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【アーカイブ】】作戦・闘いへの導線の巻

【アーカイブス】作戦の記録

軍靴の音が、帝都に響きました。

2020-10-22
昭和維新決行は、お上の激昂される事態となりました、
Facebook佐々木信雄さんの投稿

【20th Century Chronicle 1936年(s11)】

◎二・二六事件
*1936.2.26/ 陸軍皇道派青年将校が約1400名の兵を率い、首相・陸相官邸、内大臣私邸、警視庁、東京朝日新聞などを襲撃する。(2・26事件)
*1936.2.29/ 戒厳司令部がラジオで「兵に告ぐ」を放送、反乱事件が収束へ。
*1936.7.5/ 東京軍法会議で2・26事件に判決。17名に死刑、5名に無期禁固。12日、15名に死刑執行。
 

 1936(昭11)年2月26日未明、日本の陸軍皇道派の青年将校らは天皇親政を求めて、1400名にわたる下士官兵を率いて決起する。彼らが指揮する部隊は各方面を分担し、岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監、牧野伸顕前内大臣を襲撃、総理大臣官邸、警視庁、内務大臣官邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞社を占拠した。
 

 決起青年将校らは陸軍首脳に「昭和維新」の断行を迫り、天皇の承認を信じて陛下の御聖断を要請したが、側近らを襲撃され統帥権を犯された昭和天皇は激怒し武力鎮圧を命じた。政府は翌日27日未明に戒厳令を布告、蜂起部隊を反乱軍と規定し降伏を迫り、29日からは「兵に告ぐ」のラジオ放送を始め、アドバルーンや宣伝ビラを繰り出して帰順勧告が開始された。やがて投降が始まり、最強硬派安藤輝三大尉の自決未遂を最後に全員投降、4日間に及んだ反乱クーデターは鎮圧された。
 

 事件の背景には、統制経済による高度国防国家への改造を計画した陸軍の中央幕僚たち(統制派)と、政財界の堕落した特権階級を排除し天皇親政の実現を図る革新派の青年将校ら(皇道派)の対立があったと言われる。これには、陸大卒の軍幕僚キャリア組と、士官学校から下士官というノンキャリア組の対立構造を見ることもできる。
 

 陸軍中枢は、皇軍派青年将校の動きを危険思想として監視させており、1934(昭9)年11月、クーデタ-を企図したとして皇道派の村中孝次大尉や磯部浅一主計を逮捕した(陸軍士官学校事件)。さらに翌年7月、皇道派がリーダーとする真崎甚三郎教育総監が罷免され、皇道派と統制派との反目は度を深めた。これらの遺恨から、統制派の中心人物とされた永田鉄山陸軍省軍務局長が皇道派の相沢三郎中佐に斬殺される事件が起こる(相沢事件)。
 

 これらの事件を受け、皇道派排除の流れに危機を感じる青年将校らは、「蹶起趣意書」をしたためクーデターを実行しようとするが、そのリーダーとなると特定しがたい。士官学校事件で軍現役から排除された村中や磯部は、真崎甚三郎大将や川島陸軍大臣を訪れ担ぎ出すことを意図したが、ともに言を左右して曖昧な態度を示した。
 

 青年将校らが属する東京の師団歩兵部隊第1師団の満州への派遣が決まると、青年将校らは決起すべきタイミングが来たと考えた。彼らの思想的指導者とされる北一輝や西田税も、時期尚早と考えていたようであり、実際に決起した将校の中には、彼らの思想的影響を受けたものは意外に少なかったとされる。結局、村中や磯部が、現役である野中四郎大尉、安藤輝三大尉、栗原安秀中尉などと申し合わせて決行したことになる。
 

 思想的深まりもなく、事後の明確な運営方針もなく、全体を統率するリーダーもなく、一時の心意気と義憤だけに突き動かされた「維新」などは成功するべくもなく、昭和天皇の怒りのもとに鎮圧された。非公開・弁護人なし・上告なしの特設軍法会議において、わずか約2ヵ月の審理で主謀者の安藤輝三、栗原安秀、村中孝次、磯部浅一ら青年将校17名に死刑の判決、民間の北一輝とその弟子西田税らは別の裁判で翌年に死刑が宣告された。
 

