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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

映画『アンネ・フランクと旅する日記』

2022-02-16
3.11公開 映画『アンネ・フランクと旅する日記』予告編

 とは?
 が日記書いてから
2022年で80周年
出版されてから75周年

「遅すぎることはなかった ~オランダ・戦後75年の補償~」

2022-02-16
JNNドキュメンタリー ザ・フォーカス

ナチス・ドイツの占領下にあったオランダのベステルボルク通過収容所。
今年1月、この収容所から移送されて亡くなったユダヤ人ら10万2000人、1人1人の名前を読み上げる追悼式が行われた。 
両親を亡くしたサロ・ムラーさん(84)は、ナチスから多額の資金をもらってユダヤ人の移送に協力しながらも責任を認めないオランダ鉄道を許すことができなかった。謝罪と補償を求めてたった一人で国営企業に立ち向かった。 
戦後75年となった今年1月、オランダのルッテ首相は、当時のオランダ政府がナチスからユダヤ人を守らなかった「加害の歴史」を認めて、オランダ政府として初めて謝罪した。
オランダでは第2次世界大戦中に約14万人のユダヤ人が暮らしていたが、そのうちの75%近くがナチスとオランダ人協力者によって虐殺されていたのだ。 
戦争体験者の多くが亡くなり、風化が進むなか、私達は過去の過ちとどう向き合うのか。
オランダの「戦後補償」を取材した。 
制作:TBSテレビ ディレクター:西村匡史

アウシュビッツ 死者たちの告白

2022-02-15

アナザーストーリーズ「立花隆vs田中角栄」20220208

2022-02-14

英雄たちの選択 昭和の選択スペシャル「1941 日本はなぜ開戦したのか」

2022-02-14
英雄たちの選択 昭和の選択スペシャル「1941 日本はなぜ開戦したのか」part1 20211208
英雄たちの選択 昭和の選択スペシャル「1941 日本はなぜ開戦したのか」part2 20211208

闘いの転機(戦いの前と後)

「ワレニ追イツク敵機ナシ」:彩雲艦上偵察機

2022-05-01
艦上偵察機「彩雲」。乗員は3名で、極限まで空気抵抗を低減した機体であることがわかる。武装はコックピット後端に旋回機銃1丁を備えた。
日本海軍機の最高速となる時速約640キロを記録

第2次大戦中、「浮かぶ航空基地」こと空母を実戦で使用したのは、アメリカ、イギリス、日本の3カ国のみであった。この空母には、搭載できる艦上機の数に限りがある。そのため、1機種がいくつもの任務をこなせれば、搭載する機種が減らせるうえ、必要に応じて、それぞれの任務に従事する機数を容易に増減できる。

 このような発想から、各国とも艦上機は、水平爆撃機兼雷撃機、戦闘機兼急降下爆撃機といった兼用できる機種の開発に余念がなく、ましてや偵察機ともなれば、それはどれかの機種の副次的な任務にしてしまえばよい、ぐらいに考えられていた。

 例えばアメリカ海軍では、ダグラスSBDドーントレスやカーチスSB2Cヘルダイヴァーといった艦上急降下爆撃機が、また、イギリス海軍ではフェアリー・ソードフィッシュ艦上攻撃機が、それぞれ偵察任務に従事するケースが多かった。また、大戦中期以降になって機載レーダーやカメラ、長距離通信機の性能が向上すると、1人乗りの艦上戦闘機であるヴォートF4UコルセアやグラマンF6Fヘルキャットなども、容易に偵察任務に携われるようになった。

 だが日本海軍は偵察にことさら力を入れており、中島飛行機に対して、高速の艦上偵察専用機を開発するよう要請した。十七試艦上偵察機と呼ばれたこの機体は、太平洋戦争初期の1942年6月に試作が始まり、1944年中頃に艦上偵察機「彩雲(さいうん)」として制式化された。

 2000馬力級の誉二一型空冷エンジンを搭載し、究極まで空気抵抗を削減した「彩雲」は、試験飛行時に時速約640キロという当時の日本海軍機の最高速を記録。量産機になってからやや性能が低下したが、それでも高速機であることに間違いなかった。

「ワレニ追イツク敵機ナシ」。これは、偵察に出撃した「彩雲」が敵戦闘機に追撃されたものの、見事に振り切って虎口を脱した際に発した報告電文と伝えられる。

 だが「彩雲」が部隊配備された時期は、すでに日本空母で実戦に参加可能な艦が払底した状態だった。そのため本機は、ほとんど空母運用には供されず、陸上基地から発進して偵察飛行を実施した。特に日本周辺の洋上偵察、沖縄方面への特攻機の誘導やその戦果確認などに活躍。斜め銃を搭載した対B-29用の夜間戦闘型も開発されたが、これは実戦には間に合わなかった。

