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決断の時

闘いの記録 (戦争と人間)

幕引きもむ必要でした。

2020-11-01
戦中最後の宰相です。
Facebook佐々木信雄さんの投稿

勝ったドー

2020-11-01
老兵は死なず、帰ってきました。

訃報です。

2020-10-18
3.5 スターリンソ連首相が死去(73)。
Facebook佐々木信雄さんの投稿です。
『Get Back! 50's / 1953年(s28)』
(スターリン死去)
○3.5 スターリンソ連首相が死去(73)。東京証券市場では、軍需株を中心にダウ価が急落する。(スターリン暴落)
 1953年3月1日、スターリンは政権幹部らとの徹夜の夕食の後、寝室で脳卒中の発作で倒れた。猜疑心の強いスターリンの性格も作用して、翌日の午後になるまで発見が遅れた。昏睡状態が続き意思疎通はできないまま、4日後危篤に陥り、死亡した。スターリンの死には謀略説もあり、計画的な暗殺だったとする説や、脳卒中で倒れ昏睡状態の間に、死を早める措置をしたとか、意図的に放置したとかの噂があるが、真相は不明のままである。
 ヨシフ・スターリン(実名ヨシフ・ベサリオニス・ジュガシヴィリ)は、帝政ロシア支配下のグルジア(現ジョージア 共和国)の貧しい職人の家庭に生まれ、神学校に進むもマルクス主義に近づき退校、やがて労働者となり、労働者の組織化や地下の革命活動に進む。ヨシフはグルジアでボリシェヴィキの活動家となるとともに、やがてレーニンと直接出会い認められるようになった。
 ロシア革命によりソビエトが成立すると、レーニンを補佐してトロツキーとスターリンは並び立つ存在になった。1924年レーニンが死去すると、ライバルのトロツキーを追い落としてレーニンの後継の地位に就いた。レーニンはその遺書で「猜疑心の強いスターリンを指導者にしてはならない」との旨を書いていたとされるが、遺書は握りつぶされた。
 ソ連を追放されたトロツキーは、各地を転々としたあとメキシコにまで逃亡したが、スターリンの派遣した暗殺者にピッケルで頭をぶち抜かれて暗殺された。スターリンは多くの政敵を、「人民の敵」という罪状を発明して次々に粛清していった。1930年代の「大粛清」では、犠牲者数は諸説あるが200万人にも上るとされる。
 死後から程なくして、ニキータ・フルシチョフらによるスターリンに対する批判が展開され始める。これにより一転して、スターリンは偉大な国家指導者から恐るべき独裁者という評価へ引きずり降ろされた。60・70年代の日本の学生運動のスローガンは「反帝反スタ(反日米帝国主義・反スターリン主義)」であったほどである。
 近代国家において最大とされる大粛清を行い、第二次大戦では、敗戦枢軸国の日独以上の最大の犠牲者を出したソビエト連邦の指導者スターリン、その功績はと問われるとすぐには出てこない。ただ、結果的に第二次大戦の戦勝国となり、まがりなりにも70年近く続いた強大な共産主義国家を構築し、米ソ対立の冷戦世界に一方の超大国として君臨した指導者として、歴史に名をとどめたことは間違いない。
*この年
1934年以来の大凶作/街頭テレビが大人気/蛍光灯が家庭に普及/映画「君の名は」空前の大ヒットでストールの真知子巻きが流行/うたごえ運動盛ん/テレビの流れ作業生産が始まる
【事物】森永スープ/噴流式の電気洗濯機/無線タクシー
【流行語】さんずい(汚職の隠語)/さいざんす/むちゃくちゃでござりまするがな
【歌】雪の降るまちを(高秀男)/君の名は(織井茂子)
【映画】ひめゆりの塔(今井正)/十代の性典(島耕二)/シェーン(米)/禁じられた遊び(仏)
【本】伊藤整「火の鳥」/山岡宗八「徳川家康」/ボーボワール「第二の性」

