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【アーカイブ】】作戦・闘いへの導線の巻

【アーカイブス】作戦の記録

◎ロシア二月革命

2021-03-15
Facebook佐々木信雄さん曰く
アレクサンドラ皇妃とラスプーチン
黒海艦隊の戦艦ポチョムキンでは水兵らの反乱
【20th Century Chronicle 1917年(t6)】
◎ロシア二月革命
*1917.3.15/ 帝政ロシアの首都ペテルグラードで「ロシア二月革命」が勃発、ニコライ2世が退位してロマノフ王朝滅亡。
*1917.7.21/ ケレンスキー内閣が成立する。
(注)現行の西暦表記はグレゴリオ暦にもとづくが、当時のロシアではユリウス暦(ロシア旧暦)が用いられており、現行暦より13日前にさかのぼる。よって、例えば新暦3月の出来事が「二月革命」などになる。
 日露戦争での苦戦が続く1905年1月、サンクトペテルブルクに発生した「血の日曜日事件」が、「ロシア第一革命」と呼ばれることがある。ロシア正教の一神父が指導したゼネラル・ストライキに続いて、サンクトペテルブルクでデモ行進があり、それにツァーリの軍隊が発砲し1,000人前後の死傷者が出た。
 組織化された革命事件ではなかったが、この事件を契機に革命運動が活発化し、黒海艦隊の戦艦ポチョムキンでは水兵らの反乱も起った。皇帝ニコライ2世は改革を認めず保守的な体制維持を望んだが、首相に就任したストルイピンは、改革を図るとした。しかし、その前に反乱の徹底鎮圧を最優先し、一旦混乱は押さえつけられた。
 その後、改革の効果もみられないままストルイピンの暗殺、そして第1次世界大戦への参戦などで、社会の不満は残されたままであった。大戦での戦況も不利に展開し、ニコライ2世が前線へ向かうと、内政を任されたアレクサンドラ皇妃とラスプーチンの、恣意的な政務は不興をかこった。ラスプーチンは保守派ユスポフらに暗殺されたが、国政の立て直しはならず、ロマノフ王朝は末期的症状を呈した。
 国際婦人デーであった1917年3月4日、ロシアの首都サンクトペテルブルク(当時ペトログラード)で、食料配給の改善を求めるデモが行われた。当初は穏健なものであったデモは、数日のうちに全市に広がり、要求も「戦争反対」や「専制打倒」へと拡大していった。
 ニコライ2世は軍にデモの鎮圧を命じたが、鎮圧に向かった兵士たちが次々と反乱を起こし、労働者側についていった。労働者や兵士はペトログラード・ソビエト(労働者評議会)を結成し、一方で、ドゥーマ(議会)の議員は臨時委員会をつくって新政府の設立へと動いた。
 ペトログラード・ソビエトとドゥーマ臨時委員会は、革命の混乱過程で二重政権状態であったが、臨時委員会は臨時政府を設立し、ペトログラード・ソビエトを指導するメンシェビキも、この臨時政府を支持する方針を示した。臨時政府には、社会革命党(エスエル党)右派からケレンスキーが参加したものの、その中心は大半が自由主義者が占め、革命の性格は「ブルジョワ革命」の様相を示した。
 3月15日、臨時政府から退位を要求されたニコライ2世は、弟ミハイル大公へ皇位の移譲をめざしたが、これも拒否され、ここにロマノフ朝は崩壊した。(ロシア二月革命)
(追補)
 「二段階革命論」では、まずツァーリと封建領主による支配の封建制・絶対君主制を打ち破る「ブルジョア民主主義革命」が必要であり、その下で資本主義が発展した後に「プロレタリア社会主義革命」を行われる、というものであった。
 しかし実際には、自然発生的な暴動から「二月革命」が実現され、これがブルジョア革命だとされるが、その後の資本主義的発展をまたず、半年あまりで「十月革命」が起こった。
 本来なら、資本家との階級闘争として、成熟したプロレタリアートが革命に立ち上がるはずが、今だ期の熟さないうちに、レーニン率いるボルシェビキが、厭戦気分の兵士や都市住民を糾合して一気に「ブルジョア臨時政府」を倒したわけで、これは「革命」などではなくて「クーデター」にすぎなかった。
 その後に成立した他地域での共産主義国家も、すべて封建制か植民地という資本制未発達の地域で達成されたもので、逆に、発達成熟した先進資本主義の地域で「プロレタリアート革命」が起こされた例は皆無である。これらの先進地域では、せいぜいが議会制を通じて改革を進める「社会民主主義」政党となる。
(この年の出来事) 
*1917.2.1/ ドイツ、「無制限潜水艦作戦」を再開。アメリカの参戦のきっかけとなる。
*1917.4.6/ アメリカ、ドイツに対し宣戦布告。第1次世界大戦の趨勢は、大きな転機を迎える。
*1917.9.12/ 大蔵省令で事実上の金輸出を禁止する。金解禁は1930年になる。
*1917.11.2/ イギリスが「パルフォア宣言」を発表。パレスチナにユダヤ人国家の建設を支援。

