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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

◎フルシチョフがスターリン批判

2022-04-29

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1956(s31)年】-2
◎フルシチョフがスターリン批判
*1956.2.24/ ソ連共産党第20回大会秘密会で、フルシチョフ第一書記がスターリン批判の演説をする。
 1956年2月、ソ連共産党第一書記フルシチョフがソ連共産党第20回大会において、非公開の会議であったが、スターリン批判の演説を行い世界を驚かせた。スターリン(53年死去)の死後も伏せられてきたスターリンの個人崇拝・独裁政治・粛清の事実が公表され、それまでの公式見解であった戦争不可避論(資本主義陣営との戦争は不可避)を批判、西側との平和共存路線への転換や、平和的社会主義への移行の可能性に言及し、従来のスターリン体制からの大きな転換を表明した。
 ソ連におけるスターリン批判は、東側社会主義陣営にも大きな波紋を及ぼした。東ヨーロッパ社会主義国では、スターリン体制に対する反発から自由化要求の運動が強まった。6月にはポーランドで「ポズナニ暴動」が起こった。ソ連の軍事介入が懸念されたが、直前に政府軍が鎮圧し自主的な事態収拾となった。その結果、一部分権化され経済改革が施されたが、本格的な自由化は認められなかった。
 10月には、ハンガリーで市民が政府に対して蜂起、政府関係施設や区域を占拠し、自からの政策や方針を実施しはじめて市民自治の様相を呈した。ソ連軍は2度にわたって介入、戦車部隊によって鎮圧し、親ソ政府を樹立して改革を停止させた。スターリン批判にもかかわらず、ソ連共産党は決して東欧衛星諸国の自主化・自由化は許さなかった。
 一方で、スターリン批判は中国との関係に重大な亀裂を生み出した。フルシチョフのスターリン批判とそれに続く平和共存(デタント・雪どけ)路線を、毛沢東指導部は「修正主義」と批判し、中ソ関係は急速に悪化した。金日成の北朝鮮も、中国と同様に修正主義として強く批判した。毛沢東、金日成ともに、自らの「スターリン型独裁支配」体制を脅かされることを懸念したことは言うまでもない。
 日本においては、前衛党主導・世界永続革命論を唱えるトロツキストたちが刺激を受け、60年・70年安保へと向かう過程で、学生を中心として「新左翼=前衛党の結成」へと突き進んだ。
 1961年には2度目のフルシチョフによるスターリン批判が行われ、スターリンの遺体はレーニン廟から撤去、燃やされた。さらに、スターリングラードをはじめスターリンの名を冠された都市や地名は改名され、スターリンの巨大な銅像は撤去され、徹底的な「非スターリン化」が行われた。スターリン神話は徹底的に破壊されたとは言え、ソ連ではその後も秘密警察(KGB)が国民を監視する恐怖支配や政治的弾圧の構図は、のちのソ連崩壊まで変わることはなかった。
 1997年のモスクワ放送は、「10月革命の起きた1917年から旧ソ連時代の87年の間に6,200万人が殺害され、そのうち、4000万が強制収容所で死んだ。レーニンは社会主義建設のため国内で400万の命を奪い、スターリンは1,260万の命を奪った」と放送したとされる。
(この年の出来事)
*1956.10.19/ 鳩山一郎内閣が、北方領土問題を棚上げした形で日ソ共同宣言に調印し、国交を回復する。
*1956.10.23/ ハンガリーの首都ブダペストで、反政府暴動が起きるが、ソ連軍の介入により鎮圧される。(ハンガリー動乱)
*1956.12.18/ ニューヨークにおける国連総会で、日本の加盟が承認される。

【速報】白い軍服姿の金正恩総書記が演説 昨夜 北朝鮮が軍事パレード

2022-04-26
© FNNプライムオンライン
FNNプライムオンライン 2022/04/26 14:51

北朝鮮は25日夜、「朝鮮人民革命軍」の創設90年を記念した軍事パレードを行い、金正恩(キム・ジョンウン)総書記が演説した。

26日付の労働新聞は、25日夜、平壌(ピョンヤン)の金日成(キム・イルソン)広場で行われた軍事パレードについて、150枚余りの写真とともに伝えた。

写真では、北朝鮮が3月、試験発射に成功したと主張する、ICBM(大陸間弾道ミサイル)「火星17」型や、極超音速滑空体ミサイル「火星8」型など、さまざまな兵器が確認できる。

白い軍服姿で出席した金総書記は、演説で「われわれが保有する核武力をできる限り速く、さらに強化させる」としたうえで、核兵器を実戦で使用する可能性も示唆した。

軍事力を誇示することで、現在、合同で軍事演習を進めているアメリカと韓国をけん制する狙いもあるもよう。

伝説の女性スナイパー 自ら“死亡報道”否定…明かす本音「平和な世界好き」

2022-04-21
これじゃ丸見え、狙撃手が標的になってしまう・・・のでは・・・?

Facebook テレ朝news さん曰く


【独自】伝説の女性スナイパー 自ら“死亡報道”否定…明かす本音「平和な世界好き」
ロシアメディア「SM NEWS」:「ロシア軍は、ウクライナの女性スナイパー、オレナ・ビロゼルスカを殺害した」
ロシアメディアのこの報道。実際には、オレナさんは生きていて、ロシア側のニセ情報、いわゆる“フェイクニュース”だったことが分かっています。
オレナさんとの接触に成功しました。
▼迷彩柄の帽子をかぶり、緑色の洋服に身を包む女性、彼女こそが、ウクライナの“伝説のスナイパー”オレナさんです。

スナイパーは、昔は、こんな世界の存在だっような・・・
1968.9.3~1969.3.25 
光あるところに影が…で始まるナレーションが有名な、忍者マンガの第一人者白土三平の画風を忠実に再現した傑作。
 一連の白土作品と同様に、登場する数々の忍術の解説もリアリティを与えている。 
サスケの声を充てた少年落語家雷門ケン坊の個性的な演技も印象的だった。

サスケ(キングレコード・オリジナルバージョン)

サスケ 1話

◎山本五十六司令長官の搭乗機撃墜

2022-04-03


Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1943(s18)年】-1
◎山本五十六司令長官の搭乗機撃墜
*1943.4.18/ 山本五十六連合艦隊司令長官が、ブーゲンビル島上空で搭乗機を撃墜され戦死する。
 1943(昭18)年3月中旬、ガダルカナル島から撤退を余儀なくされた日本軍は、ソロモンおよび東部ニューギニア方面への連合軍の反攻企図を妨ぐべく、連合艦隊独自の立案で「い号作戦」を実施した。第3艦隊母艦機を南東方面に展開し、ラバウル基地の基地航空部隊との連動で、ソロモンや東部ニューギニアの敵船団・航空兵力を攻撃し、敵の戦線を攪乱する目的で実行された。
 ミッドウェー、ガダルカナルの敗戦でかなり憔悴していたと言われる山本五十六長官は、「い号作戦」を直々に立案したとされ、この時、トラック島に泊留の連合艦隊旗艦「武蔵」を離れ、「い号作戦」を陣頭指揮するため、幕僚をしたがえてラバウル基地に来ていた。それまで、はるか北方のトラック島の旗艦の戦艦大和や武蔵の艦上で、好きな幹部と将棋やトランプにうち興じていて、「大和ホテル」「武蔵屋御殿」などと揶揄する声もあったという。
 山本は、ブーゲンビル島、ショートランド島の前線航空基地の将兵の労をねぎらうための計画をたて、幕僚とともにラバウル基地を飛び立った。この方面は日本海軍の制空権下にあり安全とされていたが、前線視察計画は関係方面に打電され、その暗号電文は米軍に傍受され解読されていた。この情報は、米海軍のチェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令長官にまで報告され、ニミッツは、山本長官が暗殺に足りうる人物か検証したが、山本の戦死が日本の士気が大きく低下させ得るとの報告があり、山本機攻撃を決断したという。
 1943(昭18)年4月18日、山本機がブーゲンビル島上空に差し掛かった時、米機16機に待伏せされ撃墜され、山本長官は戦死する。山本長官の撃墜は「海軍甲事件」と称して1ヵ月以上伏せられた。5月21日、大本営により公表されると新聞は連日報道を行い、日本国民は大きな衝撃を受けた。6月5日、日比谷公園で国葬がとり行われた。皇族、華族ではない平民が国葬にされたのは、これが戦前の唯一の例であった。
 山本五十六は、日米開戦に最後まで反対し、やむを得ず開戦になると、真珠湾攻撃を立案し、開戦直後の快進撃を支えた名将としてうたわれる。坂本龍馬が司馬遼太郎の小説で描かれたように、山本五十六も阿川弘之などの作品で人物像が形成されている側面がある。しかし、その指揮官や作戦立案の能力には、否定的な見解も多くみられ、将軍としてよりも軍政官としての適性を指摘する同僚もいたようである。
(この年の出来事)
*1943.1.31/ 独ソ戦のスターリングラード攻防で、ついに独軍が降伏する。
*1943.2.1/ ガダルカナル島から日本軍が撤退を始めるが、大本営発表はこれを「転進」と表現する。
*1943.9.8/ イタリアのバドリオ政権が、連合軍に無条件降伏する。
*1943.11.22/ ルーズベルト・チャーチル・蒋介石が、エジプトのカイロで会談、対日方針を定めた「カイロ宣言」を発表する。
Facebook 福田誠  さん曰く

1943年4月18日、連合艦隊司令長官山本五十六大将、ブーゲンビル上空で、P-38戦闘機16機の待ち伏せ攻撃にあい戦死。
この時護衛の零戦はわずか6機、暗号解読により山本長官が来るのを知っていたアメリカ軍は、零戦との戦いを避け一式陸攻を狙ったという。
戦艦武蔵から東京駅に 帰着した山本長官の遺骨
山本長官の葬列

◎日米開戦

2022-03-31

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1941(s16)年】-3
◎日米開戦
*1941.7.25/ 日本の南部仏印進出への報復措置として、米政府が在米日本資産の凍結令を公布。
*1941.8.1/ ルーズベルト大統領が、対日石油輸出を全面禁止とする。
*1941.11.26/ ハル米国務長官が日本側の提案を拒否し、日本軍の中国撤退を求める強硬な新提案を提示。27日、日米交渉は決裂する。(ハル・ノート)
*1941.12.8/ 日本時間午前2時、日本軍がマレー半島へ上陸開始。午前3時19分、日本軍がハワイ真珠湾を空襲。日本が米英両国に宣戦布告する。(アジア太平洋戦争開始)
 日本側が「ABCD包囲網」(米America・英Britain・中China・蘭Dutch)と呼んだ各国による経済封鎖は、この時期、中でも影響の大きいアメリカの主導で進められつつあった。三国同盟を結び独ソ戦が開始されると、日本軍は7月2日の御前会議で「対ソ戦準備・南部仏印進駐(南進・北進準備)」を決定、それを受けて7月7日からは、満州での「関東軍特種演習(関特演)」に向けて内地から兵員動員が開始される。
 同時に南進の準備も進める日本に対して、アメリカは7月25日「在米日本資産の凍結」を決定する。当時は金本位制であり、日本政府の為替決済用在外資産はニューヨークとロンドンにあり、ニューヨークの日本政府代理店には莫大な貿易決済用の金融資産があった。もちろん日本民間の在米資産も膨大であった。
 日米交渉が座礁し、7月28日、日本軍はすでに決めていた南部仏印進駐を開始すると、8月1日米政府は「対日石油輸出全面禁止」を発動した。この時点でルーズベルト米大統領は、「太平洋での戦争」を必至と考えていたもようである。日本は石油の約8割をアメリカから輸入しており、国内における石油の備蓄は民事・軍事を合わせても2年分とされた。早期開戦論だった陸軍のみならず、慎重だった海軍も石油欠乏は海軍力の致命傷になるとして、早期開戦論に傾いた。
 三国同盟以降から、日米の交渉は断続的に続けられていたが、6月の独ソ戦開始を契機に、アメリカ側は対日妥協から強硬路線へ舵を切ることになる。第2次近衛内閣の外相松岡洋右は、三国同盟にソ連を参加させるという四国連合案は破綻していたにもかかわらず、対米には強硬案を主張、妥協派の近衛首相と対立した。近衛は松岡を外相から外すために、えざわざ内閣総辞職して、再度第3次近衛内閣を組閣する。
 9月6日の御前会議では、外交交渉の期限を10月上旬とし、妥結の目途がない場合直ちに対米開戦を決意すると決定された。近衛は日米首脳直接会談に唯一の期待をしたが、アメリカ側に日米首脳会談を事実上拒否される。戦争の決断を迫られた近衛は、妥協策による交渉に道を求めたが、東条英機陸相に日米開戦を要求されたため内閣は瓦解、10月16日に近衛内閣は総辞職する。
 18日東条内閣が成立したが、これには本人も予想外であったらしく、内大臣木戸幸一が独断で東条を後継首班に推挙し天皇の承認を取り付けてしまった。最も強硬に開戦を主張する陸軍を抑えるには、陸軍大将でもある東条しかおらず、毒をもって毒を制する案だということで、対米戦争回避を望む天皇もこれ承諾したらしい。東条も、それまでの態度を一変し、天皇の意をくむ忠臣として2つの妥協案を用意、交渉妥結の可能性をさぐった。
 しかし対日戦不可避と判断していた米は、日本側の新規提案は両案ともに問題外であると拒否。11月26日、コーデル・ハル国務長官は、いわゆる「ハル・ノート」を駐米日本大使に提示した。内容は日本へ対する中国大陸、仏印からの全面撤退と、三国同盟の解消という極めて強硬なものであった。ハル・ノートは国務長官の「覚書」との位置付けであったが、日本政府はこれを「最後通牒」として受け取り、開戦の決断を行うことになった。
 日米交渉決裂の結果、東条内閣は12月1日の御前会議において、日本時間12月8日の開戦を最終決定した。日本陸軍は日本時間12月8日未明にイギリス領マレー半島に上陸し、英印軍と交戦状態に入る。イギリス政府に対する宣戦布告前の奇襲によって太平洋戦争の戦端が開かれた(マレー作戦)。
 並行して、日本海軍航空隊によって、ハワイのオアフ島真珠湾のアメリカ軍基地に対する奇襲攻撃も、日本時間12月8日午前1時30分に発進、日本時間午前3時19分から攻撃が開始された(真珠湾攻撃)。
(追記2022/01/22)
 ハルノートの事実上の起草者は財務次官のハリー・ホワイトで、彼は戦後ソ連のスパイとして告発されて自殺している。ルーズベルトの周囲にはスターリン指揮下のコミンテルンのスパイが張り巡らされており。ルーズベルト自体が、容共主義者でレイシストだった。かくして彼をして、日米開戦を推進する状況が整っていた。
 一方で、日本の近衛首相も公家の血を引きながら、「貧乏物語」で有名な社会主義者 河上肇に学ぶため京都帝大に転学するなど、社会主義的な思想に馴染んでおり、首相となった近衛の周囲には、やがてゾルゲ事件で死刑となる尾崎秀実や、戦後は社会党顧問になった社会主義者 風見章など、コミンテルンの息のかかったスパイが内閣の中枢に絡んでいた。
 スターリンは、ヒトラードイツの侵略を想定しており、東方の満州を支配している日本と対立しないために、日ソ中立条約を結び、さらに日本を南進させる工作を、ゾルゲなどを通じて進めていた。他方で、アメリカにも日米開戦に向けさせるようにルーズベルト周辺に工作員を侍らせた。
 かくして、真珠湾攻撃の情報を得ながら、無視して攻撃させたルーズベルトは、日米開戦にこぎ着け、さらに念願のヨ-ロッパ戦線に参画するのに成功した。そして、東方戦線の憂慮を消すのに成功したスターリンは、すべての戦力をナチスドイツとの西部戦線に投入できたわけだ。
 スターリンの指揮下のコミンテルン恐るべし、という話が、ソ連崩壊やソ連の戦時中の暗号電信を解読したヴェノナ文書などで、徐々に明らかになりつつあるようである。
(この年の出来事)
*1941.6.22/ 独軍がバルト海から黒海にわたる戦線でソ連攻撃を開め、「バルバロッサ作戦」が開始される。(独ソ戦が始まる)
*1941.10.16/ 対米開戦が不可避になるも、近衛文麿首相は開戦責任を避けようとし、東条陸相と対立、内閣を投げ出して総辞職。18日、内相と陸相を兼任して東条内閣が成立する。
*1941.11.22/ 国民勤労報国協力令が公布され、男子14~39歳、未婚女子14~24歳には勤労の義務が課される。

闘いの転機(戦いの前と後)

