【アーカイブ】】作戦・闘いへの導線の巻
【アーカイブス】作戦の記録
1941年、日本の攻撃の1ヶ月余り前の真珠湾の空撮
現地時間で7日午前5時55分(日本時間8日0時55分)、日本の機動部隊がアメリカ太平洋艦隊が停泊する真珠湾まで約460キロに迫ると、淵田美津雄中佐率いる第一波攻撃隊を発進させ、7時5分には島崎重和少佐指揮の第二波攻撃隊約170機が続いた。
この日は穏やかな天候だったが、一面に広がった厚い雲が攻撃隊をいらだたせた。ハワイ放送局から流れるハワイアンをたどり、正確な計算の上で向かってはいたものの、なんせ海も島も見えないのでは少し心もとない。
淵田が「そろそろハワイ上空のはず」と思った、そんな瞬間だった。ばっと雲の切れ目を見つけると、そこから見えたのが目標のハワイ・オアフ島だった。湾内に2列になって停泊する戦艦群も見えた。当時、真珠湾には戦艦8隻を含む94隻が停泊していた。
第一波攻撃隊は島の北端のカフク岬から低空で島に侵入すると、海岸沿いに進みながら6方向にわかれ、それぞれ湾と飛行場に向かった。
午前7時49分、島の南端に近い真珠湾を確認した淵田機は全軍突撃命令を出した3分後、湾上空に敵戦闘機の姿もなく、対空砲陣地などからの攻撃がないのを確認すると、奇襲成功の電文「トラ・トラ・トラ」を打つ。
「トラ」とは「突撃」と「雷撃」を組み合わせた暗号で、第一航空艦隊旗艦の空母「赤城」に送った電文は同時に広島沖に停泊中の連合艦隊旗艦「長門」も受信した。
赤城の艦橋にいた司令長官の南雲忠一(なぐもちゅういち)中将と参謀長の草鹿龍之介(くさかりゅうのすけ)少将は手を握り締めて涙を流し、長門の作戦室にいた山本はというと表情を変えず、じっと上を向いたままだったともいわれている。
アメリカ側も空襲を受ける前に、日本からの攻撃の兆候はとらえていた。
現地時間で12月7日にオアフ島の10~20キロに接近した日本の潜水艦から発進した特殊潜航艇5隻のうちの1隻を、潜水艦航行禁止区域である湾の入り口で哨戒中のアメリカ海軍の駆逐艦「ワード」が発見していたのだ。
特殊潜航艇は2人乗りで全長約24メートル、排水量は49トン。2本の魚雷を発射できる攻撃能力を備えていた。
午前6時40分、ワード艦長のG・E・デービス大尉は国籍不明の小型潜水艦の艦橋を砲撃で損壊させたあと潜水艦が潜航したため爆雷攻撃を加えている。
デービスはすぐに艦隊司令部に報告したが、この時期、クジラや漁船を敵と誤認して攻撃する事案が発生していたため、報告も遅れている。
またカフク岬に設置していたレーダーが日本攻撃機の機影を捉えていたが、これもほぼ同時刻に基地に到着予定の爆撃機の編隊と思い込み、報告を怠るという日本にとっては奇跡にも近いアメリカ側の失態が重なっていた。
そして午前7時55分、急降下で真珠湾に入ってきた1機の飛行機が爆弾を落とすと、ホイラー、ヒッカム両飛行場に向け、機体と両翼に日の丸が描かれた爆撃機がなだれ込んできた。
さらに魚雷を装着した攻撃機が訓練と同様に海面スレスレに投下した魚雷は艦船に向かって真っすぐ航跡を描いて停泊中の艦船に命中。あちこちから大きな水柱が上がり、轟音(ごうおん)が響きわたった。
アメリカ側には、この魚雷攻撃が一番衝撃的な出来事だったに違いない。水深の浅い真珠湾では魚雷攻撃はないと高をくくっていただけに防御策はなく、黙ってやられるしかなかったのだ。
第一波に続いて第二波と約2時間にわたる攻撃で戦艦は4隻の撃沈を含む全艦が損害を被ったほか、飛行場攻撃で300機以上を破壊したとされている。
予想以上の戦果に洋上の機動部隊も広島の連合艦隊司令部も沸き返ったが、連合艦隊司令長官の山本の表情はさえなかった。
だが最大の要因は他にあった。攻撃の30分前にアメリカ政府に手渡すはずだった宣戦布告にあたる「対米覚書」が攻撃開始から55分後の7日午前8時50分(ワシントン時間で午後2時20分)まで遅れたことにあった。
14部に分けて暗号電文で送った対米覚書を、翻訳のうえでタイピストを使わずに文書を作成するのに手間取ったのが原因ともされているが、攻撃を知らなかった駐米大使館員の油断という指摘もある。
だが、山本にとってはそんな原因はどうでもよかった。留学や武官としての赴任経験を通してアメリカの国民性を知るだけに、「卑怯(ひきょう)なだまし討ち」とみられても仕方ない今回の外交の遅れが、今後の戦局に大きくのしかかってくるだろうと考えたのだろう。
つまり、アメリカの戦意を喪失させる作戦が、眠れる獅子を起こす結果を招いてしまったというのだ。 (園田和洋)
バルチック艦隊 なぜ勝てた
バルチック艦隊が教えてくれるもの
バルチック艦隊の歴史は、戦術的な勝利が戦略的な勝利に結びつくわけではないことを示しています。また、成功は単なる装備や戦術だけでなく、リーダーシップや計画の精密さに依存しているのです。
哲学的考察:勝利とは何か
勝利とは単に戦闘に勝つことではなく、目的を達成することでしょう。バルチック艦隊の奮闘は、全体的な敗北の中にも人間の勇気と努力の光を見せてくれます。歴史から学ぶべきことは、成功も失敗も同時に受け入れ、それを未来に生かすことではないでしょうか。
日露戦争
バルチック艦隊殲滅が至上命題
最も議論があるのは、東郷がとった「 丁字 (英語では T 字)戦法」がどこまで連合艦隊の勝利につながったのかという点だ。2列になって北上するバルチック艦隊を見た東郷は取りかじを指示して「東郷ターン」と呼ばれる敵前での艦隊大回頭を敢行し、敵艦隊の進路前方を横切る形にして敵の先頭艦「スワロフ」と「オスラービア」に砲火を集中させつつ、敵艦隊と並走する「同航戦」に持ち込んでいる。
T字になることで、敵の先頭艦を常に圧迫するように進行することができ、そのため、指揮官が乗っている先頭艦を集中攻撃でき、敵の艦隊の命令系統を混乱におとしいれることができるのです。
この戦法での決め手は、横腹を見せて多くの砲門から撃つ砲弾が、どれだけ縦列陣を敷いてくる敵戦艦に命中するかという命中率にかかっていました。仮に、敵の砲弾のほうが正確に日本艦隊を射抜けば、惨敗もありえるわけです。