 戦後、アメリカは鹵獲(ろかく)した日本機をテスト飛行に供したが、同国製の高品質の燃料とエンジンオイルを使用した「彩雲」は、最大速度時速約694キロという高性能ぶりを発揮。アメリカ側技術者を驚かせたという。

数々の伝説を生んだ傑作戦闘機:零式艦上戦闘機 21 型・32型

96式艦上戦闘機という傑作機を手に入れた日本海軍は、同機に続く世界をリードする性能の艦上戦闘機の開発を求めた。これが12試艦上戦闘機で、1937年に三菱航空機と中島飛行機に試作の要請が出された。

 

 だが、96式艦戦よりもいっそう厳しくなった海軍側の要求に、中島は途中で辞退。三菱でも、96式艦戦をものにした堀越二郎らですら、前作よりさらにハードルが高くなった要求性能に頭を抱えることなった。

 

 こうして、再度堀越が主務者となって設計が始まった。海軍の要求は、軽快な運動性と優れた速度性能、長い航続距離、重武装を望むもので、この全てを満たす要求に対して、堀越が何かを犠牲にしなければならないことを示すと、防御能力がそれにあてられた。つまり防弾関連の重量を削減することで、それ以外の要求を実現するという方法が選ばれたのだ。

 

 さらに零戦の重量削減策として有名なのが、フレームに多数の孔(あな)を開けるという工程上の手間をかけて、強度を損なうことなく材料の中抜きを行い、その分の重量を浮かせたという逸話だろう。

 

 また、20mmという当時としては大口径で威力のある機関銃を搭載したが、同じく搭載していた7.7mm機関銃と弾道特性が異なるため、この両方の機関銃を巧みに使うにはパイロットの腕が大きくものを言った。

 

 かくして193941日に試作1号機が初飛行を行い、19407月に零式艦上戦闘機11型が制式採用された。そして同年中に中国での戦闘に出撃し、その驚異的な性能を発揮して中国空軍機を片端から撃墜。このとき、現場部隊から防弾についての要望の声も一部聞かれたが、勝ち戦だったため立ち消えになってしまった。

 

 太平洋戦争が始まると、零戦の主力は21型となっていた。同時代のアメリカのカーチスP-40トマホークやグラマンF4Fワイルドキャット、イギリスのホーカー・ハリケーンやスーパーマリン・スピットファイアなどは、熟練パイロットが操る零戦の巧みな空戦術によってバタバタと撃墜された。それまで、航空技術の後進国と思われていた日本の戦闘機に太刀打ちできないアメリカやイギリスのパイロットのみならず航空機メーカーも、「ゼロファイターの脅威」の前に、対抗策を講じるべく急遽研究を進めることになった。

 

 戦前から零戦で訓練を重ね、中国で実戦を経験してきた日本のパイロットの技量はそれこそ神業にも例えられるほどで、連合軍パイロットにとって零戦は恐怖の的であった。

 

 しかしもちろん、連合軍側も強敵である零戦の研究を怠っていたわけではない。不時着した機体などを徹底的に調査して弱点を調べ上げ、それを味方のパイロットたちに周知させたのである。また、零戦よりも大馬力のエンジンを積んだグラマンF6FヘルキャットやロッキードP-38ライトニング、リパブリックP-47サンダーボルトやスピットファイアの出力向上型の登場で、大戦中期になると零戦の優位もかなり揺らぐようになっていた。

 

 このような流れの中で、速度の向上と生産の容易化を図るため主翼端を角型にした零戦32型の生産が開始されたが、前線部隊ではこの改修は嫌われ、結局、主翼端は後の型で元の丸型に戻された。

 

 零戦の圧倒的な優位が揺らぎ始めたのは、ベテランパイロットの不足が目立ち、連合軍戦闘機の性能向上や新型機が登場するようになった1943年頃からである。一方で零戦も、21型や32型から新しい型への移行が始まることになる。

零戦の前段階に誕生した「もうひとつの傑作機」:96式艦上戦闘機(A5M)

1930年代中頃、日本海軍は、まだ複葉の95式艦上戦闘機を運用していた。しかし1920年代末から1930年代のこの時期にかけて、航空技術は世界的に急速な進歩を遂げており、複葉機では近々に旧式化することが明白だった。

 

 そこで日本海軍は、近代的な次世代の戦闘機を求めて9試単座戦闘機を発注することにし、試作の要請が三菱航空機と中島飛行機に出された。試作機の完成は1935年で、審査の結果、三菱案が採用となった。

 

