【アーカイブ】】作戦・闘いへの導線の巻
【アーカイブス】作戦の記録
間違っていることは,糺さねば・・・。
2020-10-15
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1929年(s4)】
◎田中義一内閣総辞職
*1929.1.25 衆議院予算委員会で民政党の中野正剛が、満州某重大事件(張作霖爆殺事件)について田中義一首相に真相の解明を迫る。
*1929.4.16 共産党員が全国で大量検挙される。市川正一、鍋山貞親らの幹部も6月までに検挙され、党組織は壊滅的打撃を受ける。(4・16事件)
*1929.7.1 政府が張作霖爆殺事件の責任者の処分を発表。陸軍の悦力で河本大作大佐は停職処分にととまる。
*1929.7.2 田中義一内閣が総辞職する。民政党の浜口雄幸が組閣。第2次幣原外交、井上財政を展開する。
金融恐慌で倒れた若槻内閣の後を受けた政友会田中義一内閣は、3度にわたる山東出兵を行ったが軍部が望んだような成果は上がらず、英米との軍事衝突を危惧した田中が関東軍の投入をも見送ったことで、中途半端な対応に軍部の不満は高まっていた。そんな中の1928(昭3)年6月、関東軍は、若手将校らによって奉天郊外で「張作霖爆殺事件」を引き起こす。
田中政府は「満州某重大事件」として隠蔽するとともに、事件の真相究明を躊躇したため、1929(昭4)年1月、衆議院予算委員会で民政党の中野正剛が、満州某重大事件(張作霖爆殺事件)について田中首相にきびしく真相の解明を迫った。
田中政府は、関東軍参謀河本大作大佐らが爆破事件を主導したとの事実を知ったが、田中は軍に遠慮し首謀者を軽微な処分で済ませることになった。その曖昧な態度は昭和天皇を激怒させ、天皇の信頼を失った田中内閣は、1929(昭4)年7月2日総辞職に追い込まれた。
このような政情不安定な状況下で、民間の右翼結社の活動は活発化し、他方で官憲による共産主義者弾圧も強化されてゆく。1929(昭4)年3月5日、治安維持法改正に反対する労農党代議士山本宣治が、右翼団体「七生義団」の黒田保久二に刺殺された。
4月16日には、全国の共産党員の一斉検挙が行われた。一連の検挙は「4・16事件」と呼ばれる。さらに検挙は続き、1929年合計では5000人もの共産党員が治安維持法違反で逮捕された。前年に起きた「3・15事件」での逮捕を免れて、党の再建を企んでいた市川正一、鍋山貞親らの幹部も逮捕され、非合法下の共産党はほぼ壊滅させられた。(4・16事件)
このような流れはさらに進み、ますます政党内閣や議会政治は弱体化が進み、軍国主義へと突き進むことになる。
(この年の出来事)
*1929.2.23/ 約3年間にわたって、強盗に入っては説教をするという「説教強盗」が逮捕される。
*1929.5.-/ 小林多喜二「蟹工船」が「戦旗」5・6月号に発表されるも、発禁となる。
*1929.6.3/ 日本政府が、中国「国民政府」を正式に承認する。
*1929.6.-/ 秋田県の元教師成田忠久が、教育の地方分権などを提唱し「北方(きたかた)教育社」を創設。翌年には雑誌「北方教育」を創刊し、「生活綴方運動」を始める。
*1929.8.19/ 世界一周飛行中のドイツのツェッペリン伯号が、茨城県霞ヶ浦の飛行場に着陸する。
*1929.8.-/ 雑誌「改造」の懸賞文芸評論で宮本顕治「敗北の文学」が当選、2等に小林秀雄の「様々なる意匠」。「改造」8月号に「『敗北』の文学」、9月号に「様々なる意匠」が掲載される。
『我が闘争 "Mein Kampf"』の始まり
2020-10-15
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1925年(t14)】
◎ナチス勢力拡大
*1925.2.27/ ナチス、ミュンヘンで再建大会。ヒトラーが釈放後、初めて公衆の前で演説する。
*1925.7.18/ ヒトラーの獄中の書『わが闘争(マイン・カンプ)』が刊行され、世界支配を説く。