ベニート

2020-10-10
39歳でイタリア史上最年少の首相となった。
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1922年(t11)】
◎ムッソリーニ 「ファシスタ党」政権
*1922.10.28/ ムッソリーニがローマに進撃して制圧。ファシスタ党政権を成立させる。
 ベニート・ムッソリーニは、第一次世界大戦前からイタリア社会党に所属し、機関誌編集長として活動したが、第一次大戦に際して積極参戦を主張し除名される。ムッソリーニは志願して従軍し有能な戦士として闘ったが、瀕死の重傷を負って終戦をむかえる。1919年3月、ミラノで、自身と同じ復員軍人や旧参戦論者を中心とする新たな政党「イタリア戦闘者ファッシ(戦闘ファッシ)」を設立するが、社会主義的残滓を捨てられず、一般民衆の支持を得ることはできなかった。
 やがてムッソリーニは、綱領から社会主義的な表現を一掃、民族主義を前面に出し、愛国心・戦争礼賛・偉大な国家イタリアといった情緒的な表現であおり、反議会主義、反社会主義を鮮明にした。ムッソリーニの主張は、戦後に頻発した社会主義者によるストライキや労働運動に、強い不安を抱いていた保守層の支持を集めた。
 北イタリアで復員兵などによって「襲撃隊」と呼ばれる民兵祖組織が作られ、社会主義者に暴力的に対抗するようになると、ムッソリーニは襲撃隊を実動行動組織として傘下に収めた。1921年10月、「国家ファシスト党(PNF)」を結成、ファシスト運動を政党化し、また各地の実力行動隊も党の私兵組織として糾合され、「黒シャツ隊」と呼ばれる様になった。
 ムッソリーニは民族主義・国家主義を掲げる政権を打ち立てるべくクーデターの準備を始め、1922年10月28日に黒シャツ隊を中心としたファシスト党員4万人がローマ進軍を決行した。ムッソリーニ自身はミラノで事態を見守っていたが、国王ビットーリオ・エマヌエーレ3世は、無策のルイージ・ファクタ政権をみかぎり、ムッソリーニをローマに召喚し、組閣を命じた。こうしてムッソリーニは政権を奪取することに成功し、39歳でイタリア史上最年少の首相となった。
 ムッソリーニが創設した「ファシスト党」は、その語源から「結束党」などと訳されるが、そこから「ファシズム」という語が派生する。ファシズムというと「全体主義」とほぼ同義で使われるが、本来は一意的に規定しがたい要素を含んでいた。ヒトラーのナチスがファシズムの代表のように受取られているが、ムッソリーニのファシズムとは、かなり異なっている。
 ムッソリーニは、古代ローマの系譜をうけて「イタリア民族主義」を結束の中心に置いたが、そのような歴史的実体をもたないヒトラーは、「アーリア人種主義」という怪しげな概念を持ち出した。このようなヒトラーの脳内に生じた妄想が、優勢人種という架空の概念を際立させるために、劣勢人種ユダヤ人という概念を作り出し、その殲滅をはかった。
 ムッソリーニとってはことは簡単で、「イタリア民族」として結束して事態にあたろうというだけであった。そしてヒトラーが、古代ローマという基盤をもたないことでコンプレックスに突き動かされていると見抜いていた。ヒトラーを、まったく信用していなかったはずである。
 絵描きくずれの粗野な浮浪者だったヒトラーに比べて、ムッソリーニは、その容貌からくるイメージに反して、意外にも深いインテリジェンスをもっていた。師範学校を首席卒業して、イタリア社会党では機関誌編集長として頭角をあらわした。当時のドイツ哲学やフランス哲学を自学し、ドイツ語、フランス語など語学にも堪能で、フランス語教師として雇用されると、歴史学と国語・地理学も担当したという。
 ムッソリーニは演説でも大衆を引き付けたが、絶叫し自己陶酔するヒトラーとは対極的に、愛国心を奥に秘めながら、理路整然と理知的に語り、それでも民衆を熱狂させた。また、国家を統合するために、ファシスト党が全権を握る必要があると考えたが、自身が独裁者になるつもりはなかったという。しかし、ヒトラーが、政権奪取に利用した突撃隊を粛清したのには否定的な見解を漏らし、苛酷な粛清を嫌った。それは「独裁者」としてのムッソリーニにとって、逆に「甘さ」であったかもしれない。
 また、スイスでの放浪時代には、レーニンと知己を得て、誰も理解できないマルクス=レーニン主義の理論を、ほぼ理解したという。そのようなムッソリーニが、やがて独裁者となり、ヒトラーと結んで第二次大戦に参戦し、敗色濃厚となるとパルチザンにつかまり、愛人と共に逆さ吊りして晒されるという終末をむかえることとなる。
『ムッソリーニ―一イタリア人の物語』 (中公叢書/2000/ロマノ・ヴルピッタ著) https://www.amazon.co.jp/%E3%83%A0%E3%83%83.../dp/412003089X
映画『ブラック・シャツ 独裁者ムッソリーニを狙え!』(1974年/伊) http://cinema.pia.co.jp/title/800912/
(この年の出来事)
*1922.2.6/ ワシントン軍縮会議が閉会、主力軍艦保有率は英米5:日本3と決まる。
*1922.4.4/ ロシア共産党大会で、新設ポストの書記長にヨセフ・スターリンを選出。あくまでもレーニンの補佐役と思われていた。
*1922.6.6/ 高橋是清内閣が、閣内不統一のため総辞職。元老西園寺公望らが、非政党人の軍人加藤友三郎海相を後継に推薦する。
*1922.11.1/ ケマル・パシャがトルコのスルタン制を廃止。皇帝は国外に亡命し、オスマン帝国が滅亡する。
*1922.11.17/ ドイツの科学者アインシュタインが来日、各地での相対性理論の講演は大盛況。
*1922.12.30/ 第1回全連邦ソビエト大会で「ソビエト社会主義共和国連邦」が成立。ロシア・ウクライナ・白ロシア・ザカフカス、4共和国がソビエト連邦を構成する。