 こうして誕生した96式艦上戦闘機は、続いて零戦を手がけることになる堀越二郎の設計で、海軍の制式機としては初の全金属製低翼単葉機だった。

 

 また、96式陸上攻撃機と共に、日本機として初めて沈頭鋲(ちんとうびょう)を全体に使用した。小さな鋲の頭だが、数がまとまると大きな空気抵抗となる。だが、頭が飛び出していない鋲の使用で、この空気抵抗を解消でき、性能の向上につながった。加えて、日本製実用機種として初めてフラップを採用している。

 

 主脚については、開発時期的に引込脚も実用化されていたが、脚部構造の重量増加を避け、さらに最前線の未舗装滑走路でのラフな運用を考慮して、あえて固定脚とし、フェアリング(覆い)をかぶせて空気抵抗の削減を図った。

 

 96式艦戦は開放式コックピットを備えていたが、転覆時などにコックピットが潰されてパイロットが死傷する恐れがあった。そこで、着陸時にフラップを作動させると、連動式のセーフティー・バーがコックピットの後方からせり上がるという工夫が施された。機体の転覆時はこのバーが先に接地して、コックピットが潰れるのを防ぐ仕掛けである。

 

 1937822日、日中戦争が勃発したため作戦行動中の空母加賀に96式艦戦が送り込まれた。そして94日に中国軍のカーチス・ホークを3機落とし、本機による初撃墜を記録した。さらに同年129日には、日本航空史に残る「片翼の帰還」が、樫村寛一(かしむらかんいち)三空曹の96式艦戦によってはたされ、本機の優秀さを広くアピールすることとなった。樫村機は空戦中に中国空軍のカーチス・ホークⅢと空中衝突してしまい、左の主翼の外側を大きく失ったものの、巧みな操縦によって帰還に成功したのである。

 

 その後、零戦が艦上戦闘機として制式化されても、同機の不足を補うために一部の空母での運用が続けられたが、1942年頃には全機引き揚げられて訓練など二線の任務に就いた。96式艦戦は、出現した時代において世界最優秀の戦闘機と言っても過言ではない名機であった。

 

 なお、連合軍は本機をMitsubishiの“Claude”というコードネームで呼んでいた

水上戦闘機から発達した零戦をしのぐ傑作戦闘機:紫電改

先に本連載で紹介した2式水上戦闘機は、実は、とある別の水上戦闘機の開発が遅延したことによる、リリーフ的立場の機体であった。その本来の水上戦闘機とは、川西航空機が開発した強風(きょうふう)である。

 

 大出力エンジンが必要だったため、雷電と同じ火星エンジンを搭載し、自動空戦フラップという空戦時のフラップ調整を自動で行う機構が組み込まれた、きわめて意欲的な設計の機体であった。しかし2式水上戦闘機がすでに実戦配備されて相応の成果をあげており、戦局は水上戦闘機を必要としない状況になりつつあったため、わずか97機の生産に留まった。

 

 そこで川西は194112月末、強風を、引込脚を備える局地戦闘機に改修する計画を海軍に提出した。当時、海軍は新型機雷電の不具合の調整と、零戦の後継機問題で悩んでいたため、既存の機種からの改修で実用化が可能と思われたこの計画を承認した。しかし当時の川西は、飛行艇や水上機のメーカーとしての評価こそ高かったが、陸上機に関しては経験がやや浅く、海軍内部の技術者の中から計画を懸念する声も聞かれた。このような状況を受けて、改めて審査の席が設けられ、その結果として計画にゴー・サインが出されている。

 

 当初の予定では、できるだけ速く実用化するため強風の設計を極力流用することになっていた。しかしエンジンを火星からより高出力の誉(ほまれ)に換装したことなどにより、各部に設計変更が必要となり、外観こそ似ているものの別の機体といえるほど手が加えられた。ただし水上機の強風譲りの中翼は変わらず、そのため主脚が長くなっている。

 

 こうして完成した機体は、紫電11型とされ、紫電(しでん)と略して呼ばれた。

 

 だが紫電は、自動空戦フラップや引込脚の不調、そして何よりも、プルフィーングが足りない誉の不具合に悩まされ、実戦部隊で高い評価を得ることができなかった。このことについて、当の川西も満足していなかった。というのも、紫電には素質として良い点もあったからだ。

 

 そこで、水上機だった強風に由来する中翼配置を零戦のような低翼配置に改め、直径の大きな誉に合わせて胴体のデザインや各翼の位置を修正。自動空戦フラップの信頼性も向上し、さらに、逼迫する戦況に対応すべく生産性向上と原材料節約の観点から、紫電よりも部品数を減した紫電21型が開発された。そしてこの機体は、紫電改(しでんかい)と呼ばれることになった。