 その後、粛軍の名のもとに皇道派を蹴落とし主導権を握った統制派は、永田鉄山亡き後の統制派を牛耳った東条英機に率いられ、日中戦争を開始し、日本はファシズムへの道を本格的にたどることになった。
 

(この年の出来事)
*1936.2.5/ 全日本職業野球連盟が結成され、東京巨人軍など7チームが加盟する。 
*1936.3.9/ 広田弘毅内閣が、陸軍の介入で難航の末に成立。
*1936.5.18/ 内閣が陸・海軍大臣現役武官制を復活、これにより陸・海軍の意向で組閣が難航する。
*1936.11.7/ 帝国議会議事堂(現国会議事堂)が落成する。

硫黄島の戦い

2020-09-17
『Get Back! 40's / 1945年(s20)』
(硫黄島陥落)
○2.4 ヤルタ会談 / Fルーズベルト(米)・チャーチル(英)・スターリン(ソ)。
○2.16 [小笠原諸島] 米艦隊が硫黄島に徹底攻撃を開始。3月25日、日本軍守備隊が玉砕する。
 1944年8月グアム島をほぼ制圧し、同年12月にフィリピンのレイテ島を陥落させた連合国軍は、日本本土への攻撃拠点として、小笠原諸島南端に位置する火山島「硫黄島」に戦略目標を定めた。硫黄島の攻略は、沖縄上陸および日本本土戦略爆撃が実現可能となる重要なステップとされた。
 1945年2月16日、アメリカ海兵隊の硫黄島強襲が艦載機と艦艇の砲撃支援のもと開始された。前哨戦に続き、19日明け方から猛烈な艦砲射撃が始まり、さらに爆撃機および艦載機による銃爆撃が続くと、午前9時、第1波が上陸を開始して、本格的な上陸戦が展開された。水際での日本軍の抵抗は少なく、海兵隊は円滑に上陸し前進したが、日本軍は地下坑道に潜み艦砲射撃に耐えて、10時過ぎになってから一斉攻撃を開始、海兵隊の先頭へ集中攻撃を浴びせた。
 19日だけで米海兵隊は500名以上の戦死者を出したが、夕方までには圧倒的な兵力で海岸堡を築き東海岸線への上陸を果たした。翌20日以降、島南端にある摺鉢山の要塞と、島中央北部の飛行場のある元山方面とに分かれて侵攻開始したが、摺鉢山の戦いは熾烈を極めた。張り巡らした地下坑道に潜伏し、ゲリラ的に反撃を加える日本軍に対し、米軍は坑道入り口から火炎放射器を浴びせたり、入り口をブルドーザでふさぎ上部に開けた穴からガソリンを流し込み焼き尽くす「馬乗り攻撃(日本兵側の呼称)」などで、逐一つぶしていった。
 23日午前、アメリカ軍は攻撃開始後7日目にしてようやく擂鉢山を制圧し、山頂に到達した海兵師団兵士が付近で拾った鉄パイプを旗竿にして星条旗を掲揚した。しかしその星条旗はみすぼらしくその場面を確認した者も少なかったので、あらためて別の兵士たちによって大きな星条旗を掲揚するシーンを、従軍専属カメラマンに撮らせたものが有名な「硫黄島の星条旗」として残された。その写真をもとにして、アーリントン国立墓地の近くの「合衆国海兵隊戦争記念碑」は作成されている。
 栗林忠道陸軍中将指揮下の守備軍は、3月5日戦線縮小を決定し拠点を島の中央部から北部へ移したが、7日、米海兵師団は奇襲を断行し中央突破、日本軍を島の北部と東部に分断した。この日、栗林中将は最後の戦訓電報(戦闘状況を大本営に報告する一連の電報)を発する。戦訓電報は、戦況を分析し、のちの作戦立案などに生かすため参謀本部に送るものであるが、栗林は恩師にあたる蓮沼蕃侍従武官長にも宛てている。この電文は客観的合理的な提言であるが、参謀本部に握りつぶされることを危惧したためと言われる。