ミッドウェイの戦況

2020-06-05

ー日本軍のミッドウェー海域進出ー
昭和17年5月27日(海軍記念日)、南雲忠一海軍中将率いる第一航空戰隊(赤城、加賀)、第二航空戰隊(飛龍、蒼龍)を中心とする第一航空艦隊(通称、南雲機動艦隊)が廣島湾柱島から厳重な無線封止を実施しつつ出撃した。
主力部隊他も2日後に同島を出撃している。
三和義勇(聯合艦隊作戰参謀)は『今は唯よき敵に逢はしめ給えと神に祈るのみ。敵は豪州近海に兵力を集中せる疑あり。かくては大決戰は出来ず。我はこれを恐れる』『長官から兵にいたるまで誰一人として勝利についていささかの疑問をいだく者はいない。戰わずして敵に勝つの概ありと言うべきか』と日記にしたためている。
宇垣は米軍の無線交信が増えたことを気にして『日本軍輸送船團が察知されたのではないか』と疑ったがそれ以上の手を打つことはなく、戰後日記を分析した千早正隆は「これ以上なく悔やまれる」と述べている。
5月28日、ミッドウェー島占領部隊輸送船團が水上機母艦「千歳」、駆逐艦「親潮」、「黒潮」と共にサイパンを出航した。
海軍陸戰隊(太田実海軍少将)と設營部隊、陸軍からは一木清直陸軍大佐率いる陸軍一木支隊が乗船していた。船團は第二水雷戦隊(旗艦 軽巡洋艦神通)他に護衛され、北上した。
作戰では日本側の事前索敵計画として6月2日までに2個潜水戰隊をもって哨戒線を構築する予定だった。
しかし、担當する第六艦隊(潜水戰隊で構成された艦隊)で長距離哨戒任務に適した3個潜水戰隊の内、第二潜水戰隊は印度洋での通商破壊戦後の整備中、第八潜水戦隊は豪州・阿弗利加での作戰任務中、第一潜水戰隊は北方作戰に充てられる事になった為どれも作戰には投入できなかった。
このため、「海大型」で構成される第三・五潜水戰隊が担當する事になったが五潜戰は日本からクェゼリンへの回航途上で(第六艦隊に作戰が通知された5月19日時点)予定期日に間に合うのは不可能、三潜戦も所属の潜水艦の内3隻が第2次K作戦に充てられた為、両隊あわせて9隻の潜水艦が予定配置についたのは6月4日になってしまった。
特に第16任務部隊が6月2日に五潜戦の担當海域を通過しており本作戰における大きな禍根になった。
次に予定されていたのは第二十四航空戰隊によるミッドウェー周辺への航空索敵である。
しかし二式大艇によるウェーク島を経由した索敵計画だったがウェーク環礁が二式大艇を運用するには浅すぎた為、経由地がウォッゼ環礁に変更された為ミッドウェー全海域の索敵が出来ず、更にパイロットの技量不足で夜間着水が出来ず薄暮までにウォッゼ環礁に歸還する必要があったので肝心な北方海域哨戒(5月31日)短縮された為、結局米艦隊を發見する事は出来なかった。
仮に予定通り北方海域を哨戒していたら米艦隊を発見できた確率は非常に高かった。
最後に計画され、聯合艦隊が最も重視した第2次K作戰は、オアフ島西北西480海里にあるフレンチフリゲート礁で潜水艦の補給を受けた二十四航戰の二式大艇によるオアフ島の航空索敵である。
第1次は3月に実施し、さらに二式大艇による布哇空襲時にもフレンチフリゲート礁は使用された。
しかし、米軍は日本軍の作戰を暗號解読で察知すると、海域一帯に警戒艦艇を配置して封鎖した。
潜入した伊123は「見込み無し」という報告を送った。
これを受け第十一航空艦隊は5月31日21時23分に作戦中止を二十四航戰に指示した。
この作戰も、もし実施されていたらオアフ島には米空母がいないことが判明し、以後の作戰が大きく変わった可能性が高かった。さらに南雲機動部隊にも作戰中止を聯絡しなかった。
6月3日午後、南雲機動部隊に追従する主力部隊旗艦「大和」に乗り込んだ聯合艦隊司令部敵信班はミッドウェー島付近で敵空母をらしい呼び出し符號を傍受した。
聯合艦隊首席参謀黒島亀人によれば、4日頃に大本營の知らせか傍受かでミッドウェーに機動部隊ががいる兆候をつかみ、山本が一航艦に知らせるかと聞いたが、黒島は、無線封止の優先、一航艦が搭載機の半数を反撃に備えていること、機動部隊も兆候をつかんだであろうことから、知らせないように具申したとして自分の失敗であると話している。
聯合艦隊参謀佐々木彰によれば、4日に通信呼出符號を傍受したという。
回虫から来る腹痛に悩まされていた山本だが、直ちに南雲機動部隊に通報するよう参謀に伝えた。
だが「無線封鎖を破れば敵に位置を知られる」「南雲機動部隊の方が近く同じく傍受したはず」という判断から見送られた。
しかし南雲機動部隊は傍受しておらず、予定通りに作戰を続けた。
この件を取材した亀井宏によれば、黒島参謀を含めて聯合艦隊、軍令部、第六艦隊、全員の証言が一致しなかったという。
土井美二(第八戰隊首席参謀)は、草鹿龍之介参謀長が「空母はマストが低くて敵信傍受が期待できない。怪しい徴候をつかんだらくれぐれも頼む」と出撃前に何度も確認していたと証言し、草鹿の回顧録にも同様の記述がある。
日本時間6月3日午前10時30分、南雲機動部隊は深い霧の中で混乱し、旗艦「赤城」は「飛龍」、「蒼龍」、「榛名」、「霧島」の艦影を見失った。
「飛龍」と「霧島」は衝突しかけたため、司令部では無電を使用するかどうか議論があったが、長波無電を使用して艦隊の針路を定めた。
無線の使用により米軍が南雲部隊の行動を察知したという批判が日本側にあるが、米軍側にこの通信を傍受した記録はない。
6月4日午前3時37分、南雲部隊は補給隊と駆逐艦「秋雲」を分離した。
午前10時25分、南雲司令部は各艦に「敵情に応じ行動に変更あるやも知れず」とし、制空隊の集合や収容に注意するよう通達を出している。
午後4時30分、「赤城」と「利根」が米軍機らしき機影を發見すると、「赤城」から3機の零戰が發進して迎撃に向かった。
南雲部隊は、誤認の可能性が高いと判断している。
午後11時30分、「赤城」は雲間に米軍機を発見して総員を戰斗配置につけたが、その後は平穏に過ぎた。
「赤城」では日本軍輸送船團が爆撃を受けたことを知り、また米軍索敵機を撃墜できなかったことでミッドウェー基地に對する奇襲効果が失われたことを悟ったが、米空母に関しては無警戒であった。

ー米軍の哨戒と日本軍輸送船團攻撃ー
米軍は5月30日以降、ミッドウェー島基地航空隊の32機のPBYカタリナ飛行艇による哨戒が行われていた。
6月2日、フランク・J・フレッチャー少将の第17任務部隊とレイモンド・スプルーアンス少将の第16任務部隊がミッドウェー島の北東で合流。
この合流した機動部隊の指揮はフレッチャー少将がとることになった。
6月3日(09:00)、カタリナ飛行艇1機(ジャック・リード少尉機)が日本軍輸送船団と護衛の第二水雷戰隊を發見する。
(12:30)、ミッドウェー島から第7陸軍航空部隊分遣隊のB-17爆撃機9機(指揮官:ウォルター・スウィーニー中佐)が發進、攻撃に向った。
日本時間6月4日午後1時(16:23)、船團を發見したB-17部隊は爆撃を開始し、戰艦、空母、輸送船など、多数の艦艇撃破を報告した。
実際は輸送船「あるぜんちな丸」「霧島丸」が至近弾を受けたのみで損害も無かった。
(21:30)、オアフ島より増援されたPBYカタリナ飛行艇4機(指揮官:チャールズ・ヒッパード中尉)に魚雷を積んだ雷撃隊が出撃する。(現地時間6月4日01:15)レーダーで船團を發見(1:43)し、雷撃を開始した。
夜間だった事で完全な奇襲になり、輸送船「清澄丸」が機銃掃射され、「あけぼの丸」に1本が命中し戰死者11名が出たが、両船とも航行に支障はなかった。
この時、船團を護衛すべき第七戰隊(栗田健男少将)の重巡洋艦4隻(熊野、鈴谷、三隈、最上)は船團を見失って離れた地点にいた。
これは栗田のミスというより、田中頼三少将(船團指揮官・第二水雷戰隊司令官)の判断により、輸送船團が予定航路から北100浬地点を航行していたからである。
ミッドウェー基地からの艦隊發見の報を受け、太平洋艦隊司令部は、B-17が攻撃した艦隊は敵主力機動部隊にあらずと判断し、第16・17両任務部隊に日本軍機動部隊と間違えて攻撃に向わないよう緊急電を打った。
フレッチャー司令官も同じ判断を下し、行動を行わなかった。
午後4時50分(19:50)には予想迎撃地点に向けて南西に進路を変更している。
この段階では、フレッチャーとスプルーアンスも南雲機動部隊の位置を把握していなかった。

ー日本軍のミッドウェー島空襲ー
ミッドウェー作戰では、二つの時間が存在する。
米軍はミッドウェー島と同じ西経日付を使用し、さらに米軍機動部隊は日付帯時間に10時間を加えているので、ミッドウェー時間より2時間遅れている。
日本軍は東経日付を使用し、さらに東京時間を使用している。
従って日本軍各艦各隊の戦闘詳報も東京時間であり、ミッドウェー時間とは21時間異なる。
ここから(00:00)内を現地ミッドウェー時間とし、戰斗詳報に記載された東京時間を「午前/午後○○時○○分」で併記する。
「軍艦加賀戰斗詳報」によれば、日の出は日本時間6月5日午前2時、日没は午後4時頃、南雲機動部隊上空の天候は曇り、雲量8、雲高500から1000であった。
日本時間6月5日(現地時間6月4日1:30)、米空母では航空機搭乗員に朝食が出され、その後出撃待機となり命令を待った。
一時間後、搭乗員整列が下令、艦長や航空群司令からの指示や注意事項が通達された。
日本時間午前1時15分(4:15)、ミッドウェー基地からPBY飛行艇による哨戒隊、15分後には第17任務部隊の空母ヨークタウンからSBD ドーントレス爆撃機からなる偵察隊が航空偵察に出撃した。
ウォリィ・ショート大尉の隊は日本軍水上偵察機1機と交戰したと報告した。
この時点で南雲機動部隊は、ヨークタウンから西方200浬を航行している。
日本時間6月5日午前1時30分(4:30)、南雲機動部隊はミッドウェー空襲隊(友永丈市大尉指揮:零式艦上戰斗機36機、九九式艦上爆撃機36機、九七式艦上攻撃機36機、合計108機)を發進させた。
本来ならば淵田中佐が総指揮官として出撃するはずだったが、淵田は虫垂炎による手術を行ったばかりなので出撃できない。
源田実航空参謀も風邪により熱を出していた。
日本軍は「敵空母を基幹とする有力部隊附近海面に大挙行動と推定せず」という方針の元に攻撃を開始する。
近藤中将の攻略部隊(第二艦隊)がミッドウェー島に上陸する日は6月7日と決定されており、南雲機動部隊はそれまでにミッドウェー基地の戰斗力を奪わなければならなかった。
奇襲の成立が前提にあり、空襲の攻撃主目標は地上・上空の飛行機、副目標が滑走路、航空施設、防空陣地であった。
源田実参謀によれば、滑走路が副目標であるのは支那事変の戰訓から長期間使用不能にすることが困難であるから、また、艦爆が対空砲火による被害が大きいことも支那事變でわかっていたが命中率の良さから採用し、800キロ爆弾は開戰後の経験から陸上攻撃に大きな効果があることが分かっていたため採用したという。
各空母からの発艦機数は、「赤城」から零戰9機、九九艦爆18機、「加賀」から零戰9機、九九艦爆18機、「蒼龍」から零戰9機、艦攻18機(800kg爆弾装備)、「飛龍」から零戰9機、艦攻18機である。
このうち、飛龍艦攻1機(赤松作 飛特少尉)が故障で引き返している。
空母に残った戰力は、零戰36(各艦9)、艦爆36(飛龍18、蒼龍18)、艦攻41(赤城17、加賀26)であった。
一航戰の艦攻には航空機用魚雷が装着され、各空母格納庫で待機。
二航戦はセイロン沖海戰の戰訓を踏まえ陸上攻撃・艦船攻撃どちらでも對応できるようにする為未装備状態とした。
また偵察機として空母「赤城」 、「加賀」から九七式艦攻各1機、重巡洋艦「利根」、「筑摩」から零式水上偵察機各2機、戰艦「榛名」から九五式水上偵察機が發進した。
索敵機の發進は日の出の30分前、午前1時30分と定められてい。
だが第八戰隊司令官阿部弘毅少将の判断で「利根」は對潜哨戒につく九五式水上偵察機の發艦が優先された。
このため筑摩機は(04:35)午前1時35分(第5索敵線)、(04:38)午前1時38分(第6索敵線)に零式水上偵察機が発進、(04:50)午前1時50分に對潜哨戒機發進。
「利根」は(04:38)午前1時38分に對潜哨戒機、(04:42)午前1時42分(第3索敵線)、(05:00)午前2時(第4索敵線)にそれぞれ水偵が發進した。
戰斗詳報には「利根、筑摩とも出発著しく遅延す」「筑摩6號機は天候不良のため午前3時35分に引き返せり」という記載がある。
筑摩の遅れは、機長兼飛行長の黒田信大尉によれば、待機していたが艦長から發艦命令がなかったので催促したという。
艦長の古村啓蔵によれば、發艦が遅れた理由は思い出せないが催促されて判断し發艦させたという。
利根の遅れは、通信参謀矢島源太郎と飛行長武田春雄によれば、射出機の故障は記憶になく、大きく遅れた感じはなかったという。
第八戰隊首席参謀土井美二中佐によれば、なにか滑走車のピンが抜けた入らないで騒いでいた気がするという。
最後に各空母より零戰1個小隊3機が直掩のため出撃した。
このうち、「加賀」の零戰1機が故障のために飛び立てず合計11機となる。
そして南雲艦隊は針路を再びミッドウェー島に向け進撃を開始した。
午前2時20分(05:20)、南雲長官より「敵情に変化なければ第二次攻撃は第四編成(指揮官加賀飛行隊長)をもって本日実施予定」という信號が送られた。
これは米艦隊が出現しない事が明確になった時点で兵装を對地用に変更し、ミッドウェーを再空襲する事を予令として通知したものである。
仮に第二次攻撃隊が出撃すると、南雲機動部隊に残された航空兵力は各空母零戰3機となるはずだった。
午前2時15分(05:15)ごろ、アディ大尉が操縦するPBYカタリナ飛行艇は日本軍零式水上偵察機 (利根4號機)を發見する。
近くに日本艦隊がいると判断した大尉は付近を捜索した結果、15分後に南雲部隊を発見して「日本空母1、ミッドウェーの320度、150浬」と平文で報告した。
日本側もPBY飛行艇を發見し、警戒隊の軽巡洋艦「長良」から、続けて戰艦「霧島」から敵機發見の煙幕があがった。
南雲機動部隊は直掩零戰隊を發進させはじめたが、米軍飛行艇は雲を利用して回避しつつ接触を続け、零戰隊はとうとうアディ大尉のPBY飛行艇を撃墜できなかった。
午前2時40分(05:40)、アディ大尉機と同じ針路を遅れて飛んでいたチェイス大尉のPBY飛行艇もミッドウェー空襲隊を發見・報告した。
米軍偵察機が南雲部隊発見を通報した無電はミッドウェー基地や南雲部隊などには傍受されたが、第16・17任務部隊には混線したため内容が把握できなかった。
両部隊が内容を把握できたのはPBYからの続報を元にして、(06:03)にミッドウェー基地が打電した平文の緊急電を傍受してからである。
この平文電報は「赤城」でも傍受している。
空襲が予想されるミッドウェー基地では午前3時(06:00)に迎撃の戰斗機26機(バッファロー20、ワイルドキャット6機)が出撃し、続いてTBFアベンジャー雷撃機6機、B-26マローダー爆撃機4機、 SB2Uビンジゲーター急降下爆撃機12機、SBDドーントレス急降下爆撃機16機という混成攻撃隊が南雲部隊へ向けて發進した。
基地には予備のSB2U 5機及びSBD 3機が残された。
午前4時7分(06:07)、ミッドウェー基地経由で日本軍空母發見の報告を受けたフレッチャー少将は直ちに行動を開始すると「エンタープライズ」のスプルーアンスに対して攻撃を命令した。
米海軍の3空母は直ちに出撃準備を開始、スプルーアンスは「エンタープライズ」と「ホーネット」の攻撃隊發進を午前4時(07:00)と指定した。
午前3時16分(06:16)、ミッドウェー基地上空の米軍戰斗機隊は接近する艦攻・艦爆・戰斗機隊の順で進撃する日本軍攻撃隊(友永隊)107機を發見する。
戰斗はカタリナ飛行艇の吊光弾投下と米軍機の奇襲で始まり、先頭の友永隊長機を始め艦攻多数が火に包まれ、直後に零戰隊が逆襲に転じて空中戰となった。
約15分の空中戰は日本側の勝利に終わる。
迎撃したF2Aブリュースター・バッファロー戰斗機20機のうち13機が撃墜され、F4Fワイルドキャット戰斗機6機のうち2機が撃墜され、歸還したバッファロー5機、ワイルドキャット2機が使用不能となった。
米軍の妨害を排除した日本軍攻撃隊は午前3時30分(06:30)から午前4時10分(07:10)にかけて空襲を実施した。
映像撮影のため派遣されていた映画監督のジョン・フォードなどが見守る中、重油タンクや水上機格納庫、戰斗指揮所、發電所、一部の對空砲臺を破壊し基地施設に打撃を与えたが、滑走路の損傷は小さく、死傷者も20名と少なかった。
九九艦爆の搭乗員は、飛行機のない滑走路を爆撃して虚しい思いをしたと回想している。
日本軍攻撃隊は、米軍戰斗機41機撃墜確実・9機不確実を主張し、艦攻5機、艦爆1機、零戰2機を失った。
残る機も相當数が被弾しており、艦攻16、艦爆4、戰斗機12(修理不能2)が損傷した。
友永大尉機も被弾によって無線機が使用不能となり、小型黒板を通じて二番機に中継代行をさせている。
米軍側は空中戰で日本軍機40-50機を撃墜・地上砲火で10機撃墜を主張し、バッファロー13機、ワイルドキャット2機を失い、残る戰斗機も被弾して出撃可能機は2機となった。
また、歸途につく艦攻隊に最初の空戰で海面に不時着した艦航隊第二中隊長機菊池六郎中隊長以下3名がゴム筏の上でマフラーを振っているのが發見され非常食が投下されたがその後の戰況のため救助されることはなかった。
攻撃の成果が不十分と判断した友永大尉は午前4時(07:00)、南雲機動部隊に對し『カワ・カワ・カワ(第二次攻撃の要あり)』と打電して第一次攻撃隊の攻撃は不十分であることを伝えた。
2ヶ月前のセイロン沖海戰と全く同じ展開である。
ミッドウェー基地攻撃中の午前3時49分(06:49)、筑摩4號機が天候不良のため引き返すと報告(受信午前3時55分)。
午前5時55分、利根1號機から「敵15機わが艦隊に向け移動中」という報告を受け、更に零戰6機を直掩に加えた。
米軍側記録によれば、「ヨークタウン」から發進した10機の索敵機である。
同じく四空母に分乗している第六航空隊の零戰21機を使用できるよう準備を指示している。直掩隊は弾薬と燃料補給のため頻繁に着艦・交替を繰り返したため、飛行甲板に艦攻や艦爆を並べることが出来なかった。