*1925.11.9/ ナチスが「親衛隊(SS)」を創設。ヒトラー総統崇拝の選り抜き私設軍隊で、レーム率いる「突撃隊(SA)」に対抗させる。
1923年11月、ミュンヘン一揆に失敗し収監されたヒトラーは、その裁判で得意な弁舌をふるい、刑務所では特別の扱いを受けた。獄内では、口述でルドルフ・ヘスらに筆記させ、出獄後『我が闘争 "Mein Kampf"』として刊行する。おそらく、演説するのと同じ調子で筆記させたものと考えられる。
ヒトラーは、1924年12月に釈放されるが、それまでの間にナチ党は内部抗争によって分裂し、12月の州選挙でも大敗を喫した。翌1925年2月ナチ党は再建され、釈放後初めて公衆の前に姿を現したヒトラーは、大規模集会で演説を行った。この演説で政府批判を行ったため、ヒトラーには2年間の演説禁止処分が下された。
この間にヒトラーは、ミュンヘンの派閥をまとめ上げ、突撃隊の実力者レームを引退させ、分裂した対抗派閥に居たヨーゼフ・ゲッベルスを取り込むなどして、党内独裁体制を確立してゆく。同時に獄中で執筆した『我が闘争 第一巻』を刊行し、「指導者ヒトラー」の指導者原理をアピールすることに成功した。
この年に刊行された『わが闘争 第一巻』では、自分の生い立ちを振り返り、ナチ党の結成に至るまでの経緯が記述され、全体的には、ヒトラー自身の幼年期から反ユダヤ主義および軍国主義的となったウィーン時代が詳細に記述されている。
翌年に刊行される『第二巻』では、自らの政治手法、群衆心理についての考察など、ヒトラー独自のプロパガンダのノウハウなども記されている。さまざまな分野での自らの政策を提言する中でも、特に顕著なのが人種主義の観点であり、世界は人種同士が覇権を競っているというナチズム的世界観が展開される。
第一巻、第二巻を合わせても、発効時の売り上げは6千部に満たず、ナチ党以外の一般人にはほとんど行き渡っていない。独裁者の自伝や語録によくある例にもれず、ナチ党員のバイブル的な象徴として機能しただけであった。後にナチスが政権を獲ると、全国民に配布される「国民書」となるが、はたしてドイツ人が内容を読んだかは疑わしい。
当時のドイツでは、政党の集会や演説会に他党の党員・支持者が殴り込みをかけるのが常態であり、各党は独自の実動部隊を持つのが一般的であった。バイエルン州ミュンヘンでのナチスも例外ではなかったが、ドイツ革命で重要な働きをしたフライコール(ドイツ義勇軍・民兵組織)などに影響力のあった、エルンスト・レームを中心に組織された「突撃隊(SS)」がその任に当たることになった。
突撃隊は「ミュンヘン一揆」に至るナチ党の伸張に活躍したが、レームの影響下で、党から半独立的な準軍事組織であった。一方でこの年、「総統アドルフ・ヒトラー」を護衛する党内組織として「親衛隊(SS)」が創設された。突撃隊は、ミュンヘン一揆の失敗後、党に従属する組織として再出発したが、その歴史的経緯から、ヒトラーにとっては、思うままにならない厄介な組織となりつつあった。
1933年、ナチスが政権を奪取すると、ヒトラーに忠実なハインリヒ・ヒムラー率いる親衛隊によって、復権していたレームをはじめとする突撃隊幹部が粛清された(長いナイフの夜)。粛清後の突撃隊は勢力を失い、親衛隊の配下として、以降は国防軍入隊予定者の訓練など主任務とする傍系組織となった。
一方で、党内警察組織として急速に勢力を拡大していった親衛隊は、当初は「ヒトラーのボディガード」に過ぎなかったが、やがてナチスが政権を獲得した1933年以降、警察組織と軍組織との一体化が進められ、保安警察(ゲシュタポと刑事警察)、秩序警察、親衛隊情報部、強制収容所など第三帝国の主要な治安組織・諜報組織をほぼ傘下に置くとともに、親衛隊特務部隊(武装親衛隊)として、正規軍である国防軍からも独立した、独自の軍事組織として強大な権力を行使した。
(この年の出来事)
*1925.1.20/ 日・ソが北京で基本条約に調印し、ロシア革命以後、途絶えていた国交回復。
*1925.2.20/ 軽快さ、粋、風刺など、都会的センスが売りものの週刊誌『ニューヨーカー』が創刊さる。
