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あの人 この人

あの人

東宝の花々 京・司・団・星

2020-10-27
Facebook小堀ようこさんの投稿

淡島千景、津島恵子、藤田恭子、水原真知子、岸恵子 

2020-10-26
昭和の美しい水着 Facebook永井由紀夫さんの投稿より
右から淡島千景、津島恵子、藤田恭子、水原真知子、岸恵子 

キャンディーズ

2020-10-22
Facebook永井由紀夫さんの投稿

ソフィア・ローレン

2020-10-21
共演は、アラン・ラッド

彼は、秋田犬です。

2020-10-21
Facebook佐々木信雄さんの投稿です。
【20th Century Chronicle 1934年(s9)】
◎忠犬ハチ公像
*1934.4.21/ 渋谷駅前に、忠犬ハチ公の銅像が建てられる。
 「忠犬ハチ公」は、死去した飼い主の帰りを渋谷駅前で待ち続けたという犬として知られる。飼い主であった東京帝大教授上野英三郎の生前、秋田犬のハチは主人の通勤の行き帰りに、玄関先や時には駅まで送り迎えしていたが、上野は大学での会議中に急死する。その後ハチは関係者間を転々とするが、2年後、近くに住んでいた上野宅出入りの植木職人に引き取られた頃から、渋谷駅周辺にその姿を見せるようになった。
 渋谷駅前に現れ亡き主人を待つようになったハチだが、当初は通行人や商売人から虐待を受けたり、子供の悪戯の対象となっていた。一方で、忠実なハチのことを知る日本犬保存会会長斎藤弘吉は、邪険に扱われているハチを哀れみ、ハチの事を新聞に寄稿した。これは新聞に「いとしや老犬物語」というタイトルで掲載され、その内容は人々の心を打ち、ハチの事は広く知られるようになった。以降、有名となったハチは「ハチ公」と呼ばれかわいがられるようになる。
 ハチの美談に感動した著名彫塑家安藤照は、斎藤弘吉にハチの銅像を作りたい希望を伝え、この結果、日本犬保存会からの依頼によりハチの像が作成されることとなった。1934(昭9)年4月21日、完成した「忠犬ハチ公像」が渋谷駅前に設置され、盛大に除幕式が行われた。生存中に自らの像が作成・設置されたハチは自身も式典に参加したが、そのほぼ1年後に死亡する。この時、主人の上野教授が亡くなってから10年近く経っていたが、ハチ公像の周囲は花環で埋まり、大勢の人々が集まってハチの死を哀れんだ。
 やがて、日中戦争から太平洋戦争にかけて金属物資の不足が深刻化し、1941(昭16)年、金属類回収令が施行される。渋谷駅前で目立つ場所のハチ公銅像も、当時の金属供出の流れに抗えず、終戦直前には熔解されて機関車の部品となったとされる。戦時中の金属供出によって失われた忠犬ハチ公像は、終戦後の1948(昭23)年8月、安藤照の息子安藤士の手によって再建される。
 現在渋谷駅前に見られるハチ公像はこの時再建されたもので、再建直後の同年8月30日には、「三重苦」を克服した奇蹟の人ヘレン・ケラーが、二度目の来日で渋谷駅前を訪れてハチ公像に触れている。まったく関係ないが、まさにこの翌日に私は生まれました(笑)
 なお、ハチ公が渋谷駅に出没したのは、まわりの人から餌をもらえたからだという説もある。もちろん、大いにそれもあり得るが、それはどうでもいいことで、多くの人が主人を待ち続けたとしてハチ公を愛したことが重要であろう。むしろ「忠に、孝に」という教育勅語の精神を体現したものとして、忠「犬」を持ち上げねばならなかった当時の時世を笑うべきである。
(この年の出来事)
*1934.1.15/ 共産党内で、裏切り・スパイ疑惑での査問事件が発覚(赤色リンチ事件)。戦後には産党委員長となる宮本顕治らが、治安維持法違反・監禁致死などで有罪となる。
*1934.3.1/ 満州国に帝政がしかれ、執政だった溥儀が皇帝に即位する。
*1934.10.15/ 中国紅軍が、国民政府軍に追われて江西省瑞金を出発、一年にわたる「長征(大西遷)」を開始する。この過程で、毛沢東が中国共産党の実権を掌握する。
*1934.11.1/ 満鉄が大連-新京間を8時間20分で走る特急「あじあ号」の運転を開始する。
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