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【アーカイブ】】作戦・闘いへの導線の巻

【アーカイブス】作戦の記録

1号作戦(大陸打通作戦)

2021-12-14
ぜい弱なシーレーンの補完手段としての内陸回廊の打通、日本軍のそれを上回るスピードで増強される大陸の米空軍、大陸戦線における日中のパワーバランスの悪化、そして本土防衛のための「陸軍による」航空撃滅戦。予断を許さぬ戦況と、実質的に複数に分かれた作戦目的を堅持したまま、作戦は決行されます。
1号作戦(大陸打通作戦)3回目です。いよいよ作戦が発動します。
 大陸打通作戦は大きく分けて第一段階のコ号作戦(京漢作戦)と第二段階のト号作戦(湘桂作戦)に分かれます。前者は後者作戦の前段階として、洛陽に位置する中国第一戦区軍を撃破し、湘桂作戦実行のための直接補給路を内陸に確保すること、後者は主作戦として湘桂地域の点在する逐川、南雄、衝陽、長沙、桂林などの主要米軍航空基地の撃滅を遂行しつつ、最終的には華北~仏印までの連絡路を確保するという、作戦エリアは実に南北2,400kmに及ぶ大作戦でした。
 京漢作戦に関しては、洛陽ルートを打通しなくても、華北と武漢をつなぐエリアは日本軍の占領地として連続しています。が、その補給は大陸沿岸から揚子江を大きく迂回して行われており、最短ルートの途中に位置する洛陽の中国第一戦区軍を撃破しておかないと、南下する帝国陸軍第12軍の側背を衝かれる恐れがあったこと、そして後述する事情により大兵力を迅速に南下させるにあたっては洛陽ルートの打通は必須でした。
 そして1944年4月17日、京漢作戦の主力として第12軍が行動を開始します。第37師団と混成第7旅団が黄河の支流を渡河して黄河南方の要衝鄭州を制圧、同時に黄河本流の橋頭堡である覇王城から線路を伝って第110師団、62師団、戦車第3師団、騎兵第4旅団が急速に南進、許昌まで突破し洛陽の南東の位置まで進出します。
 日本軍は本作戦を行うにあたり、迅速性を最も重視していました。敵に反撃の隙を与えず撃破する、という主目的はもちろんですが、同様に重要だったのは華北地区の治安維持でした。以前お話した通り、治安が急激に悪化していた華北各戦区から、大量の兵力が移動したことによる占領区の治安の更なる悪化は天皇陛下が杉山参謀長にその見通しを訪ねるほど、大きく懸念される状態だったのです。そのため帝国陸軍はこの作戦の為約12,000台の自動車を集めて投入し(帝国陸軍騎兵部隊の自動車化は、部隊によってはほぼ完了していました)その機動力を大いに発揮させんとしていました。
 予想以上に速い帝国陸軍の南進でしたが、中国軍の対応も迅速でした。第一戦区軍司令官の湯(タン)将軍は、洛陽の南に位置する舞陽周辺に配置された第12、29、78の各軍を北上させ、12軍の側面~背面への反撃を試みます。この動きを察知した北支方面軍の岡村指令は南進する第12軍に右旋回を指示、反対に中国軍の背後を遮断するべく行動します。
 すでに制圧した許昌を起点に、第110、62師団が洛陽の南東に位置する臨汝へ突破、さらに戦車第3師団、第4騎兵旅団の両機械化部隊は、さらに突進して、敵の根拠地である洛陽を直接衝く勢いで大きく右旋回します。
 ちょっと本題から外れます。以下完全な私見です。
 この最初の攻撃で帝国陸軍が見せた動きは、典型的な「機動包囲」戦術であり、戦況の変化や敵の行動の変化に効果的に対応したと個人的には思います。
 帝国陸軍のハード面(戦車の開発スピード等)の状況から、帝国陸軍は機動戦術の運用が遅れていたような意見も散見されますが、太平洋戦争中期以降の島嶼戦での苦戦はその戦場の環境や補給状況から戦術手腕が発揮できなかっただけであると個人的には考えています。以前投稿した「スリム殲滅戦」においても、見事な「戦車部隊による挺身包囲(いわゆる電撃戦)」を成功させていますし、さらにさかのぼれば日華事変に於ける上海要塞の攻略においては、優秀なパイロットをあえて地上連絡員として地上部隊の移動司令部に置き、地上部隊からの敵情連絡を受けながら2時間以内の航空支援を実現し、要塞線の突破を可能とした(このようなエアランドバトル戦術は、当時は日本が初めてだったと思います)等、陸上戦術においても先進的な取り組みを行ってきました。そういった面では、日本の機械化部隊は、戦車など個々の兵器の性能はともかく、戦術としては決して他国に後れを取ってはいないと思います。
 私見はここまで。
 先行した戦車第3師団及び第4騎兵旅団が湯将軍の第12軍背後を遮断し、臨汝から進出した3個師団(110、62、37)が同軍を包囲して撃破、中国軍のドクトリンとして「正面から戦わず、迅速な撤退」を堅持していたことから全軍の補足撃滅はなりませんでしたが、その後戦車第3師団等による攻撃により洛陽は陥落、その後洛陽の西側に位置していた第1戦区軍の主力も上記全軍をもって撃破せしめ、コ号作戦の主目的である、華北~漢口の回廊打通を達成します。
 余談ですが、個人的には作戦目的を達成し、成功裏に完了したと考えるコ号作戦に関し、陸軍の上層部は「戦果不十分」という評価をしていたとの話もあります。あくまで対峙した敵軍を撃滅せしめなければ作戦は成功ではない、という考え方のようですが、本来の目的は何だったのか?作戦は迅速に行う必要があったのでは?といった観点から考えると、その評価はいかがなものかと考えます。
 次回は第二段階作戦(ト号作戦)です。
※写真についてはコ号作戦以外のものも交じっていますのであしからずご了承ください。

