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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

77年目の「長崎の鐘」 色あせない永井隆博士のメッセージ

2022-08-09
© 産経新聞 昭和25年、息子の誠一さん、娘の茅乃さんと正月を祝う永井隆博士(永井隆記念館提供)
2022/08/09 08:00
「平和を」「如己愛人(にょこあいじん)」(己のごとく、あなたの隣人を愛しなさい)-。長崎への原爆投下から9日で77年。被爆しながらも医師として救護活動にあたり、『長崎の鐘』などの著作で平和を訴えた永井隆博士(1908~51年)のメッセージが改めて見直されている。博士が幼少期を過ごした島根県雲南市では、作品の朗読会やその生涯を描いた演劇の創作などが続く。世界情勢が不安定な中、その存在と遺志は今も色あせない。

© 産経新聞 ロザリオを手にする永井隆博士。妻を亡くした後、半年間髪を切らずに喪に服した(永井隆記念館提供)

「微力」重ねた25年 福山雅治さんも共感 高校生平和大使たちは今

2022-08-08

Facebook 毎日新聞 さん曰く


現在25代目が活動中の「高校生平和大使」。
この25年で国連などに派遣した平和大使は計423人に上り、200万筆以上の署名を国連に提出しました。
「微力だけど無力ではない」を合言葉に活動をつないできた平和大使の足跡をたどりました。

- 日本への原子爆弾投下 (昭和20年8月6日 - 昭和20年8月9日)

2022-08-06
facebook 中村 マコさんは秋山 俊太さん 他7人 と原爆ドーム前停留場
【アーカイブ】原爆を開発、投下に同行、映像撮影したアグニュー博士と被爆者の対話の一部始終(2005年放送)

臥薪嘗胆ではありませんが・・・。

2022-07-31
「徳川家康三方ヶ原戦役画像」通称「顰(しかみ)像」

Facebook 徳川美術館さん曰く


◆◆名品コレクション展示室◆◆
第1展示室
 「徳川家康三方ヶ原戦役画像」通称「顰(しかみ)像」
               と
    「刀 銘 村正」を、
 2022年8月23日(火)まで並べて展示しています。
8月24日(水)からは「徳川家康三方ヶ原戦役画像」は複製の展示となり、9月19日(月・祝)まで展示します。

Address to a Joint Meeting of the U.S. Congress by Prime Minister Shinzo Abe

2022-07-30

データベース(武器を用いない闘いの歴史の中で、人は如何に生きたか・・・。)

