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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

後白河院

2022-11-16
寵愛したのは時子(平清盛の正室)の妹滋子

第七十七代後白河天皇は保元三年(1158)に皇位を皇子の二条天皇にお譲りになり、法住寺の地を院の御所と定められて応保元年(1161)に新造御所にお遷りになりました。この法住寺殿へは、二条天皇をはじめとして朝覲行幸(天皇の念頭の挨拶)が年々行われました。特に皇子の高倉天皇(母は女御の平滋子、のちの建春門院)はよく行いました。また、高倉天皇の中宮の平徳子(建礼門院、清盛と時子の子)が入内したのもこの御所からでありました。

二頭政治と法住寺殿造営

後白河院政派と二条親政派の対立は、双方の有力な近臣が共倒れになったことで小康状態となり、「院・内、申シ合ツツ同ジ御心ニテ」二頭政治が行われた(『愚管抄』)。蔵人頭・中山忠親の『山槐記』によると、国政の案件は後白河院と二条帝に奏上され、前関白藤原忠通が諮問に答える形で処理されていた。永暦元年(1160年)10月になると、後白河院は焼失した三条殿に代わる新たな院政の拠点として、法住寺殿の造営に取り掛かる。六波羅の南、東七条末の地には、摂関期に藤原為光が法住寺を創建したが早くに衰退し、信西の邸(平治の乱で焼失)や藤原清隆・紀伊二位の御堂などが建ち並んでいた。造営は播磨に重任した藤原家明が担当し、藤原信頼の邸を移築することで進められた。10余町の土地を囲い込み、大小80余堂を壊したことから、多くの人々の恨みを買ったという(『山槐記』永暦2年4月13日条)。

10月16日、後白河院は法住寺殿の鎮守として日吉社熊野社を勧請する。これについて『今鏡』は「神仏の御事、かたがたおこしたてまつらせ給へる、かしこき御こころざしなるべし」としている。新日吉社は、競馬流鏑馬など武士の武芸が開催される場となり、新熊野社は、熊野詣に出発する前の精進・参籠の場となった。17日に早速、勧請したばかりの新熊野社に参籠して、23日、初めての熊野詣に出発する。この参詣には清盛も同行している。熊野詣は以後34回にも及んだ(実際に記録で確認できるのは28回)。熊野詣の最中の11月23日、美福門院が崩御した(『山槐記』同日条)。即位以来、美福門院派との協調に神経を遣っていた後白河にとっては束縛からの解放であり、二条を抑えて政治の主導権を握ることも夢ではなくなった。法住寺殿の造営も順調に進み、永暦2年(1161年)4月13日、完成した御所に移り住んだ(『山槐記』同日条)。

二条親政派にとって、後ろ盾の美福門院を失ったことは大きな打撃だった。一方「清盛モタレモ下ノ心ニハ、コノ後白河院ノ御世ニテ世ヲシロシメスコトヲバ、イカガトノミオモヘリ」とあるように、後白河院が政務を執ることに不安を抱き、否定的な見解をする者が少なくなかった。後白河院には芸能に堪能な側近が多い反面、鳥羽院政以来の伝統的貴族や実務官僚とのつながりは希薄で、その支持基盤は必ずしも強固なものではなかった。後白河院の寵愛は、もっぱら上西門院の女房・小弁局(平滋子)にあり、皇后・忻子や女御・琮子は全く無視されていた。三条公教(琮子の父)・徳大寺公能(忻子の父)も相次いで死去しており、後白河院と閑院流の関係は疎遠になっていたと考えられる。この時期の状況として『平家物語』には「院の近習者をば、内よりいましめあり。内の近習者をば、院よりいましめらるるの間、上下おそれをののいて、やすい心なし。ただ深淵にのぞむで、薄氷をふむに同じ」とあり、両派の緊張関係がうかがえる。

こうも次々だと・・・・。

2022-10-06
2022.10.06、『読売新聞』朝刊

· バルジ大作戦の古いポスター

2022-10-02
facebook 陽一 マッコイズ 馬場さん曰く

NHK大河ドラマですべては描かれない…3代将軍・源実朝を殺害した犯人のヤバすぎる動機

2022-09-12
後白河法皇寿像
大争乱の起きる2年半前の建保7(1219)年1月27日のこと。この日は、雪が60センチほど積もる寒い日だった。  鎌倉幕府第3代将軍の源実朝が武家として初めて右大臣に昇進したことを祝うため、後鳥羽上皇から贈られた装束を身につけ鶴岡八幡宮に参拝に向かった。
濱田 浩一郎 - 昨日 18:15

