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巨人軍のリジェンド達

巨人軍のリジェンド

長嶋茂雄さん逝去“永遠のライバル”が語った「ミスタープロ野球」の素顔

2025-06-04
2009年のパーティで © SmartFLASH

6月3日、ミスタープロ野球・長嶋茂雄氏が逝去した。「4番サード」を代名詞とし、3番を務めた世界の本塁打王・王貞治氏とともに「ONコンビ」と親しまれ、引退後は巨人の監督としてリーグ優勝5回、日本一2回を果たした。

現役時代、一身に人気を集める長嶋氏のことを「向日葵(ヒマワリ)」に、自らを「月見草」にたとえて長嶋氏をライバル視していた人物がいる。三冠王を獲得し、ヤクルトをはじめ複数の球団で通算24年の監督生活を送った野村克也氏だ。

野村氏は、長嶋氏と同学年である。野村氏は1935(昭和10)年6月29日生まれ。長嶋氏は1936(昭和11)年2月20日生まれ。ともに昭和を代表する大打者であり、監督としても同じセ・リーグでしのぎを削った。2020年に亡くなった野村氏は生前、長嶋氏のことをよく語っていた。野村氏の言葉から、往年の長嶋氏を回顧する。

【追悼・長嶋茂雄】巨人のドラ1指名を喜べなかった篠塚和典が

2025-06-04

プロ野球・読売巨人軍の選手、監督として活躍し、「ミスタープロ野球」と呼ばれた長嶋茂雄・巨人軍終身名誉監督が逝去した。なぜ長嶋氏は誰からも愛されたのか。スポルティーバでは今回追悼の意を込めて、巨人軍の愛弟子のひとりである篠塚和典さんが、「人生を変えた」という長嶋氏との出会いを振り返ったインタビュー記事(全3回)を再掲載します(2023年4月掲載)。謹んでご冥福をお祈りします。


野球人生を変えた名将の言動(10)

篠塚和典が語る長嶋茂雄 前編

 指導者との出会いが、アスリートの人生を大きく変える。卓越したバットコントロールと華麗なセカンドの守備で、1980年代前後の巨人の主力として活躍した篠塚和典氏は、長嶋茂雄監督との出会いが野球人生を変えたという。

 インタビュー前編では長嶋監督と初めて会った時の印象、運命のドラフト会議、「伝説の伊東キャンプ」のエピソードなどを聞いた。 

川上さんがやめる。球団が後継者は長嶋だと決めている。

2025-05-06
facebook プロ野球ニュース さん曰く
長嶋は落ちるだけ落ちた姿を見せても、決して晩節を汚したとファンは思わなかったはずだ。
1974年、巨人・長嶋茂雄が引退を発表したが、本人のなかには、まだできる自信があった。強く勧めたのは、川上哲治監督だ。73年のオフにも一度、引退勧告をしている。川上には、「長嶋茂雄」のイメージを壊すことなくやめさせ、巨人の指揮官の継がせたいという強い思いがあった。
 最後は、それを長嶋も理解した。
「川上さんがやめる。球団が後継者は長嶋だと決めている。ファンもそう思っている。そこで俺一人、『まだ続ける』と言うなんてガキだろう? 巨人というチームの大きな流れの中で、監督を継がなければならないんだ」
 ただ、川上のように、打撃を突き詰めた選手はそういうやめ方しかないのかもしれないが、長嶋は落ちるだけ落ちた姿を見せても、決して晩節を汚したとファンは思わなかったはずだ。「ガキでもよかった」と思うファンは、決して少なくない。
長嶋監督退任に際して川上哲治氏がコメント (2001.10.1)

"球界のご意見番"廣岡達朗さんが選ぶベストナイン!

