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【 TOKYO2020の記録】
50歳の金メダリスト 自転車 杉浦佳子のメッセージ
本日2021年9月1日で開業57周年
ボッチャ杉村英孝が接戦制し決勝進出「しびれました」 個人では日本勢初メダル確定
◇東京パラリンピック第8日 ボッチャ(2021年8月31日 有明体操競技場)
個人(脳性まひBC2)準決勝で世界ランキング2位の杉村英孝(39=伊豆介護センター)がマシエル・サントス(ブラジル)を3―2で下し、個人種目の日本勢では初のメダルとなる銀メダル以上を確定させた。
12年ロンドン大会覇者の難敵を接戦の末に下した。2―2で迎えた最終エンドの最終6投目。5投目をミスして追い込まれた中、ジャックボール(目標球)にピタリと寄せて土壇場で1点をもぎ取った。勝利を確信して何度もガッツポーズ。「本当にしびれましたね。準決勝の良い舞台でサントス選手と試合をさせてもらったことに感謝したいし、ファイナル進出を素直に喜びたい」と目尻を下げた。
同日のスロバキア選手との準々決勝は終始主導権を握って快勝。準々決勝で散った16年リオデジャネイロ大会から「過去の自分に勝つことをテーマにやってきた」という壁を破って勢いに乗った。9月1日の決勝へ「特別な舞台ですけど目の前の試合一つ一つを大切にしたいというのは変わらない。チャレンジャーな気持ちで戦いたい」と力を込めた。
世界女王になった中西麻耶、4度目のパラもメダル届かず
■陸上 女子走り幅跳び(義足・機能障害T64)
「今まで戦ってきたパラリンピックで一番苦しい大会になった」。陸上女子走り幅跳び(義足・機能障害T64)の中西麻耶にとって4度目の挑戦は6位。メダルは遠かった。
前回リオデジャネイロ大会は4位入賞。2年前の世界選手権で初優勝し、「世界女王」の称号を持って臨んだ舞台だった。
ライバルたちが次々と5メートル後半に届くなか、なかなか調子が上がらない。6位で迎えた最終試技は一般客のいない会場に手拍子を求めた。踏み切り板のぎりぎりを攻めたが、ファウル。立ち上がると一礼し、スタンドに手を振った。
コロナ禍のなかで地元大分から関西へ拠点を移し、男子走り幅跳びで日本選手権優勝経験がある荒川大輔さんの指導を受けてきた。公園や河川敷を活用した練習で確実に走力は増した。ただ、この日は「スプリント力は上がっても、跳躍につなげられなかった」。
これで一つの挑戦は終わったが、アスリートとしての道は続く。「大分の競技場に帰って、もう一度、楽しんでみんなと練習をしたい」。吹っ切れたような笑顔で言った。(松本龍三郎)
屈強エース・池崎大輔の悔し涙 車いすラグビー、英に動き読まれ
日本のエース、池崎大輔は何度も天を仰ぎ、うなだれた。敗戦の事実を受け入れ、屈強な上半身を小さくたたみ涙をこぼした。「困難を乗り越えて輝ける舞台を作ってもらったので、勇気や元気を伝えたい思いだった。力不足で情けない」
障害の程度が比較的軽い「ハイポインター」の池崎は、スピードを生かして得点を量産する役目を負うが、激しく圧力をかける英国にマークされ、ハンドリングやパスでミスが相次いだ。
池崎だけではない。日本が誇る世界屈指のハイポインター陣は、動きを先読みされ自由を奪われた。第2ピリオド終了時は23―25と粘っていたが、ミスにつけ込まれ、立て続けに得点を許した第3ピリオドを終えると、33―42にまで差が開いた。池崎は「勝ったら銀メダル以上。味わったことのない緊張感だった」と目を赤くした。
北海道函館市出身の43歳。6歳の時に筋力が徐々に低下する難病「シャルコー・マリー・トゥース病」が判明し、30歳で車いすラグビーを始めた。巧みな車いす操作や闘争心を武器に地力を伸ばし、2016年リオデジャネイロ・パラリンピックでの銅メダルに貢献。日本が優勝した18年世界選手権では最優秀選手に輝いた。