歴史学者が考える実朝殺害事件の黒幕

幕府の3代将軍・実朝が鎌倉の鶴岡八幡宮で殺害されたのは、建保7年1月27日(1219年2月13日)の夜ことであった。享年28。

実朝を殺害したのは、鶴岡八幡宮寺別当の公暁。2代将軍・頼家の子であり、実朝(頼家の弟)とは甥・叔父の関係にあたる。

公暁の父・頼家は、実朝を擁する鎌倉北条氏の手によって、権力の座から引きずり下ろされ、最後には殺害された。これを恨みに思っていた公暁が、実朝を親の仇として殺害したとされている。

鎌倉時代初期の史論書『愚管抄』には殺害の際に「親の仇はこのように討つのだ」、『吾妻鏡』(鎌倉時代後期編纂の歴史書)には「父の敵を討つ」との公暁の「肉声」が記されている。

私は公暁には親の仇を討つ以外にも目的があったと思っているが、それについては後述するとして、実朝暗殺には黒幕、つまり「真犯人」がいるとこれまで主張されてきた。

歴史学者から最も疑われてきたのが、北条義時だ。北条氏が実権を握りたいがために、公暁を操って実朝を殺害させたという。


戦争が聴こえる 盲学校の生徒たちが経験した戦争 記事公開日:2022年08月15日

2022-08-28
明らかになる“聴音兵”という任務

見つかったテープの中では、『聴音兵』という言葉が繰り返し語られていました。聴音兵とは、敵機の来襲をいち早く味方に伝える兵士のことです。

視覚に障害のある人と戦争について研究している、京都府立盲学校に勤める岸博実さんが、点字新聞に掲載されていた聴音兵の記事を示します

データベース(武器を用いない闘いの歴史の中で、人は如何に生きたか・・・。)

【ノーカット】日本医師会会見 次期会長選挙に中川会長「不出馬」表明

2022-05-24
 「横倉義武君174票、中川俊男君191票」
毎日新聞 2020/6/30 東京朝刊

 医療界で大きな影響力を持つ日本医師会の新会長に、副会長だった中川俊男氏(69)が就任した。27日投開票された会長選で、5期目を目指した現職の横倉義武氏(75)を破った。安倍晋三首相や麻生太郎副総理兼財務相との太いパイプを生かし、8年間にわたって安定運営してきた横倉氏からの「政権交代」は、医療界と政治の関係にどう影響するのだろうか。【原田啓之】

 「横倉義武君174票、中川俊男君191票」。東京都の日本医師会館で開票結果が読み上げられると、静かな拍手が広がった。中川氏は壇上で「堂々と物を言える新しい日本医師会に変えていこうと思っている」と力強く語った。

民間から初めて・・・、

2022-05-18
Facebook 浅見俊彦さん曰く、昭和の美智子さま 皇室史上最高の気品、上品、美しさを誇りました

「太平洋ひとりぼっち」 堀江青年が小型ヨットで単独太平洋横断

2022-05-17

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1962(s37)年】-4
◎「太平洋ひとりぼっち」 堀江青年が小型ヨットで単独太平洋横断
*1962.8.12/ 1962年5月12日、西宮を出発した堀江健一(23)青年が、小型ヨット「マーメイド号」でサンフランシスコに到着、単独無寄港太平洋横断に成功した。
 1962(s37)年5月12日、23歳の堀江健一青年が、単独無寄港太平洋横断を目指して、小型ヨット「マーメイド号」で兵庫県西宮を出港した。途中連絡が途切れ家族から捜索願が出されたたりするなか、8月12日、アメリカのサンフランシスコに無事入港し、太平洋横断に成功した。航海日数は94日。
 堀江がサンフランシスコに到着したとの連絡を受けた大阪海上保安監部は、アメリカで不法入国者として強制送還され、日本に着いたその場で逮捕されることになるとしていた。しかし、サンフランシスコ市長は「コロンブスもパスポートは省略した」と、尊敬の念をもって名誉市民として受け入れ、1ヵ月間の米国滞在を認めた。
 このニュースが日本国内に報じられると、当初、迷惑な無謀冒険者扱いだった日本国内の雰囲気が、手のひらを返すように、堀江の冒険を“偉業”と称え、一気に英雄扱いの論調となった。1ヵ月後、飛行機で帰国すると大歓迎を受け、艇を係留した「くい」をみやげに両親とともに記者会見した。
 堀江青年の太平洋航海の手記をまとめた「太平洋ひとりぼっち」が出版されると、世界に飛び出す若者のバイブルとされ、翌1963年には、石原プロモーションの映画製作第1回作品として、市川崑監督、石原裕次郎主演で映画化された。 https://www.youtube.com/watch?v=Kx2PBVCWMJg
(この年の出来事)
*1962.8.30/ 日本航空機製造の戦後初の国産旅客機「YS-11」が、試験飛行に成功する。
*1962.10.10/ ファイティング原田(19)歳が世界フライ級王座に初挑戦、世界フライ級王者のポーン・キングピッチ(タイ)に11RにKO勝ちでチャンピオンとなる。
*1962.10.22/ ケネディ大統領が、キューバにソ連のミサイル基地が建設中と発表。(キューバ危機)