日本人伯剌西爾移民110周年の日

2021-02-25
Facebook60 Anos Missão Higashi Honganji - 真宗大谷派(東本願寺)南米開教60周年より 
2018年6月19日

アイヌということ

2021-03-17
日テレの情報番組「スッキリ」で、アイヌを「あ、犬」と侮辱する差別が全国放送されました。
アイヌについて、「あ、犬」とからかうのは、ずっとアイヌに投げかけられてきた歴史的な差別表現として、数多の記録に残っております。今でも残存していると報告されることも珍しくなく、適切な注釈なく公共の電波で紹介することは許されません。
うっかり、ではなく、編集済みの番組での話で、しかもアイヌのアイデンティティを扱うドキュメンタリー紹介内という構成です。「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律」の「第四条 何人も、アイヌの人々に対して、アイヌであることを理由として、差別することその他の権利利益を侵害する行為をしてはならない。」違反というわけです。
ちなみに、この差別、私の知る限り、遅くとも大正時代からある。つまり百年続いています。大正時代、というのは、アイヌが自らを記述し始めたのがその時期だからです。おそらく明治以前にもあったでしょう。
手に入れやすいテクストでは、私の共編著『アイヌ民族否定論に抗する』(2015)のp.33およびp.314で、「あ、犬」発言の問題点が指摘されています。前者はそれがネットに広がっているという私の発言。後者は上西晴治作品で出てくるという村井紀さんの指摘。上西晴治作品では、被差別の原風景として出てきます。
自らをアイヌだと公言していた数少ない作家の鳩沢佐美夫も、「遠い足音」(1964)で、自らを投影させた主人公が、小学校(国民学校)で受けた痛みの記憶として、「あ、犬」発言を書いています。画像の引用元は『コタンに死す』(1973)。
「あ、犬」がなぜ問題なのか。ピンと来ない方のために説明しますと、1・アイヌは「人間」という意味だが、それを認めていない 2・子どもでも思いつく、気軽で陰湿な侮辱のニュアンス 3・和人が征服した、飼っているという含意 4・体毛が濃いという差別 5・使うことで百年以上の歴史的な負の文脈を、まるで考慮せずに引き受けてしまう、というわけです。

