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【アーカイブ】】作戦・闘いへの導線の巻

【アーカイブス】作戦の記録

レイテの闘い

2020-09-16
帝国剣豪艦隊は壊滅、特攻が始まりました。
Facebook佐々木信雄さんのコメントです。
『Get Back! 40's / 1944年(s19)』
(レイテ沖海戦)
○10.20 [フィリピン] 米軍4個師団がレイテ島に上陸。24日レイテ沖海戦が始まり、25日に日本の連合艦隊は壊滅状態に陥る。
 「レイテ島の戦い」は、1944年(昭和19年)10月20日から戦われたフィリピン・レイテ島での攻防で、日本軍守備隊とアメリカ上陸部隊の激しい地上戦となった。10月20日、連合軍はレイテ島上陸に着手、20万以上の陸上部隊が投入され、数千の航空機と海上からは艦隊による火力がこれを支援した。
 フィリピン防衛を担当する第14方面軍司令官に着任後間もない山下奉文大将は、マニラのある比国の中心ルソン島に主力を集中した戦闘を考えていたが、大本営は連合軍が襲ったレイテ島に主力を移動して迎え撃つ命令を出した。同時に大本営は「捷号(しょうごう)作戦」を発動して、日本海軍が残存軍艦の総力をあげた艦隊を派遣し、アメリカ側も太平洋に展開する大半の軍事力を投じため、10月23日から25日にかけて、史上最大の海戦と言われる「レイテ沖海戦」が戦われた。
 日本海軍はマリアナ沖海戦で空母部隊が壊滅していたが、戦艦大和、武蔵という超巨大戦艦姉妹艦を投入して背水の陣をしき、はじめて神風特別攻撃隊による攻撃を行うなど総力を投入したが、武蔵が撃沈されるなど多大な艦隊戦力を失い、この海戦での敗北を最後に日本軍艦隊は事実上壊滅し、以後大規模かつ組織的活動が不可能となった。
 その直前の台湾沖航空戦やレイテ沖海戦では、現地からの大戦果の誤報や過大報告が相次ぎ、それを信じた大本営は戦況を読み誤った。フィリピン現地の山下大将の状況把握を無視して、レイテ島への主力陸上部隊の移転を命じたが、移送中に大損害を受け補給もままならず、戦闘以前に溺死餓死などで多くの死者を出すことになった。約2ヶ月の戦闘でレイテ島の日本軍は敗北し、大半の将兵が戦死する結果となった。そしてこのレイテ島戦は、翌年8月の終戦まで続く「フィリピンの戦い」の大方の帰趨を決する戦闘となった。
 南西太平洋方面の連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは、フィリピンの奪回作戦に執念をもやした。なにより、フィリピンを支配する在マニラ・アメリカ極東陸軍の司令官であったとき、日本軍に追い詰められ豪州に脱出、" I shall return " と負け惜しみを言うしかない屈辱を味わった地である。さらに事実上のフィリピン総督として、農園を持つなど個人的に多くの資産を形成していた。
 アメリカ参謀本部では、フィリピンを飛ばして台湾や沖縄に侵攻する案が強く、フィリピン奪還は戦略上必要なしとの判断であった。しかしマッカーサーは、「フィリピン国民との約束」の履行を理由に、フィリピン作戦を強引に主張した。マッカーサーは、フィリピンからの「敵前逃亡」("I shall return"は兵士間ではこの意味だった)を行った汚名をそそぐことと、多くの利権を持っていたフィリピンにおける利権の回復という、個人的な理由を優先させた。
 また、ルーズベルト(民主党)は大統領選を控えており、国民的人気のマッカーサー(共和党)が対抗馬になるのを恐れて、マッカーサーに手柄を立てさせないように仕組んできていたが、彼が大統領選に出る気がないという言動をしたため、その要求をしぶしぶ呑んだとも言われている。膝まで海に浸かってレイテ上陸を果たすマッカーサーの写真は有名だが、実際の場にカメラマンが居ず、あらためて場を設定して撮り直させたものだという(笑)
*この年
戦況に関する流言・噂・落書が急増/食料欠乏でのら犬が野生化/学童疎開の食糧不足が深刻化、お手玉の小豆も食用に
【事物】鉄道パン/国民酒場/人間魚雷(海軍)/糞尿電車/松根油
【流行語】鬼畜米英/一億国民総武装/代用食/大和一致/進め一億火の玉だ
【歌】同期の桜/ラバウル小唄/ラバウル海軍航空隊(灰田勝彦)/あゝ紅の血は燃ゆる(安西愛子)
【映画】あの旗を撃て(阿部豊)/加藤隼戦闘隊(山本嘉次郎)/五重塔(五所平之助)/陸軍(木下恵介)
【本】太宰治「津軽」/中村汀女「汀女句集」/竹内好「魯迅」/家永三郎「日本思想史における宗教的自然館の展開」

