本文へ移動

あの人 この人

あの人

親と男

2020-10-15
父 佐田啓二
男 中井貴一
出典http://blog.goo.ne.jp/
『君の名は』、岸恵子と共演

西行

2020-10-15
今日は、1140年の10月15日に鳥羽上皇の北面の武士・佐藤義清が出家し西行と名乗った日です
Facebook平野めぐみさんの投稿
西行というとどのようなことを連想されるでしょうか?
歌人として多くの歌を残されています。
私は、能の「西行桜」を思い出します。
【西行とは】
西行像
MOA美術館蔵
出典Wikipedia
西行(さいぎょう、元永元年〈1118年〉 - 文治6年2月16日〈1190年3月31日〉)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての日本の人物。武士であり、僧侶、歌人でもある。俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。憲清、則清、範清とも記されます。出家して法号は円位、後に西行、大本房、大宝房、大法房とも称しました、
1140年23歳で出家しました。しばらくは都の周辺に庵居していましたが、のちに高野山に入りました。しばしば伊勢、熊野、吉野などを旅をして、また、三十六歌仙の一人である能因の跡を追って陸奥に下向、歌枕を巡って詠作しています。50歳代の初めには、崇徳院の墓参と弘法大師の遺跡巡礼のために四国へ旅し、1186年、69歳のとき、俊乗房重源に委嘱されて、東大寺再建の勧進のため再度の奥州旅行に出ました。途中鎌倉の源頼朝にも謁しています。しかし、生涯を旅に過ごしたわけではなく、都近くにも住み、藤原俊成とその周辺の人びとを歌友として歌道に精進しました。
【西行の和歌】
西行の詠んだ和歌は、約2300首と言われています。
その歌は生活体験に基づく清澄な自然詠を多く詠んでいます。
勅撰集では『詞花集』に初出(1首)。『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』(六家集の一)、『山家心中集』(自撰)、『聞書集』。その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者と目されています。
【西行が出家した理由】
(1)仏に救済を求める心の強まり
(2)急死した友人から人生の無常を悟った
(3)皇位継承をめぐる政争への失望
(4)自身の性格のもろさを克服したい
(5)“申すも恐れある、さる高貴な女性”との失恋。彼は歌会などを通して仲を深めた鳥羽院の妃・待賢門院(崇徳天皇の母)と一夜の契りを交わしたが、「逢い続ければ人の噂にのぼります」と振られてしまった等々、こうした様々な感情が絡み合った結果、妻子と分かれて、出家したと。
いろいろな説があってどれがとは確定できていません。
法号の「西行」は阿弥陀仏の極楽浄土が西方にあることからと言われています。
【西行の逸話】
○東大寺の勧進
1186年、文治二年、西行69歳、2回目の奥州の旅に出ています。旅の目的は東大寺の大仏建立のための勧進の旅でした。この時、西行に依頼をしたのが、東大寺の大勧進職(だいかんじんしょく)の重信でした。東大寺再興の沙金(砂金)勧進のため、奥州平泉への旅に出発し、鎌倉にて源頼朝と会談した(吾妻鏡)。頼朝に旅の趣旨を説明し了解を得るためだったといわれています。
○ 出家の際に衣の裾に取りついて泣く子(4歳)を縁側から蹴落として家を捨てたという逸話が残っています。この出家に際して以下の句を詠みました。
「惜しむとて 惜しまれぬべき此の世かな 身を捨ててこそ 身をも助けめ」
○ 西行戻し
各地に「西行戻し」と呼ばれる逸話が伝えられています。共通して、現地の童子にやりこめられ恥ずかしくなって来た道を戻っていく、というものです。
* 松島「西行戻しの松」
* 秩父「西行戻り橋」
* 日光「西行戻り石」
* 甲駿街道「西行峠」
○ 源頼朝との出会い
* 頼朝に弓馬の道のことを尋ねられて、「一切忘れはてた」ととぼけたといわれています。
* 頼朝から拝領した純銀の猫を、通りすがりの子供に与えたとされています。
この項出典
Wikipedia
【能 西行桜】
能に西行桜という作品があります。
『西行桜』(さいぎょうざくら)は、世阿弥作の能楽作品で成立は室町時代です。
○西行桜あらすじ
京都、西行の庵室。春になると、美しい桜が咲き、多くの人々が花見に訪れる。しかし、今年、西行は思うところがあって、花見を禁止した。 一人で桜を愛でていると、例年通り多くの人々がやってきた。桜を愛でていた西行は、遥々やってきた人を追い返す訳にもいかず、招き入れた。西行は、「美しさゆえに人をひきつけるのが桜の罪なところだ」という歌を詠み、夜すがら桜を眺めようと、木陰に休らう。
その夢に老桜の精が現れ、「桜の咎とはなんだ」と聞く。「桜はただ咲くだけのもので、咎などあるわけがない。」と言い、「煩わしいと思うのも人の心だ」と西行を諭す。老桜の精は、桜の名所を西行に教え、舞を舞う。そうこうしているうちに、西行の夢が覚め、老桜の精もきえ、ただ老木の桜がひっそりと息づいているのだった。
【西行の晩年の歌】
「願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ」
その意味は「願うことなら、旧暦2月15日の満月の頃、満開の桜の下で死のう」という歌です。現在で言う3月中旬以降の満月の日にあたり、ちょうど桜が花盛りを迎える時期です。自ら望んだ日のわずか1日遅れで亡くなりました。
私も桜の花の下でこの生を終えることができればと西行のように願っています。
【京都の西行ゆかりの地】
○円山公園
 西行庵(さいぎょうあん)
 西行が「祭華園院」を営んだ真葛ヶ原の旧蹟で、西行堂、母屋、離れ「皆如庵」などが現存している
○西行井戸
 嵯峨野の落柿舎の北側、天龍寺の塔頭弘源寺の境外墓地の東側にある。小倉山山麓に住んでいた西行法師が、この井戸の水を用いていたといわれる。
○西行井戸百人一首歌碑
 去来墓の周りに立てられている歌碑句碑
○小倉百人一首文芸苑嵐山東地区
小倉百人一首歌碑巡りの一つ
○弘源寺
西行法師ゆかりの井戸がある。
○鳥羽離宮西行寺跡(さいぎょうじあと)
 西行法師が、出家前に北面武士として鳥羽法皇に仕えていた頃の邸宅跡といわれる。江戸時代に庵室(西行寺)が建てられ、境内には月見池や剃髪堂があった。
○二尊院 西行法師庵の跡
西行が、出家後、仏道修行と和歌三昧の生活を送り、二尊院門前近くにも庵を結んだとされる。門前に、庵跡を示す石標が立てられている。
「我がものと 秋の梢を思うかな 小倉の里に家居せしよ里」
○勝持寺
 西行法師が、出家して庵を結んだといわれる。西行姿見ノ池がある。鐘楼の傍に、西行が植えたゆかりの八重桜「西行桜(さいぎょうさくら)」がある。
不動堂の前に、西行が剃髪に用いたものといわれる光沢がある鏡石(かがみいし)がある。
○青蓮院
西行ゆかりの宮城野の萩がある。
○鹿ヶ谷
 後白河法皇の側近で法勝寺執行の地位にあった俊寛僧都の山荘があったところで、藤原成親・西行らにより平家打倒の密議が行われたところ。