*1925.8.8/ 秘密結社「クー・クラックス・クラン(KKK)」がワシントンで第1回全国大会を開催し、20万人が参加。
*1925.8.16/ チャップリンの『黄金狂時代』がニューヨークで封切られ、大成功をおさめる。
*1925.12.24/ エイゼンシュテイン監督の不朽の名作『戦艦ポチョムキン』が、モスクワのボリショイ劇場で初公開される。
*1925.12.1/ 京都府警特高課が、学生社会科学連合会(学連)関係の京大・同志社大の学生23名を検挙する。(京都学連事件の発端)
普通選挙ということ
2020-10-15
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1928年(s3)】
◎普通選挙と治安維持法
*1928.2.20/ 普通選挙制による初の衆議院選挙が行われる。
*1928.3.15/ 共産党員が全国で一斉検挙される。(三・一五事件)
*1928.6.28/ 治安維持法が改正公布。新天皇の即位の大礼をひかえて、弾圧体制を強化するねらい。
1925(大14)年、加藤高明内閣は普通選挙法を制定、それまでの納税制限は無しに25歳以上の成人男子に選挙権が与えられた。ただし女性が対象になるのは第二次大戦後の民主化を待たねばならず、普通選挙とは名ばかりだった。
この1928(昭3)年2月20日に、田中政友会政権のもとで初の普通選挙制衆議院選挙が行われた。その結果、466議席のうち、政友会217、民政党218、新たに無産政党系からは計8名が当選した。選挙中、政府は露骨に野党候補を妨害したが、結果的に与党政友会は過半数を得られず、しかもキャスティング・ボードは新参の無産政党に握られる形になった。
第一次世界大戦末期ロシアで共産主義ソビエト政権が成立し、国際共産主義拡大の機運が高まる中、普通選挙法下の衆議院選挙でも無産政党の進出が懸念された。そのような危惧のもとに、普通選挙法を成立させた加藤内閣は、同時に治安維持法をも成立させた。
「国体を変革しおよび私有財産を否認せんとする」結社・運動を禁止する治安維持法では、共産主義者という疑いだけで個人を逮捕・投獄することが可能であった。最初の普通選挙後、社会主義的な政党(無産政党)の活動に危機感を抱いた田中義一内閣は、3月15日、治安維持法違反容疑により全国で一斉検挙を行い、非合法政党の日本共産党、労働農民党などの関係者約1600人が検挙された。(三・一五事件)
プロレタリア文学の作家、小林多喜二は、この三・一五事件を題材に『一九二八年三月十五日』を発表するも、発売禁止とされる。さらに多喜二は、代表作『蟹工船』などを発表して、プロレタリア文学の旗手として注目を集めたが、その後特高に狙われ治安維持法で逮捕された。『一九二八年』では、特別高等警察による苛酷な拷問の描写が話題になったが、皮肉にも自身がその特高の拷問で殺されることになったのであった。
4月になると、京都帝国大学の河上肇が、赤色教授として辞職を迫られ退職を余儀なくされる。さらに東京帝大の大森義太郎、九州帝大の石浜知行、向坂逸郎、佐々弘雄らの左翼系学者が、次々と大学を追われることになる。この種の思想弾圧は、軍国化が進むとさらに自由主義系思想にまで進んで行くことになる。
(この年の出来事)
*1928.4.18/ 京都帝大教授川上肇が赤色教授として辞職を迫られる。ほかにも、東京帝大の大森義太郎、九州帝大の向坂逸郎らも、同様に大学を追われる。
*1928.7.1/ 治安維持法の改正をうけて、内務省保安課が拡充強化され、未設置だった各県警察にも「特別高等科(特高)」が設置される。
*1928.9.-/ 英の細菌学者アレグザンダー・フレミングが、アオカビから細菌の繁殖を止める抗生物質「ペニシリン」を発見、結核など伝染病治療に画期的な効果をもたらす。
*1928.10.8/ 北伐に成功した蒋介石が、南京を首都とする国民政府の首席に就任する。
*1928.10.12/ 松竹楽劇部が設立され、第1期生として水の江滝子らが入部、浅草に本格的なレビューが誕生する。32年からは「松竹少女歌劇部(SSK)」となる。