◎黒船来航と開国

2021-10-18
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【19th Century Chronicle 1851-1855年】-2
◎黒船来航と開国
*1853.6.3/ 米艦隊司令官ペリーが、軍艦4隻を率いて浦賀に来航する。
*1853.6.9/ 浦賀奉行が久里浜でペリーと会見、アメリカの国書を受け取る。
*1854.1.16/ ペリーが軍艦7隻を率いて浦賀に再来、さらに江戸湾内に停泊する。
*1854.3.3/ 幕府が、日米和親条約(神奈川条約)に調印する。
 嘉永6(1853)年6月、米国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが率いる艦船4隻が、江戸湾浦賀に接岸した。ペリーは浦賀奉行に、開国を促す米大統領フィルモアの親書を手渡した。幕府側は、将軍が病気であることを理由に、返答に1年の猶予を要求し、ペリーは、1年後に返事を聞くために再来航するとした。
 米国はこの7年前の1846年にも、ビッドルが浦賀に来航して通商を求めた。この時に穏便な交渉方針で臨んで拒否された経験から、ペリーの艦隊は武力で威圧する方針を定めてやって来た。それまでの帆船とは異なり、もうと煙を上げて進む外輪蒸気船の「黒船」は、それだけで威嚇効果は十分だった。さらに、アメリカ独立記念日の祝砲と称して、江戸湾内で数十発の空砲を発射すると、江戸庶民は腰を抜かした。
 ペリーはその後も数日間、威嚇するように江戸湾に入り込んだうえで、退去した。そのわずか10日後に将軍家慶が死去、第13代将軍家定が就任するも、虚弱ゆえに国政を担える状況ではなく、老中首座の阿部は開国要求に頭を悩ませた。この前年、オランダ商館長から、アメリカが日本の開国を求めて艦隊を派遣するという予告を受けていたが、幕府は黙殺していた。
 ペリーが1年後に再来するとなってから、幕府は大慌てで対策にのり出した。江戸湾警備の増強として、品川沖に11箇所の砲撃用の台場造営を命じた。また、大船建造の禁も解除し、各藩に軍艦の建造を奨励、幕府自らも洋式帆船「鳳凰丸」を浦賀造船所で起工した。さらに、オランダへの艦船発注を発注し、アメリカから帰国した漂流民ジョン万次郎を登用し、アメリカの事情等を説明させた。
 いかにも泥縄式の対策を講じている幕府をあざ笑うかのように、1年の猶予だったはずが、わずか半年後の嘉永7(1854)年1月に、ペリーは6隻の艦船を率いて再来した。続いて3艦も到着、江戸湾に計9隻の艦隊が集結し、江戸は大きく動揺した。虚を突かれた幕府は、このさい開国も止む無しと考え、全12ヵ条に及ぶ「日米和親条約」(神奈川条約)を締結する。ここに200年に及ぶ鎖国は解かれた。
 ひき続き、英・露・蘭とも和親条約を結ぶことになる。オランダとは長い付き合いにも関わらず、紳士的な話し合いで対応したため、武力に訴えてきた米英などより最後にまわされてしまい、強く出る者だけに腰砕けになる幕府の弱腰が明かになると、幕府の権威は地に落ちた。これ以降、「幕末」の風が吹き荒れることになる。
 安政5(1858)年6月には、日米和親条約に基づいて赴任したタウンゼント・ハリス総領事により、「日米修好通商条約」が締結される。この不平等条約は、以後の他の列強との条約の基本となり、日本政府は明治期の終わりまで対応に腐心することになる。ただしアメリカでは、1861年からの南北戦争で内乱状態となり、以降の日本への影響力を失い、主として英仏が幕末の日本の動向に介在することになる。

