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【アーカイブ】】作戦・闘いへの導線の巻

【アーカイブス】作戦の記録

ここから始まりました。

2020-10-15
嘘がその発端でした。
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1928年(s3)】
◎張作霖爆殺事件
*1928.5.3/ 山東省へ出兵した日本軍が、国民革命軍と衝突。8日、済南総攻撃を開始し、11日には済南城を占領する。(済南事件)
*1928.6.4/ 奉天に引き揚げる途中の張作霖を乗せた列車が関東軍によって爆破される。(張作霖爆殺事件)
 1928年3月、蒋介石が北伐を再開すると、日本も山東省の権益維持のため、中国各地から山東省に部隊を派遣し、日本軍と北伐軍が対峙することになった(第二次山東出兵)。その後5月3日には、北伐軍兵士による略奪・暴行・陵辱・殺人事件がひき起こされ、さらに日本人9人の惨殺死体が発見されると、日本は関東軍からさらなる増派することになる(第三次山東出兵)。
 5月8日、日本軍は市内の日本人保護のために済南城を攻撃、北伐軍を城外へ追い出すとともに、済南城ならびに済南全域を占領した(済南事件)。この事件で中国側軍民に数千人の死者をだすなど、蒋介石の北伐軍は日本軍に対する遺恨をもち、一方で日本の民間人惨殺などから、日本世論の中国に対する感情は悪化した。
 山東出兵では田中内閣の不干渉主義にそって、かろうじて拡大を自重した軍も、関東州の日本軍は政府方針を無視し、満州で実力を維持する奉天軍閥の張作霖を、奉天近郊で列車ごと爆殺する事件を起こした。日本政府は犯人を伏せて「満洲某重大事件」と呼んでいたが、関東軍参謀河本大佐などが計画的に実行した陰謀事件であることが明らかになっている。
 張作霖は、中華民国総統となった袁世凱が死去すると、武力で黒竜江省・吉林省も含めた東三省全域を勢力圏に置き、「満洲の覇者」として君臨ようになっていた。北伐を進める蒋介石の国民党軍とも対峙したが、関東軍は満州支配に邪魔になると考え、北伐軍との戦闘をやめて奉天へ帰還する途上の張作霖の列車を爆破させた。
 この後、関東軍は、柳条湖事件、盧溝橋事件などで暴走を進め、満州事変、日中戦争と大陸にのめりこんでゆく主導的役割を果たすことになった。
(この年の出来事)
*1928.4.18/ 京都帝大教授川上肇が赤色教授として辞職を迫られる。ほかにも、東京帝大の大森義太郎、九州帝大の向坂逸郎らも、同様に大学を追われる。
*1928.7.1/ 治安維持法の改正をうけて、内務省保安課が拡充強化され、未設置だった各県警察にも「特別高等科(特高)」が設置される。
*1928.9.-/ 英の細菌学者アレグザンダー・フレミングが、アオカビから細菌の繁殖を止める抗生物質「ペニシリン」を発見、結核など伝染病治療に画期的な効果をもたらす。
*1928.10.8/ 北伐に成功した蒋介石が、南京を首都とする国民政府の首席に就任する。
*1928.10.12/ 松竹楽劇部が設立され、第1期生として水の江滝子らが入部、浅草に本格的なレビューが誕生する。32年からは「松竹少女歌劇部(SSK)」となる。
*1928.11.10/ 新天皇裕仁(昭和天皇)の「即位の大礼」が、京都御所紫宸殿で行われる。

