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三宅正治と軽部真一、フジの看板アナがW定年
「フジを代表する情報番組『めざましテレビ』で総合司会を務める三宅正治アナとエンタメキャスターを務める軽部真一アナが今秋、ともに60歳になり定年を迎えるんです。そのため秋の番組改編で、総合司会者などの見直しが検討されているといいます」(フジテレビ関係者)
1994年に番組がスタート。過去には小島奈津子アナや高島彩アナ、加藤綾子アナなどが司会を務めており、人気アナの登竜門ともいえる番組になっていたが……。
「三宅アナと軽部アナを定年まで起用していることからもわかるように、今のフジテレビには実力派こそそろっているものの、看板になる男性アナウンサーが育っていません。2人に代わるのは伊藤利尋アナと佐野瑞樹アナでしょうが、ほかの仕事との兼ね合いを考えると、あまり現実的ではない。看板アナが同時に抜ける穴はかなり大きいと思います」(エンタメ事情に詳しいフリーライターの大塚ナギサさん)
衣輪晋一 メディア研究家。雑誌『TVガイド』やニュースサイト『ORICON NEWS』など多くのメディアで執筆するほか、制作会社でのドラマ企画アドバイザーなど幅広く活動中
“日本の母”戸田奈津子さんトム・クルーズのプレミアイベント駆けつけ「母なんて失礼よ、彼に」
米俳優トム・クルーズ(59)主演映画「トップガン マーヴェリック」(ジョセフ・コシンスキー監督、27日公開)ジャパンプレミアが24日、横浜港大さん橋で行われた。席上に、クルーズから「日本の母」と慕われる、映画字幕翻訳家で通訳の戸田奈津子さん(85)が駆けつけた。
クルーズの来日は、18年7月の「ミッション:インポッシブル/フォールアウト」以来、3年10カ月ぶり24回目となった。戸田さんは久々の生対面に「いやぁ~もう、相変わらず、すてきでございます。全然、変わらない。私、40年、付き合ってきましたからね」と目を細めた。
通訳は引退しても「日本の母」としての存在感は絶大で、多くのカメラマンが戸田さんの姿を見つけると、シャッターを切った。「日本の母」と呼ばれることについて「そんなこと失礼よ、彼に…。彼のお母さんにも失礼です」と笑みを浮かべた。
この日、クルーズは、3年10カ月ぶりに再会した日本のファンとの交流を1時間強にわたって楽しんだ。戸田さんは「本当に、ファンが大好きだから…」と感慨深げに口にした。
皇后雅子さま 赤十字大会で「うっかり」ハプニングと衣装のリメイクが意味すること
5月19日、皇后雅子さまが全国赤十字大会に出席した。単独の皇居外での公務は2019年8月のナイチンゲール記章授与式に出席して以来、2年9カ月ぶりであった。ご体調も良く、この日、とびきりの笑顔を見せた雅子さま。実は、雅子さまは衣装をリメイクすることも多いのだ。「私の娘の愛子と同じ年の21歳ですよね。すごくしっかりしていますね」「あ、オハイオ州!」雅子さまは会場を出る際、奉迎に立った青少年赤十字卒業生奉仕団の大学生らの緊張を解こうとするかのように、和やかなムードで話しかけた。
19日、渋谷区の明治神宮会館で全国赤十字大会が3年ぶりに開催された。日本赤十字社の名誉総裁を務める雅子さまは、副総裁の紀子さまや他の妃殿下とともに出席した。
■体調の好調ぶりが伝わる場面が何度も
