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ファイトの系譜 

【 オールラウンド編 】(アーカイブス)

原田と野村

2022-05-27

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1965(s40)年】-6
◎スポーツ界で快挙 二選
*1965.5.18/ ファイティング原田が、ボクシング世界バンタム級で、日本人初のチャンピオンとなる。
 1965年5月18日、名古屋市愛知県体育館で、プロボクシング世界バンタム級タイトルマッチが行われた。軽量級でも最強のボクサーが集まるとされた「黄金のバンタム」で、50戦無敗の王者エデル・ジョフレ(ブラジル)の9度目の防衛戦に、元世界フライ級王者ファイティング原田が挑戦した。試合は、ジョフレが圧倒的有利と予想されていたが、2-1の僅差の判定で原田が勝利するという番狂わせが生れた。
 ファイティング原田は、1962年10月10日、19歳で世界フライ級王座に初挑戦し、当時の世界フライ級王者ポーン・キングピッチ(タイ)に激しい連打を浴びせ、11Rノックアウト勝ちをおさめた。1952年の白井義男以来、10年目の世界チャンピオンだったが、3ヵ月後のポーンとのリターンマッチで、減量に苦しんで判定で敗れた。
 バンタム級に転向した原田は、1963年9月、「ロープ際の魔術師」の異名を持つ強豪、世界バンタム級3位・ジョー・メデル(メキシコ)と対戦する。5Rまでは、原田のラッシュが勝り一方的な展開だったが、6R、メデルに一瞬の隙をついたカウンターをヒットされ、3度のダウンの末にKO負けした。しかし原田はすぐに再起し、1964年10月、ライバルの東洋王者青木勝利に3R KO勝ちし、バンタム級世界王座への挑戦権をつかんだのだった。
 ファイティング原田のラッシングパワーは、当時テレビジョンの普及とともにブームを迎えつつあったプロボクシングを、一挙に人気スポーツに押し上げた。と同時に、日本のプロボクシング界を世界レベルに引き上げ、次々と原田に続いて世界に挑戦する選手を生み出した。
*1965.10.-/ 南海ホークス野村克也捕手が、戦後初の三冠王に輝く。
 野村克也は名監督としても名を馳せているが、現役時代の生涯記録はざっと挙げても、2901安打(歴代3位)・657本塁打(歴代2位)・1988打点(歴代2位)・ 3017試合(歴代1位)・11970打席(歴代1位)とすごいものが並ぶ。さらにこの年、戦後二リーグ制になって初の三冠王に輝いた。
 1962年、当時シーズン最多本塁打52本を記録するも、翌年、王貞治が55本を打ってあっさり抜かれる。三冠王も、王が73・74年と連続獲得してその栄光は後退、ずっと更新し続けてきた通算最多本塁打・最多打点なども、ことごとく王に抜かれて歴代2位にあまんじることとなる。
 記録面では王に立ちはだかられたが、それ以上にライバル心を焚き付けられた相手は、「記録より記憶に残る男」長嶋茂雄であった。京都府北部の寒村に生まれ育ち、甲子園には無縁な地方公立高校を出て、テスト生として辛うじてプロ野球選手に潜り込んだ野村にとって、東京六大学のスター選手として華々しく巨人に入団、いきなり本塁打王と打点王の二冠を獲得して新人王、そんな長島はまばゆいばかりの存在であった。
 野村が節目の600号本塁打を達成したときの観客は七千人程度、その時のインタビューで、長嶋ら(王も含めて)をヒマワリにたとえ、そして自らをひと目につかずひっそりと咲く月見草に擬したのであった。
(この年の出来事)
*1965.3.20/ 河野一郎国務大臣から、記録性に欠けると批判された市川崑監督「東京オリンピック」が公開され、大ヒットとなる。
*1965.6.12/ 新潟大学の植木幸明教授らが、阿賀野川流域で水俣病に似た有機水銀中毒患者が発生していると発表する。(第2水俣病)
*1965.10.21/ 朝永振一郎博士が、ノーベル物理学賞を受賞決定。
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