ー日本軍の兵装転換と米軍基地航空隊の空襲ー
日本軍空襲隊(友永隊)がミッドウェー島を攻撃していたころ、南雲機動部隊は「0400に至り敵第一次攻撃あり、その後0730頃迄殆ど連続執拗なる敵機の襲撃を受ける」というように米軍機の継続的な空襲に悩まされていた。
午前4時5分(07:05)、重巡洋艦「利根」は米軍重爆撃機10機を發見する。
米軍攻撃隊の正体は、ミッドウェー基地から發進したTBF アベンジャー雷撃機6機(フィバリング大尉)と、爆弾のかわりに魚雷を抱えたB-26マローダー双發爆撃機4機(コリンズ大尉)だった。
シマード大佐(ミッドウェー司令官)が友永隊の迎撃に全戰斗機を投入してしまったため、彼らは戰斗機の護衛なしに進撃してきたのである。
「赤城」と「利根」が發砲し、直掩の零戰10機が迎撃する。
アベンジャー6機のうち3機は直掩機により撃墜され、残り2機も投下後に撃墜、アーネスト中尉機だけが生還した。
空母「赤城」は米軍の魚雷を全て回避した。
被害は機銃掃射で「赤城」三番高角砲が旋回不能(30分後に修理完了)、砲員に負傷者が出たほか、両舷送信用空中線が使用不能となり、「赤城」(旗艦)の通信能力に支障が生じた。
「赤城」を狙ったB-26隊は魚雷2-3本命中を主張しているが、実際には回避されている。
B-26は2機が撃墜され、生還した2機もひどく損傷して放棄された。
ミッドウェー基地から發進した米軍陸上機による空襲は、同島の基地戰力が健在である証拠であった。
友永隊の報告をふまえ、南雲司令官はミッドウェー島基地への再空襲を決定する。近藤信竹中将の率いるミッドウェー攻略部隊(第二艦隊)が6月7日に上陸を開始する前に、米軍基地航空戰力を壊滅させる必要に迫られたからである。
午前4時15分(07:15)、南雲司令部は艦攻に魚雷を装備していた第一航空戰隊(赤城、加賀)に對し、『本日航空機による攻撃を実施する為第二次攻撃隊を編成せよ。兵装は爆装に転換』と通知した。
搭載する九七艦攻のほとんどがミッドウェー空襲隊に加わり、九九式艦上爆撃機しか残っていない第二航空戰隊(飛龍、蒼龍)に対しては、爆装せず待機が命じられた。
米側の二航戰の資料によれば、雷装から爆装へ転換し終わるにはかなり時間がかかるため、後から未装備の艦爆を爆装させ始めても間に合う事と、歸投する空襲隊の収容をしなければならなかった為である。
海戰前に「飛龍」で行われた実験では、魚雷から爆弾への転換に1時間半から2時間かかっていた。
燃料補給と弾薬補給を求める直掩戦闘機が着艦するため飛行甲板を開けねばならず、兵装転換作業は各空母格納庫で行われた。
その頃、亜米利加海軍第17任務部隊の指揮官フレッチャー少将は、ミッドウェー基地航空隊の活躍によって南雲機動部隊の位置をほぼ特定することに成功し、攻撃するタイミングを窺っていた。
午前3時7分(06:07)、フレッチャーはスプルーアンスに「南西に進み、敵空母を確認せば、それを攻撃せよ」と命じ、これを受けたスプルーアンス少将は午前4時(07:00)過ぎに攻撃隊發進を命令、第16任務部隊は次からなる117機の攻撃隊を發進させた。
空母「エンタープライズ」
F4F戰斗機10機(VF-6、指揮官:ジェームズ・グレイ大尉)SBD爆撃機33機(指揮官:第6航空群司令クラレンス・マクラスキー少佐、VB-6、指揮官:リチャード・ベスト大尉、VS-6、指揮官:ウィルマー・ギャラハー大尉)TBD雷撃機14機(VT-6、指揮官:ユージン・リンゼー少佐)空母「ホーネット」
F4F戰斗機10機(VF-8、指揮官:サミュエル・ミッチェル少佐)SBD爆撃機35機(VB-8、指揮官:ロバート・ジョンソン少佐、VS-8、指揮官:ウォルター・ローディ少佐)TBD雷撃機15機(VT-8、指揮官:ジョン・ウォルドロン少佐)
しかし、午前4時28分(7:28)に日本軍の偵察機が艦隊上空に現れたことから、まだ日本側には空母を發見されていなかった上、發艦した飛行隊を小出しにすることは戰術としては非常にまずいにもかかわらず、敢えてスプルーアンスは發進を終えた飛行隊から攻撃に向かわせるように指示した。
艦をあげての全力攻撃で、全機を飛行甲板に並べて一度に發進させることができなかったのである。
結果的に、このスプルーアンスの決断が勝因の一つになる。
また、日本軍の空母4隻すべての所在を確認した第17任務部隊(フレッチャー少将)も、警戒のために出していた偵察機(當日はヨークタウンが警戒担當)の収容を終えた後の午前5時30分(8:30)に、次からなる35機の攻撃隊を發進させた。
空母「ヨークタウン」
F4F戰斗機6機(VF-3、指揮官:ジョン・サッチ少佐)SBD爆撃機17機(VB-3、指揮官:マクスウェル・レスリー少佐)TBD雷撃機12機(VT-3、指揮官:ランス・マッセイ少佐)
「ヨークタウン」は(09:05)に攻撃隊を發進させると、すぐにウォリー・ショート大尉のSBD爆撃機17機(VS-5)、戰斗機6を甲板に並べ、發進準備を行った。
また潜水艦「ノーチラス」は日本戰艦を雷撃したあと、午前6時10分(09:10)に「敵巡洋艦(駆逐艦「嵐」)を雷撃するも命中せず、爆雷6發で攻撃される」と日誌に記録したが、誰にも報告しなかっ。
午前4時28分(7:28)、利根4號機(機長は偵察員の甘利洋司 一等飛行兵曹、操縦員は鴨池源 一等飛行兵、電信員は内山博 一等飛行兵)は「赤城」の南雲機動部隊司令部に對し、『敵らしきもの10隻見ゆ、ミッドウェーより方位10度、240浬 (南雲機動部隊から200浬)』と發信した。
ところが、位置報告がずれており、実際の米艦隊の位置は160km北に偏移している。
新規に搭載した機體であったため、コンパスの自差修正ができず、コンパスに10度のずれがあった為とされる。
約10分後に受信した南雲部隊は、午前4時45分(7:45)、魚雷から陸用爆弾への兵装転換を一時中断した。
これについて草鹿参謀長は午前5時ちょうどに利根4號機報告を知ったと著作で述べているが、「赤城」の通信記録とは矛盾している。
予期せぬ米艦隊發見報告に、南雲司令部は興奮した。
一方で特に動揺もなく平静だったという証言もある。
午前4時47分、南雲司令部は「艦種を確かめ触接せよ」と利根4號機に命令した(これについて日本軍戰斗詳報とミッドウェー時間は約21時間ずれているので、ミッドウェー現地時間6月4日午前8時は日本軍記録6月5日午前5時となり、両軍の戰斗レポート(戦闘詳報)に記入された日付時刻が異なることは、ミッドウェー海戰の研究を混乱させることがある)。
なお利根4號機が米艦隊の位置を報告する前、筑摩1號機(機長:黒田信大尉/筑摩飛行長)が米軍機動部隊上空を通過していたが、雲が低かったため米艦隊を發見できなかった。
利根4號機からの返信を待つ南雲機動部隊に、新たな米軍航空隊が接近していた。日本時間午前4時53分(現地時間7:53)、戰艦「霧島」から敵機發見を意味する煙幕が展開され、ヘンダーソン少佐が指揮するミッドウェー基地の亜米利加海兵隊所属SBD ドーントレス爆撃機16機が艦隊上空に到達した。
午前4時55分(7:55)、同隊は日本軍直掩機(零戰)の迎撃を受けヘンダーソン機以下6機が撃墜され、なおも空母「飛龍」と「蒼龍」を空襲するも命中弾を得られず、ヘンダーソン隊長機を含む合計8機を失った。
ヘンダーソン戰死後に攻撃隊を率いたエルマー・G・グリデン大尉は、航行する日本空母の甲板に日の丸が描かれており容易に見分けられたと述べている。
米軍側は「飛龍」に命中弾2、「加賀」に命中弾3を主張しているが、命中した爆弾は1發もない。
米軍機の攻撃は続いた。
午前5時10分(8:10)、B-17爆撃機17機(スウィニー中佐)による空襲が行われ、「赤城」、「蒼龍」、「飛龍」が狙われたが、損害は無かった。
攻撃したB-17隊も無傷だったが、空母に直撃弾1、不確実1發を主張している。
1機のB-17乗組員達は基地に戻ると、彼らの爆撃が日本艦隊を撃破したと主張した。
最後に海兵隊のSB2Uビンディケーター爆撃機11機(ノリス少佐)による空襲が行われた。
この隊は零戰の防御網をくぐりぬけて空母を狙うのは困難と判断し、戰艦「榛名」を狙った。
直掩機の迎撃で1機を失い、2機が燃料切れで不時着、直撃弾2発を主張したが、「榛名」は無傷だった。
日本軍の戰斗詳報は「0510:赤城、飛竜ニ爆弾命中スルヲ認ム(誤認)」、「敵飛行機、蒼竜(原文ママ)ニ急降下、利根(水偵)揚収」、「加賀後方ニ爆弾投下命中セズ」、「赤城左120及500mニ爆弾2個弾着スルヲ認ム」、「利根左100及4000mに爆弾投下、蒼竜飛竜、盛ニ發砲、蒼竜周囲ニ猛烈爆弾投下」、「赤城後方ニ爆弾投下、命中セズ」、「敵飛行機10機、榛名ニ對シ急降下、爆弾投下命中セズ」など、断続的に空襲を受けていることを記録している。
ニミッツ提督は「ミッドウェー基地隊は日本軍艦艇10隻に損傷を与え、1-2隻を沈めたかもれないが阻止に失敗し、基地隊主戰力は失われた」とキング大将に報告した。
この後、ミッドウェー基地航空隊はSB2U 5機、SBD 6機で夜間攻撃に出撃したが会敵せず、SB2U 1機を事故で喪失した。