2025-05-13
【博満の部屋4/4】【落合博満のオレ流チャンネル】
【落合×広岡達朗対談】めちゃくちゃ渋い!広岡氏が選ぶプロ野球ベストナイン 落合氏も興味津々

 現役時代に3冠王を3度獲得し、監督としては中日を4度のリーグ優勝に導いた落合博満氏(69)が31日、自身のYouTube「落合博満のオレ流チャンネル」を更新。大好評対談企画「博満の部屋」の第4回目として、現役時代は巨人の遊撃手として活躍、監督としてヤクルト、西武をそれぞれリーグ優勝・日本一に導いた広岡達朗氏(91)をゲストに招いて対談を行った。

 原爆体験から、早大、巨人時代、そして川上哲治氏との関係性など、さまざまな興味深い話を落合氏とともに振り返ってきた広岡氏。球界のご意見番としてプロ野球界を見続けてきた91歳レジェンドのベストナインとは――。

 落合氏が「現役の時でも、西武時代、ヤクルト時代でもベストナインを挙げるとしたら誰ですか?」と質問。すると「ああ~、神経細かかったのはセカンド千葉(茂)さんだね。川(上哲治)さん、ファーストいいな」とスラスラと名前を挙げ始めた。

 ここで落合氏が「捕らなくても?」と正面に投げない限り「捕ってくれなかった」という秘話を広岡氏が語っていた川上氏の名前が挙がったことに驚きの表情。それに対して広岡氏は「うん、あれ捕るように放りゃいいんだから」と一言。続けて「サードの宇野(光雄)さんはすぐトレードで国鉄行ったけどね。あの人もよかったで。キャッチャーはね、ハワイのカーリー広田(順)。藤尾(茂)は打てて、なんとかあって、森昌彦(祇晶)がなったけど、森は頭はいいけどインチキ」と、ここで広岡節。それでも「森の頭脳は買いたい。見る目はしっかりしてる」と選出した。

 続けて「ショートは…」と広岡氏が思案したところで、落合氏が「広岡さんでしょ」とツッコミ。「えへへ」と笑いながら広岡氏が「俺は自分で言えないから」と遠慮気味に言うと落合氏が「それは広岡さんですよ」ともう一押しして決定した。

 「センターはウォーリー(与那嶺要)、ライトは南村(侑広)さん…」「(ピッチャーで)やっぱり、速かったのは金田(正一)。やっぱり、400勝いうのは」とあまり悩むことなく、広岡氏の現役時代のベストナインが選定された。

広岡氏の考えるベストナイン
投 手・金田正一、大友工 
捕 手・広田順、藤尾茂、森昌彦
一塁手・川上哲治
二塁手・千葉茂
三塁手・宇野光雄
遊撃手・広岡達朗          
外野手・与那嶺要、南村侑広、銭村健四、田宮謙次郎
落合博満
1953年生まれ。秋田県南秋田郡若美町(現・男鹿市)出身。

 79年ドラフト3位でロッテオリオンズ入団。81年打率.326で首位打者になり、以後83年まで3年連続首位打者。82年史上最年少28歳で三冠王を獲得、85年には打率.367、52本塁打、146打点という驚異的な成績で2度目の三冠王とパ・リーグの最優秀選手(MVP)に輝いた。86年には史上初の3度目、2年連続の三冠王を獲得。その後、中日ドラゴンズ(87~93年)、読売ジャイアンツ(94~96年)、日本ハムファイターズ(97、98年)に所属。98年現役を引退。通算成績は2236試合、7627打数2371安打、510本塁打、1564打点、65盗塁、打率.311。

 現役引退後は野球解説者、指導者として活動し、2004年から中日の監督に就任、いきなりリーグ優勝を果たした。07年にはチームを53年ぶりの日本一に導く。11年は球団史上初の2年連続リーグ優勝。任期8年間すべての年でAクラス入りを果たし、リーグ優勝4回、日本一1回の「常勝チーム」を作り上げた。13年10月から17年1月は中日で球団初のゼネラルマネジャー(GM)を務めた。