46年前の今日、長嶋茂雄引退試合。

2020-10-14
巨人軍は永久に不滅ですと挨拶した日

訃報 筒美京平

2020-10-14
「もしもし私 誰だか分かる?」これは薬師丸ひろ子さんが夜中に、松本隆先生へ 電話した時の台詞だとか
Facebook永井由紀夫さんの投稿より
あなたをもっと知りたくて
作詞松本隆 作曲筒美京平
歌の中に入る
「もしもし私 誰だか分かる?」これは薬師丸ひろ子さんが夜中に、松本隆先生へ
電話した時の台詞だとか
スマホなんかない時代 待ち合わせは喫茶店が重宝されました
また伝言板  伝言板で思い出すのが俺たちの旅笑
そして毎回最後にテロップに写し出される 人生訓

こんな後輩とも共演なさいました。

2020-10-13
映画「麦秋」の原節子さん(左)と淡島千景さん(C)松竹
映画「麦秋」より(C)松竹
【時事通信社】の弔意記事より
原節子さんは1920年生まれ。神奈川県出身。第二次大戦前から「新しき土」などの映画に出演。戦後も「わが青春に悔なし」「安城家の舞踏会」「青い山脈」「晩春」「めし」「東京物語」「秋日和」など、日本映画の黄金期に数多くの名作に出演し、「忠臣蔵 花の巻・雪の巻」を最後に女優を引退。以後、公の場に姿を見せていなかった。
TOPへ戻る