ー米軍機動部隊發見と2度目の兵装転換ー
日本時間午前5時から午前5時30分(08:00から08:30)にかけて、ミッドウェー基地を攻撃した日本軍攻撃隊(友永隊)が南雲部隊上空に戻ってきた。
ちょうど米軍ミッドウェー基地航空隊が南雲機動部隊を攻撃している最中であり、日本軍攻撃隊は母艦上空での待機を余儀なくされている。
「赤城」からは、護衛の駆逐艦が友永隊を誤射する光景が見られ、後に着艦した千早大尉(赤城艦爆隊)と山田大尉(赤城艦戰隊)は友軍に激怒している。
混乱した状況下、南雲は利根4號機に對し「敵艦隊の艦種知らせ」と命じた。
すると午前5時20分ごろ、『敵兵力は巡洋艦5隻、駆逐艦5隻(0509發信)』という報告があった。
この段階での南雲司令部は、米軍空母が存在するという確証を持っていない。
しかし、午前5時30分(08:30)、『敵はその後方に空母らしきもの一隻を伴う。ミッドウェー島より方位8度、250浬(発午前5時20分)』との打電が入った。
この空母は「ホーネット」である。
偵察機からの通信は、母艦側の受信と暗号解読により10分の差が生じている。
草鹿龍之介参謀長は「予想していなかったわけではないが、さすがに愕然とした」と述べている。
南雲司令部は米艦隊の正確な情報を知る必要にせまられた。
午前5時30分(08:30)、第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)は二次攻撃に備え250kg爆弾を揚弾する。
同時刻、南雲は山口に對し、空母「蒼龍」に2機だけ配備されていた試作高速偵察機十三試艦上爆撃機(艦上爆撃機彗星の試作機)の投入を命じ、同機はただちに發進した。
この偵察機の最高速度は約519km/h、巡航速度約426km/h。
利根4號機などの零式水上偵察機は最高速度367km/h、米軍主力戰斗機F4Fワイルドキャットの最高速度は514km/hである。
十三試艦爆は当時の米軍戰斗機の追撃を受けても十分退避可能であり、正確な情報を持ち歸ることができた。
午前5時30分(08:30)、偵察に出發した十三試艦爆と入れ替わるように蒼龍攻撃隊が歸還した。
この時第二航空戰隊(飛龍、蒼龍)を率いていた山口多聞少将は、あらゆることを放棄して、すなわち護衛戰斗機もつけられるだけ、爆弾も陸用爆弾で、かつ一切の人情を放棄して直ちに第二次攻撃隊を発進させることを駆逐艦「野分」を中継して『直ちに攻撃隊發進の要ありと認む』と進言した。
J・パーシャルやA・タリーの調査では、この直前のB-17の空襲で撮影された「蒼龍」と「飛龍」の上空写真には飛行甲板に航空機は並んでおらず、実際は攻撃隊の準備は出来ていないとしているが、彼らは山口の進言を「飛行甲板上に並べてある攻撃隊だけでも直ちに發艦させよ」と誤訳している。
山口の進言の意図は「兵装転換を行わずに攻撃隊の發進を急げ」であると供に、上述の通り、燃料補給と弾薬補給を求める直掩戰斗機が着艦するため飛行甲板を開けねばならいため、兵装転換作業や攻撃隊の準備は各空母格納庫で行われており、飛行甲板上の状態を見て攻撃隊の準備状況を見極めようとしたパーシャルとタリーの調査は的外れである。
草加参謀長、源田航空参謀ら當事者より「艦爆機だけならすぐ發進させることはできた」(草加参謀長)等の証言があり、この進言時点で第二次攻撃隊の出撃は可能であった。
ただ偵察機の報告によれば米軍機動部隊までの距離はまだ遠い(実際の米軍機動部隊はもっと近くにいた)のと兵装転換自體、午前4時15分の転換開始から午前4時45分の一時中止まで30分しかたっておらず、殆どしていなかった。
これについて淵田美津雄は敵艦隊發見報告時点で、第二次攻撃隊・九七艦攻の魚雷から陸用爆弾への転換がほぼ終わっていたと述べているが、実際は「赤城」で6機、「加賀」で9機が済んでいただけだった。
南雲司令部は幾つかの條件を検討した。
1.九七艦攻への陸用爆弾から魚雷への転換は、もともと陸用爆弾に換装した機が少なく、短時間で終わる。水平爆撃の命中率は悪く、急降下爆撃でも敵空母に致命傷を与えることは困難である。
2.第二航空戰隊(飛龍、蒼龍)の九九艦爆の爆装は短時間で行える。
3.上空待機中の日本軍ミッドウェー基地空襲隊(約100機)の燃料が尽き掛けており、これ以上待たせる事は出来ない。
貴重な機体と200名以上の熟練搭乗員を危険にさらすことは大問題である。
4.敵艦隊攻撃隊を護衛する零戰が、南雲部隊を守るために殆ど發進しており、一度着艦して補給する必要がある。
弾薬と燃料を使い果たした零戰隊を護衛につけても意味がない。
5.戰斗機の護衛のない攻撃隊は、艦隊護衛戦闘機の餌食になることを珊瑚海海戰や米軍ミッドウェー基地航空隊が実証している。
南雲にとって、大損害を受けることがわかっていながら「はだか」の航空隊を出すことは出来ない。
南雲司令部は、戰斗機の護衛をつけずに攻撃隊を出す危険性や第一次攻撃隊を見捨てることへの懸念から、歸還した第一次攻撃隊の収容を優先すべきと考える。
南雲は山口の進言を却下。
南雲は米機動部隊艦隊から攻撃を受ける前に兵装転換を行い、日本軍攻撃隊は發進可能と判断した。
午前5時37分(8:37)、各空母は日本軍ミッドウェー基地攻撃隊の収容を開始する。
午前5時55分(08:55)、「(第一次攻撃隊)収容終らば一旦北に向ひ敵機動部隊を捕捉撃滅せんとす」と命じた。
同時刻、重巡洋艦「筑摩」から「水上偵察機、午前6時30分(09:30)發進予定」との報告がある。
南雲には、第一航空戰隊(赤城・加賀)の艦攻(雷装)は午前7時30分發進可能との報告、第二航空戰隊(飛龍、蒼龍)は午前7時30分から午前8時に發進可能との報告があっ。
午前5時45分(08:45)、「更に巡洋艦らしきもの2隻を見ゆ(発信午前5時30分)」という利根4號機からの追加情報が入る。
攻撃隊収容中の午前5時48分(08:48)、利根4號機から歸投するという電報が届いた。
阿部少将は第八戰隊(利根、筑摩)に交代の偵察機発進を命じると、利根4號機に「歸投まて」を命じた。
零式水上偵察機の航続距離は通常10時間であるため、まだ十分飛べると考えたためである。
南雲も午前5時54分に無線方位測定で位置を把握する為の長波輻射を利根4號機に命じた。
だが利根4號機は午前5時55分(8:55)に「敵攻撃機10機貴方に向かう」の通報のみを行い、輻射は行わなかった。
後方の戰艦「大和」で南雲機動部隊からの電報を受信していた山本五十六以下聯合艦隊司令部は、予期せぬ米軍機動部隊が出現した事にたいして慌てなかった。
宇垣纏参謀長は司令部の雰囲気が「さては敵の機動部隊の激撃なる、よき敵御座んなれ、第二次攻撃は速に之に指向に、先づ敵空母を屠り、残敵を如何に処分すべきかと楽観的気分に在り」と述べている。
山本が黒島亀人先任参謀に「米艦隊への攻撃命令を出すか否か」を尋ねると、黒島は「南雲は兵力の半数を米空母機動部隊に対して準備しているから必要なし」と答え、聯合艦隊司令部は何も發信しなかった。

ー米軍艦載機の攻撃(雷撃)ー
第一次攻撃隊の収容は午前6時30分(9:30)までに完了したとされるが、「蒼龍」では午前6時50分頃までかかっている。
南雲は聯合艦隊(山本五十六長官)に米軍空母發見を知らせると、直ちに米空母攻撃へ向け準備を開始する。
この状況下、午前6時20分(9:20)頃にジョン・ウォルドロン少佐率いるホーネット雷撃隊TBD デバステイター雷撃機14機が日本の機動部隊上空に到達、日本側では「赤城」や「筑摩」が確認した。
この時点で南雲機動部隊の直掩機は18機に減少していたが、直ちに加賀5機、赤城3機が迎撃に上がる。
米軍攻撃隊は部隊毎に進撃したので連携が取れず、ホーネット雷撃隊は戰斗機の護衛の無いまま「赤城」を狙った。
一機の雷撃機は「赤城」の艦橋に接近して墜落し、草鹿参謀長は死を覚悟している。
デバステーター隊は零戰により全機が撃墜され、不時着水した機體から脱出したジョージ・ゲイ少尉1人を除く隊員29名が戦死した。
ゲイ機は「蒼龍」を雷撃して飛行甲板上を通過したが、魚雷は命中せず、直後に零戰に撃墜されたとされる。
戰斗後の名誉勲章推薦状には「ホーネット雷撃隊は日本空母に魚雷を命中させ、日本の空母に最初に大打撃を与えた」とあり、後にホーネット隊は他の部隊から恨みを買うことになる。
一方「ホーネット」の戰斗機隊と爆撃隊は雲で雷撃隊を見失い、南雲部隊も發見できなかった。
戰斗機隊とドーントレス13機はミッドウェー基地へ向ったが、燃料切れでワイルドキャット全機とドーントレス3機が不時着水、残りのドーントレス20機は「ホーネット」に歸艦した。
午前6時37分(09:37)、利根4號機から「燃料不足のため歸投する(發午前6時30分)」と連絡が入る。
阿部司令は午前7時(10:00)まで接触を維持することを命じたが「我れ出来ず」との返答を受け、歸還を許可した。
同時刻、利根4號機と交代すべく筑摩5號機が發進した。
午前7時(10:00)、「蒼龍」の十三試艦爆は索敵線上に米艦隊を発見できず、引き返した。
これは前述のように、利根4號機が報告した米艦隊の位置が100km以上ずれていた為である。
午前6時50分(09:50)、ユージン・リンゼー少佐率いるエンタープライズ雷撃隊14機が南雲部隊上空に到達した。
通信不良と聯携ミスにより10機のワイルドキャットはホーネット雷撃隊を護衛していたため、エンタープライズ雷撃隊を掩護できなかった。
エンタープライズ雷撃隊は「加賀」を目標にするが10機を失い、1機が帰還後投棄、零戰1機撃墜と引き換えに隊長を含む29名が戰死する。
その上、命中魚雷も得られなかった。
戰斗機隊の連携ミスで護衛を受けられず多くの隊員を失った事に生き残った隊員達は激怒し、歸還後に戰斗機隊隊員の控室に拳銃を持って怒鳴りこんだと同隊の戦闘詳報に記載されている。
一方で、零戰の攻撃に積極性が見られず、度重なる發進、戰斗、着艦の聯続で疲労がたまっていたという推測もなされている。
(10:10)、ランス・マッセイ少佐指揮のヨークタウン第3雷撃隊が南雲部隊上空に到達した。
「飛龍」は他の3空母より前方を進み、雲の下を航行していたという。
ヨークタウン雷撃隊12機は、突出した「飛龍」を挟撃すべく2個小隊(6機)にわかれると、攻撃を開始した。
その上空では、戰斗機隊指揮官ジョン・サッチ少佐によって、彼の發案した對零戰空戰戰術サッチウィーブが初めて試されようとしていた。
この時点でヨークタウン戰斗機隊は6機だけである。
雷撃隊全てを護衛できずTBDデバステーター10機が撃墜され、残りの2機も燃料切れで不時着水し全機損失、24名中21名(隊長含)が戰死、「飛龍」に魚雷5本を發射したが、全て回避された。だが15機の零戰に6機で挑み、損害1機に對し5機撃墜という米軍側記録はサッチ・ウィーブ戦法の有効性を証明し、米戰斗機隊隊員に自信を持たせたという。
一方プランゲは「サッチ戰法はあまり効果がなかった。主任務である雷撃隊の掩護に関する限り、戰斗機隊は何の役にも立たなかった」と評している。
生還した雷撃隊操縦者ハリイ・コールは、零戰24機に襲われたと証言している。
コールの証言によれば、この時点でほとんどの日本軍直掩機がヨークタウン隊戰斗機隊と雷撃機隊に集中し、低空で戰っていたことになる。
この時、同隊雷撃機隊員が駆逐艦「嵐」に救助され重大な情報を供述したが、それについては後述する。

ー米軍艦載機の攻撃(急降下爆撃)、日本軍三空母炎上ー
その頃、クラレンス・マクラスキー少佐率いるエンタープライズ艦爆隊SBDドーントレス32機は日本の機動部隊を見つけられず、燃料消耗のために飛行範囲限界を迎えつつ、予想海域の周辺を捜索していた。
マクラスキーは日本軍機動部隊が北方に退避すると推測し、変針しつつ捜索を続行する。
午前6時55分(09:55)、米軍潜水艦「ノーチラス」を攻撃したのち南雲機動部隊へ戻ろうとしている駆逐艦「嵐」を發見する。
エンタープライズ艦爆隊は「巡洋艦」と報告する。
「嵐」は午前6時30分に「敵潜水艦(注:ノーチラス)の雷撃を受け、直ちに爆雷攻撃するも効果不明」と報告していた。
ただし「嵐」の戰友會は、空襲直前の日本時間午前7時(10:00)の段階で、「嵐」は「赤城」直衛で傍を離れていなかったと主張している。
エンタープライズ艦爆隊は、眼下の日本軍駆逐艦(爆撃機隊は巡洋艦と判断)は空母部隊へ向かっているものと判断して北東進路上を索敵した結果、午前7時24分(10:24)頃、南雲機動部隊を發見した。
この間、ドーントレス1機が不時着、1機が行方不明となったので、エンタープライズ艦爆隊は30機となった。
日本時間午前7時22分(現地時間10:23)、マクスウェル・レスリー少佐率いるヨークタウン艦爆隊も戰場に到着する。
こうして南雲機動部隊への空襲は、エンタープライズ艦爆隊とヨークタウン艦爆隊の同時攻撃となった。
日本側は先ほどのヨークタウン雷撃隊に對応して直掩零戰のほとんどが低空に降りており、さらに見張り員も雷撃機の動向や發艦寸前の直掩機に気をとられていたため發見が遅れ、「敵、急降下!」と「加賀」見張り員が叫んだときにはすでに手遅れだった。
「被弾した時、各空母甲板上には發進準備を終えた戰斗機隊、雷撃機が整列しており、米軍の攻撃があと5分遅ければ全機發進できた」と草鹿龍之介や淵田美津雄は主張している。
これにより、いわゆる『運命の5分間』説が巷間に広まっているが、これは誤りである。
日米生存者の証言や戰斗詳報の調査によりこの時点で各空母は直掩機の發着艦を行っており、攻撃隊は飛行甲板に並んですらいなかった。
赤城雷撃隊の松田憲雄電信員は、ちょうど「第二次攻撃隊員整列」のアナウンスがあり、搭乗員達が出撃前にお茶を飲もうと一息ついた時だったと証言している。
先陣を切ったのはマクラスキー少佐のエンタープライズ艦爆隊で、「加賀」を狙った。
日本艦隊は急降下爆撃隊に気付かず、對空砲火も間にあわなかった。
午前7時22-24分(10:22-24)、マクラスキー少佐の率いる小隊の攻撃は至近弾だったが、続くギャラハー大尉機の投弾した4發目が飛行甲板後部に命中する。
続いて3發が短時間の内に命中した。
なお「加賀」を攻撃したのはレスリー少佐と部下のヨークタウン艦爆12機と主張する米國研究者もいる。
午前7時25分(10:24)、レスリー少佐のヨークタウン艦爆隊17機がエンタープライズ艦爆隊に続く形で「蒼龍」へ攻撃を開始する。「蒼龍」は艦爆12-13機と記録。
發艦直後のアクシデントでレスリー少佐を含む数機は爆弾を誤投下していたが、自ら先頭にたって「赤褐色の飛行甲板、右舷に小さな艦橋、その後方に直立煙突がある空母」へ機銃掃射をもって突入した。
2番機ホルムベルク大尉機の爆弾は「蒼龍」前部エレベーター前に命中して大爆發を起こし、大尉は發艦中の日本軍機が空中に跳ね飛ばされるのを見た。
ヨークタウン艦爆隊は直撃弾5發、至近弾3發を主張しているが、実際の命中弾は3發である。
後続のうち4機が目標を変更し、そばにいた艦艇を狙う。
命中弾はなかったが、駆逐艦「磯風」の後部に至近弾となった。
同時刻、エンタープライズ艦爆隊のうち、ベスト大尉率いる一隊は連携に失敗したため、4機のみで旗艦「赤城」を狙った。
「赤城」では直衛の零戰が着艦し、補給を行い、ふたたび發艦する瞬間だった。
午前7時26分(10:26)、直衛隊の零戰1機(木村惟雄 一等飛行兵曹)が「赤城」より發艦した時点で急降下がはじまる。
最初の1弾は左舷艦首約10mに外れたが(ベスト大尉は命中と主張)、続いて2発の爆弾が命中し、第二次攻撃隊準備機や爆弾・魚雷に誘爆して大火災が發生した。
命中したのは飛行甲板三番リフト前方に命中した1發だけという艦橋勤務信號兵や従軍カメラマンの証言もある。
發艦寸前だった零戰1機が爆風で赤城艦橋付近で逆立ちとなり、飛行甲板にいた淵田中佐も爆風により両足骨折の重傷を負った。
エンタープライズ隊はドーントレス14機を失った。
約6分間のできごとであったが大東亞戰爭のターニングポイントとなる6分間であった。
空母「加賀」では艦橋近くの命中弾と燃料車の爆發により艦橋が破壊され、中にいた岡田次作艦長以下指揮官らが戦死した。
午後1時23分(16:23)、艦長に代わって鎮火の指揮をとっていた天谷孝久飛行長が総員退去を決め、乗組員は駆逐艦「萩風」、「舞風」に移乗する。
なおも機を見て救出を行おうとしたが果たせず、午後4時25分(19:25)、大爆發が2回起きた。
「加賀」は艦首と艦尾が水平になりながら沈んだ。
戰死者は閉じ込められた機関部員を含めて800名弱で、航空機搭乗員では楠美正飛行隊長以下、機上・艦上合わせて21名が戰死した。
3發の爆弾が命中した「蒼龍」の被害は被弾空母の中で最も深刻だった。
被弾から20分後の午前7時45分(10:45)、総員退去が發令されている。
午後4時(19:00)に火災の勢いが衰え、楠本幾登飛行長は防火隊を編成して再度乗艦の準備を始めた。
直後、「蒼龍」は再度の爆發を起こし、楠本は救出不可能と判断する。
「蒼龍」は午後4時13分(19:13)に沈没した。
あえて艦内に残った柳本柳作艦長以下准士官以上35名、下士官兵683名、計718名が戰死した。
搭乗員戰死者は機上・艦上合わせて10名で、江草隆繁飛行隊長以下、搭乗員の多くは救助された。
「赤城」が被弾した爆弾は1-2發程度で機関部へのダメージはなく、十分復舊可能な範疇であった。
だが被弾による火災が兵装転換時に格納庫内に乱雑に置かれた爆弾、魚雷、航空機の燃料へと次々と誘爆を起こし、大火災が發生する。
さらに、被弾直後に雷撃機4機を發見し、回避のため左舵をとったところ、舵が固定して動かなくなった。
これにより洋上に停止した。
赤城の南雲司令部は内火艇に乗り退艦、駆逐艦「野分」に移乗したあと軽巡洋艦「長良」に移ったという。
直接「長良」に移乗したという牧島貞一従軍カメラマンや乗組員の証言もある。
午前8時30分(11:30)、南雲は「長良」に将旗を掲げた。
青木泰二郎艦長は消火作業を続行させるが、再度の誘爆により艦を救うことを断念し、午後4時25分(19:25)に総員退艦を命令した。
「赤城」の処置をめぐって聯合艦隊司令部では議論が交わされ、午後7時25分(10:25)、山本は「赤城」の処分を中止させた。
南雲は、木村進少将(第十戰隊司令官)に「長良で赤城を曳航できないか」と尋ねている。
結局、6月6日午前1時50分(6月5日4:50)に処分命令が下り、午前2時に第四駆逐隊の4隻(萩風・舞風・野分・嵐)が雷撃処分した。
上記2隻と比べて「赤城」では機関部員が閉じ込められずに脱出できたので戰死者はそれらと比べ少なく、准士官以上8名、下士官兵213名の計221名。
搭乗員の戰死者は機上・艦上合わせて7名である。
淵田美津雄中佐、板谷茂少佐、村田重治少佐の3飛行隊長ら多くの搭乗員が救助された。

