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ファイトの系譜 

【 オールラウンド編  含TOKYO2020の記録】

「転倒の悔しさ晴らして」高木菜那の奮起促す声…「マススタートでリベンジを」

2022-02-18
平昌五輪スピードスケート女子マススタートで金メダルを獲得した高木菜那(中央)(2018年撮影)
女子団体追い抜き決勝を終え、転倒した高木菜那選手(中央)を気遣う佐藤綾乃選手(右)と高木美帆選手(15日、北京で)=竹田津敦史撮影
 北京オリンピックのスピードスケート女子団体追い抜きが15日行われ、前回大会「金」の日本はカナダに敗れて銀メダルに終わった。リードを守っていたのに高木菜那選手が転倒するという、まさかの展開にSNSでは悲鳴が上がったが、「マススタートでリベンジを」と、菜那選手の奮起を期待する声が上がった。
転倒した菜那選手は立ち上がってゴールまで滑りきると泣き崩れ、「転ばなかったら優勝できたかも」と震える声でコメントした。この展開に、ツイッターでは菜那選手を慰める投稿が相次いだ。金メダルが期待されていただけに「パシュート」はトレンドの上位に入った。 

一方で、「次もある」「この悔しさはマススタートにぶつけてほしい!」などとエールを送る投稿も相次いだ。菜那選手が平昌大会で金メダルを獲得した種目は女子団体追い抜きだけではない。平昌大会で新種目として追加されたマススタートの初代女王でもあるのだ。 マススタートは選手が一斉にスタートし、4周通過するごとに上位3人に付与される中間ポイントと、ゴール順位の最終ポイントの合算で順位が決まる。菜那選手は、平昌大会後も世界距離別選手権で2018年に2位、2020年には4位に入るなど、世界トップレベルを維持し続けている。2020年の世界距離別選手権の後に「16周を滑った後でもスプリントができる体力が絶対に必要」と語るなど、今大会を見据えて準備してきた。注目の女子マススタートは19日に行われる。

他国の勝敗で準決勝に進出、 頑張れニッポン

2022-02-18
【図解】カーリング女子日本の1次リーグ成績

Facebook 香取三夫さん曰く


速報
えっ、残れたの
競技をしてた選手もビックリ、女子カーリング、
スイスに負け絶望と思っていましたが
他国の勝敗で準決勝に進出、
頑張れニッポン
競技をしてた選手もビックリ、女子カーリング、
カーリング女子1次リーグ最終戦を終え、抱き合うロコ・ソラーレ。スイスに敗れて5勝4敗となったが、前回平昌大会に続き2大会連続で準決勝に進んだ=17日、北京

Facebook 時事通信社さん曰く


北京五輪のカーリングは17日、
女子1次リーグ最終戦が行われ、
ロコ・ソラーレの日本はスイスに4―8で敗れたが、
5勝4敗の4位で2大会連続の準決勝進出を決めました。

ロシアの小話、“ドーピング”

2022-02-18
2022.02.18、『讀賣新聞』朝刊

1位 アンナ・シェルバコワ(ROC)  得点255.95(フリー175.75、SP80.20)

2022-02-18
<北京五輪 フィギュア>女子フリー、演技を終え笑顔のシェルバコワ(撮影・小海途 良幹)
シェルバコワが金メダル!五輪出場危機乗り越え世界女王の意地見せた ワリエワと同門17歳
◇北京冬季五輪第14日 フィギュアスケート女子フリー(2022年2月17日 首都体育館)
フィギュアスケート女子で、昨年の世界選手権女王のアンナ・シェルバコワ(17=ROCロシア・オリンピック委員会)がフリー175.75点、合計255.95点。カミラ・ワリエワのドーピング問題に揺れる中、金メダルを獲得した。  
重圧を乗り越えての大舞台だった。昨年までロシア選手権3連覇。世界選手権で優勝していたシェルバコワだが、今季は同門の15歳のワリエワの台頭や不調もあり、大激戦の北京五輪代表選出では国内で大激論が起こった。  ロシア選手権ではワリエワ、トルソワに次いで3位。だがフリーでは冒頭の4回転フリップで転倒すると、その後もジャンプに精彩を欠く内容に、トリノ五輪金メダリストのエフゲニー・プルシェンコ氏が25歳のエリザベータ・トゥクタミシェワとの選考会をするべきではないか?と語るなど、3枠目を巡って、国内で大論争が起きていた。そんな中で迎えた欧州選手権。シェルバコワはフリーで世界2位となる168.37点をマーク。ワリエワに次いで2位に入り、見事に北京五輪切符を手に入れた。  
15日に行われたSPでは完璧な演技を見せ、21年4月に世界国別対抗戦で出した自己ベストの81.07点に迫る80・20点をマーク。82.16点で首位のワリエワに続いて2位となった。フリーでは冒頭の4回転フリップー3回転トーループ、続いて4回転フリップを決めるとその後も完璧な演技を決めた。
NHK | 【ノーカット】金メダル・シェルバコワ(ROC)17歳世界女王の意地 | フィギュアスケート女子シングル フリー | 北京オリンピック