都に風が・・・

2022-06-02
京都雑記【12.そこにフォーククルセダーズが流れていた】
◎フォーク・クルセダーズとフォークソングブーム
*1968.2.20/ 大ヒットの「帰って来たヨッパライ」に続く第2弾として、翌2月21発売予定の「イムジン河」が、突如、発売中止される。
 この時期のラジオ局は、「オールナイトニッポン」「セイ!ヤング」「パックインミュージック」など、各局が個性的なパーソナリティを起用してディスクジョッキー(DJ)番組を競った。この時期、団塊世代がまさに受験期にさしかかり、深夜ラジオを聴きながら机に向った。
 1967(s42)年4月から私もまた受験浪人となっていたが、深夜ラジオに投稿したりするほど熱心な方ではなかった。それでも受験生同士の話題には必須なので、それなりに聞いていた。そんなとき耳に飛び込んできたのが「帰ってきたヨッパライ」で、神戸のローカル局「ラジオ関西」の放送だった。
 こちらは京都なので電波状態がよくなく、主に「ラジオ京都(KBS京都)」に合わせることが多かったが、こちらでは同じくフォーク・クルセダーズの「イムジン河」をよく流していた。そして勉強に飽いた仲間が夜中に窓をつついて、いま何を聴いてるんだとかさぐりに来たりする。みな孤独感と不安を抱きながら、こうやってラジオを共有して安心していたのだった。
 フォーク・クルセダーズは、京都のアマチュアグループとして関西中心に活動していたが、メンバーの都合で解散を決め、その記念に自主制作盤のアルバム「ハレンチ」を制作した。そのアルバムから、関西のラジオ局のパーソナリティがピックアップして来たのが上記の曲だった。
 1967(s42)年末ごろ、大手レコード会社からプロデビューの声が掛かり、「加藤和彦」「北山修」が新たに「はしだのりひこ」を加え、「一年間だけ」という約束で再結成して、大手レーベルから出したシングル盤「帰ってきたヨッパライ」が、いきなりミリオンセラーとなった。
 さっそく次の曲をということで、同じく「ハレンチ」から「イムジン河」を取り上げ収録した。すでに13万枚が出荷されていた発売予定日の前日、1968(s43)年2月20日になって、突如レコード会社は「政治的配慮」から発売中止を決定する。北朝鮮系の団体からクレームが付けられたのがその理由だった。
 そこでまた急きょ別の曲を作れと、音楽出版社の一室に閉じ込められ、加藤和彦がギターをいじっているうちに出来上がったのが「悲しくてやりきれない」で、1968(s43)年3月21日に発売された。TV番組で「イムジン河のコードを逆にたどって出来上がった」と紹介されたこともあったが、加藤和彦自身は、ギターでいろいろ遊んでただけと言っている。
「悲しくてやりきれない」 
 フォーク・クルセダーズは、そのあと矢継ぎ早にヒットを連発し、1968(s43)年10月17日、大阪でのさよならコンサートの末、一年という約束通りに解散した。フォークルが日本のフォーク史に残した足跡は大きく、各メンバーはその後も音楽に関わったので、解散後にも大きな影響を及ぼしている。
 なお、一連の日本のフォークブームについては、下記ブログでまとめた。
「日本のフォークブーム」 https://naniuji.hatenablog.com/entry/20180930
(2021.12.07追記)
「悲しくてやりきれない 」ザ・フォーク・クルセダーズ https://www.youtube.com/watch?v=kP4oluZmjzA
 夜中に酒をのんで過去の想いにふけって、この曲を思い出した。1968年春、大学に入学し、4月から神戸の青谷というところに下宿した。三畳ひと間に押し入れのみという部屋だったが、それなりに生活できた。
 入学当初、あれこれ張り切って動き回ったが、やがていわゆる五月病というのにはまり込み、夜になってひとりになるとホームシックな気分に落ち込んだ。下宿のすぐ向かいにある川べりの小公園で、ひとりこの曲を口ずさんでいた。
 受験などバタバタしている時期に、「イムジン河」の発売中止騒ぎがあったが、当時はなぜ中止されたかよく分からなかった。急きょ代わりの曲を作れと、レコード会社に缶詰めにされた加藤和彦が、ギターコードをいじっているうちにできあがったのが「悲しくてやりきれない」だそうだ。
 そのままディレクターが、当時著名の作詞家サトーハチローのもとに走って、詩を付けてもらい出来上がったという。「かな~しくってかな~しくって」と、ひたすら哀切でペシミスティックなリフレインが続き、加藤和彦自身、歌っていてどうかなと思ったそうだが、いざレコードとして発売後ヒットすると、曲に馴染んだ詩だと納得したそうだ。
