【アーカイブス】一線を越えた闘い
【アーカイブス 一線を越えてしまった兵器】
生きては帰れない…戦地へ 人間爆弾とされた特攻隊「神雷部隊」の若者たち
2025-05-15
昭和20年6月 小松基地で出撃前の訓示を受ける神雷部隊 第708飛行隊員たち
小松基地にいた特攻隊、第721空『神雷部隊』
『神雷部隊』は日本海軍がはじめて組織した空中特攻(体当たり)専門部隊、『第721海軍航空隊』の通称。
昭和19年10月1日、茨城県の百里原基地で開隊(一式陸攻、桜花11型)し、 昭和20年7月5日、721空は本部を四 国の松山基地に、主力を小松基地に展開した。
昭和20年3月21日、鹿児島県鹿屋基地から初出撃、以降は主力を小松に移し、沖縄の米艦船への特攻作戦「菊水作戦」 に参加した。出撃は10回174機(桜花76機、陸攻79機、戦闘機19機)で、未帰還は123機440人。戦闘機での特攻も数える と、同部隊で海軍特攻未帰還の四割を占めた
終戦時には桜花隊は小松、富高、鹿屋、喜界島に、陸攻隊の攻撃第708飛行隊(隊長八木田大尉)は『剣作戦』基地 (三沢)迎日、小松に、戦闘機隊の戦闘第306飛行隊は、観音寺、松山、富高、鹿屋に、基地隊は迎日、小松、松山、富 高、鹿屋にそれぞれ展開していた。昭和20年7月1日桜花43型装備の725空が滋賀基地で開隊。昭和20年8月13日 射出実験に成功したが2日後に終戦となる。
【戦艦ミズーリ】と【神風特別攻撃隊】
2025-04-28
【神風特別攻撃隊】映像と解説 カラー補正 / 戦艦ミズーリ号ウィリアム・キャラハン艦長が示した日本兵への敬意
ハワイの今【戦艦ミズーリ】貴重な鑑長室内部や神風特別展示場もお見せしながら日本語ガイドが戦艦ミズーリの歴史と今の姿をお届けします。
今日3月10日は、東京大空襲の日です。
2023-03-10
今日3月10日は、東京大空襲の日です。昭和20年3月10日深夜0時過ぎからB29の爆撃機約300機が房総沖から飛来し、下町(深川・木場が最初に被弾)を中心に空爆が始まりました。
焼夷弾攻撃だったので猛火が発生し、東京の下町全体が火の海になり焼け野原になりました。死者数は資料により違いがありますが約10万人、羅災者は300万人(当時の東京市の人口は約680万人)に及びました。
作家の早乙女勝元さんは自身も12歳で空襲に被災し、1970年に当選間もない美濃部都知事に要請し、東京都空襲・戦災記録集の編纂への協力を取り付け、東京空襲を記録する会を創立し全力投球されたそうです。
そうした集大成として『東京大空襲』(岩波新書)などが生まれました。いずれも貴重な記録ですが、これらを読むと当時の模様がよく分かります。
特に新潮文庫の『写真版 東京大空襲の記録』は、生々しい悲惨な実態を今に伝えてくれます。こうした都市への無差別攻撃は第二次世界大戦から始まりましたが、今も現実に起こっているウクライナの各都市への空爆の映像がだぶってしまいます。
焼夷弾攻撃だったので猛火が発生し、東京の下町全体が火の海になり焼け野原になりました。死者数は資料により違いがありますが約10万人、羅災者は300万人(当時の東京市の人口は約680万人)に及びました。
作家の早乙女勝元さんは自身も12歳で空襲に被災し、1970年に当選間もない美濃部都知事に要請し、東京都空襲・戦災記録集の編纂への協力を取り付け、東京空襲を記録する会を創立し全力投球されたそうです。
そうした集大成として『東京大空襲』(岩波新書)などが生まれました。いずれも貴重な記録ですが、これらを読むと当時の模様がよく分かります。
特に新潮文庫の『写真版 東京大空襲の記録』は、生々しい悲惨な実態を今に伝えてくれます。こうした都市への無差別攻撃は第二次世界大戦から始まりましたが、今も現実に起こっているウクライナの各都市への空爆の映像がだぶってしまいます。
学徒散華の記録
2021-01-23
Facebook橋本 新一
1945年5月14日緩降下後背面宙返りで垂直逆落としに体当りエンタープライズの前部エレベータの後部に激突炎上しエレベーターは吹き飛び船体に穴が開き2.2メーター浸水、ダメコン班が30分で火災を鎮火、エレベーターホールで富安中尉の遺体を発見。
遺体は米兵並みに丁重に水葬され、2020年に富安中尉の機体の一部と遺体にあった50銭札も家族に返還。
遺体は米兵並みに丁重に水葬され、2020年に富安中尉の機体の一部と遺体にあった50銭札も家族に返還。
人間魚雷 回天
2020-11-09
昭和19年11月8日の本日、人間魚雷「回天」第一陣の菊水隊仁科関夫少佐以下、徳山湾大津島よりウルシー、帛琉海域へ初の水中特攻出撃致しました。
昭和19年8月15日、大森仙太郎特攻部長は「この兵器(回天)を使用するべきか否かを、判断する時期だ」と發言、明治維新の船名からこの兵器を「回天」と命名した。
そして同年9月1日、山口縣大津島に黒木・仁科と板倉光馬少佐が中心となって「回天」基地が開設され、全國から志願で集まった搭乗員で9月5日から本格的な訓練が開始された。
これが、「回天」特攻の始まりである。
しかし、9月7日早朝に黒木が殉職すると、仁科を含めた搭乗員は「黒木に続け」と言わんばかりに、昼の猛訓練と夜の研究會で操縦技術の習得に努め、技術を習得できた者から順次出撃していくこととなった。
同年10月下旬、豊田副武聯合艦隊司令長官から「回天」による特攻作戰命令「玄作戰」が發令され、特別攻撃隊は「菊水隊」と命名された。
仁科も創案者の一人として菊水隊員に選ばれ、黒木の遺志を継ぐために出撃直前まで熱心に「回天」の研究・改良に務めていた。
同年11月8日に、仁科は菊水隊(母潜「伊-47」)として黒木の遺骨を持ってウルシー環礁へ向けて出發、同年11月20日午前3時50分に發進し、午前5時過ぎに黒木の遺骨を抱いたまま米油漕艦「ミシシネワ」へ特攻・戰死した。
21歳没。
「ミシシネワ」は當時の最新鋭大型タンカーで、亜米利加側の戰死者は63名だった。
(ウィキペディア参照。)
画像は、回天特攻によって横転したミシシネワ。
潜水艦の甲板上に搭載された回天。
回天特攻潜水艦の内部