暗黒の時代

2020-10-10
1923.9.16/ アナーキスト大杉栄、伊藤野枝らが、憲兵大尉甘粕正彦に殺害される。
Facebook佐々木信雄さんのコメント
【20th Century Chronicle 1923年(t12)】
◎アナーキスト大杉栄殺害(甘粕事件)
*1923.9.16/ アナーキスト大杉栄、伊藤野枝らが、憲兵大尉甘粕正彦に殺害される。
 関東大震災直後の混乱下にある1923(大12)年9月16日、アナーキストの「大杉栄」と内縁の妻「伊藤野枝」が、大杉の6歳の甥と共に、不意打ちで憲兵隊特高に連行された。やがて、憲兵隊司令部で憲兵によって拷問の末、絞殺され、同本部裏の古井戸から遺体が見つかった。
 軍法会議では、憲兵大尉分隊長「甘粕正彦」と部下らによる犯行と断定された。甘粕大尉は、すべて自分の一存で実行したと証言した。憲兵隊の上層らの組織的関与が疑われたが、軍法会議は事件の背後関係には立ち入らず、甘粕大尉を首謀者として懲役10年、部下らも軽微な刑で判決が下され、裁判は早々に幕が引かれた。
 関東大震災における戒厳令下で、どさくさに紛れて、反政府主義者らの不法な虐殺事件が頻発した。震災直後には、東京府の亀戸で、社会主義者の川合義虎ら10名が亀戸警察署に捕らえられ、軍の手で殺害される事件があり、続いて、上記の甘粕事件が引き起こされた。
 さらに3年後の1926(大15)年には、第二の大逆事件と言われた「朴烈事件」があり、無政府主義者 朴烈(パク・ヨル/ぼく・れつ)とその愛人金子文子が、治安警察法に基づく「予防検束」の名目で検挙された。このように、震災後の社会不安の世情に乗じて、官憲による思想弾圧は一気に強化されていった。
 甘粕正彦は10年の刑を受けたが、3年後には仮釈放され予備役となり、陸軍の予算でフランスに留学するなど厚遇された。これには、甘粕が、反社会的な人物を自身の責任で処断し、その責任を独りで背負ったとして、「国士」として称賛する庶民の評価が寄与したと考えられる。ただしそれも、軍関係者などから作り上げられた世論という側面も否めない。
 フランスから帰国後、満州に渡り、南満州鉄道経済調査局員となると、さらに奉天の関東軍特務機関の指揮下で情報・謀略工作を行うようになり、右翼団体のメンバーの一部を配下として、甘粕機関という民間特務機関を設立。また満州の国策としての阿片ビジネスをも仕切る。
 1931(昭6)年9月の柳条湖事件に連動して、ハルピン出兵の口実作りに爆破事件を起こすなど、特務工作に従事。また、幽閉中の清朝最後の皇帝 愛新覚羅溥儀を脱出させ、満州国皇帝に擁立する準備工作にも関わった。これら満州国建国に関する様々な謀略の親玉として暗躍した働きの為、満州国建国後には、警察庁長官に抜擢され、表舞台に登場する。
映画『ラストエンペラー』 (1987/ベルナルド・ベルトルッチ) *坂本龍一が「甘粕元大尉」として出演している  https://movies.yahoo.co.jp/.../%E3%83%A9%E3%82%B9.../24562/