 実際「雲を眺めて涙ぐむ」などと、理由もない哀しさというのは、口ずさみながらもいささか恥ずかしい気がする。ただ、思春期の悲しみというものは、このように理由もなく孤独感におそわれれるものであり、下宿を始めて2ヵ月ほど過ぎた時期に、ホームシックな感傷におそわれ、この曲にドップリひたったというわけだった(笑)
(2021.12.08追記2)
さらにフォークルついでに、自分の精神的転機の時期に脳裏に刻まれた記憶を記す。
「戦争は知らない / フォーク・クルセダーズ」 https://www.youtube.com/watch?v=79Ld-CdgVeg...
 この曲は、寺山修司が作詞して、ラテン歌手坂本スミ子が歌ったが、シングルのB面でまったくヒットしなかった。ところが、同時期にフォーククルセダーズが、グループ解散記念にと自費プレスした「帰って来たヨッパライ」が、ラジオ放送を通じて偶発的に大ヒット。
 一年きりのプロ活動ということで、再結成してプロデビューした加藤・北山・端田の新クルセダーズは、「イムジン河」の発売中止などのアクシデントに見舞われながら、次々とヒットを飛ばした。そんな中で、独自の感性で加藤和彦が掘り起こしてきたのが、この「戦争は知らない」だった。
 本来は寺山修司が、太平洋戦争に出征して戦病死した自分の父親をしのんで書いた詩だが、当時ヴェトナム戦争の最中で、アメリカから反戦歌が幾つも流れてくる状況下で、この歌も反戦フォークとして受け容れられた。露骨な反戦詩ではなく、名前も知らない野に咲く花に託して、父を亡くして20年後にお嫁に行く娘が、父に新たに別れを告げる詩になっていて、歌人寺山独自の抒情が、切なく訴えてくる。
 私自身はこの時期、大学に入学したものの、夏休みの帰省中に二度目の鬱病に落ち込んで下宿は引き払い、10月ごろからやっと学校に通い始めたとたんに学園紛争で大学封鎖、翌春になっても一向に封鎖解除される気配がなかった。仏教思想などに耽って、何とか鬱を克服、漠然と郷愁を感じて、奈良西ノ京などを徘徊していた。
 写真家入江泰吉の「大和路」風景などにある、菜の花畑を通して観る薬師寺の塔の光景など、そっくりの位置を見つけて、下手くそなスケッチをしたりしたものであった。最悪の時期は通り越して、少しづつ光が見えてきたが、これからの方向性も見つけられず、将来に自信が持てない不安定な時期、春の明るい景色の中に、かすかなもの悲しさを感じた心象風景に、この「戦争は知らない」の曲が重なって記憶に埋め込まれている。
『戦争は知らない』 【作詞】寺山修司 【作曲】加藤ヒロシ
野に咲く花の 名前は知らない
だけども野に咲く 花が好き
ぼうしにいっぱい つみゆけば
なぜか涙が 涙が出るの
戦争の日を 何も知らない
だけど私に 父はいない
父を想えば あヽ荒野に
赤い夕陽が 夕陽が沈む
いくさで死んだ 悲しい父さん
私はあなたの 娘です
二十年後の この故郷で
明日お嫁に お嫁に行くの
見ていて下さい はるかな父さん
いわし雲とぶ 空の下
いくさ知らずに 二十才になって
嫁いで母に 母になるの
(2021.12.08追記3)
「風/はしだのりひことシューベルツ」 https://www.youtube.com/watch?v=ugtGClQLUdQ&t=1s
 フォークルが10ヵ月ほどで予定通り解散したが、それに先駆けて端田宣彦は、学生仲間たちと「シューベルツ」というグループを結成し、同じ同志社大学の井上博や越智友嗣と立命館大学の杉田二郎をひきいて、いきなり「風」というヒットを飛ばした。
 さらに「さすらい人の子守唄」などのヒットを飛ばし、頻繁にテレビなどに出演した。なかでも、カウボーイハットにウッドベースを担当する井上博は、端正なあまいマスクで若い女性に大人気だった。その井上が、1年余りの活動ので、あっけなく死去してしまう。過労なのか、内臓不全が死因だという。
 この井上博は、実は実家の近くの商店街で、イノハツという屋号のタバコ屋の息子だった。小学校から高校までずっと、二学年上で在籍していたのを憶えている。直接言葉をかわしたおぼえはないが、近くの神社で一緒に遊んだような記憶もある。テレビではライトなどで色白でハンサムに見えていたが、実物の本人はどす黒い顔色をしていて、子供のころから、内臓が悪かったのではないかと思った。