ー空母飛龍の叛撃―
空母「飛龍」は雲下にあり、また、ヨークタウン雷撃機の攻撃を回避するため他の3隻の空母から離れており、米軍急降下爆撃機群の攻撃を受けなかった。
午前7時50分(10:50)、次席指揮官阿部弘毅第八戰隊司令官は「赤城」、「加賀」、「蒼龍」が被弾炎上していることを主力部隊に通報する。
阿部は「飛竜ヲシテ敵空母ヲ攻撃セシメ、機動部隊ハ一応北方ニ避退、兵力ヲ結集セントス」と述べ、続いて第二航空戰隊に「敵空母ヲ攻撃セヨ」と命じた。
第二航空戰隊司令山口多聞少将は阿部の命令を待たずに敵空母に叛撃するため、間合いを詰め始める。
確認では敵空母は一隻だったが、来襲機数から二隻と判断した。
艦爆攻撃の準備を終えて艦攻魚雷中であり、間に合った艦戰をつけた。
午前7時58分(10:54)、山口少将は、阿部に對し「我航空戰の指揮をとる」米空母に全力攻撃をかけることを告げた。
阿部をおいて後任の山口が主導権したのは、山口の性格と二航戰が主力であり、重要な戰機であると考えたためである。
敵空母は攻撃を終えた部隊を収容中であり、接近して攻撃力を發揮できる好機だった。
午前8時(11:00)、第一次波撃隊として小林道雄大尉指揮する零戰6機、九九艦爆18機の計24機が發艦した。
九九艦爆のうち、12機は250kg通常爆弾、陸用爆弾装備機は6機だった。
「飛龍」は第一波攻撃隊を發進させるとすぐに第二波攻撃隊の準備にかかり、同時に米機動部隊の方向に進撃した。
飛龍第一波攻撃隊が發進するのと同時刻、筑摩5號機が發信した米艦隊の位置情報が届いた。
第八戰隊は、筑摩4號機・5號機に對し「敵空母ノ位置ヲ知ラセ、攻撃隊ヲ誘導セヨ」と聯絡している。
すぐに筑摩5號機から「敵空母の位置味方の70度90浬、我今より攻撃隊を誘導す0810」との聯絡があり、飛龍第一波攻撃隊の誘導を開始した。
また午前8時(11:00)、蒼龍十三試艦爆が米軍航空隊を發見し、南雲部隊に通報(着信午前8時40分。
30分後の午前8時30分、米軍機動部隊發見を發信している。
十三試艦爆は發信5分後歸路についたが、無線機の故障により、南雲部隊では米軍機動部隊發見の報告を受信しなかったという。
この頃、「赤城」の零戰隊7機が「飛龍」に着艦。
「加賀」からは零戰9機、「蒼龍」からも零戰4機、艦攻1機が飛龍に着艦した。
午前8時15分(11:15)、空母「ヨークタウン」では攻撃隊着艦作業がはじまったが、着艦事故が發生して甲板が損傷する。
11:50、修理が終わり、SBD爆撃機10機に索敵任務が与えられた。
偵察隊が發進してまもない午前9時(12:00)、レーダーが南西46浬に日本軍機を探知する。
「ヨークタウン」は重巡洋艦「アストリア」、「ポートランド」、駆逐艦「ハマン」、「アンダースン」、「ラッセル」、「モーリス」、「ヒューズ」に輪形陣を組むよう命じ、F4Fワイルドキャット12機を發進させ。
午前8時20分(11:20)、帰還するエンタープライズ艦爆隊を日本艦隊へ向う攻撃隊と勘違いした零戰隊(重松康弘大尉指揮)から2機が迎撃に向かい、峰岸第2小隊長機が弾薬を使い果たして歸還、1機が被弾し日本軍艦隊付近に不時着救助される。
このため攻撃隊護衛機は4機に減った。
それでも米空母に接敵する筑摩5號機からの電波を頼りに進む日本軍飛龍第一波攻撃隊(22機)は、ついに「ヨークタウン」を発見した。
F4F直掩隊12機の迎撃により零戰3機、九九艦爆10機が撃墜され、九九艦爆8機のみが「ヨークタウン」を攻撃。
急降下中に艦爆3機が撃墜されたが、5機が投下に成功し、爆弾3發が命中している。
1發がボイラー室に火災を發生させ、「ヨークタウン」は動力を失って航行不能となった。
フレッチャー司令官は、重巡「アストリア」に移乗し。
代償として、飛龍第一波攻撃隊は小林隊長機を含む艦戰3機、艦爆13機を失い、艦戰1機、艦爆5機が「飛龍」に辿り付いただけだった。
歸還した航空機も、零戰1が不時着救助され、修理不能艦爆1、修理後戰斗可能零戰1、艦爆2という状況だっ。
飛龍攻撃隊は「エンタープライズ型空母」に爆弾5發、陸用爆弾1發命中し、大破或いは大火災、撃沈報告。
しかし「ヨークタウン」は午前11時(14:00)過ぎに爆撃による火災を鎮火し、速力20ノットで航行可能となっ。
また偵察と攻撃部隊誘導に活躍した筑摩5號機は、午前9時5分(12:05)に米軍戰斗機の追跡を受け退避、その15分後、新たな米軍機動部隊を發見した。
午前9時(12:00)、南雲中将も「長良」の周囲に第三戰隊(戰艦榛名、霧島)、第八戰隊(利根、筑摩)、駆逐艦4隻を集め、速力30ノットで北東に向かった。
それより前、駆逐艦「嵐」は海面に漂うヨークタウン雷撃隊隊員ウェスレイ・フランク・オスマス(Wesley・Frank・Osmus)海軍予備少尉を救助し、尋問を行った。
有賀幸作第四駆逐隊司令は尋問内容を受けて以下の内容を發信。
この電文は攻略部隊・第二艦隊の重巡洋艦愛宕(旗艦)も受信している。
1.空母はヨークタウン、エンタープライズ、ホーネット、巡洋艦6隻、駆逐艦約10隻。
2.ヨークタウンは巡洋艦2隻、駆逐艦3隻とを一團とし、他の部隊とは別働しつつあり。
3.(米機動部隊)5月31日午前真珠港發、6月1日「ミッドウェー」附着、その後南北に移動哨戒をなし今日に及べり。
4.5月31日真珠港在泊主力艦なし(本人は5月31日まで基地訓練に従事、布哇方面主力艦の状況明らかならず)。
聯合艦隊は、米軍機動部隊の戰力と、出動空母の名前を知った。この時、オスマスはエンタープライズ型空母の搭載機数(爆撃機18、偵察機18、雷撃機12、戰斗機27)や、真珠湾攻撃で沈没した米軍戰艦群のうち、戰艦「アリゾナ」、「ユタ」、艦型不詳を除く戰艦4隻が回航修理中であることも証言している。
後に、オスマス少尉は兵の独断で殺害されてしまったという。
オスマスは水葬に附された。
彼の名前はバックレイ級護衛駆逐艦「オスマス (護衛駆逐艦)(英語版)」に受け継がれている。
午前10時15分(13:15)、第八戰隊(阿部司令官)は南雲部隊各艦(霧島、榛名、利根、筑摩)に対し直ちに索敵機を發進させよと命じた。
午前10時30分(13:30)、「飛龍」から第二波攻撃隊(零戦6機、艦攻10機)が發進。
零戰2機(山本、坂東)は「飛龍」に着艦した加賀所属機、艦攻1機は赤城所属機だった。
筑摩4號機も發進した。
いれかわるように飛龍第一波攻撃隊が「飛龍」に着艦する。
さらに、午前10時30分(13:45)に着艦した十三試艦爆(近藤機)が三群の米機動部隊に接触したものの、無線機故障で發信できなかったことを報告した。
十三式試艦爆の偵察に對し、戰斗詳報は『敵機動部隊の情況不明なりし際、極めて適切に捜索、触接に任じ、その後の攻撃を容易ならしめたり。功績抜群なり』と高く評価している。
この時点で、山口は利根4號機、筑摩5號機が通報した空母1隻の他に、エンタープライズ型空母、ホーネット型空母(原文ママ)が存在することを知った。
午前11時(14:00)、母艦「利根」で補給を終えた利根3號機、4號機が再び発進する。
午前11時30分(14:30)、戰艦「榛名」の偵察機(榛名1號機)も附近に空母がいる可能性を知らせた。
午前11時30分(14:30)、飛龍第二波攻撃隊は米軍機動艦隊を發見するが、それは復舊作業中の「ヨークタウン」だった。
筑摩5號機が撃墜されたため、友永隊は自力で米軍機動部隊を探さねばならず、火災もなく航行する米空母を見た友永丈市は「ヨークタウン」を「損傷を受けていない別の空母」と判断した。
友永隊は左右から挟撃雷撃をおこなうため運動を開始。
「ヨークタウン」は直掩F4F戰斗機16を向かわせ、零戰2機、艦攻4機を撃墜した。
続いて艦攻1機が對空砲火で撃墜されたが、4本の魚雷が両舷から挟み撃ちの形でヨークタウンに向かって放たれ、2本が左舷に命中する。
ボイラー室と發電機を破壊された「ヨークタウン」は航行不能となり左舷に傾斜、総員退艦が命じられ、艦長を含む乗組員全員が脱出した。
戰果をあげた飛龍第二波攻撃隊は、艦戰3機、艦攻5機(友永隊長機含む)を失う。
戦闘詳報には「エンタープライズ型空母の左舷に魚雷3本命中大爆発、4500mの高さにまで達する大爆發を認む。空母の後方、サンフランシスコ型重巡洋艦爆発するを認む。同爆發は(魚雷)發射後相當時間の経過あるに鑑み、魚雷命中せしものと認む」と記載されている。
友永大尉の九七式艦上攻撃機は、ミッドウェー島を攻撃した際に被弾し、燃料タンクに穴が開いていた。
友永は搭乗機を譲る部下の提案を拒否して出撃した。
米艦隊までの距離は近く、友永は「敵はもう近いから、これで十分帰れる」と告げている。
ただし片翼のタンクにしか燃料を積まず、しかも重い魚雷を抱えての飛行はバランスを欠いて操縦が難しく、決死の覚悟であった。また橋本敏男(飛龍艦攻第二中隊長)によれば劇的なシーンなどなく、応急修理はしてあったはずだと推測している。
戰斗詳報は、第二中隊第二小隊機の目撃談をもとに、黄色い尾翼の友永機は對空砲火で被弾炎上し「ヨークタウン型艦橋付近に激突自爆せること判明す」と記録している。
山口少将は第一波攻撃隊(小林隊)と第二波攻撃隊(友永隊)の攻撃を合わせて合計2隻の空母を大破させたものと判断し、同じ空母へ2度攻撃したことに気付かなかった。
これは第二波飛龍攻撃隊が、雷撃した「ヨークタウン」の後方に「別の空母炎上中」と報告した為である。
第二波攻撃隊は、別の米空母が健在である可能性も報告している。
この頃、フレッチャー少将は空母「ヨークタウン」が攻撃を受ける前に放っていた偵察機(VS-5)から、空母「飛龍」発見の報告を受けた。「ヨークタウン」を航行不能とされたフレッチャーは、スプルーアンスの「何か指示があれば承りたし」という信號に「なし、貴官の行動に順応す」と答え、全権を委譲している。

ー飛龍沈没―
空母「ヨークタウン」が飛龍第二波攻撃隊(友永隊)の攻撃で航行不能となった午前11時30分(14:45)、偵察中のサッチ・アダムス大尉は平文で「敵発見、空母1、戦艦1、重巡2、駆逐艦4、北緯31度15分、西経175度5分、15ノットで北上」(米軍機動部隊から72浬)と發信した。
駆逐艦のうち1隻は三本煙突の軽巡洋艦長良(南雲忠一中将乗艦)である。
戰艦「榛名」、重巡洋艦「利根」、「筑摩」、軽巡洋艦「長良」(南雲旗艦)、駆逐艦3隻は「飛龍」の周辺に集結していたのである。
空母「飛龍」発見の電文を受信した空母「エンタープライズ」はウィルマー・ギャラハー大尉率いるエンタープライズ爆撃隊10機、デイヴ・シャムウェイ大尉率いるヨークタウン爆撃隊11機(エンタープライズに退避中)を戰斗機の護衛なしで發進させた。
午後12時40分(15:40)、飛龍第二波攻撃隊が着艦した。
友永機を含む零戰2機、艦攻5機を失い、艦攻4機が修理不能、零戰1機が不時着救助、零戰3機が修理後戦闘可能、艦攻1機が修理後戰斗可能と報告している。
鹿江隆(飛龍副長)は「(米空母2隻撃沈により)これで1對1だ。これで勝てるし、悪くても相討ちにできる」と感じたという。
だが「飛龍」の戰力は戰斗機6、艦爆5、艦攻4、十三試艦爆1機に減少していた。
炎上する「赤城」に「もし發艦出来る飛行機があったら、飛龍に収容されたし」と伝えたほどである。
山口は十三試艦爆により米軍空母の位置を把握し、同機の誘導により全兵力で薄暮攻撃をかける事を伝える。
これには、整備科が損傷機を修理することで、戰力が回復するかもしれないと山口達が考えたことも関係している。
攻撃力消耗から三隻目の撃破は難しいと考えた。
幕僚によれば、一次攻撃での被害が山口の予想をはるかに上回るもので、二次の著しい減少が三次の薄暮攻撃へ決めたという。
また、山口は二次の後に三次の準備をしたが、艦爆は六機であり修理を急がせ、三次攻撃の断行と少数兵力の板挟みにあったという。
この間、赤城・加賀・蒼龍から「飛龍」に着艦した零戰が交替で「飛龍」上空を守っていた。
敵からの攻撃に関して山口は「飛龍には他の艦戦もあるので上空警戒機で阻止できる」という意向を話した。
十三試艦爆の發進準備が終わり、友永隊を護衛して消耗した加賀所属零戰1機(山本旭一飛曹)が着艦しようとした時、米軍急降下爆撃隊24機は飛龍の上空に到達した。
エンタープライズ艦爆隊指揮官ギャラハー大尉は、ヨークタウン隊に戰艦を狙うよう命令すると、「飛龍」飛行甲板の日の丸マークを目標に突入した。
午後2時(17:30)、直衛の零戰6機が迎撃に向い、「飛龍」の操艦によってエンタープライズ隊6機の攻撃は失敗した。
続いてヨークタウン爆撃隊、エンタープライズ隊3機が太陽を背にするようにして攻撃する。
護衛の「利根」と「筑摩」が対空砲火で迎撃したが阻止できず、「飛龍」に爆弾4發が命中した。
「長良」からは、「飛龍」の飛行甲板、もしくはエレベーターが「飛龍」艦橋の前に突き刺さっているのが目撃された。
またヨークタウン隊の2機は付近を航行していた戰艦「榛名」を爆撃したが、至近弾に終わった。
ヨークタウン隊に遅れて戦場に到着したホーネット艦爆隊15機は「利根」と「筑摩」を攻撃したが、全て回避されている。
この他にも「飛龍」と「筑摩」は午後2時30分(17:30)、午後3時15分(18:15)にハワイから飛来したB-17爆撃機から攻撃されたが、これによる被害はなかった。
炎上した「飛龍」は午後6時23分(21:23)に至るまで機関は無事だったため、離脱と消火につとめた。だが艦橋と機関科間の電話が不通となったため、機関科は全滅と判断された。
「飛龍」はしばらく洋上に浮いていた。
横付けされた駆逐艦が消火に協力したものの、誘爆が發生して消火不能となる。
午後11時30分(現地時間6月5日2時30分)、山口は南雲に総員退艦させると報告し、加来艦長と共に、駆逐艦「巻雲」の雷撃によって沈む「飛龍」と運命を共にした。
空母「飛龍」が雷撃処分されたのは日本時間6月6日午前2時10分だが、艦底部から脱出した機関科勤務34名が沈みゆく「飛龍」から短艇で脱出したのは、「巻雲」の魚雷が命中してから数時間後の午前6時6-15分だったという。
彼らは15日後に米軍に救助された。
戰死者は、戰斗詳報によれば1416名(傭人6名含)のうち、山口司令、加来艦長ら准士官以上30名、下士官兵387名の計417名である。
搭乗員も友永、小林両隊長を含め72名が戰死した。
ただし417名には脱出後に米軍に救助された飛龍機関科34名が入っている。