◎「日米修好通商条約」

2021-10-20
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【19th Century Chronicle 1856-1860年】
【19th Century Chronicle 1856-1860年】-2
◎「日米修好通商条約」
*1856.8.5/ アメリカ駐日総領事「タウンゼント・ハリス」が、下田玉泉寺を仮領事館とし、アメリカ領事館旗を掲げる。
*1857.5.26/ 米国総領事ハリスが幕府と、9ヵ条の日米約定(下田協約)を締結する。
*1857.10.21/ 米総領事ハリスが、将軍家定に謁見し、アメリカ大統領ピアースの親書を提出する。
*1858.3.20/ 老中堀田正睦が、日米修好通商条約の勅許を得るため入洛するも、朝廷に条約の勅許を拒否される。
*1858.6.19/ 幕府が勅許なしに、「日米修好通商条約」および貿易章程に調印する。
*1859.5.28/ 幕府が、神奈川・長崎・箱館の開港と、露・仏・英・蘭・米との自由貿易を許可する。
 日米和親条約により日本初の総領事として赴任したタウンゼント・ハリスは、安政3(1856)年8月5日、下田に仮領事館を設けアメリカ領事館旗を掲げた。ハリスは翌年の10月に、やっと江戸城に登城がかない、将軍家定に謁見して米大統領ピアースの親書を手渡した。通商条約の締結を指令されて来たハリスは、強硬に自由通商を主張し、幕府内にも止むを得ないという雰囲気が醸成されると、老中首座であった堀田正睦は条約の交渉を開始させた。
 アメリカ側の要望に押しまくられながら、やっと条約の合意が得られるようになると、堀田正睦は孝明天皇の勅許を得るべく自ら上洛したが、朝廷の公家らの強硬な反対などで勅許を得られないまま江戸にもどる。堀田が上洛中に、南紀派の井伊直弼が大老に就任すると、以後、井伊が幕府を主導する。
 井伊大老は、勅許を得てからの条約を締結すべきとの考えだったが、交渉担当との指示の行き違いから、直弼の意向に反して勅許を得ないまま条約締結に至ってしまった。そのすぐ後に堀田正睦は罷免され、直接の条約交渉役らも左遷された。しかし勅許無き条約締結は大きな政争を引き起こし、同時期に井伊直弼が慶福に決めた将軍継嗣問題も絡まり、直弼の処置に反対する声が幕府内外に渦巻いた。
 この抗争鎮定のため、井伊は反対派の幕臣や志士・朝廷の公家衆を大量に処罰し「安政の大獄」が始まった。そして、朝廷を利用して幕府の改革をもとめる水戸斉昭など諸侯を謹慎蟄居などで排除した。これらの武断政治は大きな批判を呼び、政局は不穏となった。そして安政7(1860)年3月3日、水戸藩への処置に憤懣をもつ脱藩浪士たちにより、井伊直弼は桜田門外で襲われ暗殺される(桜田門外の変)。
 この同時期、日米修好通商条約批准書の交換のため、正使新見正興を代表とする「万延元年遣米使節」が、ポーハタン号でアメリカに派遣され、その護衛のため、木村喜毅を副使とする「咸臨丸」も派遣された。咸臨丸には勝海舟が艦長格として乗船しており、木村の従者として福澤諭吉も同行渡米している。
 批准された「日米修好通商条約」では、自由貿易・領事裁判権・低い関税率などが取り決められていた。自由貿易の約束に伴い、のちの横浜・神戸など、重要な貿易拠点となる多くの港が開港され、そこに「居留地」が設けられた。そして、後にまで影響を与える不平等条項とされる「領事裁判権(治外法権)」や「低関税率(関税自主権という概念が日本側になかったため、低い関税率だけが決められた)」などが約定された。
 なかでも、深刻な影響を呼び起こしたものに「金銀等価交換」があった。もともと貿易商であったハリスは、領事就任当初から、銀貨基準の等価交換を主張して押し通した(下田協約)。当時の金と銀の交換比率は、世界的には1:15だったが、日本では1:5であったため、銀を持ち込み金と交換することで大きな利益が得られた。その結果として、急激な金の流出やインフレーションによる経済の混乱を引き起こすこととなった(幕末の通貨問題)。
 さらに、不平等条約に必ず盛り込まれるのが「片務的最恵国待遇」であった。これはすでに日米和親条約に盛り込まれていたが、事後に他国がより有利な条約等を結んだ時には、それと同等の条件を提供することを義務付けたもので、為替変動や関税率など変動要因の大きい経済分野では重要な条項となる。外交に不慣れな当時の幕府には、はたしてそこまでの認識があったかどうかあやしい。
(この時期の出来事)
*1856.9.-/ 長州藩は、蟄居中の吉田松陰に、萩の松下村塾の主宰することを許可する。
*1857.10.16/ 福井藩主松平慶永(春嶽)らが、一橋慶喜を次期将軍に推奨し(一橋派)、紀州藩主徳川慶福を押す井伊直弼ら(南紀派)との対立構図が明かとなる。
*1858.10.26/ 徳川家茂(慶福)が征夷大将軍となり、第14代徳川将軍に就任する。
*1858.11.16/ 西郷隆盛と僧月照が入水、西郷は救助され、のち奄美大島に潜伏させられる。
*1858.12.5/ 長州藩は、藩老中襲撃を企てたとして、吉田松陰を投獄する。
*1860.1.19/ 幕府軍艦奉行木村喜毀・軍艦操練所頭取勝海舟ら90余名が、咸臨丸でアメリカに向けて浦賀を出帆する。
*1860.8.18/ 孝明天皇が、皇女和宮の降嫁勅許を幕府に内達する。
*1860.12.5/ アメリカ通弁官ヒュ−スケンが、薩摩藩士に惨殺される。