「鹿苑寺(ろくおんじ)」は、

2022-05-10
京都市北区の衣笠山麓にあり、臨済宗相国寺派大本山相国寺の境外塔頭とされる
 火災から再建された翌昭和31(1956)年、三島由紀夫は「金閣寺」を発表する。

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


京都世界遺産を深掘り【12.鹿苑寺(金閣寺)】
 「鹿苑寺(ろくおんじ)」は、京都市北区の衣笠山麓にあり、臨済宗相国寺派大本山相国寺の境外塔頭とされる。金箔を貼った3層の楼閣建築である舎利殿が金閣(きんかく)と称され、寺院全体は金閣寺(きんかくじ)と呼ぶ方が一般に知られている。
 開基(創設者)は室町幕府3代将軍である足利義満で、義満の別荘であった北山山荘を、その死後に寺としたものである。舎利殿金閣は、唯一残されていた室町時代前期の北山文化を代表する建築であったが、昭和25(1950)年に放火により焼失し、昭和30(1955)年に再建された。そのため舎利殿は国宝指定からは外されており、金閣寺庭園として国の特別史跡・特別名勝に指定されている。
 金閣の再建は、昭和27(1952)年に着手され昭和30(1955)年に落慶したが、明治39(1906)年の解体修理時に作成された図面をもとにして、焼失前の建物の構造や意匠を踏襲している。なお、頂上にあった鳳凰は火災以前に取り外されていたため、焼失を免れて現存している。
 鹿苑寺自体は、応仁の乱で西軍の陣となり建築物の多くが焼失するなど、荒廃していたが、江戸時代に主要な建物が再建され、舎利殿も慶安2(1649)年に大修理された。明治の廃仏毀釈により、寺領の多くを失い経済的基盤を失ったが、明治27(1894)年から拝観料を徴収して、寺収入を確保するなど、観光寺院としての先鞭をつけた。
 金閣再建後も、金箔が剥落して劣化が目立ったため、昭和61(1986)年から「昭和大修復」が行われ、この時に貼り替えられた金箔には通常の5倍の厚さのものが使われた。江戸時代の金閣や消失再建後の金閣も、金箔の落剝した姿が一般的だったので、現在の燦然と輝く金閣を拝観できるのは、むしろ幸いとすべきかもしれない。
 拝観のポイントは金閣そのものだけではなく、なだらかな衣笠山を借景とし、鏡湖池が金閣を水面に映すという回遊式庭園とされている、国の特別史跡特別名勝「金閣寺庭園(鹿苑寺庭園)」全体を楽しむべきであろう。鏡湖池には葦原島・鶴島・亀島などの島々のほか、畠山石・赤松石・細川石などの奇岩名石が数多く配されている。
 火災から再建された翌昭和31(1956)年、三島由紀夫は「金閣寺」を発表する。放火犯で吃音症などのコンプレックスで孤立する徒弟僧と、荘厳華麗な金閣の対比は、識者の関心を呼んだ。綿密な取材に基づいた観念小説であり、「仮面の告白」の続編とも言える。同時期に始めたボディビル等の「肉体」改造と同じく、この作品を通じて「文体」の改造構築を試みた。三島にとって、自己も自分の肉体も、ありのままなど認められない「構築すべきもの」であったと言える。
 一方、直木賞作家として遅いデビューとなった水上勉は、三島より数歳年上とはいえ同世代に属するが、戦中に十代すでに文壇デビューしていた三島とは、まったく異なる文学履歴をもっている。水上は昭和42(1967)年に「五番町夕霧楼」で、同じ放火犯の修行僧を主人公とした小説を書く。
 吃音などのコンプレックスが内向し、観念上で創り上げてしまった金閣の前で自意識が堂々めぐりし、結局、放火するより仕方なくなったという三島「金閣寺」に対して、水上の「五番町」では、西陣の遊郭五番町に売られた同郷の幼なじみ夕子をヒロインとして、修行僧の一縷の安逸の場をもうけている。
 高級官僚の家庭に生まれ、若くして早熟の天才として注目された三島とは対照的に、水上は福井の寒村に生まれ、砂を噛むような貧窮のもとで、早くから京の禅院に小坊主に出された。幾度か禅門から逃亡し文学をこころざすも、文筆活動では食えず生活苦を極めた。40歳を過ぎてやっと、小坊主体験をもとに描いた「雁の寺」で直木賞を受賞し世に認められた。
 水上の「五番町」が、三島の「金閣寺」を意識して書かれたのは間違いない。しかし、水上は放火犯林承賢とは福井の同郷であり、ともに禅林に徒弟修業に出され孤立をかこっていたのも同じような境遇。自己の投影の単なる素材として扱う三島作品に対して、「それは違う」という異議申し立ての気分が強かったと思われる。20年以上たってからも「金閣炎上」というドキュメンタリー作で、再度、放火犯林承賢の実像に迫り続けたことが、それを示していると言えよう。
 文学に関心のあるむきは、単なる金閣寺観光だけでなく、この両小説を読み比べてみるのも、一趣ではないだろうか。
水上は福井の寒村に生まれ、砂を噛むような貧窮のもとで、早くから京の禅院に小坊主に出された。幾度か禅門から逃亡し文学をこころざすも、文筆活動では食えず生活苦を極めた。
水上は昭和42(1967)年に「五番町夕霧楼」で、同じ放火犯の修行僧を主人公とした小説を書く。水上の「五番町」が、三島の「金閣寺」を意識して書かれたのは間違いない。
高級官僚の家庭に生まれ、若くして早熟の天才として注目された三島