日本赤十字社と皇后のつながりは深い。1912年に明治天皇の皇后であった昭憲皇太后は、赤十字の活動のために現在の3億5千万円相当にあたる10万円を寄付した。これにより「昭憲皇太后基金」が設立された。第一次世界大戦の勃発が迫るなかで、各国の赤十字社は戦場での救護に追われていた。加えて地震や台風、火災などの自然災害の脅威にもさらされるなかでの国際基金の設立は画期的なことであった。この基金は現在も、世界中の赤十字の活動に使われている。1947年には、香淳皇后が日本赤十字社の名誉総裁に就任。以来、歴代皇后がその役を務める。皇后の重要な公務のひとつであり、雅子さまが皇居の外で単独で務める公務としては、2年9カ月ぶりだった。この日は体調の良さが伝わる場面が何度もあった。記事冒頭の写真は、追っかけ大学生の阿部満幹さんが帰路につく雅子さまを撮影した一枚だ。注目したいのは、雅子さまがしっかりとカメラ目線であることだ。体調の悪いときは、人の視線を避けることが多かった。「最近は、しっかりと目線を合わせてくださいます。僕も、カメラ目線の写真を撮影できる機会が増えました。この日は晴天に恵まれて、大洋の日差しがちょうどスポットライトのように皇后さまを照らしていました。なにより、笑顔は自信に満ちていらしゃいました」大会では皇后が日赤の事業に貢献した13名に有功章を授与する。久しぶりの単独公務で雅子さまも緊張していたのだろうか。こんなシーンもあった。
■「うっかり!」ハプニングの皇后雅子さま
受章者はまず壇上で一礼して、さらに名誉総裁である皇后雅子さまの前に一礼したのち授与される。1人目の受章者が、雅子さまの前に歩を進めた。ところが、受章者が2度目の礼をする前に、雅子さまが有功章を渡しかけてしまうというハプニングも。5人目の受章者は、車椅子で壇上に上がった。雅子さまが、身体をかがめて視線を合わせながら授与するその姿は、国民とともに歩んだ平成の皇室を彷彿とさせた。この全国赤十字大会で名誉総裁を務める皇后は、平成の時代から白を貴重に紺などのブルー系の差し色が入ったスーツを着ることが多い。名誉総裁の皇后や名誉副総裁に就く皇族妃は、赤十字社の赤色の紀章を胸に付ける。紀章が目立つようにとの配慮だと思われる。2019年5月に催された前回の大会のときも雅子さまは、白を基調に紺のアクセントが入ったスーツを着こなしている。令和皇室の色がにじむのは、この日の雅子さまの着こなしだ。この日、追っかけで集まった皇室ファンの間でも、「雅子さまのスーツは新調されたものでは?」と話題になっていた。その通り、スーツは新調されている。しかし、帽子はリメイクだ。事情を知る関係者がこう話す。「皇后さまのスーツの襟と袖口とポケットには、夏らしく紺のオーガンジーの素材が使われています。同じ紺のオーガンジー生地を二重に重ねて、前からお使いになっていた帽子のリボンの部分を張り替えて、今回は着用されました。皇太子妃時代から、リメイクなさることは少なくないのです」リメイクといえば、昨年12月に二十歳の成年を迎えた愛子さまは、ティアラを新調せず、叔母の黒田清子さんのティアラを借りて成年の儀式に臨んだ。サイズを合わせるために多少の手直しは、必要だったと思われる。コロナ禍で厳しい生活を送る国民に配慮し、両陛下と相談して決めたと公表され、海外紙なども「思慮深いプリンセス」と令和の天皇ご一家を絶賛した。皇后雅子さまと内親王の愛子さまが国民の生活に心を寄せた結果、意識的に衣装などのリメイクをなさっている部分もあるだろう。「たしかに、お持ちの衣装をきれいに大切にお使いです。リメイクされることも少なくありません」天皇ご一家を知る関係者はそう話すが、一方で、別の理由もあると言う。
■オーダーメイドに耐えうる皇族方の体力
天皇や皇族方が公務で着用する衣装は、オーダーメイドでデザイナーが仕立てる。そのためには、採寸や仮縫いなどに要する時間もあり、発注するご本人も体力が必要だ。雅子さまは、まだご体調に波があり、オーダーで仕立てるのが難しい時期もあった。また、公務への出席がギリギリまで判明しないため、長い間、新しい衣装を作らず、昔の衣装のサイズ直しをしたり軽いリフォームを施して着用することも少なくなかった。「その意味では、今回スーツをオーダーなさったのは、ご体調がよい状況が続いた証しですね」(宮内庁関係者)大会が終わり、会場となった渋谷区の明治神宮会館を出発した。車から手をふる雅子さまは、ひと目姿を見ようと集まった人びとに、とびきりの笑顔を見せた。 (AERAdot.編集部・永井貴子)