 

 紫電改はきわめて優れた戦闘機で、パイロットの腕さえともなえば、零戦や雷電では荷が重かったグラマンF6Fヘルキャット、ヴォートF4Uコルセア、ノースアメリカンP-51マスタングといった強力なアメリカ製戦闘機と互角に戦うことができた。特に、紫電改を優先的に配備された第343海軍航空隊は、本土防衛に参加して大活躍をはたしている。

 

 かくして紫電改は、戦争末期の日本本土防空戦の勇戦をもって、海軍航空隊の戦いに最後の煌(きらめ)きを添えたのである。

 

 なお、連合軍は本機を“George”のコードネームで呼んだ。

戊辰戦争で使用された「ガトリング砲」は、どのくらい敵を殺傷したのか?

2022-05-01
ガトリング砲は一度に大量の弾丸を消費するため、供給が追い付かないことや、小回りが利かないことなどがネックになり、外国でも普及しなかった。
写真は河合継之助記念館に展示されているガトリング砲の模型。

戊辰戦争一番の激戦地といったら、皆さんはどこを思い浮かべるだろうか?

 白虎隊の悲劇があった会津、同じく少年たちが活躍した二本松、藩主不在のまま戦いとなった白河、戊辰戦争最後の戦いの舞台となった箱館、厳密にいえば箱館の五稜郭は城郭ではないのだが、これらの激戦地では城が落ちている。

 だが、同じ城が2回落ちている場所がある。どういうことだ?  と思われるかもしれないが、一度落ちた城を奪還した後に戦い、再び城を手離さなければならなくなったのが、長岡藩である。

 戊辰戦争の際、長岡藩は旧幕府側にも新政府側にもつかない、つまり中立を打ち出した。中立を保つためには強力な軍事力が必要である。そのため長岡藩の家老であった河合継之助(かわいつぎのすけ)は、大量の兵器を謎の外国人エドワルド・シュネルから買い付けた。謎というのは、出身地や生没年などの詳細が不明だからだ。

 継之助が彼から買ったものの中に奇妙な兵器があった。それが当時発明されたばかりのガトリング砲であった。

 ガトリング砲と呼ばれているが、大砲ではない。連発銃を6本円形に繫げたもので、ハンドルを回すと連続して弾を発射することができ、1分間に150発から200発撃つことができた。当時の兵士が1回の会戦で200発の弾薬を用意したといわれているから、それをわずか1分で撃ってしまうことになる。

 ガトリング砲は、アメリカを二分した南北戦争中の1862年、アメリカの医師リチャード・J・ガトリングによって発明された。彼は、マシンで動く銃を作れば、その分戦場に行く兵士が減り、負傷する者も命を落とす者も減ると考えていたという。しかし、この新しい兵器は北軍にも南軍にも正式採用されることなく南北戦争は終結してしまう。

 その後、起こった普墺(ふおう)戦争でも活躍することなく、慶応3年(1867)、横浜に2門陸揚げされたものを、継之助が15000両、計1万両で買い付けたのだ。この当時インフレが進んで1両が1万円程度だったとはいえ、1億円もの巨費を投じたことになる。

 継之助は、中立を保とうとしたものの、新政府軍がこれを許さず、慶応4年5月10日、長岡藩は新政府軍に対して引き金を引いたのである。ミニエー銃を手に持ち、フランス式で訓練された長岡藩軍に対して攻めあぐねていた新政府軍は、とんでもない行動に出た。城の外堀代わりであった信濃川を渡河したのである。当時は旧暦を使用していたから、5月といえば、今の6月、つまり梅雨の真っ最中で、この年は特に長く、川は増水しており川を渡るのは無謀と思える行為だった。

 思わぬ敵からの攻撃に長岡城下はパニックに陥った。敵の急襲に継之助は、秘密兵器ガトリング砲を引いて駆けつけ、信濃川の近く大手門の土手を楯にして乱射したという。しかし、継之助の奮戦むなしく落城してしまう。725日に八丁沖の戦いで城を奪還したものの、その4日後、再び落城。継之助も負傷し、会津へと落ちていく途中で人生の幕を閉じた。

 ガトリング砲が活躍したのは519日の攻城戦の時だけで、その後の記録はない。明治2年(1869)の宮古湾開戦で、旧幕府軍の回天に対してガトリング砲による攻撃が行われたため、回天は新政府軍の軍艦甲鉄に近づくことができなかった。このガトリング砲が、継之助が購入したガトリング砲であったがどうかは不明である。ただ、明治元年925日に長岡藩が降伏した時に没収された武器の中にガトリング砲は含まれていなかったという。

オランダから輸入された「ゲベール銃」は、なぜ旧式ながら戊辰戦争で活躍したのか?