 栗林中将は無意味なバンザイ攻撃を許さず、最後まで可能な限り組織的攻撃をすべしと命じた。しかしいよいよ追い詰められると、16日栗林中将は大本営へ訣別電報を送った。17日、大本営はその多大な功績を認め日本軍最年少の大将に昇進させるが、栗林は同日に、最後の総攻撃を企図し各部隊へ最後の指令を送った。
 しかし出撃の機会が見つけられず転進したのち、26日栗林大将は最後の反攻を敢行する。栗林大将以下、残された約400名の将兵はアメリカ軍陣地へ攻撃をかけたが、この最後の攻撃は決して万歳突撃ではなく、最大限の打撃をあたえる決死の夜襲であった。攻撃を受けたアメリカ陸軍航空軍の野営地は混乱に陥り、200名以上の死傷者を出したとされる。
 また、予科練育ての親とも言われた市丸利之助海軍少将は、途中から合流し総攻撃に加わったが、遺書として米大統領フランクリン・ルーズベルトに宛てた「ルーズベルトニ与フル書」をしたため、英訳させたものとを部下とともに懐中して戦死した。米軍が将校の遺体を検査することを見越して携行したもので、目論見どおりアメリカ軍の手に渡り、アメリカの新聞にも掲載された。それは、日米戦争の責任の一端をアメリカにあるとし、ファシズムの打倒を掲げつつ共産主義ソ連と連携する連合国の大義名分の矛盾を突くものであった。
 末期的な前線における栗林中将や市丸少将の冷静な論述は、国民に知らされることなく、大本営は3月21日、硫黄島守備隊の玉砕を発表した。「コノ硫黄島守備隊ノ玉砕ヲ、一億国民ハ模範トスヘシ。」・・・栗林や市丸の理知的な思考を、参考にさえできなかったのは誰なのか。
 日本軍には増援や救援の具体的な計画はもとよりなく、硫黄島守備兵力2万名はほぼ玉砕戦死。一方、アメリカ軍の戦死・戦傷は3万近くにおよび、太平洋戦争後期の上陸戦でのアメリカ軍の被害が日本軍を上回った稀有な戦いであった。また、硫黄島上陸とほぼ同時に始められた、対ドイツのノルマンディー上陸作戦における戦死傷者数を上回るなど、第二次世界大戦屈指の最激戦として米国でも認識されている。
*硫黄島の戦いは日米双方の映画・テレビのドラマで取上げられている。クリント・イーストウッド監督は、日米双方の視点から連作として描いた。
『父親たちの星条旗』(2006年アメリカ、監督:クリント・イーストウッド、主演:ライアン・フィリップ) https://www.youtube.com/watch?v=WQfpHrHx_Oc
『硫黄島からの手紙』(2006年アメリカ、監督:クリント・イーストウッド、主演:渡辺謙) https://www.youtube.com/watch?v=0x54bOTdJA0
*この年
戦災による文化財の被害甚大/メチルアルコール中毒の死亡者続出/日本人の平均寿命は男23.9歳、女37.5歳/第1回宝くじ売り出し
【事物】国産ジェットエンジン/ズルチン(砂糖の代用)/輪タク
【流行語】神州不滅/虚脱状態/ピカドン(原爆)/1億総懺悔/たけのこ生活
【歌】お山の杉の子(安西愛子ほか)/リンゴの歌(並木路子)
【映画】勝利の日まで(成瀬巳喜男)/そよ風(佐々木康)/ユーコンの叫び(米・戦後初の洋画)
【本】太宰治「お伽草紙」/火野葦平「陸軍」「悲しき兵隊」/誠文堂新光社「日米会話手帳」(360万部売上)