ー夜戰の検討ー
軽巡洋艦「長良」に移乗した南雲忠一中将は、日本時間6月5日午前8時28分(現地時間6月4日11:28)に筑摩偵察機から「敵は北東90浬」の報告を受けて水上戰とを決意し、午前8時53分に「今より攻撃に行く、集まれ」と攻撃命令を出した。
日本軍三空母炎上の報告を受けた聯合艦隊旗艦「大和」の艦橋は雰囲気が一變し、黒島亀人先任参謀は涙を浮かべてテーブルを叩いた。
山本五十六長官は渡辺と将棋を指している時に「赤城、被爆大、総員退去」という報告を受け「ほう、またやられたか」「南雲は歸ってくるだろう」とつぶやくと将棋を続けている。
この時、聯合艦隊主隊は濃霧の中で戰艦「長門」が行方不明になるなど混乱しており、焦燥がつのるばかりであったという。
午前9時20分(11:20)、山本五十六長官はGF電令作第133號で輸送船團の一時北西撤退を命じ、同時にアリューシャン方面に投入されていた第二機動部隊(角田覚治少将、空母:隼鷹、龍驤)に対し、第一機動部隊(南雲機動部隊)に合流するよう下令した。
だが両艦隊の距離は遠く合流は9日以降となる見込みであり、宇垣纏聯合艦隊参謀長は空母を分散させたことを後悔している。
日本軍攻略部隊(第二艦隊)の近藤信竹中将は、これを受けて占領隊(日本軍輸送船団)に北西退避を命じ、栗田健男の支援隊(第七戰隊)に合同するよう命じた。
同時刻、南雲も各艦に「昼戰をもって敵を撃滅せんとす」と伝え、第八戰隊(利根、筑摩)は魚雷戰を挑む準備を整える。
午前10時、山本はGF電令作第号、156号にて第二艦隊に以下の命令を伝えた。
1.敵艦隊攻撃C法をとれ(全兵力を集中し、敵を撃滅する)。
2.攻略部隊は一部の兵力を以て、今夜ミッドウェーの陸上軍事施設、航空基地を砲撃破壊せよ。
3.ミッドウェー、アリューシャン群島の攻略を一時延期す。
山本の命令により、近藤信竹中将は第七戦隊(熊野、鈴谷、三隈、最上)にミッドウェー島へ向かうよう命じ、同時に南雲機動部隊と策応して米軍機動部隊に夜戦を挑む方針を示した。
聯合艦隊は、ミッドウェー基地の米軍航空兵力が使用可能かどうか、南雲部隊に尋ねている。
「長良」では空母「飛龍」が米空母2隻を撃破したという聯絡が入り(ヨークタウンを2度攻撃したことを誤認)、草鹿参謀長は希望を抱いた。
夜戦を企図しつつ北上中の午後2時5分(17:05)、「飛龍」の被弾と炎上により、米軍機動部隊とミッドウェー基地航空隊制空権下での水上戰斗は困難と南雲は判断、草鹿によれば「万事休す」であった。
そこで一旦西方に反転し、あらためて夜襲を企図した。
草鹿参謀長は「レーダーもなく、駆逐艦も少なく、望みのない夜戰に一縷の望みをかけて、當てもなくただ走りまわっていた」と回想している。
宇垣は戰艦や重巡洋艦から水上偵察機を發進させて索敵を行わない南雲司令部を「消極的、退廃的」と批判しているが、空母4隻を目前で失ったからには當然の反応だろうと理解も示している。
近藤中将の第二艦隊は軽空母「瑞鳳」を有しており、米艦隊に積極的に戰斗を挑む方針を示した。
炎上日本空母を護衛していた第四駆逐隊司令有賀幸作大佐(後、戰艦大和艦長)に至っては「敵機動部隊接近すれば刺し違えよ」と配下駆逐艦に下令した。
午後2時13分(17:13)、筑摩2號偵察機は、甲板に損傷なく傾斜停止した「エンタープライズ型空母」を發見し、周囲の護衛艦艇が空母をその場に残して東に去ったと報告した。
南雲司令部は、飛龍第一波攻撃隊(小林隊)が爆撃を行った空母(ヨークタウン)は既に沈没・飛龍第二波攻撃隊(友永隊)が雷撃した空母(ヨークタウン)は漂流と判定した。
1時間後、筑摩2號機は米空母1、巡洋艦2、駆逐艦4發見を報告、続いて米空母1隻の存在を報告する。
筑摩2號機は重巡洋艦「筑摩」を通じ、南雲司令部に對し「炎上米空母の後方に、更に米空母4隻を發見」と報告する。
南雲司令部では「まさか」という声があがったが、やがて偵察機の報告を信じた。
プランゲ博士は「南雲は苛立たしさのあまり、頭を壁に叩きつけるか、索敵機パイロットの首をその手で締めたかっただろう」と記述している。
戰斗詳報には「南下中順次にこれ等の敵を發見せるものにして同一部隊ノ重複ナキ事確実ナリ」と記録。
南雲は「敵航空母艦の予想外に優勢なるを始めて知れり」と驚いている。
午後4時15分、山本五十六長官と宇垣纏参謀長は南雲部隊に対し、GF電令第158號として以下の命令を伝えた。
1.敵機動部隊は東方へ避退中にして、空母は概ねこれを撃破せり。
2.當方面聯合艦隊は敵を急追、撃滅すると共にAF(ミッドウェー島)を攻略せんとす。
3.主隊は6日午前零時、地点フメリ32に達す。針路90度速力20ノット。
4.機動部隊、攻略部隊(7戰隊欠)および先攻部隊(潜水艦隊)は速やかに敵を捕捉撃滅すべし。
午後5時30分(20:30)、山本はGF電令159号にて伊168號潜水艦に對し「伊168潜水艦は2300迄AF(イースタン)島航空基地の砲撃破壊に任ずべし。
同時刻以降は第七戰隊(栗田少将)が砲撃の予定」と告げ、ミッドウェー基地を夜間砲撃するよう命じた。
南雲は山本の敵情判断が間違っているとみて、午後6時30分(22:30)、機動部隊機密第560番電に於いて筑摩2号機の「空母5隻」發見とミッドウェー基地航空隊の活動を伝達する。
南雲は続く午後7時50分(22:50)の電信で「GF電令作第158號に関係し敵空母(特空母艦含むやも知れず)は尚4隻あり」と、日本軍空母全滅を報告した。
すると山本より、第二艦隊司令官近藤信竹中将に「赤城」と「飛龍」を除く機動部隊戰力の統一指揮を任すという命令が届いた。
南雲部隊第八戰隊は第二艦隊と合流し、米軍と戰斗を継続したい旨を伝えている。

ー日本軍の撤退―
日本時間6月5日午後9時15分、山本は第二艦隊と南雲機動部隊(赤城・飛龍)に對し、夜戰の中止と主隊(大和以下、第一艦隊)への合同を命じた。
午後10時11分、南雲部隊は反転した。午後11時55分、山本は聯合艦隊電令161号で、以下の命令を伝達した。
1.AF(ミッドウェー島)攻略を中止す。
2.主隊は攻略部隊(第二艦隊)、第一機動部隊(欠、飛竜及び同警戒艦)を集結し、予定地点に至り補給を受くべし。
3.警戒部隊、飛竜同警戒艦、及び日進は、右地点に回航すべし。
4.占領部隊は西進し、ミッドウェー飛行圏外に脱出すべし。
ミッドウェー作戰の中止が決定した瞬間であった。
日本軍は撤退を開始する。
6月6日午前4時30分(現地時間6月5日07:30)、軽空母「鳳翔」の九六式艦上攻撃機が漂流する「飛龍」と甲板上の生存者を發見、聯合艦隊司令部は南雲司令部に飛龍沈没を確認せよと命令した。
「飛龍」の現状を知らなかった南雲部隊司令部は午前9時45分(12:45)、「長良」偵察機を発進させ、駆逐艦「谷風」を「飛龍」処分と生存者救助のために分派した。
「谷風」は空母「エンタープライズ」を發進したSBDドーントレス16機の攻撃を受け、4機撃墜を報告して生還した。
「谷風」を攻撃した「ホーネット」隊は香取型練習巡洋艦(駆逐艦谷風)を攻撃したと報告し、1機が撃墜された。
午前中、山本の主隊、近藤の攻略部隊、南雲の残存部隊は合流した
支援隊の第七戰隊(重巡洋艦:旗艦熊野、鈴谷、三隈、最上)は上陸する輸送船團の護衛として警戒任務に従事していたが、南雲機動部隊の壊滅によって山本から新たにミッドウェー基地砲撃の命を受け、全速で前進していた。
その後、夜戦中止に先立って砲撃中止命令が出された。
しかし第七戰隊はミッドウェー島90浬の地点で転進を行ってから1時間20分後、亜米利加海軍潜水艦「タンバー」(SS-198)を發見して緊急回頭を行い、その際に三番艦「三隈」と最後尾艦「最上」が衝突事故を起こした。
「三隈」に衝突した「最上」は砲塔前部の艦首を切断、速力は10ノット程度に落ちた。
第七戰隊司令官の栗田健男中将は「最上」の護衛に「三隈」と駆逐艦2隻(第八駆逐隊:荒潮、朝潮)をあてると南西のトラック島への退避を命じ、栗田は「熊野」と「鈴谷」を率いて「大和」以下主力部隊と合流するため北西に向かった。
一方の米軍では、「飛龍」の攻撃隊により空母「ヨークタウン」が深刻な損害を受けて放棄された。
駆逐艦「ヒューズ」だけが「ヨークタウン」の護衛として残された。
その後「ヨークタウン」ではサルベージ作業が進み、艦隊曳船「ヴィレオ」が救助に向かった。
フレッチャーから指揮権を譲渡されたスプルーアンスの第16任務部隊も、日本艦隊の動向が把握し切れず夜戰に持ちこまれる可能性を考慮したため、一時的に東へ退避する。
翌7日の黎明、第16任務部隊はミッドウェーの防衛と日本艦隊の追撃のため西進を開始した。
日本時間6月6日、潜水艦「タンバー」の報告を受けた米軍は、まずミッドウェー島の航空戰力で「三隈」と「最上」を攻撃した。
SBDドーントレス6機、SB2Uビンディケーター6機、B-17爆撃機8機が攻撃をおこない、SB2U指揮官機が「三隈」の後部砲塔に體當たりし、「最上」が至近弾で戰死者2名を出した。
米軍機動部隊の追撃を受けていることを知った「三隈」と「最上」はウェーク島に向かい、聯合艦隊主隊と攻略部隊も「三隈」の救援と米機動部隊の捕捉に向けて動き出す。
6月7日、スプルーアンスは『空母1隻、駆逐艦5隻発見』という索敵機の報告を元に、「ホーネット」「エンタープライズ」攻撃隊を發進させた。
米軍攻撃隊は空母のかわりに「戰艦」を發見し、最初は航空母艦、次は戰艦と誤認された重巡洋艦「三隈」は集中攻撃を受けて沈没した。
また「最上」や駆逐艦「朝潮」、「荒潮」も被弾した。
近藤信竹中将は第二艦隊に「敵空母部隊を捕捉撃滅して三隈・最上を救援せんとす」と命じて叛転したが、米軍機動部隊の捕捉に失敗している。
翌8日午前中、「最上」は救援にかけつけた第二艦隊と合流、空襲圏外へ脱した。
戰艦「大和」をはじめとした主力部隊は夜戰を企図して東進していたが、「飛龍」を失ったことで再考して翌0時に夜戰を中止し、3時頃には作戰自體の中止も余儀なくされた。
主力部隊はミッドウェー島の遥か数百キロ後方におり、本海戰には参加できず、駆逐艦が救出した生存者を医療設備の規模が大きい戰艦に移乗させ、収容と手当てを行ったに留まる。
「赤城」の生存者達は、「大和」以下本隊が戦闘に全く関与しなかったことを罵っていた。
日本軍輸送船團は、米軍機動部隊の追撃に備えて陣形を変更した。
山本は、米軍の追撃部隊をウェーク島の基地航空隊活動圏内に引き込むよう命じたが、米軍はそこまで深追いしなかった。
6月7日、「ヨークタウン」は曳船に引かれつつ真珠湾に向かっていた。
駆逐艦「ハンマン」に移乗していたバックマスター「ヨークタウン」艦長と161名が再び「ヨークタウン」に乗艦している。
さらに駆逐艦「モナガン」、「グウィン」、「バルチ」、「ベンハム」が護衛に加わった。
その頃、ミッドウェー島を砲撃後同島海域にとどまっていた潜水艦「伊-168」が「ヨークタウン」撃沈の任を受け、同艦に接近していた。
(13:34)、「伊-168」は4本の九五式魚雷を發射し、2本が「ヨークタウン」左舷に命中する。
米軍機動部隊の主力として活躍した「ヨークタウン」は沈没した。
また同空母に同行していた駆逐艦「ハンマン」にも1本が命中して沈没した。
日本軍は「甲板の損傷なき模様」として、「飛龍」が最初に攻撃したのとは別の空母だと考えていた。
6月13日、第16任務部隊の「エンタープライズ」、「ホーネット」は艦載機に損失を出しながらも無事に真珠湾に歸港した。
米軍は救助したゲイ少尉の証言から日本軍空母2隻の沈没を確認し、漂流していた飛龍機関科兵の聴取から「飛龍」沈没を知り、計3隻の撃沈を確信していた。
「赤城」については暗號解読から沈没推定としていたが、確信するのは日本軍捕虜の情報を分析した後の事である。

ミッドウェー海戦ドキュメント『運命の五分間:帝国海軍機動部隊のいちばん長い日』

2022-01-24

1942年6月4日、連戦連勝の帝国海軍機動部隊は米領ミッドウェー諸島を攻撃。しかし、事前に情報を察知していた米軍の待ち伏せを受け、わずか1日の戦闘で壊滅的な敗北を喫した。 太平洋戦争の転換点となり、世界の海戦史上にも残るこの戦いを、開幕から終幕まで時系列で追った迫真の海空戦ドキュメント。(英語字幕付き) 

米航空隊の攻撃を回避する飛龍 その後撃沈される
正規空母>飛龍<昭和14年7月5日竣工。
新造時から大変実用性のある艦として完成し、以後の戦時計画艦の基本となった。太平洋戦争に参加。昭和17年6月5日、ミッドウェー海戦で米空母機の爆撃により大破。翌6日、駆逐艦「巻雲」により雷撃処分された。
昭和14年、南寧作戦に従事中の蒼龍と九十七式一号艦上攻撃機
 昭和12年12月29日竣工。全長に達する飛行甲板を初めて新造時から採用した。太平洋戦争に参加。緒戦期に飛龍と航空戦隊を組み大活躍したが昭和17年6月5日、ミッドウェー海戦で米空母機の爆撃により沈没した。
昭和11年、第二航空戦隊に編入時の加賀(改装後)
 大正6年、戦艦として計画。ワシントン軍縮条約により廃棄の予定であったが大正12年の関東大震災で空母改造予定の巡洋戦艦天城が大破。加賀がその代艦となり大正13年9月、空母改造に着手した。昭和3年3月31日に竣工。昭和9年6月より改装が行われ、昭和10年6月25日完成。太平洋戦争に参加。昭和17年6月5日、ミッドウェー海戦で米空母機の爆撃により沈没。
昭和16年、ハワイ作戦時の赤城
 大正6年、巡洋戦艦として計画されたが、ワシントン軍縮条約に基づいて大正12年に空母改造に着手した。昭和2年3月25日竣工。昭和10年10月より改装工事、昭和13年8月完成。太平洋戦争に参加。昭和17年6月5日、ミッドウェー海戦で米空母機の爆撃により大破。翌6月6日、雷撃処分。
現地時間5日早朝に空母「鳳翔」艦載機が撮影した炎上する「飛龍」。飛行甲板前部が大きく破壊されている。この数時間後に沈没したとみられる(画像:アメリカ海軍)。
映画『ミッドウェイ』本編映像|勝敗を左右する“情報戦”編

アニメンタリー『決断』 第16話 キスカ島撤退

2022-01-23
東宝 太平洋奇跡の作戦 キスカ ダイジェスト画像予告篇版

アニメンタリー『決断』 第12話 潜水艦 伊ー168

2022-01-23

アニメンタリー『決断』 第7話 マレー沖海戦

2022-01-23
英東洋艦隊vs海軍陸攻隊(マレー沖海戦)

データベース(武器を用いない闘いの歴史の中で、人は如何に生きたか・・・。)