 ゲベール銃とは1670年にフランスで採用され、1777年にオランダで軍用として取り上げられた銃のこと。弾を銃口から装填(そうてん)する前装銃であるが、写真のゲベール銃をよく見て欲しい。銃には必ずあると思われる、あるパーツがない。これがそれまで日本で使用されていた火縄銃と洋式銃の戦法の違いを端的に表している。この銃には銃口の上部に突起がない。上部の突起は、標的を狙う時に照門になり、これを使って照準を合わせる。

 

 日本では、目標物に照準を合わせて撃つ方法が尊ばれた。これは、火薬の原料となる硝石(しょうせき)が日本ではほとんどが産出しなかったためだろう。火薬の製造量に限りがあるため、一発必中、例えていうならばゴルゴ13のような腕が必要されていたのである。

 

 一方、硝石が簡単に手に入るヨーロッパでは、火薬を節約しなくてもよかった。鉄砲隊が密集し、前列に並ぶ膝撃ちの兵の後に立ち撃ちの兵が並んで号令に合わせて打ち放つ。花火に使用されることが多い黒色火薬だと、先が見通せないほどの煙で幕が張ったようになる。19世紀末のスーダンを舞台にした映画「サハラに舞う羽根」には、「阿蘭陀直伝高島流砲術巻」の中に描かれている光景がそのまま登場するので、参考までにご覧になってみてほしい。

 

 先の見えないほどの煙幕の中から飛んでくる弾は、敵方は避けようにも難しいため、あまり狙撃に優れていない撃ち手でも敵にダメージを与えることができた。ひらたくいえば「下手な鉄砲数撃てば当たる」。狙撃手を育てるのには時間がかかるが、この方法だと一通り鉄砲の扱いを覚えさえすれば戦力になる。もっとも狙撃しようにもゲベール銃の照準制度は低かった。

 

 火縄銃もゲベール銃も前装式なので弾と火薬を入れてから棒(朔杖/かるか)で奥まで押し込むまでは両者とも一緒だが、火縄銃は火皿と呼ばれる部分に少量の火薬を入れ、引き金を引くと火縄が火皿の火薬に点火し、そこから銃口に入れた火薬へ火が点いて弾が飛び出る。いつでも使えるように火縄に火が点いたままにしておくにはコツがあり、慣れないと難しい。

 

 一方ゲベール銃の方は、引き金を引いて火打石で出た火花で火薬に点火するので、手順が少ない上、扱いも簡便だった。燧石(すいせき)式ゲベール銃に使われていた火打石だが、日本では雨が多く、湿気も高いのでうまく火花が散らないことがある。また、まねして作ろうにも良質な石を見つけることが難かった。やがてさらに簡便な管打式のゲベール銃が発明されるとすぐに日本でも使用されるようになり、国内でも製造されるようになって一気に広まった。

 

 戊辰戦争ではもっと新しい形式の銃が活躍したが、それでもかなりの数が使用されていた。実は旧式ならではの利点があったからだ。最新式のスペンサー銃などは専用の薬莢(やっきょう)式弾丸が必要で、銃があっても弾丸がないと使用することができない。火縄銃やゲベール銃は銃口に入れば弾でなくても発射することができた。その証拠に戦国時代の戦場の遺跡から火縄銃の弾として使用されたのではないかと思われる石などが見つかっている。まさか、戊辰戦争で石が弾丸の代わりに使用されていたとは考えにくいが、弾丸に使われる鉛は融点が低いため、丸い弾ならば簡単に製造することができた。実際に戦場で製造していたという記録が残されている。

旧式兵器「火縄銃」は戊辰戦争で活躍したのか?

 俗説ではあるが、旧幕府軍が新政府軍に敗れたのは、使われた銃が戦国時代に日本に伝わった古い形式の火縄銃が多かったからだという。では、本当に火縄銃は戊辰戦争で使用されていたのだろうか。

 

 火縄銃は寛永14年(1637)に起こった島原の乱が翌年終結すると、兵器として活躍する場面はほとんどなくなった。これ以降従来は火縄銃関係の産業は衰退していったと考えられていたが、近年堺市で鉄砲鍛冶をしていた家から資料が発見された。これによると江戸時代を通して数は少ないが新調や修理などもあり、これまで考えられていたよりも使用が盛んであったことが明らかになった。

 

 それでも平和な世の中では銃はあまり使用されることはない。農民たちが鑑札を受けた上で猟をする程度だった。それが再び注目されるようになったのは、江戸時代も後半になり、日本近海を外国船がうろうろし始めたからだ。