#坂本花織 選手 #銅メダル 獲得

2022-02-17

Facebook Team JAPANさん曰く


#銅メダル を獲得した #坂本花織 選手と5位入賞を果たした #樋口新葉 選手が歓喜のハグ

【 オールラウンド編 】(アーカイブス)

中野浩一 伝説

2021-08-04

1964年東京オリンピックの体操競技

2021-08-03

女子団体ではソビエト連邦が4連覇を達成した。
2位にはチェコスロバキアが入り、3位は日本となり日本女子団体初のメダル獲得となった。
女子個人総合では、ソビエト連邦のラリサ・ラチニナチェコスロバキアベラ・チャスラフスカ一騎討ちとなった。
優勝したチャスラフスカの優美な演技は「オリンピックの名花」と讃えられ、絶大な人気を博した。

アントン・ヘーシンク 日本柔道に立ち塞がったオランダの巨人

2021-07-31
1964年東京大会柔道無差別級決勝のヘーシンク

「柔道(講道館柔道)」は、現在世界中で行われているスポーツ競技となっているが、その発展段階では、紆余曲折もあった。国内のスポーツ競技統括団体としての全日本柔道連盟は1949年に設立。柔道が次第に世界に広まっていくにつれ、本家の日本と世界との間には徐々に軋轢が生じていた。事実、1951年に欧州柔道連盟が改組され国際柔道連盟が設立された時点では日本は加盟しておらず、加盟は翌年となった。

1956年に東京で開催された第1回世界選手権は、無差別級のみで行われ日本人選手が制した。1958年の第2回も東京で開催され同様に日本人選手が優勝したが、1961年にパリで開催された第3回大会は、オランダのアントン・ヘーシンクが、日本代表の3選手を次々に撃破し、外国人選手として初めての優勝を飾る。これに先立つ1959年のIOC総会で、1964年東京オリンピックの正式競技として柔道を導入することが決定されていたが、ヘーシンクに敗れたこの時から柔道の本家日本の「打倒ヘーシンク」への本格的な動きが始まった。

東京オリンピックの柔道は、軽量級、中量級、重量級、無差別級の4種目が実施された。結果は軽、中、重量各級では順当に日本人選手が金メダルを獲得したが、無差別級では本家の期待を一身に背負った神永昭夫が、決勝でヘーシンクに敗れた。日本の柔道が世界のJUDOになった瞬間であった。オリンピックでの正式種目としての実施、そしてヘーシンクが日本人選手を破って金メダルを獲得したこと、この2つの事実が重なったことがその後の柔道国際化の嚆矢となったのは間違いない。
もし無差別級でも神永が勝ち、4種目を日本が独占していたならば、国際化の動きは鈍っていたのではないかといわれている。

決勝で神永を抑え込む

2021-07-31
ヘーシンクの勝利の瞬間、オランダの関係者が狂気乱舞して畳の上に駈け上がり母国の英雄に抱きつこうとしたのを、ヘーシンクは押さえこみの体勢のまま右手を挙げ制したのだ。

オランダの巨人アントン・へーシンクの足跡を辿ってみよう。
ヘーシンクは1934年4月にオランダ第4の都市、首都アムステルダムの30km南に位置するユトレヒトで生まれた。父は運河の小さな船の船乗りという貧しい家に育ち、12歳の時から建築現場で働いていた。14歳で地元の柔道教室に通い始めたが、1955年20歳の時にオランダ柔道連盟の招きで指導に訪れていた道上伯との運命的な出会いを果たす。

198cmの長身、85kgの体重、手足が長く、技にスピード感のあるヘーシンクに道上の目がとまった。指導次第では伸びるという直感が働いたのである。道上とへーシンクの関係は、眞神博の労作「ヘーシンクを育てた男」(文藝春秋/2002年)に詳しく紹介されている。
道上は1912年に愛媛県八幡浜で生まれている。14歳で柔道を始め、すぐに頭角を現し昇段試験を受け合格したがあまりに若いということで免状が発行されず、翌年15歳になるのを待って正式に初段を取得したというエピソードが残っている。