鈴木宗男議員、貴子副外相が予算委で親子共演 「時に反面教師」

2022-06-01
© 毎日新聞 提供 参院予算委員会で日本維新の会の鈴木宗男氏(手前右)の質問に答える鈴木貴子副外相(同左)
国会内で2022年5月31日午後1時18分、竹内幹撮影
毎日新聞 2022/05/31 19:56

 31日の参院予算委員会で、日本維新の会の鈴木宗男参院議員が、長女の鈴木貴子副外相に答弁を求める場面があった。宗男氏は緑のネクタイ、貴子氏は緑のトップスのそろいのカラーで、異例の親子共演に臨んだ。

 質疑時間の中盤で宗男氏が「鈴木貴子副大臣にお尋ねします」と指名すると、委員会室からは「おーっ」とどよめきが上がった。宗男氏は今月上旬の貴子氏のケニア、ルワンダ歴訪の成果を質問した。貴子氏は「アフリカで、鈴木宗男先生のご功績も何度となく耳にした。まさに外交は積み重ねだ」と答弁。「宗男先生からもご指導いただき、時に反面教師とさせていただき、頑張りたい」とも語った。

 同日の予算委では公明党の伊藤孝江議員と国民民主党の伊藤孝恵議員が続けて質問に立ち、共に大人に代わり家族の介護や世話をする「ヤングケアラー」問題を政府にただした。国民民主の伊藤氏は冒頭、「国民民主党の方のイトウタカエです。公明党のイトウタカエ議員から言及があったので私も伺います」と言って質疑を始めた。【東久保逸夫】

イタイイタイ病

2022-05-31

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1967(s42)年】-2
◎イタイイタイ病 原因は三井金属の廃水
*1967.3.-/ 富山県イタイイタイ病患者審査委員会は、患者73人、要観察者150人をイタイイタイ病と認定した。
 神通川下流域である富山県婦負郡婦中町では、骨がぐしゃぐしゃに折れ縮んで、イタイイタイといって亡くなる老人が相ついだ。この地区の開業医であった萩野医師は、早くからこれをイタイイタイ病と名付け、その原因を神通川上流にある神岡鉱山から流される鉱毒ではないかと考えた。
 さらに岡山大学の小林純教授の研究をもとに、1961(s36)年に萩野昇医師と農学者の吉岡金市がイタイイタイ病の原因はカドミウムであることを発表した。富山県や厚生省及び文部省も独自に原因究明に乗り出し、富山県イタイイタイ病患者審査委員会は、1967(s42)年(昭和42年)3月に患者73人、要観察者150人を認定した。
 そして1968(s43)年5月、厚生省は「イタイイタイ病の本態はカドミウムの慢性中毒によるもので、カドミウムは神通川上流の三井金属神岡鉱業所から排出されたもの」と断定した。これによってイタイイタイ病は、政府によって認定された公害病の第1号になった。
 実は明治10年代生まれの私の祖母がこの地区の出身で、若くして京都に出たので当人には影響なかったが、親戚知人などにはイタイイタイと言って死んでいった者が何人もいたという。萩野医師のことを話すと「ハイノ(文字が読めないから音だけで憶えてる)はんはヤブヤブといわれとったもんやが」とか言ってた。
 萩野医師の名誉のためにいうが、地方の開業医はまわりからヤブ医者扱いされることが多い。現在でも医療で完治できる病気はむしろ少なく、多くは病気の進行を遅延させたり、痛みなどを緩和する対症療法しかない。いまなら簡単に大病院に任すところも、地方では数少ない地元開業医が根気よく患者に対応するしかない。で、一向に治らないということで、陰でヤブ医者よばわりすることになるわけだ。
 病名の由来は、患者がその痛みに「痛い、痛い」と泣き叫ぶことから来ているという。カドミウムによる多発性近位尿細管機能異常症および骨軟化症などを主な特徴とし、長期の経過をたどる慢性疾患を発症する。カドミウム汚染地域に長年住んでいて、この地域で生産された米や野菜を摂取したり、カドミウムに汚染された水を飲用したりするなどの生活歴による。
 骨形成に必要なリン酸・重炭酸やカルシウムの吸収低下で、骨量が次第に減少し骨がもろくなる。最終的には骨の強度が極度に弱くなり、少し身体を動かすだけで骨折したりする。祖母に聞くと、昔の知人には、骨が圧縮されて身長が2/3以下になって死んでいった人もいたという。
(この年の出来事)
*1967.6.5/ イスラエルがアラブ連合などに攻撃を開始、「第3次中東戦争」が勃発する。
*1967.8.3/ 「公害対策基本法」が公布・施行される。
*1967.8.8/ 「東南アジア諸国連合(ASEAN)」が結成される。