新型コロナウイルスの感染拡大で東京大会が延期され、心は揺れ動いた。「開催を前提に準備する。そう言い聞かせ、気持ちが上がって、また折れて。その繰り返し」と語る時期もあった。つなぎ留めたのは金メダルという目標だった。それだけに喪失感は計り知れない。
だが、池崎には「障害のある子供にアスリートとして生きる道があると示したい」という決意もある。思い描いた結果ではなかったが、まだ3位決定戦がある。再び心を奮い立たせるしかない。【谷口拓未】
第18回 オリンピアード
【1964】 Tokyo is prepared for the biggest Olympic Games l 東京オリンピック特別開催
記録映画
〔円谷幸吉〕円谷のメダルは、東京オリンピックでの日本陸上界唯一のメダルだった
「おれについてこい!」
「東洋の魔女」は、最初は「東洋の台風」だった
【 冬季オリンピックの巻】
冬季オリンピック 過去最多『14個目のメダル』獲得
FacebookTeam JAPANさん曰く
「日本チームを応援して下さっている全ての皆様」
【北京五輪】スキージャンプ女子の高梨沙羅が8日、自身のインスタグラムを更新。新種目スキージャンプ混合団体に出場し、スーツの規定違反により1回目の得点が無効となったことに触れ「日本チーム皆んなのメダルのチャンスを奪ってしまった」などと謝罪した。
高梨は「日本チームを応援して下さっている全ての皆様」と題し、真っ黒な画像を掲載。「今回、私の男女混合団体戦での失格で日本チーム皆んなのメダルのチャンスを奪ってしまったこと、そして、今までチームを応援してくださった皆様、そこに携わり支えて下さった皆様を深く失望させる結果となってしまった事、誠に申し訳ありませんでした」と謝罪し、「私の失格のせいで皆んなの人生を変えてしまったことは変わりようのない事実です」と記した。
「謝ってもメダルは返ってくることはなく責任が取れるとも思っておりませんが今後の私の競技に関しては考える必要があります。それ程大変なことをしてしまった事深く反省しております」と心境を吐露。「私のせいでメダルを取れなかったにも関わらず、最後の最後まで支え続けてくれた有希さん、幸椰さん、陵侑、そして日本チームのメンバーの皆さま、スタッフの皆さまには感謝してもしてきません。こんな私を受け入れてくれて本当にありがとうございました。この度は本当に申し訳ありませんでした」とつづった。
この投稿に対し、「あなたは日本の誇りです」「謝ることなんて何一つないです」「胸を張って帰国してください」「本当に感動したし、ありがとうって伝えたいです」などと励ましのコメントが相次いで寄せられている。
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オリンピックの思い出
昭和100年へ ミュンヘン五輪、日本バレー初の「金」から53年
1972(昭和47)年夏に開催されたミュンヘン五輪。バレーボール男子決勝で日本が東ドイツに3-1で勝ち、初の金メダルを獲得した。64年の東京五輪後に就任した松平康隆監督(故人)のもとに集まった日本の精鋭は、世界の頂点を目指して「8年計画」で猛練習を繰り返し、新戦術も編み出した。当時のメンバーで〝ミスターバレーボール〟と呼ばれた森田淳悟氏(77)=日体大名誉教授=が、激闘の日々を振り返った。(取材構成・山下幸志朗、只木信昭)
日本バレーボール界で燦然と輝く、男子唯一の金メダル。1972年9月9日、ミュンヘン五輪決勝。第4セットの14-10から東ドイツのスパイクがラインを越える。センターの森田は両手を突き上げた。白地に赤のユニホームを身にまとった日本の選手たちに歓喜の輪ができた。