道上の父や長兄がアメリカへ渡り事業で成功していたこともあり、道上もアメリカ渡航を企てたが途中で頓挫し、八幡浜へ戻ってまた柔道にのめり込み、19歳で三段に昇格。武道専門学校で学んだ後、高知高校、上海東亜同文書院で教員を務め終戦を迎える。
戦後すでに七段になっていた道上に転機が訪れるのは1953年のことである。
フランス柔道連盟から指導者としての招聘を受けたのだ。
道上はその誘いに呼応しフランスに渡った。はじめは1年間の契約であったが、滞在は長期に渡ることになり、父の死にも立ち会うことができなかった。そして、フランスから指導に行ったオランダでヘーシンクと遭遇したのである。

道上がオランダを訪れるのは2カ月に一度で、20日間程度滞在したが、この間ヘーシンクを徹底的に指導した。柔道の指導はもちろん、サッカー、レスリング、水泳、ランニングも行い、さらに当時は珍しかったバーベル等を使ったウエイトトレーニングも取り入れ、頑強な身体を作り上げていった。その甲斐あって、ヘーシンクはヨーロッパでは無敵の存在としてその名を知られるようになる。

ヘーシンクが最初に日本を訪れたのは、1956年の第1回世界選手権に出場するためである。この時は準決勝で吉松吉彦七段に敗れている。続く1958年の第2回大会にも来日したが、この大会でも準々決勝で山鋪公義六段に敗れた。第3回大会は1961年末にパリで開催されることになっていたが、ヘーシンクはその年の1月に来日し、2カ月間滞在、講道館や警視庁で練習を積んだ。そして迎えた第3回パリ大会では、前述の通りヘーシンクが初の世界一に輝いたのだ。
この瞬間、道上はオランダの柔道関係者により抱えられて試合場に押し上げられ、駆けよってきたヘーシンクに握手され至上の喜びを味わっている。

世界選手権で優勝し帰国したヘーシンクを待っていたのは熱狂的な歓迎の嵐であった。オランダ政府は由緒ある「オレンジ・ナッソー勲章」を彼に与えその功績を讃えた。ヘーシンクはすでに故郷ユトレヒトに小さな柔道場を有していたが、石油メジャー企業からの援助により新たに大規模な道場が建設され、ヘーシンクは道場主に収まるとともに、デラックスなガソリンスタンドも併設されその経営も任された。道場に面した通りは「ヘーシンク通り」と名付けられた。道上・ヘーシンク師弟の次なる目標は当然のことながら、3年後の東京オリンピックでの金メダル獲得であり、新たな研さんの日々が続いた。

1964年東京大会の柔道で日本チームは、無差別級に出場するヘーシンクに、前回の世界選手権ですでに対戦している神永昭夫を当てるか、まだ一度も対戦していない猪熊功をぶつけるかで大いに悩んだ。天理大学でヘーシンクを指導した経験のある日本チームの松本安市監督は、重量級に猪熊、無差別級に神永を出場させることに決定。日本人の間では、地元日本でのオリンピックで神永がヘーシンクに雪辱し、覇権を奪還することに期待が膨らんだ。


決勝当日、日本武道館には1万5000人の大観衆が詰めかけ、世紀の大一番を見守った。無差別級には9カ国9人しかエントリーがなかったために変則的な方式が採用された。その予選リーグでいきなり神永対ヘーシンク戦が実現し、ヘーシンクが優勢勝ち。神永は敗者復活戦に回ったが、決勝で両雄が再び合いまみえることになった。

試合は一進一退を繰り返したが、開始8分過ぎにヘーシンクが一瞬のすきをついて得意の寝技で神永を抑え込み、そのまま一本勝ちとなった。それまでの軽、中、重量級で日本は3つの金メダルを獲得していたが、無差別級の覇者こそ真の王者であると思われていただけに、この結果はやはり日本の柔道が世界に敗れたことを意味した。

落胆している日本の観客の前で、もう一つの印象的な光景が繰り広げられた。ヘーシンクの勝利の瞬間、オランダの関係者が狂気乱舞して畳の上に駈け上がり母国の英雄に抱きつこうとしたのを、ヘーシンクは押さえこみの体勢のまま右手を挙げ制したのだ。この行為は、「礼にはじまり礼に終わる」という柔道の精神を具現化する行為として現在でも高く評価されている。