D-day

2020-09-16
6.6 [フランス] 連合軍が北仏海岸のノルマンジー上陸を開始する。
『Get Back! 40's / 1944年(s19)』
(ノルマンジー上陸作戦)
○6.6 [フランス] 連合軍が北仏海岸のノルマンジー上陸を開始する。(第2戦線を構築)
 ノルマンディー上陸作戦は、第二次世界大戦中の1944年6月6日に連合軍によって行われた。ドイツ占領下の北フランス海岸への上陸侵攻作戦で、正式作戦名は「ネプチューン作戦」。なお、上陸からパリ解放までの作戦全体は「オーバーロード作戦」とされ、本作戦で用いられた「D-デイ」は作戦決行日6月6日を表す。ノルマンディー上陸作戦は、ドイツに占領されたフランス側に西部戦線を構築することで、ソ連による東部戦線とともにベルリンを挟撃するという、ヨーロッパ戦線の決定的転機となった作戦であった。
 東部戦線では1943年、スターリングラード攻防戦で、ソ連軍がかろうじてドイツ軍をくい止めて反転攻勢に出るところであった。英米を主とする連合国軍は、フランスが占領されて消滅していた西部戦線を再構築して、東西からドイツを挟撃する必要に迫られていた。パリを奪回するには、イギリスから北フランスに上陸作戦をとるしかなく、多大な犠牲をともなうこの作戦は、何度も計画されたが実行する機が熟せず、いよいよソ連軍が反抗攻勢に出るこの機会を逃すわけにはいかなかった。
 英国からドーバー海峡をはさんで対岸のカレーは、最短距離でもっとも予想される上陸地点であった。独軍も諜報をめぐらせ、時期が迫った上陸作戦地点を必死で探っており、連合国はカレーを思わせるような偽装作戦を仕掛けていた。ヒトラーは連合軍フランス侵攻が迫っていると考え、北アフリカ戦線で戦車隊を指揮し「砂漠の狐」と恐れられたエルヴィン・ロンメル陸軍元帥を、フランス北部防御部隊の司令官に任命した。
 国防軍最高司令部は上陸先をカレーと考えたため、ロンメルが連合軍が上陸すると想定していたノルマンジー海岸の防備は遅れていた。ロンメルは、連合軍の圧倒的な航空勢力のもとでは内陸での機動部隊の展開は不利と考え、水際で徹底的に殲滅することが必須と考えていた。しかし西方総軍総司令官ルントシュテットは、連合軍を上陸させた後に装甲師団で叩く戦術を主張し対立した。結果、折衷案で海岸線と内陸部に機甲師団を均等に配置されることになった。
 計画通り「D-Day」の1944年6月6日、連合軍のノルマンディー上陸作戦が敢行される。雨季に上陸する可能性は低いと考えられていたため、ロンメルは妻の誕生日を祝うためにベルリンで休暇を取っていた。このためロンメルは軍団を指揮することが出来ず、ロンメルが危惧した連合軍の制空権下で、ルントシュテット作戦下の内陸部の装甲師団の行動は制約され、有効な反撃が出来なかった。