◎ベルサイユ講和条約 *1919.6.28/ 「ベルサイユ講和条約」が調印される。

2021-03-15
Facebook佐々木信雄さん曰く
◎ベルサイユ講和条約
*1919.6.28/ 「ベルサイユ講和条約」が調印される。
 ベルサイユ条約は、1919年6月28日にフランスのベルサイユで調印された、第1次世界大戦における連合国とドイツの間で締結された講和条約の通称である。第1次世界大戦の終結を受けて、1919年1月18日から、フランスのパリで世界各国の首脳が集まり「パリ講和会議」が開始され、講和問題だけではなく、国際連盟を含めた新たな国際協調体制構築についても討議された。
 パリ講和会議の結果、連合国とドイツの間で締結された講和条約は、パリ郊外のベルサイユ宮殿で調印されたため「ベルサイユ条約」と呼ばれる。そして、この条約や関連諸講和条約によってもたらされた国際秩序を、「ベルサイユ体制」という。パリ講和会議は、アメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンの理想主義を基調に進められ、「国際連盟」の成立など、平和秩序の維持を希求したが、それを支える現実的な制度が、各国の意向で整えられず、その崩壊が第2次世界大戦へと流れ込んでいった。
 パリ講和会議は、参戦国でもあったが仲介役的立場の米大統領ウィルソンと、英首相ロイド=ジョージ、フランス首相クレマンソーを中心として進められた。ウィルソンは、「十四ヵ条の平和原則」を発表し、「公正な講和」をアピールして、講和後の融和的な各国の関係を重視したが、直接に戦闘を交え甚大な被害を被った英仏両国は、ドイツに巨額の賠償や領土割譲を含め、懲罰的な負担を科する強硬意見であった。
 当初、ドイツやオーストリアの政体が不安定な状況もあり、まず連合国間で講和条件を話し合うことになった。戦勝五大国(英・仏・米・伊・日)の全権代表で構成される「十人委員会」で、重要課題は検討されることになったが、その後、情報遺漏問題もあって、実質は、英仏米三首脳にイタリアのオルランド首相を加えた「四人会議」が中心となった。
 フランスは、直接国境を接し、過去何度も戦争をしてきた隣国ドイツに対する不信感は強く、潜在的脅威を完全に取り除くべく、莫大な賠償や領土割譲など、強硬に懲罰的な条件を求めた。一方のアメリカは、理想主義者ウィルソンの意向もあり、「公正な講和」と「戦後の協調体制構築」で、行き過ぎた懲罰要求を緩和すべきとした。イギリスは、仏に立場は近いが、妥協的に対応した。
 講和案がまとめられると、ドイツ代表がパリ会議に招かれ通知された。ドイツ側は、国民からの大反発もあり、講和案を拒絶するが、ドイツ側からの提案を出し、若干の修正の後、再度講和案が提示された。連合国側は、返答期限を切り、受諾亡き場合は戦闘再開も辞せずという断固たる姿勢で臨んだため、ドイツはしぶしぶ講和案を受諾、ベルサイユ条約が締結されることになった。
 ベルサイユ条約は、米ウィルソンの提唱した「国際連盟」条項を包含するなど、平和的な協調体制理念が盛り込まれていたが、一方で仏クレマンソーを代表とする、ドイツに対する復讐懲罰的な苛酷要求との妥協の産物であった。その結果、国際連盟は米国で議会の反対で批准されないなど、具体的な平和維持機構ととしては機能せず、一方で、敗戦国ドイツへの苛酷な賠償負荷は、それに耐えきれないドイツ国民の疲弊を招き、やがてナチス台頭など、第2次大戦への導火線ともなった。
(この年の出来事) 
*1919.1.18/ 第1次大戦の終結を受け、パリ講和会議が始まる。
*1919.2.6/ ワイマールでドイツ共和国国民会議開催。民主共和派が大勢をしめ、大統領にエーベルトを選出。
*1919.5.4/ 中国で、日本が引き継いだ旧ドイツ山東省権益の、中国への返還を要求する「五・四運動」が起こる。