最上階には、回転ラウンジがありました。

2021-07-29
東京オリンピックの来日客に日本が誇る富士山を見せたいという理念の体現
Facebook ホテルニューオータニさん曰く
1964年のホテル開業時に、 東京オリンピックの来日客に日本が誇る富士山を見せたいという理念のもと、世界最大の回転展望ラウンジとしてオープンした「BLUE SKY」(現在はビュッフェダイニング「VIEW & DINING THE SKY」として営業中) 。
国立競技場から迎賓館、富士山までを一望する圧巻の眺望は、今もなお多くのお客さまに愛されています。

【 プロレス編】

社長・・・とは言わなかったか・・・な?

2021-05-25
天辺獲ったどう・・・、とも言わなかった・・・かもしれない?
Facebook ジャンボ鶴田 Jumbo Tsurutaより

ジャイアント馬場展で全日三冠ヘビー級王座ベルトを発見

2021-05-18
PWFへビュー級選手権ベルト
NWAインターナショナル選手権ベルト

ジャイアント馬場展で全日三冠ヘビー級王座ベルトを発見

2021-05-18
UN選手権ベルト

ファイトの足跡

2020-09-07
私は、プロレスといえばG馬場命、ボクシングといえば大場命です。
ジャンボ鶴田の三冠ベルトです。

NWA世界ヘビー級選手権ベルト

2021-05-15
ハーリー・レイスモデルです。
NWAヘルトには、団体加盟傘下国のフラッグが・・・。

【 ボクシング編 】

井上尚弥が防衛成功!ダスマリナスを3回TKO バンタム4団体統一へ前進

2021-06-20
日刊スポーツ新聞社 2021/06/20 18:39
© 日刊スポーツ新聞社 ダスマリナスを攻める井上尚弥(AP)

<ボクシング:WBAスーパー、IBF世界バンタム級タイトルマッチ12回戦>◇19日(日本時間20日)◇米ネバダ州ラスベガス

WBAスーパー、IBF世界バンタム級王者井上尚弥(28=大橋)が防衛(WBA5度目、IBF3度目)に成功した。

IBF同級1位マイケル・ダスマリナス(28=フィリピン)を3回TKOで倒し、日本人初となる2戦連続の「聖地」防衛に成功した。

WBC同級王者ノニト・ドネア(38=フィリピン)ら他団体の対抗王者が見守る中、ラスベガスのリングで実力をアピールした。目標に掲げるバンタム級4団体統一へ、大きなステップを踏んだ。

  ◇   ◇

全米生中継、ラスベガスでは自身初の有観客興行という舞台で、井上が白星をつかんだ。日本人初となる2戦連続「聖地」防衛に成功。「試合当日の自分がどのようなパフォーマンスをするのか、ラスベガスにどんな試合をみせられるのか。自分でも楽しみ」。神経質になり、緊張しても良い環境であっても、井上は愛称「モンスター」らしくファイトした。

昨年10月のジェーソン・モロニー(オーストラリア)戦で初めてラスベガスに進出した。米プロモート大手トップランク社と契約後初試合で7回KO勝ちを収めた試合内容は大きな評価を受けた。「間違いなく彼は世界で最高のファイター。誰もが彼のようにはなれない」と絶賛していた同社ボブ・アラムCEOが試合前会見でも「モンスターが米国に戻ってきた」と手放しで歓迎。試合1週間前からラスベガスの掲示板は井上-ダスマリナス戦のPRが増え、中継局の米ESPNでは連日、ゴールデンタイムに井上を特集番組が放送された。

井上は言う。「もうプロモーションを含め、かなり期待を感じるので、その期待を裏切らないように、出せるものすべて出して、しっかりと勝ちにつなげたいです」。所属ジムの大橋秀行会長(56)は「米国での対応、評判が前回に比べものにならないぐらい(高い)。本人も比較していて、良い意味でかなり気合が入っている」と口調を強めていた。期待を力に変え、海外オッズでも優位の井上が確実に「聖地」で勝利を手にした。

◆井上尚弥(いのうえ・なおや)1993年(平5)4月10日、神奈川・座間市生まれ。元アマ選手の父真吾さんの影響で小学1年から競技を開始。相模原青陵高時代にアマ7冠。12年7月にプロ転向。国内最速(当時)6戦目で世界王座(WBC世界ライトフライ級)奪取。14年12月にWBO世界スーパーフライ級王座を獲得し、史上最速(当時)の8戦目で2階級制覇。18年5月にWBA世界バンタム級王座を獲得し、国内最速(当時)の16戦目で3階級制覇。19年5月にWBA、IBF世界バンタム級王者に。同年11月、WBSSバンタム級トーナメント優勝。家族は夫人と1男2女。164・5センチの右ボクサーファイター。