鈴木宗男議員、貴子副外相が予算委で親子共演 「時に反面教師」

2022-06-01
© 毎日新聞 提供 参院予算委員会で日本維新の会の鈴木宗男氏(手前右)の質問に答える鈴木貴子副外相(同左)
国会内で2022年5月31日午後1時18分、竹内幹撮影
毎日新聞 2022/05/31 19:56

 31日の参院予算委員会で、日本維新の会の鈴木宗男参院議員が、長女の鈴木貴子副外相に答弁を求める場面があった。宗男氏は緑のネクタイ、貴子氏は緑のトップスのそろいのカラーで、異例の親子共演に臨んだ。

 質疑時間の中盤で宗男氏が「鈴木貴子副大臣にお尋ねします」と指名すると、委員会室からは「おーっ」とどよめきが上がった。宗男氏は今月上旬の貴子氏のケニア、ルワンダ歴訪の成果を質問した。貴子氏は「アフリカで、鈴木宗男先生のご功績も何度となく耳にした。まさに外交は積み重ねだ」と答弁。「宗男先生からもご指導いただき、時に反面教師とさせていただき、頑張りたい」とも語った。

 同日の予算委では公明党の伊藤孝江議員と国民民主党の伊藤孝恵議員が続けて質問に立ち、共に大人に代わり家族の介護や世話をする「ヤングケアラー」問題を政府にただした。国民民主の伊藤氏は冒頭、「国民民主党の方のイトウタカエです。公明党のイトウタカエ議員から言及があったので私も伺います」と言って質疑を始めた。【東久保逸夫】

イタイイタイ病

2022-05-31

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1967(s42)年】-2
◎イタイイタイ病 原因は三井金属の廃水
*1967.3.-/ 富山県イタイイタイ病患者審査委員会は、患者73人、要観察者150人をイタイイタイ病と認定した。
 神通川下流域である富山県婦負郡婦中町では、骨がぐしゃぐしゃに折れ縮んで、イタイイタイといって亡くなる老人が相ついだ。この地区の開業医であった萩野医師は、早くからこれをイタイイタイ病と名付け、その原因を神通川上流にある神岡鉱山から流される鉱毒ではないかと考えた。
 さらに岡山大学の小林純教授の研究をもとに、1961(s36)年に萩野昇医師と農学者の吉岡金市がイタイイタイ病の原因はカドミウムであることを発表した。富山県や厚生省及び文部省も独自に原因究明に乗り出し、富山県イタイイタイ病患者審査委員会は、1967(s42)年(昭和42年)3月に患者73人、要観察者150人を認定した。
 そして1968(s43)年5月、厚生省は「イタイイタイ病の本態はカドミウムの慢性中毒によるもので、カドミウムは神通川上流の三井金属神岡鉱業所から排出されたもの」と断定した。これによってイタイイタイ病は、政府によって認定された公害病の第1号になった。
 実は明治10年代生まれの私の祖母がこの地区の出身で、若くして京都に出たので当人には影響なかったが、親戚知人などにはイタイイタイと言って死んでいった者が何人もいたという。萩野医師のことを話すと「ハイノ(文字が読めないから音だけで憶えてる)はんはヤブヤブといわれとったもんやが」とか言ってた。
 萩野医師の名誉のためにいうが、地方の開業医はまわりからヤブ医者扱いされることが多い。現在でも医療で完治できる病気はむしろ少なく、多くは病気の進行を遅延させたり、痛みなどを緩和する対症療法しかない。いまなら簡単に大病院に任すところも、地方では数少ない地元開業医が根気よく患者に対応するしかない。で、一向に治らないということで、陰でヤブ医者よばわりすることになるわけだ。
 病名の由来は、患者がその痛みに「痛い、痛い」と泣き叫ぶことから来ているという。カドミウムによる多発性近位尿細管機能異常症および骨軟化症などを主な特徴とし、長期の経過をたどる慢性疾患を発症する。カドミウム汚染地域に長年住んでいて、この地域で生産された米や野菜を摂取したり、カドミウムに汚染された水を飲用したりするなどの生活歴による。
 骨形成に必要なリン酸・重炭酸やカルシウムの吸収低下で、骨量が次第に減少し骨がもろくなる。最終的には骨の強度が極度に弱くなり、少し身体を動かすだけで骨折したりする。祖母に聞くと、昔の知人には、骨が圧縮されて身長が2/3以下になって死んでいった人もいたという。
(この年の出来事)
*1967.6.5/ イスラエルがアラブ連合などに攻撃を開始、「第3次中東戦争」が勃発する。
*1967.8.3/ 「公害対策基本法」が公布・施行される。
*1967.8.8/ 「東南アジア諸国連合(ASEAN)」が結成される。

「糟糠(そうこう)の妻」がファーストレディーとしてのスタートを切った。

2022-05-24
© 産経新聞 バイデン米大統領(中央)を茶道のお点前でもてなす岸田文雄首相と裕子夫人=23日、東京都港区の八芳園(内閣広報室提供)
2022/05/24 00:57

岸田文雄首相がバイデン米大統領を迎えた東京・白金台の八芳園での夕食会は、首相の裕子夫人にとって、ファーストレディーとしての本格的な外交デビューとなった。首相の「日本の美を伝えたい」(官邸関係者)との意を受けた裕子夫人は和服姿で茶の湯の点前を披露し、バイデン氏をもてなした。

裕子夫人は平成28年、首相の外相時代に広島市で開かれた先進7カ国(G7)外相会合でも和服姿で各国外相夫人を迎えた。当時も茶の湯でもてなしており、今回の夕食会でも白羽の矢が立った。

バイデン氏を迎えるにあたり、裕子夫人は茶席で使用する茶器を八芳園に備えているものか、普段から使い慣れているものかを悩み、最終的に使い慣れているものを使うことを決めた。会場も自ら視察するなど入念な準備を重ねた。

茶の湯だけではなく、語学も堪能な裕子夫人は首相も頼る存在だ。令和2年の自民党総裁選で敗れた不遇の時代も首相を支えた「糟糠(そうこう)の妻」がファーストレディーとしてのスタートを切った。(永原慎吾)

◎マルコムX 暗殺

2022-05-24

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1965(s40)年】-1
◎マルコムX 暗殺
*1965.2.21/ 急進的な米国黒人運動指導者マルコムXが、演説中に暗殺される。
 日本では、アメリカの黒人解放運動と聞いてキング牧師を思い浮かべる人は多いが、マルコムXという奇異な名前の人物はあまり知られていない。ガンジーゆずりの平和無抵抗主義を維持したキング牧師に対して、マルコムXは非合法的な運動も認めるような過激な演説で黒人たちの支持を集めた。
 キング牧師らの解放活動が「公民権法」の成立に大きな寄与をしたのは間違いないが、ケネディ、ジョンソンと続く政権が公民権法の制定を急いだ背景には、マルコムXらの過激な主張から切り離したいという思惑も働いたと考えられる。
 公民権法成立後も事実上の差別は無くならず、目標を達成して存在感が弱まったキングらの無抵抗主義に対して、マルコムXらの過激派の勢力が増した。やがてマルコムXの暗殺、さらに数年後キングの暗殺と、むしろ黒人たちをさらに過激に走らせる事件が相つぐことになる。
 ちなみに、ボクシング史上最大のチャンプともされるモハメド・アリは、マルコムXを信奉し、従来のカシアス・クレイというのは奴隷の名前だとして、彼から授けられたムスリム名のアリに改称した。
MalcomX speech"We declare our right on this earth"
映画「マルコムX」(1992/米) 監督スパイク・リー/主演デンゼル・ワシントン
(この年の出来事)
*1965.3.20/ 河野一郎国務大臣から、記録性に欠けると批判された市川崑監督「東京オリンピック」が公開され、大ヒットとなる。
*1965.6.12/ 新潟大学の植木幸明教授らが、阿賀野川流域で水俣病に似た有機水銀中毒患者が発生していると発表する。(第2水俣病)
*1965.10.21/ 朝永振一郎博士が、ノーベル物理学賞を受賞決定。

【ノーカット】日本医師会会見 次期会長選挙に中川会長「不出馬」表明

2022-05-24
 「横倉義武君174票、中川俊男君191票」
毎日新聞 2020/6/30 東京朝刊

 医療界で大きな影響力を持つ日本医師会の新会長に、副会長だった中川俊男氏(69)が就任した。27日投開票された会長選で、5期目を目指した現職の横倉義武氏(75)を破った。安倍晋三首相や麻生太郎副総理兼財務相との太いパイプを生かし、8年間にわたって安定運営してきた横倉氏からの「政権交代」は、医療界と政治の関係にどう影響するのだろうか。【原田啓之】

 「横倉義武君174票、中川俊男君191票」。東京都の日本医師会館で開票結果が読み上げられると、静かな拍手が広がった。中川氏は壇上で「堂々と物を言える新しい日本医師会に変えていこうと思っている」と力強く語った。

日本国自衛隊

【大日本帝国憲法】

2022-06-21

Facebook 小川 貴則さん曰く


【大日本帝国憲法】
大日本帝国憲法は、明治22年2月11日に発布され、翌年11月29日の第1回帝国議会開会から施行されました。
憲法には、上諭、天皇の御名御璽、年月日のあと、内閣総理大臣黒田清隆を筆頭に、宮中席次の順に各大臣の自筆による副署が記されています。その中には特別に勅語賜り内閣に列した枢密院議長伊藤博文や、憲法発布式当日の朝、暴漢に襲われ死亡した文部大臣森有礼の署名も含まれています。
(公文書館)

【終戦の詔書】

2022-06-21

Facebook 小川 貴則さん曰く


【終戦の詔書】
昭和20年ま(1945)8月14日、「大東亜戦争終結ニ関スル詔書」が発布されました。この詔書は「終戦の詔書」とよばれています。
御前会議でのポツダム宣言受諾決定を受け、深夜に及ぶ閣議で詔書の案文が議論されました。数ヶ所の修正が行われたのちに、文言が確定し、翌15日正午、「堪え難きを堪え 忍び難きを忍び」の文言で知られる、いわゆる「玉音放送」として国民に伝えられました。

【日本国憲法】

2022-06-21

Facebook 小川 貴則さん曰く


【日本国憲法】
日本国憲法は、昭和21年(1946)11月3日に公布され、翌年5月3日から施行されました。公文書には、第一次吉田茂内閣の各大臣が副署しています。
天皇を国の象徴とし、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を基本原則とするとともに、戦争の放棄、三権分立、国権の最高機関としての国会、地方自治の保障などを規定しています。展示資料は、日本国憲法の公布原本(御署名原本)です。
(公文書館)

*1960.1.19

2022-05-10
「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」が締結される。

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1960(s35)年】-1
◎日米新安保条約(60年安保)
*1960.1.19/ ワシントンで「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」が締結される。
*1960.5.19/ 19日、社会党議員を強制排除して始まった衆議院本会議は、20日午前零時過ぎに、自民党単独で新安保条約を衆議院可決。
*1960.6.10/ アイゼンハワー大統領来日の事前打ち合わせに来たハガチー大統領補佐官は、羽田空港でデモ隊に包囲され、米軍ヘリコプターで脱出。
*1960.6.15/ 安保阻止実力行使に全国で580万人(主催者側発表)が参加、全学連主流派が国会構内に突入、警官隊と衝突し東大生樺美智子が死亡する。
*1960.6.19/ 33万人のデモ隊が国会を包囲するなか、午前零時、新安保条約が自然成立する。
 1960(s35)年6月15日、安保阻止最大のデモで、全学連主流派が国会に突入し、防衛する警察機動隊・右翼団体・暴力団等と衝突、この混乱のさ中で東大生樺美智子が圧死する事故が起った。その数日後の6月19日、安保条約は参議院の議決のないまま自然成立する。10万規模のデモを官邸から見下ろした岸首相は「となりの後楽園球場には平和な民衆が5万と居る」とつぶやいたとか。
 1951(s26)年のサンフランシスコ講和条約の成立(日本主権回復)と同時に、吉田首相が単独で署名した旧日米安保条約は、日本に片務的で臨時的なものであった。日本の主権回復とともに駐留軍が撤退するため、日本の軍事的空白を防ぐために、引き続き米軍の駐留を認める必要があった。ただしそれは、米国の「駐留権」を認めるという形で、日本の防衛や駐留自体は、もっぱら米国の都合次第という条約であった。
 岸信介は、1957(s32)年2月、病に倒れた石橋湛山首相の後継に指名され、石橋内閣を引き継ぐと、1958(s33)年5月の総選挙で政権としての信任を得て、第2次岸内閣を組閣する。選挙を経て自信を得た岸首相は、アジア重視の自主外交を進めながら、一方で対米尊重の基本枠は譲らず、日米安保条約の改定に向けて、着々と条件を整えていった。
 1960(s35)年1月に、岸首相以下全権団が訪米し、アイゼンハワー大統領と合意し、1月19日、新安保条約の調印にこぎつけた。ワシントンで「新安保条約」に署名するが、その発効には国会の承認が必要であり、岸訪米団が帰国してから、本格的な反対運動が起こる。
 新条約の承認を巡る国会審議では、安保廃棄を掲げる日本社会党が徹底抵抗の姿勢を示し紛糾した。また国会外では、社会党や共産党が指導する労働者団体だけでなく、社会党や共産党の既存革新政党を批判する急進派学生らにより、「共産主義者同盟(ブント)」が結成され、ブントの主導する「全日本学生自治会総連合(全学連)」主流派が、総力を上げて反安保闘争を展開した。
 1960(s35)年5月19日、衆議院日米安全保障条約等特別委員会で新条約案が強行採決され、続いて5月20日未明に衆議院本会議を通過した。委員会採決では、自民党は座り込みをする社会党議員を排除するため、右翼などから屈強な男たちを動員し、警官隊と共に社会党議員を追い出しての採決であった。本会議は、翌20日に日付が変わったころ、自民党議員だけで議決された。
 この強行採決の模様がテレビニュース等で流されると、一般市民の間にも反対の運動が高まり、国会議事堂の周囲は連日デモ隊で取り囲まれた。参議院での議決が為されない場合、新安保が自然承認される6月19日には、アイゼンハワー大統領訪日が予定されており、6月10日にその日程調整に来日したハガチー大統領報道官は、羽田空港を出たところでデモ隊に包囲され、アメリカ海兵隊のヘリコプターで救出されるという事件が発生した(ハガチー事件)。
 過激な全学連は国会突入戦術を推進していたが、社会党は傘下の組合の時限ストやデモを組織しつつ、全学連の強硬路線には静観的な立場を取り、共産党は「極左冒険主義の全学連(トロツキスト=分派主義)」と批判した。一方、当のブント全学連は、既成政党の穏健デモを「お焼香デモ」と非難した。
 そして6月15日、安保改定阻止国民会議の呼びかけで、全国各地で560万人が集い、各地で大規模な集会やデモが実施された。国会前でも、暴力団と右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの負傷者を出すなどするなか、全学連主流派が指揮するデモ隊が国会内に突入、機動隊と激しく衝突する。そのさなかで、デモに参加していた東京大学学生の樺美智子が圧死した。
 新安保条約は、衆議院議決1ヵ月後の6月19日、参議院の議決がないままに自然成立した。またアイゼンハワーの来日は延期(実質上の中止)となった。そして岸内閣は、混乱の責任をとる形で、新安保条約の批准書交換の日である6月23日、総辞職を表明した。これらにより、安保反対運動は急速に沈静してゆく。
(この年の出来事)
*1960.3.28/ 1.5無期限ストに突入していた三井三池炭鉱は、ロックアウト解除をめぐって第1と第2組合で衝突、さらに泥沼化する。
*1960.5.16/ 慶応幼稚舎2年生の男の子が誘拐され、19日に死体で発見される。(正樹ちゃん誘拐事件)
*1960.8.25/ 第17回オリンピック・ローマ大会が開催される。 
*1960.11.8/ 米大統領選挙で、ジョン・F・ケネディが当選する。

今日は母の94歳の誕生日。

2022-06-14
Facebook 安倍 晋三 さん曰く、久々に三兄弟集まり昔話に花を咲かせました。

闘いすんで 陽が暮れて・・・

副会長10年、満を持しての登板でしたが・・・。

2022-06-16

硫黄島からの帰還です。

2022-02-09
Facebook 徳田 秀光さん曰く
 硫黄島から、英霊が77年ぶりに雨模様の中、自衛隊のc-130h輸送機でお帰りに成りました。埼玉県の入間基地で儀じょうにより出迎えました。
  この度、ご帰還された英霊は14柱。
帰路の自衛隊機には14人分の席を用意されました。
英霊にとっては77年ぶりのご帰還。
安らかに帰れるようにと自衛隊員達は隣の席の骨箱に、優しい手付きでシートベルトを着けました。 
 米軍の火炎放射器等で塞がれた地下壕で発見された英霊は、家族から届いた手紙の束を握りしめたままの方々もいます。
 『お父さんお元気ですか。僕も元気で毎日学校に行ってべんきょうしています…………』
 発見者は、涙が出て全てを読めなかったと報告書に記しています。