◎アイヌ人に対する「北海道旧土人保護法」

2021-03-09
*1899.3.2/ 「北海道旧土人保護法」が公布される。
【19th Century Chronicle 1899年(m32)】-1
◎アイヌ人に対する「北海道旧土人保護法」
*1899.3.2/ 「北海道旧土人保護法」が公布される。アイヌ救済をうたい農耕民化を推進するが、独自の入墨・耳輪などの風習を禁じるなど、大和民族への同化を強いるものだった。
 「北海道旧土人保護法」は、北海道アイヌを一般の日本国民と分けることを定めた(戸籍の分離)。さらに、アイヌの土地所有権の制限(不動産の相続権の停止など)、アイヌ語の廃止など、日本への同化政策が基軸となっていた。アイヌを「北海道旧土人」と呼び、アイヌを日本人からの保護するという大義名分で、土地、医薬品、埋葬料、授業料などを供与すると定めたが、供与に要する費用にはアイヌの共有財産等からの収益を用いることとした。
 先住民のアイヌが住む土地や、共有していた漁業・狩猟・耕作などの権利、共有財産などの専有権は没収し、北海道庁の管理の下で、公売によって日本人に売却された。そしてアイヌ人には、自由な土地売買や小作権設定などが禁止された。
 この法律にもとづいて、アイヌの財産の収奪や、文化的同化政策が推進された。具体的には、「1.アイヌの土地の没収、2.収入源である漁業・狩猟の禁止、3.アイヌ固有の習慣風習の禁止、4.日本語使用の義務、5.日本風氏名への改名による戸籍への編入」などが強制された。
 この差別的な法律は、終戦後にも放置されたまま存続した。1997(平9)年になってやっと、アイヌ民族初の国会議員萱野茂らの尽力で、「アイヌ文化振興法」(アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律)が国会で全会一致可決され、その施行に伴い北海道旧土人保護法は廃止された。
 「アイヌ」とは、もともとアイヌ語で「人間」を意味する言葉で、精霊的自然を示す「カムイ」に対する概念だったとされる。それが大和民族(和人)との交易など接触がすすむにつれて、自民族の呼称として意識的に使われだした。さらに、アイヌ語で人民・親族・同胞・仲間という意味の「ウタリ」は、より積極的に誇りを込めた文化的アイデンティティを主張する、アイヌ人自身の民族の呼称として用いられる。
 一方で大和民族(和人)の側からは、古来からアイヌのことを「蝦夷(えみし・えぞ)」・「土人」などと呼び、東北一帯に住む先住民(和人と混交したアイヌ)と北海道のそれ(純然たるアイヌ)とは、明確な区別がなかった。エミシはエビスに通じ、漠然と「東北一帯に住む異人・蛮族」といったニュアンスで使われたとされる。中世になると、アイヌとの接触も増え、具体的にアイヌ人を指す言葉として「蝦夷(えぞ)」と呼ばれるようになり、彼らの住む北海道は「蝦夷地(えぞち)」とされた。
 アイヌの信仰は、自然界のあらゆる事物に霊魂が宿るとする、ある種の汎神論に分類される。なかでも熊は神の化身とされ、熊の魂を天界に送り返す儀式「イオマンテ」などが有名である。
 また、アイヌは筆記文化を持たず、生活の知恵や歴史はすべて口承で伝承された。そのためアイヌの歴史や生活文化の解明は困難を極めたが、「金田一京助」による、口承文芸の「ユーカラ(叙事詩)」の研究などから、少しづつ明らかにされつつある。
(この年の出来事)
*1899.2.7/ 改正中学校令・実業学校令が公布、翌8日には高等女学校令が公布されて、中等教育体制が整う。
*1899.2.27/ 移民斡旋業者の森岡移民会社が募集した810人が、日本郵船の「佐倉丸」でペルーへ出発する。(わが国初の南米移民)
*1899.7.10/ 明治天皇が東京帝国大学の卒業式で、成績優秀者に銀時計を授与する。(恩賜の銀時計の始まり)
*1899.7.21/ 布引丸が、フィリピン独立運動派に武器弾薬等を輸送する途中、上海沖で難破する。
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