◆世界主要4団体統一王者 過去6人誕生している。世界主要4団体となって以降、04年にバーナード・ホプキンズ(ミドル級)、05年にジャーメイン・テイラー(ミドル級)、17年にテレンス・クロフォード(スーパーライト級=すべて米国)、18年にオレクサンドル・ウシク(クルーザー級=ウクライナ)、20年にテオフィモ・ロペス(ライト級=米国)が達成。そして、階級最強トーナメントのWBSSスーパーライト級覇者ジョシュ・テイラー(英国)が5月23日、ホセ・カルロス・ラミレス(米国)との4団体統一戦を制し、史上6人目の統一王者になった。

井上尚弥・デビューからマロニー戦までの全ダウンシーン35連発

2021-05-23
#井上尚弥・デビューからマロニー戦までの全ダウンシーン35連発
モンスター NAOYA INOUE

WBAスーパー・IBF世界バンタム級王者 井上尚弥(大橋)、ラスベガスデビュー

2021-05-23
挑戦者は、 WBA2位、IBF4位、WBO1位 ジェイソン・マロニー(オーストラリア)



WBAスーパー・IBF世界バンタム級王者
井上尚弥(大橋)

VS
WBA2位、IBF4位、WBO1位
ジェイソン・マロニー(オーストラリア)

 

試合結果は
井上尚弥の7RKO勝ち

 

バンタム級のWBAスーパー王座とIBF王座を持つ井上尚弥(27=大橋)が10月31日(日本時間11月1日)、

アメリカのネバダ州ラスベガスで両王座の防衛戦

挑戦者はWBA2位、IBF4位、WBO1位にランクされるジェイソン・マロニー(29=オーストラリア)。

19戦全勝(16KO)の井上に対し、マロニーも22戦21勝(18KO)1敗。

マロニー健闘も、7R右クロスカウンターで井上尚弥の7RKO勝ちです。

井上尚弥 vs ジェイソン_マロニー 無観客のラスベガスデビュー戦

井上尚弥のヘッドロールがマジにスゴすぎる

2021-05-25

井上尚弥が強い!ワルリト・パレナス戦で見せたパンチが凄い

2021-05-25
井上尚弥が強い!ワルリト・パレナス戦で見せたパンチが凄い

【 ボクシング編 】(アーカイブス)

「エディ・最後の挑戦~老トレーナーと19歳の世界チャンピオン~」

2022-01-31

日本で6人の世界チャンピオンを育てた名ボクシングトレーナー、エディ・タウンゼント。病魔と闘いながら19歳の若者に夢を託す、老トレーナーの最後の挑戦を追う。

エディ・タウンゼントは、1962年にハワイから来日して以来、四半世紀にわたってチャンピオンを世に送り出すことで、日本の少年たちに夢と勇気を与え続けてきた。彼が最後に育てたのは、19歳で世界チャンピオンとなった井岡弘樹。その初防衛戦に向けて、エディは大病を患いながら車いすで指導、試合の日は担架に乗って会場へ向かった。井岡は激闘の末、最終ラウンドで逆転勝利。最後まで情熱を燃やし続けるエディの姿を描く。

【出演】エディ・タウンゼント,井岡弘樹,藤猛,ガッツ石松,海老原博幸,友利正,柴田国明,田辺清,【語り】千田正穂

Facebook 井岡 弘樹さん曰く

Facebook 井岡 弘樹さん曰く


2月1日(火)午後6:10〜NHK BSで放送される井岡弘樹とエディタウンゼントトレーナーとの奇跡のドキュメンタリーの放送のお知らせです。
この感動的な
命懸けのストーリーを
是非多くの方に見ていただきたいので#拡散 宜しくお願い致します
放送日はエディさんの命日。大切な日を忘れない為、エディさんが亡くなった午前1時に妻と入籍しました。
また感想など聞かせていただけると嬉しいです


Facebook 井岡 弘樹さん曰く

ボクシング レジェンド王者伝説 畑山隆則 編【vs 坂本戦、鮮烈KO 6連発】

2021-07-06
■ 2000年10月11日 WBA世界ライト級タイトルマッチ 王者 畑山隆則 vs 挑戦者 坂本博之 ■ 畑山隆則 強さの証明 KO 6連発!