日本です。新婚旅行です。ディマジオがいっしょでした。

2021-11-11
Facebook Nostalgia&Rock'n’ Roll ノスタルジア・ロックンロールさん曰く
朝鮮戦線を慰問、日本での新婚旅行を中座して・・・。

マリリン・モンロー ジョー・ディマジオ来日(新婚旅行)の日程 

 

1954年(昭和29) 2月1日 午後5時35分 羽田着 

夫のジョー・ディマジオ サンディエゴ・パドレス監督の

フランク・オドウル氏らとともにオープンカーをつらねて帝国ホテルへ。

              

2月2日 記者会見

   ディマジオの為の記者会見だったが、質問はすべてマリリン

へのものだった。

 

2月8日 午後7時30分 板付着 

那珂川河畔の国際ホテル(現在の城山ホテル跡)へ

                     ホテルを500人あまりのファンが取り巻く。

マリリンは2階の窓辺に現れ、カーネーション の花びらを

ファンにばらまいて、投げキッスをふりまいた。

滞在中は、1人で、西戸崎へ米軍キャンプの慰問、

ドライブなどを楽しむ。

ディマジオ、オドウル監督らは、香椎球場で日本プロ野球選手の

技術指導を行う。

夕食はお忍びで、ホテルの通りをはさんだ向かいのレストラン

ロイヤル(旧花の木)で食事を楽しむが、店をファンに埋め尽くされる一幕も。

            

2月11日 午前9時10分 岩国市の米軍基地へ

                    ディマジオ・マリリン一行は、自動車で宮島の一茶苑に向かったが、

ファンが殺到しMPが出動する騒ぎだった。

            

2月14日 岩国から大阪へ

            

2月16日から19日まで

     マリリンは、朝鮮の国連軍慰問(10ヵ所以上の駐屯地を訪問)し、カゼを引く

     ディマジオは、大阪・奈良などを訪問し、野球指導を行う。

            

2月25日 午後2時7分 羽田からサンフランシスコへ帰国

ロイヤルのこの器は、今(2021年)でも、この形で、テーブルにサービスされています。

敗戦のつけ

2020-10-19
戦災孤児、この数は120000人を超えました・・・。
貧しいからと言って、人間は腐るものではない。 戦争で親をなくした数十万の子供たちは、その多くが戦後日本の復興の礎となった。むしろその多くは、お互いに寄り添い、肌の温もりを分かち合い、助け合いながら逞しく、人間らしく生き抜いてきた。

鐘の鳴る丘』(かねのなるおか)は、1947年(昭和22年)7月5日から1950年(昭和25年)12月29日までNHKラジオで放送されたラジオドラマ、またそれを原作とした映画菊田一夫作。ラジオドラマの放送回数は790回に及ぶ。1948年(昭和23年)から1949年(昭和24年)には松竹映画化もされている。
 

放送開始のきっかけは、1947年(昭和22年)4月のエドワード・ジョゼフ・フラナガンの来日である。6月にフラナガンが離日した後に、CIEはNHKに対し、フラナガンの精神を踏まえた戦争孤児救済のためのキャンペーンドラマを制作するように指示した。

脚本担当の菊田、音楽担当の古関、巖金四郎をはじめとするNHK東京放送劇団の面々の出演が決定したが、当時はプロの児童劇団もないため、主役となる子役を決めるのに苦労した。ところが、当時練馬区に在住していた巖が、東京都の演劇大会で優勝するくらいに演劇活動が盛んであった練馬区立豊玉第二小学校を紹介したことで、その小学校に在籍する10人前後の児童が出演することになった。当初は土日の週2回の放送だったので、出演者である小学校の児童たちが、教師の引率によって毎週練馬からNHK東京放送会館へ通い、生放送を行っていた。


 

戦後は、お上の人間宣言で始まりました。

2020-10-21
15歳の上皇様
Facebook永井由紀夫さんの投稿
初々しさを残しつつも、すっと背筋を伸ばしたたたずまいからは気品が漂う。
学生服姿で写真左に立つのは、皇太子時代の上皇様。1949(昭和24年)4月2~4日、初めて岡山県を訪問された際のひとこまだ。
当時15歳。
学習院中等科卒業後の春休みを利用し、岡山、広島県など山陽路を巡った。

真宗大谷派の取り組みについて

「全戦没者追弔法会」の和讃

2021-04-04
Facebookしんらん響流館さん曰く
1987年から「戦没者追弔会」に「全」と仏法の「法」という文字を加えて「全戦没者追弔法会」と名称を改め勤められています。

【4/2全戦没者追弔法会】

2021-04-04
Facebookしんらん交流館さん曰く
1987年から「戦没者追弔会」に「全」と仏法の「法」という文字を加えて「全戦没者追弔法会」と名称を改め勤められています。

尾畑文正先生の発言

2022-04-24
Facebook鈴木 君代さんの投稿です。

【春の法要ライブ配信】全戦没者追弔法会(4月2日10時10分~)

2021-04-02

全戦没者追弔法会 戦争でいのちを奪われた方々を憶念し、仏が願われた「兵弋無用(軍隊も武器もいらない)」の教えから、私たちの今を問い直す法要です。
 ◆法要 10時20分~ 
【法要次第】
 出仕
 着座楽 
総礼 
伽陀 稽首天人 
登高座 
表白 
伽陀 万行之中
 御経 仏説阿弥陀経 
伽陀 直入弥陀 
下高座 
総礼 
正信偈 草四句目下(同朋唱和) 
念仏讃 淘五 三重念仏 
和讃 無明長夜の燈炬なり 次第三首 
回向 願以此功徳 
総礼 
恩徳讃 
退出楽 退出
全戦没者追弔法会   表 白
謹んで阿弥陀如来、宗祖親鸞聖人 、ならびに
三世十方の諸仏如来に申し上 げます。
 本日ここに、親しく宗祖親鸞聖人のまえに坐 すことを得て、全戦没者追弔法 会を厳修いたします。このときにあたり、一つには過去の 罪障を懴悔し、二つには現在の遇法を慶喜び、三つには将来に同朋社会の顕現を期したいと存じます。 
第一に、過去の罪障を懴悔するとは、われらの宗門が、先の悲惨な侵略戦争 に自ら荷担し、それを「聖戦」と呼び、「まったくおおせにてなきことをも、 おおせとのみもうす」罪を犯したことであります。 実に、五逆謗法の咎逃れがたく、今更あらため 全戦没者の悲しみを 憶念し、ここに真宗大谷派が無批判に戦争に荷担した罪を表明し、過去の罪障を懴悔いた します。
 第二に、現在の遇法を慶喜ぶとは、そのわれらの罪障にも拘らず、如来の本 願はその罪を私たちに知らしめ、罪に向き合い、平和への道を歩ましめるので あります。
 第三に、同朋社会の顕現を期すとは、本願念仏の教法に生きる者は「四海の 内みな兄弟とするなり」という浄土の 荘厳功徳をこの身に受け、死者と生者が 一つに出会い、国家や民族の境を超えた「同朋社会」の顕現に 向 む かって 生 い きる 者 もの となるのであります。 われら 真宗門徒、ここに 非戦平和の誓いを 表 白し、ひとえに、この身とこの世の無明の闇を 照らす仏の教えに随い、ともに生きあえる世界 への道を歩まんことを誓うものであります。 

   二〇二一年四月二日  釋修如

仏が願われた「兵弋無用(軍隊も武器もいらない)」の教え

2021-08-15
Facebook 阪下 大介さん曰く

【 Facebook闘いのページ】のページ、管理者は住職です。

政局について

[こりゃアカン!]

2022-06-22
同じ考え方の立憲民主党のように見えます。

Facebook 長谷川一彦さん曰く


[こりゃアカン!] 福島みずほの街頭演説風景です。
足を止めて聴く人はいません。
社民党は無くなるそうです。
さもありなん
憲法改正反対
外国人参政権推進 
国防反対 等
日本国民の大多数からはなれています。
社民党に続き衰退するのは
同じ考え方の立憲民主党のように見えます。
皆さんはどう思われますか。

政党として生き残れるのか――最大危機の社民党 77年間の栄枯盛衰と参院選への秘策

2022-06-13
参院選で5回目の当選を目指す福島党首(撮影:山田高央)
6/13(月) 18:17配信
社会党時代を含めて77年の歴史を誇り、首相も出した老舗政党が大ピンチだ。社民党は次の参院選で一定の票数を確保できないと公職選挙法の「政党要件」を失う。改選を迎える福島瑞穂党首は「正念場の選挙」と危機感を募らせるが、社民は野党の中でも埋没気味だ。政党として生き残れるのか? 前身の社会党を含めたこれまでを振り返るとともに、参院選への秘策を探った。(ジャーナリスト・小川匡則/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部
参院選で「得票率2%」が条件
社民党の福島党首は新宿駅西口に現れると、おもむろに街頭演説を始めた。 「福島瑞穂は言いたい。憲法を無視して、憲法を尊重せず、憲法を全く考えない人たちに憲法を変える資格はないと思います!」 5月のゴールデンウィークのさなかで多くの人が行き交うが、聴衆はまばら。それでも30分にわたりマイクを握り、訴えを続けた。 社民党は2020年に立憲民主党との合流をめぐり分裂したこともあり、現在所属の国会議員は福島氏と衆院議員1人のみだ。存在感の薄さは否めない。 公選法の政党要件は、「所属の国会議員5人以上」もしくは「直近の衆院選か参院選で有効投票総数の2%以上の得票」を満たす必要がある。今回の参院選で4人の当選は難しく、焦点は「2%」のほうになる。社民党は3年前の参院選の得票率は2.09%だったが、昨年の衆院選は1.77%と2%を下回った。このため、今回の参院選(比例区)は「得票率2%以上」が"至上命令"となる。120万票以上が必要だ。 政党要件を失うと、次期衆院選で小選挙区と比例代表の重複立候補ができず、選挙区候補が政見放送を流せないなど、活動が大きく制限される。 福島党首は参院選比例区で立候補予定で、「社民党にとって正念場の選挙。何としても得票率2%を達成しなければならない」と力をこめる。
55年体制で存在感
社民党の前身、日本社会党は戦前間もない1945年11月に結成された。47年には片山連立内閣が誕生。その後、党内で左派と右派が分裂するも、55年に再統一する。同年には、自由党と日本民主党の保守合同で「自民党」も誕生し、「55年体制」が始まった。 社会党は庶民や労働者の側に立ち、「護憲・平和・安保反対」を掲げた。特に自衛隊については非武装・中立を理想とし、違憲の立場をとった。政権与党に歯止めをかける野党第1党として支持を集め、50年代後半には衆参で約250人の大所帯だった。 「社会党には戦争に対する反省心というのが根底にあり、人材も豊富だった」と話すのは、自民党や新党さきがけなどに所属した田中秀征・元経済企画庁長官だ。 朝鮮戦争の勃発により、アメリカが日本を戦争しない国から強い国にしようと対日政策を変更したため、国民の意識が「社会党を強くして戦前に戻らないようにしよう」となったことも大きかったと指摘する。

岩屋元防衛相が「正論」連発で真っ向から安倍批判! 岸田首相とは学生時代からの大親友

2022-06-07
© 日刊ゲンダイDIGITAL 岩屋毅元防衛相の発言は全く「正論」/(C)日刊ゲンダイ
日刊ゲンダイDIGITAL 2022/06/07 13:30

また安倍晋三元首相は、「岸田のヤロウめ」とイライラを募らせているのではないか。防衛相経験者の岩屋毅衆院議員が、安倍批判としか考えられない発言を繰り返しているからだ。

当選9回の岩屋議員は、防衛政務官、外務副大臣、防衛大臣を歴任した防衛族だ。ここ数日、立て続けに大手メディアで防衛問題について発言している。

<反撃能力の対象に「相手国の指揮統制機能等も含む」と明記したことは、いたずらに周辺国を刺激するだけでなく、対処のための準備を促し、軍拡につながる恐れがある。「安全保障のジレンマ」という言葉がある>(3日付・東京新聞)

<防衛費の編成は、数値目標が先にあって、そこに向かってとにかく買い足していくというような雑なやり方をしてはいけない>(6日配信・毎日新聞)

いずれも正論だが、ポイントは、安倍元首相の発言を真っ向から批判する内容になっていることだ。これまで安倍晋三氏は、「GDP比2%の防衛費を確保していくのは当然のことなんだと思う」「敵基地攻撃能力の対象を、基地に限定する必要はない。向こうの中枢を攻撃することも含むべきだ」と主張してきたからだ。安倍氏は、ベテランの防衛族議員に、容赦なく批判された形である。

“岩屋発言”に対して、安倍氏が「岸田のヤロウめ」とイライラを募らせている可能性が高いのは、岸田首相と岩屋議員が、学生時代からの大親友だからだ。

著書「岸田ビジョン」には、<防衛大臣などを歴任された岩屋毅衆議院議員との出会いも早稲田大学です。同じ年齢で学生時代からの友人なので、呼び捨てにしますが><当時から「岩屋」「岸田」と呼び合う仲で、いまでも時々飲みに行きます>などと、2人の友情が数ページにわたって書かれている。いまでも2人がツーカーなのは間違いない。

■バックに岸田首相がいる?

「岩屋議員の発言は、極めて常識的な正論です。でも、安倍さんは猜疑心の強い男です。“岩屋議員のバックには岸田首相がいるはずだ”“岸田首相が言わせているに違いない”と疑心を強めても不思議じゃない。実際、岸田ー岩屋が裏で通じている可能性はあります」(政界関係者)

イライラを募らせた安倍元首相が、この先、さらに常軌を逸する可能性がある。

「若手政治家」の登竜門

2022-03-18
自民党青年局長

Facebook 時事通信社さん曰く


1955年の結党時から存在する役職で、「若手政治家」の登竜門とも言われる自民党青年局長。
同局は、議員外交や党改革などで独自の存在感を発揮する一方、近年は時代の変化への対応も求められている。

「政界Web」最新記事はこちら⇒https://www.jiji.com/jc/v8?id=20220318seikaiweb

ロシアのウクライナ侵略は、日本にも考えさせられることが多いようです。

2022-03-09

Facebook 伊吹 文明さん曰く


ロシアのウクライナ侵略は、日本にも考えさせられることが多いようです。
国民に安心安全で幸せな日常を担保する理念・統治の仕組は、国により様々です。自由と市場経済の国、統制や計画経済の国、国民主権の民主制の国、世襲の君主制の国、民主制の衣を纏っていても反対の価値観や意見を抑えこむ独裁国家も。そのなかで各国は国益をかけ動くのが国際社会の現実です。
この現実のなかで、国際秩序・平和を護る大原則は、軍事力等力で現状を変えない、他国の主権を犯さないとの国際法や国連憲章の基本原則です。
 全ての国がこの基本原則を護るとは期待できない現実をウクライナ侵略は教えています。
だからこそ各国は防衛力を整備し、相互に助け合う同盟関係や安全保障条約を締結しています。
日本国憲法の前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、我々の安全と生存を保持しようと決意…」は、冷徹な国際社会の力の現実であるウクライナ侵略、北朝鮮の核とミサイル開発、尖閣問題、竹島や北方四島の現状からは、どう考えれば良いのでしょう。
 国際紛争の当事国には自らを正当化する各々の言い分があり、プーチン大統領の暴挙にも、ロシアを対象とする軍事同盟NATOが、自国の身近に迫るのを抑止したいとの言訳が。
しかし、プーチン大統領の言い分の理解と暴挙への理解は違うのです。
ウクライナはNATO加盟国ではありませんが、ロシアの苛立ちがウクライナを戦場にし、ウクライナ国民に犠牲を背負わせています。
武器を含めた援助や各種制裁も大切ですが、ウクライナの平和と安全を保障する為、米国と欧州がロシアとの交渉の前面に直接出て、NATOとロシアの相互譲歩の交渉・合意は出来なかったのでしょうか。
ゼレンスキー大統領の姿勢、ウクライナ国民のけな気さが心を打つだけに、国際社会の冷徹な現実を感じます。
 核保有の軍事大国が力による現状変更を強行した時、核保有国同士の争いを覚悟のうえで、当事国(今回はウクライナ)を他国が前面に出て助けるでしょうか。
日本は世界三位の経済大国であり、日米安保条約による米国の同盟国ですが、それでも米バイデン大統領の今回の発言や米国世論を見ると、どうでしょう。
防衛力増強や核の共同管理(米国の核の国内配備と共同運用)について、観念的・感情的に主張、反対する前に、まず安穏な日常を当り前とせず、冷徹な国際社会のなかで祖国・日本がどうあるべきかの国民的議論の時だと思うのです。
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