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【 TOKYO2020の記録】
映画『東京2020オリンピック SIDE:A/SIDE:B』公式サイト
進む温暖化、夏にマラソンできる? 五輪候補地の3割「中止」の予測
金メダルだけが柔道か 井上康生氏「ブランド価値を高めたい」
東京五輪で柔道日本男子監督を務めた井上康生氏が、柔道のブランド価値向上を目指した活動に着手している。昨年秋、全日本柔道連盟が新設した「ブランディング戦略推進特別委員会」で最高責任者のチーフストラテジーオフィサーに就任。産経新聞のインタビューにオンラインで応じ、柔道の間口を広げる取り組みの必要性を強調した。
「いつも頭を抱えながら、悩みながらいろいろと勉強させてもらっています」。オンライン取材の画面で笑顔を見せた井上氏はこう語った。東京五輪後、強化の最高峰に位置する日本男子監督を退任し、柔道の価値向上の最前線に立つ覚悟で新ポストに就いた。
「選択肢や価値観が多様化する現代社会において、柔道がどのような役割を担い、価値を提供できるのか。さまざまな意見を聞きながら社会貢献を目指していきたい」。井上氏は就任直後にこうコメントした。
井上氏に柔道界の現状を改めて聞くと、こんな答えが返ってきた。
「歴史的な背景でいえば、『一つの観点』にこだわりてすぎたために、(価値を)うまく引き出せなかった現状があるのではないかと感じるところがある。継承と同時に、時代の変化に合わせた新しい何かが付け加えられてくることが大事な要素だと思っている」
日本柔道は、五輪競技の中でも金メダル獲得への期待が高く、日本代表の選手たちは厳しい鍛錬を積んで期待に応えてきた。井上氏自身も2000年シドニー五輪で金メダルを獲得し、監督に就任した16年リオデジャネイロ五輪では全階級メダル、東京五輪は史上最多5階級での金メダル獲得に導いた。
五輪での頂点に立つための「強化」は、井上氏が「一つの観点」と評した部分に含まれる。日本柔道が五輪で金メダルを量産しても、競技人口は減少傾向にある。井上氏は「世界最高峰の戦いに勝つという期待に応えていくことはもちろん、大事なことです。しかし、誤解を恐れずに言えば、五輪の金メダルは『点』にすぎない」と語り、別の観点も、ブランド価値の向上には必要ではないかと投げかける。
その一つとして目を向けたのが、子供たちやシニア世代と柔道の「接点」の拡大だ。
「道場の畳はすごく安全で、子供たちが走り回ったり、転げ回ったりするにはすごく適している。公園でのキャッチボール禁止など、遊び場が制約されている子供たちに、遊びの部分を柔道に取り入れて子供らしく遊べる環境があってもいい」
シニアについても「高齢者が健康で長生きできるために運動する場としても、柔道が還元できるものはあると思っている」という。
「道場はどうしても、正座をして厳しい稽古を積む場という敷居の高さがネックになっているかもしれない。もちろん、伝統を重んじる厳しい道場や施設があってもいいですが、そうじゃない面もあっていいのかなと思う」と伝統を重んじつつ、間口を広げることで柔道に親しむ機会の拡大を見据える。
井上氏自身、幼少期にはソフトボールや水泳にも励んでいた。現在の日本男子を率いる鈴木桂治代表監督も柔道と同時にサッカーに熱中した時期がある。子供のときには柔道一本ではなく、「スポーツ界の横の連携があってもいい」と他の競技と並行して柔道にも打ち込める環境作りの重要性も訴える。
柔道の裾野は変革の時期に差し掛かっている。その一つが小学生の全国大会の廃止だ。