 連合国の上陸作戦大軍は、イギリスのモントゴメリー将軍の総指揮の下、ユタ・オマハ・ゴールド・ジュノー・ソードの上陸海岸ごとに5つの管区に分けられており、航空機の爆撃・艦船からの艦砲射撃・空挺部隊降下の支援の下、水陸両用戦車を配備した第一次上陸隊が橋頭堡を確保し、第二次上陸隊以降が突破口を広げる計画が立てられていた。そして1944年6月6日、5つの管区で一斉に上陸を開始し、オマハ以外では犠牲を少数にとどめ上陸を果たした。
 米第1歩兵師団が担当したオマハ・ビーチにおいては、最悪の苦難を経験した。いくつかの予想外の出来事とともに、ドイツ側の守備隊は予想された二線級の歩兵師団ではなく、東部戦線で激戦の経験を持つ第352歩兵師団が、事前にロンメルにより移動配置されていた。上陸部隊の第一波は独軍守備隊の抵抗で海岸へ釘付けとなり、そこへ第二波以降の部隊が次々に詰め掛け、海岸線はパニックに陥った。上陸部隊の死傷者の割合はほぼ50%だったとされ、「ブラディ(血まみれの)オマハ」と呼ばれる惨状であった。
 ノルマンジー上陸作戦の成功は、言うまでもなくヨーロッパ戦線の帰趨を定める大作戦であった。ナチスドイツは、東西からの挟撃を受け、翌年5月に無条件降伏する。この作戦は、映画・テレビなどで何度も取上げられている。
*『史上最大の作戦』(The longest day/1962/米映画):ジョン・ウェイン、ロバート・ミッチャム、ヘンリー・フォンダなど英米独の豪華キャストによる超大作。 https://www.youtube.com/watch?v=Aar1gnR498g
*『プライベート・ライアン』(Saving Private Ryan/1998/米映画):監督スティーヴン・スピルバーグ、主演トム・ハンクスで、ノルマンディー上陸作戦を舞台に、一人の兵士「ライアン」の救出に向かう兵隊たちのストーリー。救出されるライアンはマット・デイモン。 
*『バンド・オブ・ブラザース』(Band of Brothers/2001/米):スティーヴン・スピルバーグ、トム・ハンクスによるテレビ・ノンフィクションシリーズ。 https://www.youtube.com/watch?v=CQs2Y9nQH2s
*この年
戦況に関する流言・噂・落書が急増/食料欠乏でのら犬が野生化/学童疎開の食糧不足が深刻化、お手玉の小豆も食用に
【事物】鉄道パン/国民酒場/人間魚雷(海軍)/糞尿電車/松根油
【流行語】鬼畜米英/一億国民総武装/代用食/大和一致/進め一億火の玉だ
【歌】同期の桜/ラバウル小唄/ラバウル海軍航空隊(灰田勝彦)/あゝ紅の血は燃ゆる(安西愛子)
【映画】あの旗を撃て(阿部豊)/加藤隼戦闘隊(山本嘉次郎)/五重塔(五所平之助)/陸軍(木下恵介)
【本】太宰治「津軽」/中村汀女「汀女句集」/竹内好「魯迅」/家永三郎「日本思想史における宗教的自然館の展開」