(太平洋戦局の転換)

2020-09-07
Facebook佐々木信雄さんのコメント
『Get Back! 40's / 1942年(s17)』
(太平洋戦局の転換)
○5.7 [南部太平洋] ニューギニア珊瑚海海戦
○6.5 [中部太平洋] ミッドウェー海戦
○8.7 [南部太平洋] ソロモン海戦・ガダルカナル島の戦い
 1942年5月8日、ニューギニア東南海域の珊瑚海で、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍を主力とする連合国軍の空母部隊が交戦し、史上初の航空母艦同士の決戦となった。この海戦は空母艦載機による戦いとなり、両艦隊は互いに相手の艦を視界内に入れないで行われた史上最初の海戦でもあった。
 双方の損害はともに、空母1隻沈没・1隻大破でぼぼ対等であったが、総合戦力の劣る日本軍には相対的に大きなダメージであり、目標としたニューギニアの拠点ポートモレスビーの攻略作戦に海軍の支援が不可能になった。開戦以来連戦連勝を続けた日本軍は、この海戦で初めて進攻を阻まれる。
 珊瑚海海戦の海軍は、陸軍のポートモレスビー攻略作戦の補助の役割であり、しかも枝葉とされた第五航空戦隊が珊瑚海海戦で健闘したことは、むしろ真珠湾攻撃以来、一方的な勝利を収めてきた主力機動部隊である第一航空艦隊の第一、第二航空戦隊にとっては自信を深めさせた。しかも陸軍は中国大陸を最重要視し、しかもニューギニアでも無謀な陸路攻略戦で難航していた。
 そこで、陸軍の協力を宛にしないでできる海軍独自の作戦として、海軍はハワイに近い中部太平洋のミッドウェー島攻略作戦に全力を集中する作戦を立てた。連合艦隊司令長官山本五十六は、真珠湾奇襲で米の戦意をそぎ早期和平に持ち込む計画であったが、意図どおりには進まず、米海軍力の回復をおそれた。そこで海軍主力を集中して、ハワイ攻略作戦を大前提として、その布石でハワイの一歩手前にあるミッドウェー島攻略を企図した。
 ミッドウェーはアウェーの戦いであり、長期戦をさけ、米主力艦隊の空母機動部隊を誘い出して殲滅する作戦であった。ミッドウェー海戦は、第二次世界大戦中の1942年6月5日から7日にかけて、ミッドウェー島の攻略をめざす日本海軍をアメリカ海軍が迎え撃つ形で戦われた。日本海軍の機動部隊と米国の機動部隊及びミッドウェー島基地航空部隊との航空戦の結果、日本海軍は機動部隊の航空母艦4隻とその艦載機を多数一挙に喪失する大損害を被り、この戦争における主導権を失うことになる。
 本来、大本営の軍令部は、ニューギニアのポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)とニューカレドニア・フィジー・サモアの攻略作戦(FS作戦)によって、アメリカとオーストリアの分断を考えていたが、海軍連合艦隊の早期決着のミッドウェー作戦に折れた形になった。だが、そのミッドウェーの大敗北により、海軍力の大打撃でFS作戦は中止となった。
 しかし日本軍は、ラバウル以南に前身航空基地を創設して米豪分断をめざし、ガダルカナル島に飛行場を建設してソロモン海域の制空権を確保しようと考えた。一方、アメリカ軍統合参謀本部はミッドウェーの勝利を踏まえて、第1段対日反抗作戦「ウォッチタワー作戦(望楼作戦)」を開始し、日本軍が飛行場を建設中のガダルカナル島攻略でその戦端をきった。
 8月7日、米海兵隊を主力とし豪軍の支援を受けた海兵隊員が、艦砲射撃と航空機の支援の下で上陸を開始し、連合軍の攻撃は完全な奇襲となった。奇襲を知った日本海軍は、援軍の艦隊を送り、数次にわたつて「ソロモン海戦」が戦われるとともに、陸上では半年にわたる壮絶な消耗戦が行われた。最終的に12月31日の御前会議において撤退が決定されたにもかかわらず、さらに1ヶ月を経た1943年2月1日からやっと撤退作戦が行われた。
 いわゆる「大本営発表」という粉飾戦果は、初めての劣勢戦闘となった珊瑚海海戦に始まり、大敗ごとに誇大になってゆき、このときのガダルカナル撤退では「転進」と公表された。転進とされたものの、大半の兵士は南方戦線に残されたままで、ガダルカナル島の最後の日本兵が投降したのは、戦後の1947年であったという。
*この年
労働者の欠勤・怠業、徴用工の闘争などが多発/ゲートル巻が日常化/バケツリレーの訓練盛ん
【事物】女子の一日入営/本土空襲/割増金付き「債券弾丸切手」
【流行語】欲しがりません勝つまでは/少国民/非国民/敵性語
【歌】空の神兵(鳴海信輔・四家文子)/明日はお発ちか(小唄勝太郎)/新雪(灰田勝彦)/南の花嫁さん(高峰三枝子)
【映画】父ありき(小津安二郎)/マレー戦記(陸軍省監修記録映画、観客訳600万人)
【本】ヒトラー著・真鍋良一訳「我が闘争」/小林秀雄「無常といふ事」/富田常雄「姿三四郎