 

 文化5年(18088月、長崎港にイギリス軍艦フェートン号がオランダ船と偽って入港する事件が起こる。だまされたとはいえ、やすやすと侵入を許した責任を取って長崎奉行の松平康英(まつだいらやすひで)が切腹、警護の当番であった佐賀藩の藩主鍋島斉直(なべしまなりなお)も処分された。

 

 こうした事態を憂いて、西洋の火器を入手し、広めようとした人物がいる。長崎の町年寄高島秋帆(たかしましゅうはん)だ。町年寄の仕事のかたわら蘭学を学び中でも砲術に通じてオランダからゲベール銃などを取り寄せるほどだった。

 

 江戸時代日本は鎖国していたといわれているが、実際にはオランダを通じていち早く外国の情報を入手しており、当然隣の大国清がアヘン戦争でイギリスに敗れたことを幕閣などは知っていたという。オランダ人からそのことを知った秋帆は清が負けたのは砲術が未熟であったからだとし、我が国の海防に西洋流砲術を取り入れるべきだと幕府に上書。これが受け入れられ、幕府関係者を集めて徳丸原で天保12年(18415月に西洋流砲術を披露した。

 

 幕府は西洋流の採用を決めるが、保守派の反対に合い頓挫。しかし、嘉永6年(18536月にペリー艦隊が来航すると事態は一変する。軍事力に圧倒されて外国との条約を結ばざるを得なくなったからだ。軍備の違いを見せつけられ、軍事力の強化を痛感した幕府や諸藩は欧米諸国から争うように洋式銃を購入。しかし、洋式銃は高価で数多く購入することは難しかった。

 

 手先の器用な日本人は、洋式銃の製造を試みて成功したのだが、大量生産には至らなかった。もしかしたらそれよりも簡単で安価に大量に銃をそろえる方法が生み出されたのも少しは影響していたのかもしれない。実は、国内にあった火縄銃を改良して洋式銃のようにしたものが造られるようになったのだ。火縄銃は火縄を用いて点火し発砲する。火縄は雨が降ると火が消えてしまうなど扱いが難しい。これを撃鉄(げきてつ)を落とした摩擦熱で点火する方法に変えた。こうした改良銃を「菅打ち火縄銃」(かんうちひなわじゅう)という。火縄銃は銃口から弾を入れるが、これを尾栓から詰める方法に改良した火縄銃もあった。

 

 もっとも、軍備を増強するにあたり火縄銃をその持ち主ごと徴発することもあったというから、戊辰戦争で一体どれくらいの火縄銃が使用されたか記録はないが、立派に役目を果たしていたようだ。

なぜ「ミニエー銃」は新政府軍と旧幕府軍の両軍で使用されたのか?
従来の小銃に比べ、射的距離、命中精度を大幅に向上させたミニエー銃。その性能の良さから佐幕派、倒幕派の枠を越えて両軍の主要兵器となった。その秘密に迫る。

発砲事件や、刑事ドラマなどで、残された弾丸から「この銃は以前の〇〇事件で使用されたものと同じ」といわれるのを目にしたことがあるだろう。ではなぜ、銃から発射された弾丸だけでそんなことがわかるのだろうか。

 

 現在使用されている小銃や拳銃の銃身の内側には普通4本から6本ほどの溝が彫られ、この溝は銃口から見ると傾斜が付いた螺旋になっている。弾を発射する時に火薬の爆発によって生じるガス圧で弾丸が膨張しこの溝に押し付けられながら銃身内を進む。そのため、発射された弾丸には回転が加えられるのだ。

 

 この時に弾丸には溝に押し付けられた時の傷が残る。溝は機械で同じように作っても弾に残る傷は1丁ごとに異なるという。回転しない弾は空気抵抗や引力の影響を受けてすぐに下へ落ちてしまうため、あまり遠くまで飛ばないし、命中率もあまり高くはない。地球上で生活している限り、空気抵抗や引力は必ずついて回る問題なのだ。

 

 銃の内側に刻まれている溝のことをライフルといい、銃が誕生した後の比較的早い時期から、ライフルを刻んだ銃は存在したといわれている。だが、円形の弾だと、この溝にうまく食い込ませることができなかったり、弾を装填するのに時間がかかったりして、実用的ではなかった。

 

 それを、実戦に耐えるものに改良したのが、フランスのクロード・エティエンヌ・ミニエー大尉だ。1846年にそれまでの丸い弾を、俗に椎の実弾とよばれる先が尖った円柱形に成型。この銃弾の底の部分には空間を作りここに栓がしてあった。初期の栓は木製であったらしいが、後には金属に代わった。

 

