【アーカイブス】航空機の巻
【アーカイブス 航空機編】
”海軍少尉”が手記で明かした「超低空飛行訓練」「ハワイ航路」「発射の瞬間」のスゴすぎる中身
2025-05-26
【空母】米軍を「魚雷」で撃沈…! 日本海軍の最大空母「加賀」
第二次大戦終結から今年で80年。緒戦の真珠湾攻撃で米太平洋艦隊に大打撃をあたえた日本海軍の空母6隻の中で最も大型の艦が「加賀」である。もともと戦艦として建造されたが「加賀」は、軍縮条約などの影響によって「赤城」とともに空母に改造され、日中戦争から大東亜戦争緒戦で大活躍した。だが、開戦から半年後のミッドウェー海戦で、米機の奇襲を受けて沈没した。そんな起伏に富んだ「加賀」を特集したミリタリー雑誌「丸」7月号が早くもファンの間で話題を呼んでいる。真珠湾攻撃で米戦艦「オクラホマ」を雷撃した「加賀」艦攻隊の元海軍少尉・吉野治男氏の手記「加賀雷撃隊・戦艦オクラホマに進路をとれ」から一部抜粋・再構成してお届けする。必殺の航空魚雷1本をひっさげて米戦艦群に挑んだ艦攻隊員の迫力に満ちた戦記が綴られている。
海軍航空隊
2025-05-21
海軍航空隊の爆撃行 Imperial Japanese Navy Air Service bombing
[日本軍] 九七式艦上攻撃機 Nakajima B5N "Kate"
戦艦大和・その栄光と終焉 .日本海海軍の象徴としての?.....
2021-04-14
大和・一口Memo
https://youtu.be/uc9JHQJ0f3s
大和は大日本帝国の象徴としての価値はあったが、山本五十六・南雲中将・最後の艦長有賀幸作大尉まで、大和の実戦能力を知っていたのではないか?。
初陣の頃の大和には対空機関銃は装備されていなかったし、自慢の主砲も目測では実線には役に立たない。
さらに、主砲の耐久性は300発限度。開発同時から指摘されていた戦艦同士の戦いを主な開発意図として建造された大和・武藏だが、その開発骨子は役に立たなくなっていたが、真実ではないか。
大和は大日本帝国の象徴としての価値はあったが、山本五十六・南雲中将・最後の艦長有賀幸作大尉まで、大和の実戦能力を知っていたのではないか?。
初陣の頃の大和には対空機関銃は装備されていなかったし、自慢の主砲も目測では実線には役に立たない。
さらに、主砲の耐久性は300発限度。開発同時から指摘されていた戦艦同士の戦いを主な開発意図として建造された大和・武藏だが、その開発骨子は役に立たなくなっていたが、真実ではないか。
P38
2020-12-27
P-38 ライトニング(Lockheed P-38 Lightning)は、ロッキード社が開発し、アメリカ陸軍などで運用された三胴設計の双発単座戦闘機です。
1930年代後半、アメリカでは戦略型爆撃機B-17フライングフォートレスの開発が始まっていました。
アメリカ軍はそのような爆撃機に対抗する必要性も同時に認識していた為、迎撃用戦闘機を各メーカーに発注しました。
アメリカ軍はそのような爆撃機に対抗する必要性も同時に認識していた為、迎撃用戦闘機を各メーカーに発注しました。
その際の要求として「最高速度580km/h」「上昇力は高度6500mまで6分以内」等 と言ったものでした。その要求をクリアしたのは、ロッキード社でした。それ以降改良が重ねられ1939年の9月にP-38として正式採用されました。
その時の最高速度は675km/hまで達していました。
欧州では、戦略爆撃機の主力掩護戦闘機として活躍しました。
だが機体特性が類似するドイツ軍機(Bf109等)には苦戦を強いられました。
1943年6月、イタリア軍に鹵獲され数機のB-17が撃墜された記録があります。
後続であるP-51やP-47に役目を譲っていく事になりますが、終戦まで性能を生かして偵察機や爆撃機として活躍しました。
太平洋では開戦当初、日本機に対し格闘性能で劣るP-38は辛酸を舐めさせられました。
簡単に撃墜できる事からP-38の名前からとって「ペロハチ(ペロりと喰えるP-38)」と呼ばれてしまいました。
だが、その最高速度を生かした一撃離脱戦法に切り替えると評価は一変。
日本のパイロットからは「双胴の悪魔」と呼ばれるようになり、立場は狩られる側から狩る側へと逆転しました。
1943年4月18日には連合艦隊司令長官・山本五十六搭乗機である一式陸攻を撃墜しています。
日本軍機撃墜数は約3800機でF6F、F4Uに次ぐ第3位でした。
しかし当初重視されていた一撃離脱戦法も、実際に使ってみるとそれほど上手くいかない事も分かりました。
P-38の主翼は厚く、速度が上がると(速度による空気の圧縮が進んでいくと)激しい振動を起こすことが明らかになったのです。
また欧州ではFw190のような新型機が登場して性能的に後れを取るようになり、速度では互角でも運動性では単発機に勝てないことが判明しました。
以降はアフリカ方面で戦闘爆撃機として活躍していくようになりました。
同様に日本相手では、速度で上回ったため一撃離脱さえ出来れば有利でしたが、一旦速度や高度を落としてしまえばなす術が無くなってしまいました。
さらに三式戦闘機による一撃離脱にも対策が進みつつありました。
また高高度迎撃機として開発されながらも日独共に自慢の火力で相手をしなければならないほどの重武装の爆撃機は少なかったのです。
そのため、P-38F以降は後部胴体(双胴)内部に爆弾倉を追加し、長距離戦闘爆撃機として主に太平洋で活躍していく事になります。
太平洋戦線では飛行場と目標が離れていることが多く、他の戦闘機では目標までたどり着けなかったからです。
戦後にアメリカ陸軍のレシプロ戦闘機がP-51改めF-51に統一された後、他の用途に転用されることもなく、海外に展開していたP-38の多くは現地で廃棄処分となり消えていき、1949年までに全機が退役、一部はイタリア空軍に送られ、1956年まで使われていました。
またホンジュラスやドミニカ、中国にも少数機が売却されています。
飛行機の時代の到来 そのⅠ
2024-09-28
85機の飛行機 vs 2隻の軍艦