【アーカイブ】】作戦・闘いへの導線の巻
【アーカイブス】作戦の記録
昭和19年1月26日の本日、東京・名古屋で初の建物疎開。
2021-01-26
Facebook英霊の本日の出来事
昭和19年1月26日の本日、東京・名古屋で初の建物疎開。
日本において當時の人の多くは家屋疎開とも呼んでいた。
空襲により火災が發生した際に重要施設への延焼を防ぐ目的で、防火地帯(防空緑地・防空空地)を設ける為に、計画した防火帯にかかる建築物を撤去する事である。
跡地は、人々の避難先や復舊時のゴミ・資材置き場として役に立ったが、投下された焼夷弾の数が多量だったため、本来の目的である防火帯としての役割はあまり果たさなかったと言われている。
一部の地域では「爆弾が天井に引っ掛かるので、天井板は無くした方が良い」といった説が流れ、残された住宅の天井板だけを撤去する事も行われた。
都市空襲の場合、投下された焼夷弾が屋根を貫通した後に天井板で止まり發火する場合が多く、それを防ぐには有効であったと思われるが、工業地帯等に投下された爆弾の重量は平均500kg~1tであり、薄い木製の天井板の有無で影響を受けるとは考えられない。
建物疎開にあたっては、行政機關がその候補を選定し、選ばれた家屋はほぼ強制的に撤去されたため、當時は「強制疎開」とよばれた。
建物疎開は終戰直前まで行われており、本土決戰に備えて人口2万人以上の小都市でも実施され、全國で約61万戸の建物が除却された。
また、建物の除却には移転補償の給付がなされたが、敷地に關しては買収形態のものと借地形態のものの両方が存在した。
建物の取り壊し作業は軍が破壊作業を行った後に付近住民などが撤去作業を行うという手順が一般的であった。
瓦礫の撤去に携わったのは主に國民學校高等科(12歳~14歳)の生徒(授業の一環として取り入れられていた)や、女性を中心とした「勤労奉仕隊」、病気などで徴兵對象から除外されていた男性などであった。
廣島へ原爆が投下された當時も廣島市内では既に数千人の學童を含む人々が屋外で建物疎開の作業に従事していた。
當日も彼らは既に作業を始めており、炸裂した原爆による被害を受けることとなった。
建物疎開の後は戰後そのまま道路になった場合が多く、代表的な例では横浜市の根岸疎開道路(馬場町~原町間)など数か所、廣島市の平和大通り、京都市の御池通の左京區川端御池から中京区堀川御池間、大阪市道の上新庄生野線の東成區玉津3丁目から生野區林寺2丁目間、都市計画道路難波片江線の生野區鶴橋2丁目付近などがある。
特に横濱のそれらと大阪市道豊里矢田線は地元住民から「疎開道路」と呼ばれている。
(ウィキペディア参照。)
自殺的戦死 山本五十六海軍元帥(1884年4月4日~1943年4月18日ブーゲンビル島上空で戦死)
2021-01-25
闘いには、旗印が必要でした。
2021-01-23
Facebook英霊の本日の出来事より
明治7年1月23日の本日、明治天皇が新編の近衛歩兵第一・第二聯隊に軍旗を親授なさいました。
日本陸軍最初の歩兵聯隊は、明治7年1月20日西郷隆盛率いる御親兵を母體として誕生します。
この聯隊には大正・昭和の二代に亘る天皇が皇太子時代に、それぞれ聯隊付きとして在籍しました。
近衛歩兵第二聯隊は、近衛歩兵第一聯隊と同日に軍旗を親授された日本陸軍最古の歩兵聯隊です。
八甲田山の悲劇
2021-01-23
Facebook英霊の本日の出来事より
明治35年1月23日の本日、青森歩兵第五聯隊第二大隊が八甲田山で猛吹雪の為遭難しました。
八甲田雪中行軍遭難事件は、明治35年1月に日本陸軍第8師團の歩兵第5聯隊が青森市街から八甲田山の田代新湯に向かう雪中行軍の途中で遭難した事件。