 この弾丸を銃口から入れて槊丈(かるか)で押し込むと栓がライフルにうまくはまり込む上、火薬の爆発で生まれた圧力によって弾丸が内側に彫られた溝にしっかり密着し、回転しながら勢いよく飛び出す。この弾の誕生によって、命中率と有効射程距離が格段に向上した。

 

 なお、この椎の実弾であるが、回転を加えないと尖った先端部分がまっすぐに目標に向かって飛ばず、思ったような効果を得られなかった。空気抵抗という見えない壁を破るには流線型と目にも止まらないスピードの回転が必要だったということだろう。

 

 ミニエーが発明したこの弾丸を撃つための銃がミニエー銃である。ミニエー弾とミニエー銃は一世代前のゲベール銃に比べると格段に有効射程距離が延び、命中精度も一説によると3倍以上になったという。

 

 1851年にイギリスで採用されるとヨーロッパで一気に広まり、日本では文久3年(1863)ごろから輸入され、国産も試みられた。なお、この後、さらに改良を加えた前装式のライフルがいくつかあるが、日本ではライフリングされた前装銃のことを全般にミニエー銃と呼んでいる。弾の装填の効率化を図って開発された後装銃や、まとめて弾を装填できる連発銃も戊辰戦争の時点で日本に入って来ていたものの、銃そのものがミニエー銃に比べて高価であったことや専用弾丸の入手の問題もあって、それほど多くは使われていない。戊辰戦争もっとも広く一般的に使用されていたのは、前装式ライフルの「ミニエー銃」だったのだ。

『トップガン マーヴェリック』フィーチャレット解禁!

2022-04-30

茨城空港のファントムの塗装が終わったと聞いて見に行ってきました

2022-04-24
Facebook 向笠 哲生 さん曰く、大変きれいにしていただき有難うございました。

一瞬分からなかった件

2022-04-24
Facebook 森 一理 さん曰く

データベース(武器を用いない闘いの歴史の中で、人は如何に生きたか・・・。)

チャップリン映画

2022-02-27
Facebook 岩田 宏一 さん曰く 

子供の頃、家族揃って爆笑しながら観たなぁ~
チャップリン映画大好きでした。

ちょうど400年前の今日、イエズス会士・カミロ・コンスタンツォ神父が宇久島で捕らえられました。

2022-04-24

Facebook 日本二十六聖人記念館さん曰く


ちょうど400年前の今日、イエズス会士・カミロ・コンスタンツォ神父が宇久島で捕らえられました。
 1614年の宣教師追放の際にマカオに送られたものの、21年に密かに日本に戻り信者たちのために働いたイタリア人司祭は、1622年4月24日に上五島の宇久島で捕縛されました。
 同年9月15日に平戸の田平で火に焼かれて殉教しました。長崎での「元和の大殉教」の5日後のことでした。
 コンスタンツォ神父は1867年に「205福者」のひとりとして列福されました。
 田平にある「焼罪史跡公園」は、コンスタンツォ神父を顕彰したもので、美しい海に面した岬の先端に位置しています。
 ※おらしょこころ旅「焼罪 (やいざ)」:htps://oratio.jp/p_resource/yaiza-2

ゼレンスキー大統領の妻であるオレーナ・ゼレンシカが、

2022-04-20
Facebook VOGUE JAPAN さん曰く、 『VOGUE』に侵攻直後の様子と母国の惨状、そして希望を語った。
オレーナ・ゼレンシカ、2021年撮影。 PHOTO: STEPHAN LISOWSKI FOR VOGUE UKRAINE

ゼレンスキー大統領の名演説を手がけるスピーチライターは誰なのか? 

2022-04-21
ウクライナ情報戦の立役者
国連安全保障理事会でオンライン演説したゼレンスキー大統領(4月5日)  Photo: John Lamparski / NurPhoto 画像ギャラリー
ゼレンスキーを支える“スピーチライター”の正体──誰があの名演説を書いているのか?
ウクライナ国民の士気を奮い立たせ、世界に対しては各国の歴史を踏まえたスピーチで心を揺さぶる──ゼレンスキー大統領の名演説を手がけるスピーチライターは誰なのか? 
ついに英紙「オブザーバー」がその正体に迫った。

ルイス・フロイスが記録したキリシタン時代の復活祭

2022-04-17

Facebook 日本二十六聖人記念館さん曰く


ルイス・フロイスが記録したキリシタン時代の復活祭
 「この布教に携ずさわっていた二名の司祭たちの中の一人が、(レオ)がいた地で復活祭を祝わった。
 この善良な老人(レオ)には非常な熱心さがあり、彼はいつかはその地全部が聖主なるキリストに従うのを見ようとしきりに願っていた。
 彼は復活の祝日に、いっしょに祝うために四百人のキリシタンたちにすばらしい饗宴をした。」
  「一五九六年度イエズス会日本報告書」(第一期第二巻) より。

