闘いの歴史
闘いの記録 (戦争と人間)
Emperador (2012)
映画『日本のいちばん長い日』
満州国皇帝溥儀訪日 皇紀2600年【AIカラー化・高精細化】/ Puyi visited Japan in 1940
切符で服を買う、馬がバスを引く 80年前の戦時日本
1月、日本軍は南方資源の輸送ルートを確保するため、米統治下のフィリピンの首都マニラを占領。各地に侵攻していきました。4月にバターン半島で捕虜を収容所まで長時間歩かせた行為は「バターン死の行進」と呼ばれ、多数が死亡しました。
■背広50点、もんぺ10点 靴下1点
2月、政府は物資不足に対応するため、衣料切符制を実施。「背広三つぞろい50点」「国民服32点」「もんぺ10点」「靴下1点」などと点数が決められていました。現金があっても、衣料切符がなければ品物を購入できませんでした。
4月、米軍は太平洋上の米空母「ホーネット」からB25爆撃機16機を発進させ、東京や横浜、名古屋、神戸などを空襲しました。米軍による初の日本本土空襲で、数十人の死者が出ました。指揮したドゥーリトル中佐にちなみ、ドゥーリトル空襲と呼ばれています。
6月、ミッドウェー海戦で、主力空母の「赤城」「加賀」「蒼龍(そうりゅう)」「飛龍(ひりゅう)」が日本の暗号を解読していた米軍の攻撃を受けて沈没。以降は戦況が逆転し、米軍の反攻が始まりました。
■球をよけるな、交代も禁止 「幻の甲子園」
8月、文部省は「国民精神の高揚」のため、全国中等学校錬成野球大会を阪神甲子園球場で開催しました。全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高校野球選手権大会)は開戦前に中止されており、錬成野球大会は大会史に記録されていないため「幻の甲子園」と呼ばれています。打者が球をよけることは「突撃精神に反する」と許されず、負傷以外の選手交代は禁止するなど、軍事色の強い決まりがありました。
10月、福井県では小型バスを改造し馬に引かせる乗合馬車の試運転が行われていました。戦前の米国による日本への石油禁輸を機に、営業用や自家用乗用車、バスなどのガソリン消費が禁止されていました。
改良ジェットをF15が護送 ゼレンスキー氏運んだ「特別空輸作戦」
仏ルモンドなどによると、ウクライナとポーランドとの国境までは列車で移動。航空追跡サイトをたどると、米軍機がポーランド南東部のジェシュフからワシントン郊外にあるアンドルーズ空軍基地に飛んでいるという。ゼレンスキー氏の搭乗機には、米軍のF15戦闘機の護送がついたという。
航空専門のサイトによると、搭乗機はボーイング737型機をベースに作られたビジネスジェットに改良を加えたもので、大統領専用の「エアフォース・ワン」と同様の水色の塗装が施されている。ペロシ下院議長が今年8月に台湾を訪問した際にも同型機が使われ、今回のフライトには「特別空輸作戦」という便名が付けられたという。(畑宗太郎、丹内敦子)
データベース(武器を用いない闘いの歴史の中で、人は如何に生きたか・・・。)
サプライズだった小泉訪朝 身内も欺く極秘交渉の成果【礒﨑敦仁のコリア・ウオッチング】
ちょうど20年前、私は北京の日本大使館に勤務していた。外交旅券を与えられながらも公務員ではない「専門調査員」という任期付き職員であった。極貧の大学院生にとっては、十分すぎる給料を頂きながら外交の現場を垣間見ることのできる願ってもない制度であり、その時に構築した人脈には今も助けられている。
「専門調査員」とは言っても20代の私にさしたる専門性があるわけはなく、単純な事務仕事も多かった。北朝鮮核問題を話し合う六カ国協議で外務省から多くの出張者が来ているときなどは夜中の3時過ぎまでこき使われたが、やりがいのある、かけがえのない経験であった。
在勤3年間のハイライトは2002年であった。史上初の日朝首脳会談が実現したことは言うまでもないが、脱北者が日本の在外公館に駆け込むという瀋陽事件のほか、北朝鮮でも「経済管理改善措置」という一定程度の改革措置、さらにはオランダ国籍の人物を長官に据えた「新義州特別行政区」という経済特区の設置など、情勢はめまぐるしく変化していた。
拉致問題が国民的課題となるなか、水面下で日朝接触が重ねられていることが断片的に報じられ、日朝赤十字会談や外務省の局長級会談も開催されていた。上司からは9月に休みを取らないでほしいと言われていたので、ついに日朝外相会談が実現か!と思いこんでいたが、それが外相会談ではなく首脳会談だということを知ったのは日本に住む友人からの国際電話であった。韓国の夕刊紙『文化日報』が「小泉訪朝」の特ダネを打ったが本当かと。何も知らないどころか、想像さえしなかった。灯台下暗しとはこのことで、絶句した。
在外公館の末端職員だった私が気付かないのは当然とはいえ、小泉純一郎首相の指令下で外務省内でも極秘に進められていた日朝交渉。慎重に慎重を期していたからこそ拉致被害者5人を奪還できたと言える。首脳会談の前まで北朝鮮は「拉致問題は日本政府のでっち上げ」と主張してきたが、金正日国防委員長が小泉首相に対して拉致の事実を認めて謝罪したのは驚くべき政策転換であった。北朝鮮から拉致被害者を奪還するという難題で真の成果を出すために、徹底した秘密交渉が進められていたのである。