「勝負や戦いから学ぶことや、自分が成長できることはあります。ただ、例えば小学生の全国大会廃止には過度な減量や、審判や相手選手に対して激しいやじを飛ばしたりすることなどが背景にあり、柔道の魅力や価値が引き出されていない現状や、子供たちの成長における最適化がなされていないのではないかと危惧する現状があった」
海外の競技者育成指針などでは、子供の時代にはスポーツから楽しみや喜びを育む重要性が説かれているとし、「モチベーションは段階を踏んで自分自身が求めていく中で作り上げていけばよく、子供たちにはまず柔道の楽しさを感じ取ってもらうところからスタートしてほしい」と願う。
井上氏は現職に就き、全柔連加盟の団体の人たちと意見交換する中で、「たくさんの方々が全国で頑張っている」ことを改めて実感したという。「そのことに感銘し、今後も共に良きカルチャーを作っていくことが不可欠だと思う」。同時に活動を周知し、柔道のブランド価値を高めるためには、「発信力」という課題も痛感した。名実ともに柔道界で群を抜く存在の自身が「広告塔」になる覚悟で新ポストの責務を全うするつもりだ。(運動部 田中充)
「ARIGATO」、お終いです。
閉会式をフルタイムで見る
東京パラリンピック他のハイライト動画は
東京パラリンピック、最後のプログラムとなった閉会式のテーマは「調和のとれた不協和音」。
障がいのあるパフォーマーが「自分の得意なこと」に挑み、見事なハーモニーを奏でた。プロジェクションマッピングとLEDで渋谷のスクランブル交差点が再現されると、若者たちが音とダンスでパフォーマンス!各国旗の入場シーンでは、街を模したオブジェも運び込まれ、“すべての違いが輝く街”、「ダイバー・シティ」がパラリンピアンと共に作られた。
個性豊かなメンバーによるパフォーマンスも行われ、“誰もが自分らしく、ありのままに輝く”というメッセージを東京から世界へと発信した閉会式。
最後は次回開催都市、パリの市長へパラリンピック旗が渡され、聖火が消灯。13日間にわたる静かで熱い戦いに幕が下ろされた。
2021年9月5日
閉会式
第18回 オリンピアード
【1964】 Tokyo is prepared for the biggest Olympic Games l 東京オリンピック特別開催
記録映画
〔円谷幸吉〕円谷のメダルは、東京オリンピックでの日本陸上界唯一のメダルだった
「おれについてこい!」
「東洋の魔女」は、最初は「東洋の台風」だった
【 冬季オリンピックの巻】
北京2020
本当にありがとうございました
Facebook Team JAPANさん曰く
北京五輪閉幕に際しての談話
Facebook 時事通信社さん曰く
ノルディックスキー・ジャンプ女子の高梨沙羅(クラレ)が20日、北京五輪閉幕に際しての談話を日本オリンピック委員会(JOC)を通じて発表し、「応援してくださる全ての方々を失望させる結果になったが、選手やチーム同士、関係者、たくさんの方々が純粋に喜び合えるスキージャンプという素晴らしい競技の場に立つために、現状を鑑みて前進していきたい」と前向きにコメントした。
高梨は5日の個人ノーマルヒルで4位。7日の混合団体は1回目にスーツの規定違反で失格し、日本は4位となった。謝罪のコメントを記したインスタグラムの投稿には、多くの励ましの返信が寄せられた。
高梨は「最後の最後まで支え続けてくれたチームメートとスタッフの方々、温かく優しい言葉で励ましてくれた各国・地域の選手・スタッフ、皆さんに本当に助けられた」と感謝の意を示した。
ジャンプ女子のワールドカップ(W杯)は25日にオーストリアで再開する。 (時事)
こうした話が美談として語る必要のない“環境整備”が必要だ!!