最低・最悪の作戦、インパール作戦

2020-09-14
Facebook佐々木信雄さんのコメント
『Get Back! 40's / 1944年(s19)』
(インパール作戦) 
○3.8 [インド・ミャンマー] ビルマ(ミャンマー)の日本軍がインパール作戦を開始する。
○7.2 [インド・ミャンマー] 大本営がインパール作戦の中止を命令する。
 1944年(昭和19年)3月、日本軍は、インド北東部の都市インパールを攻略する作戦を開始した。連合軍の反攻の食い止めを目指し、中国国民党政府への援助(援蒋ルート)の遮断を戦略目的とした。しかし、補給線を軽視した杜撰な作戦により多くの犠牲を出し、無謀な作戦の代名詞ともなっている。
 「牟田口廉也」中将を総司令官とし、第15軍隷下3個師団を主力とする日本軍は、補給増援がままならない中で作戦を開始するが、ビルマ・インド国境間には100km以上にわたって、ジャングル・2000m級の山地・数本の急流が横たわっていた。1個師団がインパール北方のコヒマを目指し、残り2個師団が東、南東、南の3方向よりインパールを目指した。
 牟田口司令官が考案した補給不足打開作戦は、牛・山羊などの「駄牛中隊」を編成し、必要に応じてそれを食料に転用する「ジンギスカン作戦」というものであったが、牛や山羊は急流渡河時に多くが流され、さらに行く手を阻むジャングルや急峻な山地で、兵士の口に入る前にほとんどが失われた。そして人力で運ぶしかなくなった重砲・重火器は、行く手の険しい地形に阻まれるなど、前線で敵軍と向かい合う前に、ほとんどの戦闘力を消耗している始末だった。
 迎え撃つイギリス軍が採用した円筒陣地は、外周を重火器で防備し、包囲されても輸送機から補給物資を空中投下して支える態勢で、頑強な防備をほこった。最前線の日本兵は、空腹のうえ軽装備だったためまったく歯が立たず、これを「蜂の巣陣地」と呼んだ。さらに、飢えた日本兵は、敵軍輸送機の投下した食糧物資を奪うための決死隊を組み、これで飢えをしのいで「チャーチル給与」と呼ぶありさまだった。
 インパール作戦は、当初から無謀な作戦であるとの反対が多かったにもかかわらず、牟田口軍司令官によって強引に進められとされる。司令部に要請した支援もなく、前線部隊の自壊の危機に瀕した第31師団長佐藤幸徳陸軍中将は、後方司令部で作戦継続を厳命する牟田口司令官の命令を拒否、独断で撤退する。この抗命事件は牟田口の逆鱗に触れ、佐藤師団長を更迭する。同様に他の2師団長も更迭、主力3師団長の更迭の結果、第15軍は最早組織としての体を成さない状況に陥った。