「糟糠(そうこう)の妻」がファーストレディーとしてのスタートを切った。

2022-05-24
© 産経新聞 バイデン米大統領(中央)を茶道のお点前でもてなす岸田文雄首相と裕子夫人=23日、東京都港区の八芳園(内閣広報室提供)
2022/05/24 00:57

岸田文雄首相がバイデン米大統領を迎えた東京・白金台の八芳園での夕食会は、首相の裕子夫人にとって、ファーストレディーとしての本格的な外交デビューとなった。首相の「日本の美を伝えたい」(官邸関係者)との意を受けた裕子夫人は和服姿で茶の湯の点前を披露し、バイデン氏をもてなした。

裕子夫人は平成28年、首相の外相時代に広島市で開かれた先進7カ国(G7)外相会合でも和服姿で各国外相夫人を迎えた。当時も茶の湯でもてなしており、今回の夕食会でも白羽の矢が立った。

バイデン氏を迎えるにあたり、裕子夫人は茶席で使用する茶器を八芳園に備えているものか、普段から使い慣れているものかを悩み、最終的に使い慣れているものを使うことを決めた。会場も自ら視察するなど入念な準備を重ねた。

茶の湯だけではなく、語学も堪能な裕子夫人は首相も頼る存在だ。令和2年の自民党総裁選で敗れた不遇の時代も首相を支えた「糟糠(そうこう)の妻」がファーストレディーとしてのスタートを切った。(永原慎吾)

◎マルコムX 暗殺

2022-05-24

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1965(s40)年】-1
◎マルコムX 暗殺
*1965.2.21/ 急進的な米国黒人運動指導者マルコムXが、演説中に暗殺される。
 日本では、アメリカの黒人解放運動と聞いてキング牧師を思い浮かべる人は多いが、マルコムXという奇異な名前の人物はあまり知られていない。ガンジーゆずりの平和無抵抗主義を維持したキング牧師に対して、マルコムXは非合法的な運動も認めるような過激な演説で黒人たちの支持を集めた。
 キング牧師らの解放活動が「公民権法」の成立に大きな寄与をしたのは間違いないが、ケネディ、ジョンソンと続く政権が公民権法の制定を急いだ背景には、マルコムXらの過激な主張から切り離したいという思惑も働いたと考えられる。
 公民権法成立後も事実上の差別は無くならず、目標を達成して存在感が弱まったキングらの無抵抗主義に対して、マルコムXらの過激派の勢力が増した。やがてマルコムXの暗殺、さらに数年後キングの暗殺と、むしろ黒人たちをさらに過激に走らせる事件が相つぐことになる。
 ちなみに、ボクシング史上最大のチャンプともされるモハメド・アリは、マルコムXを信奉し、従来のカシアス・クレイというのは奴隷の名前だとして、彼から授けられたムスリム名のアリに改称した。
MalcomX speech"We declare our right on this earth"
映画「マルコムX」(1992/米) 監督スパイク・リー/主演デンゼル・ワシントン
(この年の出来事)
*1965.3.20/ 河野一郎国務大臣から、記録性に欠けると批判された市川崑監督「東京オリンピック」が公開され、大ヒットとなる。
*1965.6.12/ 新潟大学の植木幸明教授らが、阿賀野川流域で水俣病に似た有機水銀中毒患者が発生していると発表する。(第2水俣病)
*1965.10.21/ 朝永振一郎博士が、ノーベル物理学賞を受賞決定。

【 Facebook闘いのページ】のページ、管理者は住職です。

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