この人(縁の下の力持ち的存在・・・)
ノーベル賞
ノーベル賞ということ
のらくろ
小林一三
時機相応について 時代と人
『まんが日本昔ばなし』 常田富士男さん市原悦子さん
番宣CM 1983 まんが日本昔ばなし 市原悦子 常田富士男
番宣CM 1983 まんが日本昔ばなし 市原悦子 常田富士男
市原悦子さん まんが日本昔話 花咲か爺さん
常田富士男さん まんが日本昔ばなし 「としがみさま」
今日はルキノ・ヴィスコンティの命日らしい。
Faceboo永井資久さん曰く
アナから弁護士になってさらに早大院修了 菊間千乃、学び続けた早稲田愛(2019年公開)
Facebook 早稲田ウィークリーさん曰く
伝説の石原軍団 社長・裕次郎さんが倒れたことでより強まった結束力
大スター・石原裕次郎が芸能界で作った伝説のひとつが、今なお語り継がれる「石原軍団」の鉄の結束であろう。国民的スターとなった石原裕次郎が1962年に石原プロモーションを旗揚げしてからしばらくは、『黒部の太陽』(1968年)や『栄光への5000キロ』(1969年)の大ヒットで景気がよかったが、1970年代に入ると映画産業の斜陽化とともに大きな負債を抱え、倒産寸前に追い込まれていた。だが、テレビドラマに進出した石原プロは、『太陽にほえろ!』(日本テレビ系、1972~1986年)や『大都会』(日本テレビ系、1976年)など、ド派手なアクション路線で人気を博し、苦境を脱する。そして『西部警察』(テレビ朝日系、1979年)で、その人気は頂点を極めた。裕次郎演じる西部警察署の捜査課長・木暮謙三と渡演じる刑事のリーダー・大門圭介を中心に繰り広げられる人間ドラマと爆破やカーチェイスに、視聴者は釘付けになった。「使用した火薬4.8トン」「壊した車両4680台」「飛ばしたヘリコプター600機」「始末書45枚」という数々の伝説を生んだ。PARTIの途中から最終話まで刑事ジョー役で出演した御木裕氏が語る。「もともと石原慎太郎さんと知り合いだった縁で、20歳で石原プロに入って右も左も分からぬまま『西部警察』で役者デビューしました。撮影現場では、渡さんが来ると良い意味で現場の空気がピリッと引き締まり、裕次郎さんが現われるとみんながイキイキと動き出す。渡さんがロケの宿泊先でみんなを集めて『正座しろ』みたいなこともあったけど、そういう体育会系なところもみんなで楽しんでいました。裕次郎さんと渡さんを中心とする結束の固さが、作品の魅力を生み出したんだと思う」だが、『西部警察』のロケ中だった1981年4月に大事件が発生する。裕次郎が解離性大動脈瘤で倒れ、緊急入院したのだ。「もし、最悪の事態になったら、私も連れていってもらいたい。石原に殉じたい気持ちです」ワイドショーに出演した渡は涙ながらにそう語った。その後、裕次郎は奇跡の復活を遂げるが、病気で倒れたことをきっかけに石原プロは新たなステージへと突入した。良純が語る。「もともと石原プロは太陽のような存在だった石原裕次郎を慕って集まった男たちの集団だったけど、社長が倒れたことで親分の夢を受け継いで作品を作っていこうと決意した。『社長のために』という一つの方向性を持つ男たちの結束力が、より強まっていったんですよね。酒はあまり飲まないほうだった渡さんが、ロケ後の夜や休みに若い連中を集めて、ワイワイと楽しむようになった。『社長の代わりに、俺がやらなきゃいけない』との責任感があったんだと思う」渡を中心に団結を深めた石原プロは「石原軍団」と呼ばれるようになり、熱い男たちの集まりとのイメージが世間に定着していった。(文中一部敬称略)
※週刊ポスト2022年2月18・25日号