*1928.11.10/ 新天皇裕仁(昭和天皇)の「即位の大礼」が、京都御所紫宸殿で行われる。
朴烈大逆事件
2020-10-13
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1926年(t15/s1)】
◎朴烈大逆事件
*1926.3.25/ 大審院が、朴烈・金子文子夫妻に大逆罪で死刑を宣告する。(4.5 無期懲役に減刑)(朴烈事件/朴烈・文子事件)
*1926.7.23/ 栃木刑務所で服役中の金子文子が、獄中で自殺する。
*1926.7.29/ 大逆罪で服役中の朴烈・金子文子夫妻が睦み合う怪写真が出回り、若槻内閣の責任が問われる。配布した北一輝が検挙される。
1923年9月1日関東大震災直後の混乱の下、流言飛語が飛び交う中で多くの朝鮮人が、民衆による私刑で殺されたとされる。また、戒厳令が敷かれた震災後の混乱に乗じて、憲兵大尉 甘粕正彦らによってアナーキスト大杉栄・伊藤野枝らが殺される事件(大杉事件)が起こされたりしたが、一方で朝鮮人の組織的暴動など懸念した官憲は、無政府主義者 朴烈(パク・ヨル/ぼく・れつ)とその愛人 金子文子を、治安警察法に基づく「予防検束」の名目で検挙した。
当初警察当局は、朝鮮民族主義と反日運動に拘わってきた朴が、朝鮮人暴動や爆弾テロを画策したとして逮捕したが、起訴段階で二人の容疑は皇室暗殺を計画したという「大逆罪」に切り替えられた。しかし実際にテロが画策された証拠はほとんどなく、大審院での朴と金子の証言や言動のみに基づいて有罪とされた。
事件は政治・警察的な思惑からでっち上げられた側面が多い。当初は、朝鮮人暴動計画があったということで、震災直後の朝鮮人殺害に対する批判への収拾策とする意図があったが、さらには、朝鮮独立運動家や社会主義者らへの威圧・弾圧を目的として、起訴容疑を大逆罪に切り替えられることとなった。
朴烈は、「朝鮮民族独立の英雄」としての名声を得て死ぬ事を良しとしたのか、積極的に大逆計画を認める証言をし、金子も皇室を狙ったような発言をしたため、1926年3月25日両者に死刑判決が下された。しかし続く4月5日には天皇の慈悲と言う名目で恩赦が出され、共に無期懲役に減刑された。しかし両人ともに特赦に激怒し、これを拒否する意志を表明したとされる。
判決後の7月22日、刑務所に拘置されていた金子文子は自殺(縊死)したと発表されたが、死亡の経緯は不明のままとなった。しかもその直後の7月29日、朴と文子が睦みあっている怪写真が報道関係に公開され、世論は騒然とわき立った。第1次若槻内閣の転覆を計画する北一輝の意向を受けて、西田税が入手・公開したものと言われるが、この写真が政争の具となり議会は空転した。しかし、写真の撮影時が加藤高明内閣時の1925年5月2日であったことなどが判明し、若槻内閣は倒閣を免れた。
無期懲役刑となった朴烈は、1945年の終戦を迎えるまで刑務所に収容され、解放後には、日本本土や独立後の韓国で政治活動に加わったが、朝鮮戦争中に北朝鮮軍に拘束されスパイ罪で処刑されたとされる。
金子文子の死後、救援活動をしていた人物の手元に残された文子の原稿などをまとめ、歌集と自伝が刊行されたが、歌集は発禁処分となった。その悲惨な成長期の境遇や、自力で学習し大正期日本の数少ない女性社会主義思想家として成長する姿など、社会思想家だけでなく女権拡張家などにも注目される存在となった。
(この年の出来事)
*1926.8.29/ スウェーデンでの第2回国際女子陸上競技会に単身参加した人見絹江が、個人総合で優勝する。
*1926.6.1/ アメリカ独立150周年を記念して、フィラデルフィアで壮大な万国博が開催され、7万台収容の広大な駐車場が自動車時代を象徴した。
*1926.6.10/ アール・ヌーボーの巨人アントニオ・ガウディ、建築中のサグラダ・ファミリアを残し死去する。
*1926.7.1/ 蒋介石ひきいる国民政府軍が、中国統一のため北伐を開始。
*1926.12.3/ 改造社が「現代日本文学全集」の刊行を開始。円本ブームおこる(1冊1円)。