【昭和文学的自殺三態】

2022-05-16
Facebook 佐々木 信雄さん曰く
【昭和文学的自殺三態】
(芥川龍之介)
○1927(s2).7.24 [東京] 作家 芥川龍之介(36)が自殺する。
 文壇の鬼才と呼ばれた芥川龍之介が、この日未明田端の自宅で、歌人で精神科医でもあった斎藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲んで自殺した。一説では、青酸カリの服毒自殺だとも言われる。遺書として、妻・文に宛てた手紙、友人菊池寛、小穴隆一に宛てた手紙などがある。また、死後に見つかり、久米正雄に宛てたとされる遺書「或旧友へ送る手記」では、自殺に至る心理を詳述しており、中でも自殺の動機として記した「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」との言葉は一般に流布している。
 しかし一方で同文中で、レニエという作家の自殺者を描いた短編作品に言及し、「この短篇の主人公は何の為に自殺するかを彼自身も知つてゐない」とも書いている。自殺者当人が、自身の自殺する理由を知っているとするのは、残された人間の思い込みに過ぎない。それは本人でも特定できるものではないし、またそういう特定の原因を明示できるものでもない。それを芥川は「ぼんやりした不安」と書いたに過ぎない。
 芥川龍之介は、幼時に生母が精神に異常をきたしたため、生母の実兄の養子とされ芥川姓となる。芥川家は江戸時代、徳川家の茶の湯を担当した家系で、家中に江戸の文人的趣味が残っていたとされる。学業優秀で、第一高等学校に入学、同期入学に久米正雄、松岡讓、菊池寛、井川恭(後の恒藤恭)らがいた。東京帝国大学文科に進むと、一高同期の菊池寛・久米正雄らと共に同人誌『新思潮』(第3次)を刊行、さらに、第4次『新思潮』を発刊することになると、その創刊号に掲載した「鼻」が漱石に絶賛された。
 東京帝国大を卒業すると、海軍機関学校の英語教官となるとともに、初の短編集『羅生門』を刊行して、新進作家として華々しくデビューした。文芸活動の初期には、「羅生門」「鼻」「芋粥」など歴史物やキリシタン物など、明確なテーマとストーリー性をもつ短編作品を発表して人気を博した。
 中期になると、エゴイズムなどの心理をえぐった初期に対して、「地獄変」などの中編で芸術至上主義的な傾向を示し、作品の芸術的完成を追及した。しかしやがて「安吉もの」など、身辺から素材を採った私小説風のものに転換してゆく。そして最晩になると、「河童」など寓意作品で人間社会を冷笑的に扱うとともに、最晩年では「大道寺信輔の半生」「点鬼簿」「蜃気楼」「歯車」など、ほとんど自伝的な内面の告白となってゆく。
 この時期、長編を得意とする成熟期の谷崎潤一郎と誌上論争を展開し、「物語の面白さ」を主張する谷崎対し「話らしい話の無い」純粋な小説を称揚した。だがすでに芥川の才能は衰弱しており、論争は、円熟した谷崎の圧勝の気配を呈していた。
 はっきりしたストーリーとテーマで展開した初期の芥川であるが、本質的にはストーリー・テラーの才能はもっていなかった。明瞭な「筋をもつ小説」である初期の傑作も、そのほとんどは説話文学や中国古典などから素材を得たものであった。