 さらには、甘粕正彦は「満洲映画協会(満映)」の理事長となる。満映は、満州人に対するプロパガンダとして、文化映画や啓蒙的な映画、プロパガンダ映画を多く創った。甘粕の理事長への抜擢は、軍部の満映支配と恐れられたが、甘粕はむしろ満映の自立運営やスタッフ待遇の改善などに、毅然と対処したため、満映関係者からは慕われたらしい。
 満映の理事長職は、いわば表の顔であり、満州時代の甘粕は、日本政府の意を受けて満州国を陰で支配していたとも言われる。しかし、甘粕はその硬骨漢ぶりと言動ゆえに関東軍には煙たがられ、むしろ冷遇されていたとされる。1945年(昭和20年)、日本が降伏し、ソ連軍が新京に迫りくる中、満映の閉所処理をきちんと済ませた後、20日早朝、甘粕は独りで服毒自殺した。
 甘粕事件で惨殺された「大杉栄」は、その性格として「強情・我儘」や「傲岸・不遜」といった言葉が並ぶが、良くも悪くも、自由奔放で天真爛漫な性格であったと思われる。その生来の性格に、社会的な理屈を付ければ「アナーキズム(無政府主義)」となり、個人生活面では「自由恋愛論」となる。
 女性関係にはかなりデタラメであり、それを「自由恋愛」と呼んだに過ぎないという側面もある。大杉は、堺利彦の義妹で婚約者のいた堀保子を、強引に犯して結婚する。だが、大杉は保子と入籍せず、「神近市子」に近づき、さ0らに「伊藤野枝」とも愛人関係となって、野枝は長女魔子を身ごもった。これら女性達からは常に経済的援助を受けており、とりわけ献身的に大杉に尽くした神近市子は、野枝との関係に嫉妬し、大杉に瀕死の重傷を負わせる「日蔭茶屋事件」を起こした。
 「自由奔放」と言えば、大杉と共に惨殺された「伊藤野枝」は、大杉以上に奔放な生涯を送った。野枝に関しては、別に触れたことがある。http://d.hatena.ne.jp/naniuji/20170422
『甘粕大尉』(ちくま文庫/2005/角田房子著) https://www.amazon.co.jp/%E7%94%98%E7%B2%95.../dp/4480420398
(この年の出来事)
*1923.1._/ 菊池寛が月刊雑誌『文藝春秋』を創刊。
*1923.1.14/ イタリア国王が、「ファシスト国防義勇軍(黒シャツ隊)」を国防軍と正式認可。
*1923.6.5/ 早大軍研事件の捜査で発覚した共産主義者名簿から、堺利彦、徳田球一らが逮捕され、つづいて80人余の共産主義者が一斉検挙される。
*1923.6.5/ ドイツのインフレが天文学的数字に。独中央銀行総裁が、マルク通貨維持にお手上げ宣言。
*1923.6.9/ 作家有島武郎(46)が、婦人公論の女性記者と心中する。
*1923.9.2/ 朝鮮人アナーキスト朴烈が、妻の金子文子ともに保護検束される。(1926.3.25大逆罪で死刑判決)
*1923.11.8/ ヒトラーがミュンヘンで武装蜂起。バイエルン州政府の転覆を図るが鎮圧される。(ミュンヘン一揆)
*1923.12.27/ アナーキスト難波大輔が、虎ノ門付近で摂政宮皇太子裕仁殿下に発砲。のち、死刑判決を受ける。(虎の門事件)
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