大場政夫

2020-10-07
【 昭和の大ヒーロー ♪ 伝説のボクサー:大場政夫 大特集 ♪ 1998年放送 】
https://youtu.be/07POis-2g2k

1973年1月25日、3週間ほど前に逆転KOで5度目の防衛を果たしたばかりの大場は、首都高速5号線でカーブを曲がり切れずに中央分離帯を乗りこえ対向車のトラックと正面衝突。 愛車のシボレー・コルベットと共にチャンピオン・ベルトを巻いたままあの世へと旅立ちました。23歳でした。

永遠のチャンプ

2020-06-25
永遠のチャンプ・大場政夫。

私が最も敬愛するボクサーです。

1949年10月21日東京都足立区生まれ。

実父がギャンブル好きで、幼少期の暮らしは相当に貧しかったようです。

その実父がボクシングファンだった影響から、なんと小学校の入る頃には既に、将来は世界チャンピオンになり、両親に家を贈ろうと決めていました。

その後も決意はブレることなく、1965年の中学卒業と同時に帝拳ジムに入門、プロボクサーへの第一歩を踏み出すことに。

翌年には、渡辺和喜に1回KO勝ちでプロデビュー。

以降は、持ち前の負けん気と豊富な練習量で頭角を現し、次々と難敵を退けて世界ランキング上位へと駆け上がりました。

そして、プロ28戦(25勝2敗1分8KO)で、念願の世界タイトル初挑戦の切符を手中にします。

1970年10月22日、タイのベルクレック・チャルバンチャイを13回KOで倒し、WBA世界フライ級王座を獲得。

この時、大場は21歳。

プロキャリア4年で小学生の頃抱いていた夢を叶えました

その後、2年半足らずで王座を4度防衛。

そして1973年1月2日、WBA世界フライ級5度目の防衛戦を迎えます。

相手は「稲妻小僧」の異名を持つ元WBC世界フライ級チャンピオン、タイの英雄チャチャイ・チオノイ。

大場は1Rにチオノイの豪快な右フックを食いダウン。

その際に右足首を捻挫し、以降は足を引きずりながらのファイトを強いられます。

しかし、大場は驚異的な粘りで劣勢を挽回、8Rからは優勢に立ち、12Rを迎えます。

前半は打ちつ打たれつでしたが、中盤に機を見て大場が猛ラッシュ。

ロープ際で連打を浴びせられたチオノイは、遂に崩れ落ちます。

その後、チオノイは半ば戦意喪失状態になり、最後はレフェリーが試合を止め、大場は大逆転で5度目の防衛に成功しました。

1月2日のゴールデン枠に、人気ボクサーの世界戦生中継とあって、祖母の家に集まっていた親戚一堂はTVに釘付け。

終盤は皆が「大場〜っ!」と絶叫するほどの大熱戦でした

小学校3年生だった私も、感動で泣きそうになりました。

決して器用ではなく、打たれて強いわけでもなく、スピードもそれ程ではない……が、

猛練習で培った旺盛なスタミナと折れない心で、ただ愚直に左右のワンツーを繰り出す。

いつまでも、いつまでも、相手が倒れるまで繰り出す。

その闘志を前面に押し出したボクシングスタイルは、観る者の心まで奮い立たせる迫力がありました。

この試合の23日後、1973年1月25日。

大場は愛車シボレー・コルベット・スティングレーで首都高速5号池袋線を走行中、大曲カーブを曲がり切れず中央分離帯を乗り越え、反対車線に出たところを大型トラックと正面衝突。

現役世界チャンピオンのままこの世を去りました。

大場は3度目の防衛戦後に、それまでで得たファイトマネーで埼玉県に一戸建を新築購入し、両親に贈っています。

また、実弟の高校までの学費も全額支払い終えていました

中学卒業後、ボクシングに総てを賭けてきた大場が、4度目の防衛成功後に生涯で初めて自分自身へ贈ったご褒美が、当時日本に2台しかなかったシボレー・コルベット・ステイングレーでした。

大場政夫 
プロボクシング生涯戦績
38戦35勝16KO2敗1分
第25代WBA世界フライ級王座5度防衛

大場政夫  VS  チャチャイ・チオノイ (1973年)

2021-06-30
【昭和45年】大場政夫 vs.ベルクレック・チャルバンチャイ
1970年10月22日 WBA世界フライ級タイトルマッチ
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