壊滅です。

2020-11-01
レイテの戦い
弩級戦艦武蔵、沈没いたしました。
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1944年(s19)】
◎レイテ沖海戦
*1944.10.20/ 米軍4個師団がフィリピンのレイテ島に上陸。24日レイテ沖海戦が始まり、25日に日本の連合艦隊は壊滅状態に陥る。
 「レイテ島の戦い」は、1944(昭19)年10月20日から戦われたフィリピン・レイテ島での攻防で、日本軍守備隊とアメリカ上陸部隊の激しい地上戦となった。10月20日、連合軍はレイテ島上陸に着手、20万以上の陸上部隊が投入され、数千の航空機と海上からは艦隊による火力がこれを支援した。
 フィリピン防衛を担当する第14方面軍司令官に着任後間もない山下奉文大将は、マニラのある比国の中心ルソン島に主力を集中した戦闘を考えていたが、大本営は連合軍が襲ったレイテ島に主力を移動して迎え撃つ命令を出した。同時に大本営は「捷号(しょうごう)作戦」を発動して、日本海軍が残存軍艦の総力をあげた艦隊を派遣し、アメリカ側も太平洋に展開する大半の軍事力を投じため、10月23日から25日にかけて、史上最大の海戦と言われる「レイテ沖海戦」が戦われた。
 日本海軍はマリアナ沖海戦で空母部隊が壊滅していたが、戦艦大和、武蔵という超巨大戦艦姉妹艦を投入して背水の陣をしき、はじめて「神風特別攻撃隊」による攻撃を行うなど総力を投入したが、武蔵が撃沈されるなど多大な艦隊戦力を失い、この海戦での敗北を最後に日本軍艦隊は事実上壊滅し、以後大規模かつ組織的活動が不可能となった。
 その直前の台湾沖航空戦やレイテ沖海戦では、現地からの大戦果の誤報や過大報告が相次ぎ、それを信じた大本営は戦況を読み誤った。フィリピン現地の山下大将の状況把握を無視して、レイテ島への主力陸上部隊の移転を命じたが、移送中に大損害を受け補給もままならず、戦闘以前に溺死餓死などで多くの死者を出すことになった。約2ヵ月の戦闘でレイテ島の日本軍は敗北し、大半の将兵が戦死する結果となった。そしてこのレイテ島戦は、翌年8月の終戦まで続く「フィリピンの戦い」の大方の帰趨を決する戦闘となった。
 南西太平洋方面の連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは、フィリピンの奪回作戦に執念をもやした。なにより、フィリピンを支配する在マニラ・アメリカ極東陸軍の司令官であったとき、日本軍に追い詰められ豪州に脱出、" I shall return " と負け惜しみを言うしかない屈辱を味わった地である。さらに事実上のフィリピン総督として、農園を持つなど個人的に多くの資産を形成していた。
 アメリカ参謀本部では、フィリピンを飛ばして台湾や沖縄に侵攻する案が強く、フィリピン奪還は戦略上必要なしとの判断であった。しかしマッカーサーは、「フィリピン国民との約束」の履行を理由に、フィリピン作戦を強引に主張した。マッカーサーは、フィリピンからの「敵前逃亡」("I shall return"は兵士間ではこの意味だった)を行った汚名をそそぐことと、多くの利権を持っていたフィリピンにおける利権の回復という、個人的な理由を優先させた。
 また、ルーズベルト(民主党)は大統領選を控えており、国民的人気のマッカーサー(共和党)が対抗馬になるのを恐れて、マッカーサーに手柄を立てさせないように仕組んできていたが、彼が大統領選に出る気がないという言動をしたため、その要求をしぶしぶ呑んだとも言われている。膝まで海に浸かってレイテ上陸を果たすマッカーサーの写真は有名だが、実際の場にカメラマンが居ず、あらためて場を設定して撮り直させたものだという。
(この年の出来事)
*1944.1.29/ 中央公論社と改造社の編集者らが検挙され、以後、知識人・言論人などが続き30人以上に及ぶ。(横浜事件)
*1944.6.23/ 北海道の洞爺湖畔の平地で大噴火が発生、「昭和新山」が誕生する。
*1944.6.30/ 学童疎開が閣議決定され、8.4より学童集団疎開が始まる。
*1944.7.18/ マリアナ海戦敗北・サイパン陥落などで東条独裁体制に批判が集中、東条内閣が総辞職。7.22に小磯国昭内閣が成立。
*1944.8.25/ パリのドイツ軍が降伏、パリが解放される。
*1944.11.24/ マリアナ基地を飛び立ったB29爆撃機が、東京を初空襲する。
*1944.12.7/ 東海地方が大地震・津波に襲われ大被害を受ける。(東海大地震)