ある女優の戦前・戦中・戦後・・・、そして43歳の時、突如としてスクーンから消えた。

2020-10-13
原節子という生き方
1935年です。
ゲッペルスと、伯林にて・・・。
「青い山脈」
伯林で彼女を迎えたのは、この方でした。

欲かりません、勝つまでは・・・では、とても太刀打ちできませんでした・・・ああ・・・

2020-10-09
D-DAYのため集結する物資を積んだ貨車の群 この物量、精神論で跳ね返せるか

大日本帝国・ソ連・独逸

2020-10-04
Facebook佐々木信雄さんの投稿
『Get Back! 40's / 1941年(s16)』
(日ソ中立条約)
○4.13 [モスクワ] 日ソ中立条約が調印される
○6.22 [ヨーロッパ] 独軍がバルト海から黒海にわたる戦線でソ連攻撃を開始。(独ソ戦が始まる)
 1936年日本は「日独防共協定」を結び、満州国北部国境の脅威となるソ連を牽制することにしたが、1939年ドイツは日本への通知なく「独ソ不可侵条約」を締結し、すぐにポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始められた。ソ連囲い込みを意図した防共協定は事実上の意味を失い、1940年より明確な同盟関係の「日独伊三国軍事同盟」を締結した。
 ヨーロッパで快進撃をするドイツに乗り遅れるなと、三国同盟で意を強くした日本は南進を始め、英米との対立関係が顕著となっていた。松岡洋右が外務大臣に就任すると、日独伊ソ四国による「ユーラシア枢軸」を構想し、三国軍事同盟に続き、「日ソ中立条約」でソ連を枢軸国側に引き入れることを目指した(「日独伊ソ四国同盟構想」)。
 妄想に近い構想であるが、松岡自身はこのユーラシア枢軸によって、国力に勝るアメリカに対抗できると考えた。ソ連側は相手にしなかったが、まもなく「ドイツの対ソ侵攻計画」を察知したことで日本の提案を受諾し、1941年4月13日モスクワで調印した。
 ヒットラーは三国同盟締結時にすでにソ連侵攻を決めており、状況を読み違えた松岡の日独伊ソ四国同盟構想などはあり得ないことであった。しかしソ連は日ソ中立条約によって極東の部隊を西部へ移動させることが出来、同年12月のモスクワ防衛戦に投入した結果モスクワは防衛された。
 ヒットラーは日本への通知なく独ソ戦を開始しており、ソ連を甘く見ると同時に、日本の役割を軽視した。もし日ソ中立条約を結ばせず、ソ連の兵力を東西に分散させたままならば、ソ連を崩壊させられたかも知れない。また、この条約の締結に先立ち、チャーチルは松岡に、ドイツは早晩、ソ連に侵攻することを警告していたという。
 日本にとって意味のない日ソ中立条約であったが、敗戦ぎりぎりまで日本が頼りにしたのもこの条約であった。日本側は条約の有効期間がまだ残っているとして、ソ連の仲介による和平工作を期待している。しかしヤルタ会談において、秘密裏にソ連の対日参戦が約束されており、ソ連はこれを黙殺し密約どおり対日参戦を行うことになる。
 ドイツに軽視されソ連に裏切られたなどと、国家間の情報戦で恨みごとを言っても始まらない。戦闘以前に「情報戦」ですでに敗北していたのであり、この年の10月には「ゾルゲ事件」の摘発が始まったが、露見したのは諜報活動のごく一部に過ぎない。友邦ドイツにも仮想敵国の共産ソ連にも、日本の機密情報は漏れ漏れであり、まもなく全面戦争に入るアメリカにも、言うまでもなく情報戦で完全敗北していたのであった。
*この年
服装に非常時色が濃くなる/少女歌劇の男装が廃止
【事物】プラスチック製歯ブラシ/米穀通帳/給与の銀行振込制(大蔵省)
【流行語】ABCD対日包囲陣/子宝報国/産業戦士/月月火水木金金
【歌】戦陣訓の歌(徳山蓀)/さうだその意気(霧島昇・松原操)/森の水車(高峰秀子)
【映画】戸田家の兄妹(小津安二郎)/馬(山本嘉次郎)/次郎物語(島耕二)/スミス都へ行く(米)
【本】下村湖人「次郎物語」/高村光太郎「智恵子抄」/三木清「人生ノート」/山本有三「路傍の石」

シベリア出兵

2020-10-04
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1918年(t7)】
◎シベリア出兵
*1918.5.26/ チェリャビンスクでチェコ軍団が反乱。反革命勢力や列強の後押しで混乱する。
*1918.8.2/ 日本軍、大挙シベリア出兵。チェコ軍支援の名目で、背景には満州支配の野心。 
 1918年から1922年にかけて、英・仏・米・日本など帝国主義列強は、ロシア革命に対する軍事干渉としてロシアのシベリアに出兵した。1918年3月英仏軍のムルマンスク上陸に始まり、アメリカ軍・日本軍は8月、シベリアに共同で派兵した。東シベリアのチェリャビンスクで包囲されたチェコ軍団の救出がその名目だった。
 レーニンの指導するボリシェヴィキ革命は、資本主義体制・議会政治・自由主義など西欧の価値観を否定する過激派として恐れられており、第一次世界大戦の最中に、連合国のロシアでボリシェヴィキに指導された革命が起こると、資本主義列強はロシアの反革命保守勢力(白軍)を支援して、革命政権の打倒しようと考えた。
 オーストリア帝国の一部で同盟軍として動員されたチェコ兵は、連合国側にチェコの独立を持ち掛けられて寝返ったところ、些細なことから革命軍と戦闘が始まり、革命軍に包囲されてしまった。これを救出するというのが連合国側の名目だが、ねらいは反革命軍(白軍)を支援して、ロシア革命軍(赤軍)を倒すことにあった。
 しかし、オムスクの反革命白軍コルチャーク軍が1919年3月に大敗すると、反革命支援の目的が完全に潰え、シベリア出兵の意味はなくなったため、英仏の干渉軍は撤退、アメリカも続いて撤退する。しかし、最大7万以上を派兵した日本軍は、1922年までシベリアに留まることになった。
 日本軍は事後処理のためとして駐留を続けているとき、1920年2月に「ニコライエフスク事件」の悲劇が発生した。これは日本では尼港事件とも呼ばれ、現地の共産パルチザンが、アムール川の河口のニコライエフスク港(尼港)の日本陸軍守備隊および日本人居留民約700名、その他現地市民6,000人の一部を虐殺した上、町の一部に放火した事件である。
 日本は事件に対する報復として北樺太(樺太の北半分)を占領した。時の原敬内閣は、出兵目的を居留民保護とロシア過激派の勢力伸張の防止に変更し、駐兵を継続しようとする。そもそも戦争目的が曖昧だったことから、日本軍の士気は低調で、軍紀も頽廃しており、日本国内でも批判が高まった。
 アメリカなど諸外国からの日本への不信感も高まり、1922(t9)年10月に、やっと日本も撤兵することとなった。日本のシベリア出兵は、延べ3,500名の死傷者を出し、10億円に上る戦費を消費したうえ、具体的な成果のまったくないまま終結した。撤兵を決定した加藤高明首相は後日、「なに一つ国家に利益をもたらすことのなかった外交上まれにみる失政の歴史である」と評している。
(この年の出来事) 
*1918.1.8/ ウィルソン米大統領が、議会で「平和のための14ヵ条」をしめし、第一次大戦の終結を提唱。
*1918.5.1/ ゼネラル・モータース社(GM)がシボレー社を合併、フォード社に対抗してシェアを一気に高める。
*1918.7.17/ 元ロシア皇帝ニコライ2世一家全員が、エカテリンブルグで銃殺される。
*1918.11.3/ キール軍港で水平が反乱を起こす。それをきっかけに、ドイツ各地に労兵協議会成立。続いてドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位し、ドイツ革命が成立する。
*1918.11.11/ ドイツ政府が連合国との休戦条約に調印、第一次世界大戦が終わる。
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