれほど危険なことなのかについて、人々はあまりに警戒心がないと思う。
銀座の鐘
感染拡大が続く新型コロナウイルスに対応するため、厳しい勤務が続く医療関係者に感謝を示そうと、東京 銀座の交差点では時計塔から鐘の音が流されました。
新型コロナウイルスに感染した人たちの治療に当たっている医師や看護師など、医療現場のスタッフに対して、イギリスでは毎週木曜の午後8時に一斉に拍手や口笛を送ったり、フランスではエッフェル塔に「ありがとう」を意味する「MERCI」のメッセージが映し出されたりするなど、感謝の気持ちを示す動きが世界各地で広がっています。
日本でも、感染のリスクにさらされるなど厳しい勤務状況が続く医療スタッフへの感謝の気持ちや感染拡大を防ぐために家で過ごそうというメッセージを伝えようと、20日から東京 銀座のデパートにある時計塔から「命の鐘」と題して、鐘の音が流されることになりました。
鐘の音は午後7時ちょうどから流され、緊急事態宣言が出され、ふだんより格段に人通りが少ない銀座の町なかに鳴り響きました。
鐘の音は、毎晩7時から流され、「YouTube」などでも配信される予定です。
企画した郷司望さんは、「一日に一度、一緒に医療関係者に感謝の気持ちを示すきっかけになれたらと思います」と話していました。
ダライラマ14世のメッセージ
親愛なる兄弟姉妹の皆様へ
世界中の多くの方々からの度重なる要請に応えて、私の思いを記したいと思います。新型コロナウイルス(COVID-19)の発生により、今、私たちは大変な苦難の最中にあります。
古代インドの伝統は、時間の経過にともなう世界の創造、持続、破壊について説明しています。そのような破壊の原因の中には武器や病気があると書かれており、これは、私たちが今まさに経験していることと一致しているように思われます。しかしながら、どれほど大きな脅威に直面しようとも、人間を含めた生きとし生けるものは、生き抜くために素晴らしい能力を発揮してきました。
いかに困難な状況であろうとも、私たちは科学技術と人智を尽くして決断し、勇気をもって、立ちはだかる問題を乗り越えなければなりません。健康と幸福が脅かされているのですから、不安や恐れを感じるのは当然です。とはいえ、目の前の問題をどのように捉えるべきかについては、私は次の賢明な助言に大きな慰めを得ています。「もし、改善策があるならば、心配せずそれを実行しなさい。しかし、何も改善策がなければ、それ以上心配しても何の役にも立ちません」
現在、新型コロナウイルスの拡大を防ぐためにだれもが最善を尽くしています。私は、ウイルスの脅威を最小限に抑えるために国家間で協調した努力がなされていることを、心より称えたいと思います。とりわけ、インドの主導権のもとに南アジア地域協力連合の国々が緊急基金を設立し、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐための情報、知識、専門技術を交換するための電子プラットフォームを立ち上げたことは素晴らしい取り組みだと思います。これは、将来、このような危機に対処する際にも良き手本となることでしょう。
私は、世界各地で都市封鎖の必要が生じた結果として、多くの方々が収入を失い、大変な困難に直面しておられることも理解しています。安定した収入のない方々が生きていくには、毎日が闘いです。こうした弱い立場にある方々にできるかぎりの配慮がなされるよう、私はすべての関係者の方々に、切にお願いしたいと思います。
また私は、自らの命を大きな危険に晒しながら、人命救助の最前線で働いておられる医師や看護師、その支援業務に携わるすべての方々に、心より深い感謝の念を捧げます。彼らの奉仕活動は、まさに慈悲の心の実践にほかなりません。
苦難の最中にある世界中の兄弟姉妹の皆様のことを深く心に想い、私は、この世界的な感染症が一刻も早く終息し、平和と幸福が一日も早く戻るよう祈りを捧げたいと思います。
祈りを込めて
ダライ・ラマ