上海攻防戦

2021-09-20
1931年9月18日,日軍發動九一八事變,在100天內佔領整個中國東北地區。次年3月1日,日本帝國參謀本部及關東軍在中國東北地區建立一新政權,定名為「滿洲國」。後令大清帝國末代皇帝溥儀登基為滿洲國皇帝。
1937年盧溝橋事變爆發,日軍從盧溝橋進攻平津地區,不久華北淪陷,中日全面開戰。8月13日,中日雙方在上海及周邊地區展開大規模會戰,淞滬會戰爆發。12月13日,南京保衛戰南京失守,侵華日軍主導下發生南京大屠殺,遠東國際軍事法庭統計20萬至30萬人遇難;中國首都遷至重慶,重慶成為中國的戰時首都。
1941年12月8日,日本艦隊突襲太平洋美海軍基地珍珠港,太平洋其他地區日軍亦四出攻擊,美國、英國與日本互相宣戰,中國亦正式對日本宣戰並及德國、義大利。
1943年11月,中、美、英三國元首發表《開羅宣言》,要求日本應將竊取自中國之所有領土(如滿洲、台灣及澎湖群島等)歸還中華民國。1945年7月26日,美、英與中國對日本發出《波茨坦公告》,重申開羅宣言,命日本無條件投降。同年8月14日,日本天皇敕令,保證實行波茨坦公告規定之條件;9月9日,日本中國派遣軍總司令岡村寧次向中國陸軍總司令何應欽投降,中日戰爭告終。

ニイタカヤマノボレは、こちらから・・・

2021-01-15
佐世保の通称、大塔、針尾送信所アンテラ群
1辺300メートルの巨大な正三角形を描く針尾無線塔=佐世保市
 3本の巨大な無線塔が、一辺300メートルの正三角形を描く。佐世保市針尾中町にある国指定重要文化財「旧佐世保無線電信所(針尾送信所)施設」(通称・針尾無線塔)。太平洋戦争の開戦(1941年)を告げる暗号「ニイタカヤマノボレ1208」を送信したという説があるが、裏付ける資料は残っていない。
 市教委文化財課によると、旧日本海軍が総工費155万円(現在の約250億円)をかけて建設した。鉄筋コンクリート製で、高さは136メートル。東京から中国沿岸部、台湾付近までをカバーした。97年に役目を終えたという。
 針尾無線塔保存会の田平清男会長(77)にとって、塔は遊び場だった。度胸試しで内部の555段のはしごを登り、眺望を楽しんだ。いたずらをすると、母親から「無線塔から落とすぞ」と脅された。現在は1本の内部を見学することができ、保存会員が訪れた人を案内している。父親を戦争で亡くした田平会長は「これからも、戦争の悲惨さと平和の尊さ、無線塔の歴史的価値を伝えたい」と話した。

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