 7月3日、やっとのことで作戦中止命令が下されたが、投入兵力8万6千人に対して、帰還時の兵力は僅か1万2千人に減少していたという。もはや撤退戦を維持する戦闘戦力もなく、事実上の壊走だった。退却路は戦線以上に悲惨であった。日本軍兵士達は飢えに苦しみ、陸と空からイギリス軍の攻撃を受け、衰弱してマラリアや赤痢に罹患し、次々と脱落してゆき放置された。延々と続く友軍の腐乱死体や白骨が横たわる退路を、日本兵は「白骨街道」などと呼んだという。
 インパール作戦の失敗後、日本陸軍はビルマ方面軍の高級指揮官・参謀長らの敗戦責任を問い、そのほとんどを更迭した。しかし軍法会議で責任を追及し事態を解明することなく、多くは予備役投入などでお茶を濁した。責を問う軍法会議が開催した場合、インパール作戦失敗の要因が明らかにされ、その責任追及が軍中枢に及ぶことを回避したためとも言われる。まさに『失敗の本質』が解明されることなく、同じ失敗が繰り返される構造を示したものとなった。
 牟田口廉也は、終戦直前に予備役中将として陸軍予科士官学校長に補され、同年8月に内地で敗戦を迎えた。A級戦犯に指名されるも不起訴になり、別の下級シンガポール軍事法廷に送致されて有罪とされるも、2年で釈放されている。戦後しばらくは公の場に顔を出さず反省の意を示していたが、ほとぼりが冷めると、戦時中と同様に「自分のせいではなく、部下の無能さのせい」と自説を繰り返したという。
 結果的に負け戦の将だったため、敵兵や現地住民を殺したり残虐行為をはたらく機会が少なかったのが幸いし、敵国やGHQの手で戦犯として問われた罪は軽かった。しかしながら、下級参謀だった辻正信などと同様、多数の日本人兵士を死地に追いやった罪は、ついに日本国民自身の手で問われることはなかった。
*この年
戦況に関する流言・噂・落書が急増/食料欠乏でのら犬が野生化/学童疎開の食糧不足が深刻化、お手玉の小豆も食用に
【事物】鉄道パン/国民酒場/人間魚雷(海軍)/糞尿電車/松根油
【流行語】鬼畜米英/一億国民総武装/代用食/大和一致/進め一億火の玉だ
【歌】同期の桜/ラバウル小唄/ラバウル海軍航空隊(灰田勝彦)/あゝ紅の血は燃ゆる(安西愛子)
【映画】あの旗を撃て(阿部豊)/加藤隼戦闘隊(山本嘉次郎)/五重塔(五所平之助)/陸軍(木下恵介)
【本】太宰治「津軽」/中村汀女「汀女句集」/竹内好「魯迅」/家永三郎「日本思想史における宗教的自然館の展開」
日本軍の愚将牟田口廉也の生涯
牟田口廉也の戦後『僕は間違っていなかった』

『Get Back! 40's / 1940年(s15)』 (日独伊三国同盟)