皇軍かく闘い、そして敗れました。

2020-09-16
『Get Back! 40's / 1944年(s19)』
【太平洋での連合軍攻勢】
 すでに1942年に始まった「ウォッチタワー作戦(望楼作戦)」によって、第一次の連合軍の反攻は始まっていた。中部太平洋方面はチェスター・ニミッツ大将、ニューギニアからフィリピンに及ぶ南西部太平洋方面はダグラス・マッカーサー大将が総指揮をとって、両方面の作戦は着々と進行した。作戦は第二段階に入り、フィリピン海諸島と本島の奪回、及び日本本土爆撃可能な太平洋南部諸島の占拠が次の目的となっていた。
(サイパン島陥落) 
○6.15 [中部太平洋] 米機動部隊がサイパン島に上陸を開始。19日、マリアナ沖海戦が始まる。7月7日、サイパン島の日本軍守備隊が玉砕、住民の死者も1万人を超す。
 各地で劣勢にまわりつつあった日本の陸海軍は、本土防衛のため及び戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である絶対国防圏を設定した。しかし1944年6月19日、最重要地点であったマリアナ諸島にアメリカ軍が来襲、日本海軍機動部隊は日本海軍史上最大規模の艦隊を編成し、米機動部隊を迎撃した(マリアナ沖海戦)。
 しかしアメリカ側は日本の倍近い勢力を投入し、航空機の質や防空システムでも遅れをとっていた日本機動部隊は、アメリカ海軍の圧倒的な機動部隊に惨敗を喫した。旗艦大鳳以下空母3隻、艦載機395機を失った日本の空母機動部隊は実質的に壊滅した。ただし戦艦部隊は無傷であったため、10月末のレイテ沖海戦では戦艦部隊を基軸とした艦隊が編成されることになる。
 陸上では、猛烈な艦砲射撃、航空支援を受けたアメリカ海兵隊の大部隊がマリアナ諸島に次々に上陸。1944年7月、サイパン島では3万の日本軍守備隊が全滅(サイパンの戦い)。8月にはテニアンの戦いによってテニアン島が、グアムの戦いによってグアム島が連合軍に占領された。アメリカ軍は日本軍が使用していた基地を即座に改修し、大型爆撃機の発着が可能な滑走路の建設を開始した。このことにより、日本列島のほぼ全土がB-29の爆撃可能圏内に入ることになった。
 サイパン島は、「絶対国防圏」の中核拠点とされていた。第一次世界大戦に連合国側で参戦した日本は,赤道以北のドイツ領南洋諸島全体を占領し、国際連盟委任統治領となり、サイパン島には南洋庁サイパン支庁が置かれた。1943年8月の時点では,3万人近くの日本人が居住し、うち戦闘員は1万前後とされた。島内には製糖所が設置され、日本本土への貴重な砂糖の供給地であり、また南東方面への補給中継基地であり、むしろ平和な南方植民地という風であった。
 チェスター・ニミッツ大将率いる連合国太平洋軍のサイパン攻略艦隊は、マジュロ環礁に集結していたが、大本営はアメリカ軍の攻略目標をマリアナとは予想しておらず、パラオ方面の防衛力を増強していた。6月11日、アメリカ軍艦載機1,100機によるサイパン島に対する奇襲的な空襲が行われ、同月13日からは戦艦8隻、巡洋艦11隻含む上陸船団を伴った艦隊がサイパン島に接近、砲弾合計18万発もの艦砲射撃が開始された。
 6月15日アメリカ軍は、上陸支援艦の支援射撃の下に、島南部の海岸から上陸作戦を実行した。日本軍は奮戦したものの、その結末は悲惨なものとなった。当初、楽勝すると安閑としていた大本営は、6月17日未明の日本軍総攻撃の失敗の報に接し、あわてて増援を派遣しようとするがままならず、近海でのマリアナ沖海戦では海軍力を壊滅的に失っており、サイパン奪回作戦の断念が決定された。6月24日には、サイパンは実質的に放棄が決定され、守備隊と残された住民の運命が決する事となった。
 サイパン最大の市街地ガラパンが占領されると、陸海軍合同司令部は島北部へ退却を続けつつ、7月7日をもって全軍で玉砕突撃とする事を決めた。そして7月7日、中部太平洋方面艦隊司令長官南雲中将は、第43師団長斎藤中将、第31軍参謀長井桁少将らの合同司令部指揮官と共に自決すると、残された日本兵士は、米軍が「バンザイ突撃」と名付けた白兵突撃が行われた。
 日本軍のバンザイ突撃を撃破したアメリカ軍は、翌7月8日より北端に向かって掃討作戦を開始した。日本軍は洞窟や草むらに潜み絶望的な抵抗を行ったが、アメリカ軍は火炎放射器と爆薬で容赦なく日本軍を殲滅しながら、前進し7月9日には日本軍と在留邦人を南端に追い詰めた。日本兵や在留邦人の多くは、自決したり、ガケや岸壁から身を投げた(バンザイクリフ/シューサイドクリフ)。
 さらに8月にはテニアン、グアム島が次々に連合軍に占領され、大型爆撃機の発着が可能な滑走路が建設されると、日本列島のほぼ全土がB-29の爆撃可能圏内に入り、本格的な日本本土への爆撃が開始された。
*この年
戦況に関する流言・噂・落書が急増/食料欠乏でのら犬が野生化/学童疎開の食糧不足が深刻化、お手玉の小豆も食用に
【事物】鉄道パン/国民酒場/人間魚雷(海軍)/糞尿電車/松根油
【流行語】鬼畜米英/一億国民総武装/代用食/大和一致/進め一億火の玉だ
【歌】同期の桜/ラバウル小唄/ラバウル海軍航空隊(灰田勝彦)/あゝ紅の血は燃ゆる(安西愛子)
【映画】あの旗を撃て(阿部豊)/加藤隼戦闘隊(山本嘉次郎)/五重塔(五所平之助)/陸軍(木下恵介)
【本】太宰治「津軽」/中村汀女「汀女句集」/竹内好「魯迅」/家永三郎「日本思想史における宗教的自然館の展開」
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