 07年、プロ野球の発展に大きく貢献した人物に贈られる正力松太郎賞を受賞。11年には競技者として野球殿堂入りを果たした。

「無理だ」と片付けずに日本に持ち帰った。 川上哲治。当時30代。

2022-07-04

Facebook 松崎 督さん曰く


仮の話である。
あなたが1951年=敗戦からまだ6年。講和条約は締結されておらず、米軍占領下の日本のスポーツ選手だったとする。もし、アメリカのチームからトレーニングに誘われ、その練習内容を見たら、どう反応するだろうか?
たぶん僕なら呆気にとられるのと、相手への警戒心と、文化の違いに理解ができなくて、結局何も得ないままに終わるだろう。極端な話、一年間のトレーニングに付き合わされたとしたら、刺激になるかもしれないが。
さて、時の名プロ野球選手だったこの男は、一時のメジャー春季キャンプの招待参加だったにも関わらず、その内容に衝撃を受け、そしてそれを「無理だ」と片付けずに日本に持ち帰った。
川上哲治。当時30代。「打撃の神様」として名声を得ていた全盛期のことだ。
当時の日本球界は、選手の個人プレーや根性野球が主流である。選手は野球バカであり、野球ができさえすれば何をやってもよいという考えだった。監督の立場は弱かった。実際にプレーする選手が監督を排斥する運動まで起こしたことがある。川上もまたその一人だったが、考えをあらためていく。
それから10年後。川上は巨人の監督に就任した。「ドジャースの戦法」をベースに、サインプレー、守備のフォーメーションなど細かい戦術を磨く。更には様々な分野の人間を呼んでの講演会を催し、選手に人間教育を図った。ナアナアだったマスコミとの間に一線を引いて、情報の漏洩阻止も行う。時には移動日に大雨の降る中、自らもずぶ濡れになりながら、打撃練習を命じた。
その全ては勝つために自ら率先して「当たり前のことを当たり前にする」ことが根底にあった。
かくしてマスコミからは「非情」「つまらない」「面白くない」と叩かれていく。就任から数年は苦労したが、1965年からのV9は、川上のその方法が間違っていなかったことを実証した。「球際の強さ」という決してゲームを諦めない展開を川上は追及し、その執念が成せるものだった。「アメリカ野球に追い付き追い越せ」を訓示としたチーム作り。
その戦術は、巨人のメンバーにも影響を与えた。西武の監督に就任した広岡達郎は、巨人の戦術を極めての打倒巨人に執念を見せた。森祇晶も広岡が整備した戦力を生かし「負けない野球」を標榜し、チームを6度の日本一に導く。そこからまた当時のメンバーが監督になる。
築かれた強さの伝統というのは、その土台がきちんと整えば、先輩から後輩へとバトンが渡され、時に見直され、再確認されて結果も伴ってゆくのだ。一時的な物ならとっくに廃れただろう。広岡や森も「つまらない」と言われながら結果を残したのだから流石である。
もしも、メジャーのキャンプを見た川上が「こんなのは日本に合わない。自分もキャリアはあるんだからやる必要はない」と考えていたら・・・・。日本の球界は歴史が変わっていただろう。
感覚を研ぎ澄ませ、安易な方向に走らず、ナアナアにならず、自分のいる世界だけが全てにならぬようにアンテナを張る。自らを磨く。
ぬるま湯漬けの世界でなら「今で十分やれるのに、何を考えてるんだ?」「あれは何をクソ真面目につまらん面倒なことをしてるのだ」と言われるだろう。
だが「今まで人がやってないから一切やってはならない」という道理はあるまい。世の創意工夫やチャレンジは「誰もやってないからやる」ことから始まるのでないか?
やらなかった後悔より、やって後悔した方が人生の幅が広がるように、私は思うのだが・・・。
「どうせやったって無駄だ」「やめとけ」
僕もこんな言葉を他人にかけたし、かけられたこともある。慎重な行動を求め、心配をしていただいている気持ちが根底にあるが、時にそれは情熱や意欲を奪うことにもなる。
それが先行すれば世界の沈滞を招くことになるだろう。
私はいつ終わるやわからぬ人生なら、不必要に他人の顔や空気を伺わず、積極果敢にチャレンジしてみたい。
難しいことも多いのは承知の上で。
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