2020-09-07
Facebook佐々木信雄さんコメント
『Get Back! 40's / 1940年(s15)』
(日独伊三国同盟)
○9.27 [ベルリン] 日独伊三国同盟が調印される。
 1940年(昭和15年)9月27日、日本・ドイツ・イタリアの間で「日独伊三国間条約」が締結された。いわゆる「日独伊三国同盟」の成立であり、第二次世界大戦における枢軸国の中心軸が姿を現した。すでに1937年に「日独伊防共協定」が結ばれていたが、これは「防共」すなわちソ連共産主義の拡張を防ぐという建前であった。三国同盟では曖昧だった協力関係を明確にし、第三国からの攻撃に対しては相互に援助するという取り決めがなされた。
 しかし三国間には、同盟に関する微妙な利害の食い違いが存在した。「防共協定」では、日本は満州国北方で対峙するソ連の脅威を抑止するのが狙いだったが、ドイツはソ連軍を東西に分散させ、ドイツ東部方面の脅威を削ぐ意図を持っていた。しかしその後、ドイツが一方的に「独ソ不可侵条約」を結ぶと防共協定は意味を失う。
 直後にドイツがポーランド侵攻を開始し第二次大戦が勃発すると、独ソでポーランドを分割したあと、ドイツは取って返してベネルックス三国からフランス侵略を進めた。ヒットラーはさらに独ソ不可侵条約を破棄してソ連侵攻、さらには英国にまで視野を向けていた。そのためには、日本をソ連と東部で戦端を開かせ、英米とも対立して牽制させる意図があった。
 日本では海軍を中心に、三国同盟に反対する意見も多かったが、ナチスドイツがフランスを陥落させると、同盟の締結論が再び盛り上がってきた。陸軍では「バスに乗り遅れるな」と南方進出の「南進論」が勢力を増していたが、それは英米との対立を深めることになり、その英米を牽制するためにも三国同盟が必要とされるようになった。
 日独伊三国は、英仏など先発国に比して植民地獲得競争に出遅れており、植民地拡大に乗り出すと必然的に英仏の利益とぶつかるという共通の利害状況をもっていた。しかし枢軸3国が統一した戦略で連合国側と対抗するということなどは無く、ドイツはヨーロッパ戦線、日本は中国及び南方戦線、イタリアは地中海から北アフリカと、それぞれの利益をめざして侵攻しただけであった。
 軍事・経済に劣るイタリアは早々と降伏し、ドイツはソ連と東部戦線で膠着状態となり、西部戦線に物量を誇る米が参戦すると、防御一方に追い込まれた。日本は南方戦線で英仏蘭などの一部植民地軍を一気に攻略するも、米との太平洋戦争での物量の戦いで敗色濃厚となる。日独伊が統一の戦略をもって世界戦を戦うなど、物理的に不可能な三国同盟であった。
 三国同盟条約の条文そのものも、決してそのような統一戦を想定したものではなく、条約加盟国が戦闘相手国以外の第三国から攻撃を受けた場合にのみ相互援助義務が生じるというものであった。独ソ戦が始まった時にも、日本にはそれに参戦する義務はなく、ドイツに呼応することなく中立を保った。また、日本が真珠湾攻撃によって米と開戦した時にも、ヒトラーとムッソリーニは参戦義務がなかったが、独自の判断で米への宣戦布告をした。
 その後、日独伊新軍事協定などによって同盟関係は強化されたが、合同幕僚長会議など緊密に連動戦略をとった連合国側に対し、枢軸国では戦略に対する協議はほとんど行われなかった。対ソ宣戦、対米宣戦の事前通知も行われず、とても一枚岩の同盟とは言えなかった。ヒットラーは黄色人種の日本を蔑んでおり、日本を自己の戦略に利用しようとしただけだと思われる。もとより同盟などというものは、そういう性質のものでではあるが。
*この年
工業労働力不足が深刻化する。農・商業からの転職急造/スポーツ用語の日本語化進む
【事物】アルミ貨10銭/国産カラーフィルム/愛国子供カルタ
【流行語】新体制/臣道実践/八紘一宇/一億一心/バスに乗りおくれるな
【歌】湖畔の宿(高峰三枝子)/蘇州夜曲(霧島昇・渡辺はま子)/月月火水木金金(内田栄一)
【映画】支那の夜(伏水修)/小島の春(豊田四郎)/民族の祭典(独)/駅馬車(米)
【本】織田作之助「夫婦善哉」(海風)/会津八一「鹿鳴集」/田中秀光「オリムポスの果実」

陸軍記念日

2025-01-08
【歴史的資料動画】陸軍郷土歩兵連隊 近衛歩兵第一連隊から松本歩兵第五十連隊まで
歩兵の本領
抜刀隊
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渥美清主演「拝啓天皇陛下様」予告編
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