訓練への参加者210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)するという日本の冬季軍事訓練における最も多くの死傷者が發生した事故であるとともに近代の登山史における世界最大級の山岳遭難事故です。
「雪中行軍」
日本陸軍は1894年(明治27年)の日清戰爭で冬季寒冷地での戰いに苦戰したため、さらなる厳寒地での戰いとなる對露西亜戰を想定し、それに向けて準備をしていた。日本陸軍にとって冬季訓練は喫緊の課題であった。
對露西亜戰は2年後の明治37年に日露戰爭として現実のものとなった。
雪中行軍には青森から歩兵第5聯隊210名が、弘前から歩兵第31聯隊37名と民間の新聞記者1名が参加した。
うち青森歩兵第5聯隊が遭難した。
―行軍の目的―
青森歩兵第5聯隊は露西亜軍の侵攻で青森の海岸沿いの列車が動かなくなった際に、冬場に「青森〜田代〜三本木〜八戸」のルートで、ソリを用いての物資の輸送が可能かどうかを調査することが主な目的であった。
このための中間段階として、道中最大の難所である青森~田代温泉間の雪中行軍演習が片道約20km、1月23日より1泊2日の豫定で計画された。
弘前歩兵第31聯隊の計画は「雪中行軍に關する服装、行軍方法等」の全般に亘る研究の最終段階に當たるもので、3年がかりで実行してきた雪中行軍の最終決算であった。
「弘前〜十和田湖〜三本木〜田代〜青森〜浪岡〜弘前」の総距離224kmのルートで1月20日より11泊12日の行程であった。
なお、両聯隊は、日程を初め、お互いの雪中行軍豫定を知らずに計画を立てた。
ただし、弘前聯隊の行軍豫定については東奥日報が1月17日發行の紙面上で報道していたことから、青森側には行軍豫定の重複に氣付いた者がいた可能性がある。
ラバウルの思い出
2021-01-23
Facebook英霊の本日の出来事より
ラバウル航空隊は南太平洋諸島の確保、機動部隊の支援を目的に昭和17年1月から基地航空隊としてポートモレスビー方面に進出して聯合軍航空隊に對して優位に戰斗を進めていた。
ニューブリテン島ラバウルは聯合國軍からはラバウルの要塞と呼ばれ、米海軍・米海兵隊・英領ニュージーランド空軍のソロモン方面と米陸軍・英領豪州軍の東ニューギニア方面の2方面に對する攻撃・防御および補給の起点の役割を果たしていました。
大東亞戰爭開戰後の昭和17年1月20-22日第一航空艦隊がラバウルを空襲し制圧。
昭和17年 1月25日 水上機部隊がラバウル地區に進出。
昭和17年1月31日96戰装備の千歳空分遣隊が空母瑞鶴、翔鶴で輸送されラバウルに到着した。
千歳空分遣隊飛行隊長兼司令岡本晴年大尉とともに搭乗員のみが先着。
昭和17年2月10日千歳空分遣隊と高雄空陸攻隊で4空(森玉司令)を編成。
昭和17年2月20日4空中攻隊、ラバウル攻撃米機動部隊の接近を察知し雷撃攻撃。
自爆・未歸還9機。
昭和17年 2月23日1空中攻隊がラバウルに着任。
昭和17年2月24日からニューギニア島東南部、ポートモレスビー基地攻撃を開始。1942年3月7日南海支隊の一部のサラモア上陸、海軍陸戰隊のラエ上陸で終戰まで続くニューギニアの戰いが始まる。
3月31日原田機96陸攻乗組員一同、モレスビー基地陣地へ自爆命令で特攻。
昭和17年4月臺南空がラバウルに着任(斉藤司令)。
4空の戰斗機隊は臺南空に編入される。
昭和17年4月10日1空は後退し本土木更津で再建に入る。
昭和17年5月3日浜空飛行艇隊、ガダルカナル島ルンガ泊地北東對岸に位置するフロリダ島南端小島のツラギに進出する。
画像は、ラバウル航空隊ブイン基地(1943年4月い號作戰時撮影)
(ウィキペディア参照。)