昨夜閉幕した北京オリンピック。日本は金メダル3個、銀メダル6個、銅メダル9個と冬季オリンピック史上最多となる18個ものメダルを獲得した。2大会連続での記録更新となった。
ただ、夏のオリンピック競技に比べて、冬季競技は厳しい競技環境にある。用具や練習、遠征にかかる費用も高額だ。選手たちの活躍は、家族の支えがあってこそだった。日本女子史上最多となるメダル7個を獲得した高木美帆、その姉で今回、銀メダルを獲得した菜那の姉妹も例外ではない。平昌五輪の際、高木姉妹の家族たちのサポートを報じた記事を再公開する。(初出:週刊文春 2018年3月8日号 年齢・肩書き等は公開時のまま)
高木姉妹を支え続けた「両親の献身」
活躍は両親の献身なしには考えられないと、一家の知人は語る。
「父の愛徳(よしのり)さんは会社勤め、母の美佐子さんも美帆ちゃんが幼稚園の頃に新聞販売店の託児所に預けて、新聞配達を始めました。スーパーのレジ打ちと掛け持ちしている時期も長かった。お兄さんも含めて子ども三人がスケートをやっていましたから、走るように歩く、いつもそんな感じで忙しそうでした。でも笑顔を絶やさない素敵な人なんです」
子供たちも中学に上がると母の新聞配達を手伝った。
「早朝に新聞を配って、それからトレーニングを兼ねて高校まで自転車で通っていました。お正月はお父さんも一緒になって配っていましたよ」(近所の人)
妹の美帆は中学生でバンクーバー五輪出場を果たし、注目を集めたが、決して天狗になることはなかった。姉妹が小学生の頃から通った「高橋まんじゅう屋」の高橋美哉さんが語る。
「美帆ちゃんが高校三年生の夏休みですね。私が体調悪くしていたら、『三日間オフがあるから、何かお手伝いできることありますか?』って。お金ほしいとかそういうことじゃなくてね。働いていても、常に目が動いてて、他の人の動きを見て判断してる。美帆ちゃんの場合は一個言ったら十わかる。普通の子なら一カ月かかるような仕事を三日ですぐ覚えて。計算も一度も間違えなかった」
姉の菜那は高校卒業後、スピードスケートの名門・日本電産サンキョーに就職した。帰省した際、家族ぐるみで交流のあった「竹葉寿司」に一家で出かけた。
「もう胸いっぱいという感じで、お鮨も喉通らない(笑)」
「菜那ちゃんが食べる前に『今日は私が払うから』って言ったもんだから、お父さんはもう胸いっぱいという感じで、お鮨も喉通らないみたいだったね(笑)」(店主の杉山雪男さん)
姉妹がスケートを始めるきっかけを作った兄の大輔さんは語る。
「スケートってすごくお金かかる競技なので、両親は大変な思いをしたと思います。前々から両親にメダルをかけたい、いろんな方に恩返ししたいって言っていました」
娘たちの快挙達成を、母の美佐子さんは笑顔でこう振り返る。
「お金の苦労はですね、確かにありました(笑)。でもそれを苦労だと思ったことは、一度もないんです」
(「週刊文春」編集部/週刊文春 2018年3月8日号)
NHK | 【閉会式・総集編】17日間に渡った冬のスポーツの祭典が閉幕。
オリンピックの思い出
昭和100年へ ミュンヘン五輪、日本バレー初の「金」から53年
1972(昭和47)年夏に開催されたミュンヘン五輪。バレーボール男子決勝で日本が東ドイツに3-1で勝ち、初の金メダルを獲得した。64年の東京五輪後に就任した松平康隆監督(故人)のもとに集まった日本の精鋭は、世界の頂点を目指して「8年計画」で猛練習を繰り返し、新戦術も編み出した。当時のメンバーで〝ミスターバレーボール〟と呼ばれた森田淳悟氏(77)=日体大名誉教授=が、激闘の日々を振り返った。(取材構成・山下幸志朗、只木信昭)
日本バレーボール界で燦然と輝く、男子唯一の金メダル。1972年9月9日、ミュンヘン五輪決勝。第4セットの14-10から東ドイツのスパイクがラインを越える。センターの森田は両手を突き上げた。白地に赤のユニホームを身にまとった日本の選手たちに歓喜の輪ができた。