 晩年に気力体力が衰えるとともに、新規素材を漁りそれから構想を立ち上げる創作力が無くなると、晩年の悲鳴に近い内面告白となっていった。芥川の自死は、このへんの創作源泉の枯渇から引き起こされたとも言える。谷崎がそのマゾ資質から堂々と展開する妄想的物語にたいして、芥川は決定的に「妄想力」に欠けていたのである。
(太宰治)
○1948(s23).6.13 [東京] 作家太宰治(38)が玉川上水に入水自殺する。
 1948年6月13日、太宰治はその愛人山崎富栄と共に玉川上水へ入水心中し、太宰39歳の誕生日となるはずであった6日後の6月19日、両人の遺体は発見された。この日は彼の作品にちなんで「桜桃忌」と名付けられ、今でも多くのファンが太宰の墓前に集うという。この事件は当時からさまざまな憶測を生み、富栄による無理心中説、狂言心中失敗説などが唱えられていた。
 だが憶測は憶測にすぎない。一方が人気作家であれば、マスコミやファン筋からは身びいきの推測が流されることが多い。そのような意向は、両者の遺体が引き上げられた後の扱い方にも反映されたのか、太宰の遺体は立派な白木の棺に収められ、富栄の方はムシロを掛けたまま数時間も土手にうち捨てられていたという。
 太宰治のもっともお気に入りと思われる一枚の写真がある。銀座のショットバー・ルパンで、ご機嫌な様子をとらえた有名なカットだが、撮影者の林忠彦によればこの時、同じく無頼派作家の織田作之助を撮っていたそうだ。その時「俺も撮れ」とからんできたベロンベロンの酔っぱらいが太宰だったという。
 太宰というのは、いささか厄介な作家であったりする。同じ無頼派作家とされた坂口安吾の場合など、そのファンだと広言するのは誇らしくさえ思えるのに、太宰の愛読者であると披露するのはいかにも恥ずかしく感ぜられる。若いころ文学仲間と談笑するときには、太宰を糞味噌にけなすのがいわばオヤクソクなのだが、そんな友人の部屋を訪問すると、しっかり太宰治全集を買い込んであったりする。しかも本棚の隅っこに、紙で覆って隠してあったりするのだ。むしろ、ファンであることを公言し、桜桃忌には墓前で太宰をしのんだりできる読者の方が健全なのかも知れぬ。
(三島由紀夫)
○1970(s45).11.25 [東京] 三島由紀夫、割腹自殺 自衛隊員に演説のあと。 
 三島由紀夫が、自衛隊市ヶ谷駐屯地バルコニーで演説したあと自刃したことを知り、11月25日付けで雑記帳に、この事件への感想が簡単に記してあった。
 文学にはまり込んでいた時期だが、三島作品には距離を置いた読者だったと思う。派手な政治的演出にもかかわらず、芥川・太宰の自殺とも並べて「文学的な自殺」としてのみ捉えていた。
 それにしても思想と行動の問題として、大きな主題を受け取ったことはたしかであった。三島が東大全共闘の集会に飛び込んで、思想的にはまったく両極に属する両者にもかかわらず、ある種の共感を保持し得たのも、このあたりの主題に関係しているのであろう。

【 Facebook闘いのページ】のページ、管理者は住職です。

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