日本国自衛隊

*1960.1.19

2022-05-10
「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」が締結される。

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1960(s35)年】-1
◎日米新安保条約(60年安保)
*1960.1.19/ ワシントンで「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」が締結される。
*1960.5.19/ 19日、社会党議員を強制排除して始まった衆議院本会議は、20日午前零時過ぎに、自民党単独で新安保条約を衆議院可決。
*1960.6.10/ アイゼンハワー大統領来日の事前打ち合わせに来たハガチー大統領補佐官は、羽田空港でデモ隊に包囲され、米軍ヘリコプターで脱出。
*1960.6.15/ 安保阻止実力行使に全国で580万人(主催者側発表)が参加、全学連主流派が国会構内に突入、警官隊と衝突し東大生樺美智子が死亡する。
*1960.6.19/ 33万人のデモ隊が国会を包囲するなか、午前零時、新安保条約が自然成立する。
 1960(s35)年6月15日、安保阻止最大のデモで、全学連主流派が国会に突入し、防衛する警察機動隊・右翼団体・暴力団等と衝突、この混乱のさ中で東大生樺美智子が圧死する事故が起った。その数日後の6月19日、安保条約は参議院の議決のないまま自然成立する。10万規模のデモを官邸から見下ろした岸首相は「となりの後楽園球場には平和な民衆が5万と居る」とつぶやいたとか。
 1951(s26)年のサンフランシスコ講和条約の成立(日本主権回復)と同時に、吉田首相が単独で署名した旧日米安保条約は、日本に片務的で臨時的なものであった。日本の主権回復とともに駐留軍が撤退するため、日本の軍事的空白を防ぐために、引き続き米軍の駐留を認める必要があった。ただしそれは、米国の「駐留権」を認めるという形で、日本の防衛や駐留自体は、もっぱら米国の都合次第という条約であった。
 岸信介は、1957(s32)年2月、病に倒れた石橋湛山首相の後継に指名され、石橋内閣を引き継ぐと、1958(s33)年5月の総選挙で政権としての信任を得て、第2次岸内閣を組閣する。選挙を経て自信を得た岸首相は、アジア重視の自主外交を進めながら、一方で対米尊重の基本枠は譲らず、日米安保条約の改定に向けて、着々と条件を整えていった。
 1960(s35)年1月に、岸首相以下全権団が訪米し、アイゼンハワー大統領と合意し、1月19日、新安保条約の調印にこぎつけた。ワシントンで「新安保条約」に署名するが、その発効には国会の承認が必要であり、岸訪米団が帰国してから、本格的な反対運動が起こる。
 新条約の承認を巡る国会審議では、安保廃棄を掲げる日本社会党が徹底抵抗の姿勢を示し紛糾した。また国会外では、社会党や共産党が指導する労働者団体だけでなく、社会党や共産党の既存革新政党を批判する急進派学生らにより、「共産主義者同盟(ブント)」が結成され、ブントの主導する「全日本学生自治会総連合(全学連)」主流派が、総力を上げて反安保闘争を展開した。
 1960(s35)年5月19日、衆議院日米安全保障条約等特別委員会で新条約案が強行採決され、続いて5月20日未明に衆議院本会議を通過した。委員会採決では、自民党は座り込みをする社会党議員を排除するため、右翼などから屈強な男たちを動員し、警官隊と共に社会党議員を追い出しての採決であった。本会議は、翌20日に日付が変わったころ、自民党議員だけで議決された。
 この強行採決の模様がテレビニュース等で流されると、一般市民の間にも反対の運動が高まり、国会議事堂の周囲は連日デモ隊で取り囲まれた。参議院での議決が為されない場合、新安保が自然承認される6月19日には、アイゼンハワー大統領訪日が予定されており、6月10日にその日程調整に来日したハガチー大統領報道官は、羽田空港を出たところでデモ隊に包囲され、アメリカ海兵隊のヘリコプターで救出されるという事件が発生した(ハガチー事件)。
 過激な全学連は国会突入戦術を推進していたが、社会党は傘下の組合の時限ストやデモを組織しつつ、全学連の強硬路線には静観的な立場を取り、共産党は「極左冒険主義の全学連(トロツキスト=分派主義)」と批判した。一方、当のブント全学連は、既成政党の穏健デモを「お焼香デモ」と非難した。
 そして6月15日、安保改定阻止国民会議の呼びかけで、全国各地で560万人が集い、各地で大規模な集会やデモが実施された。国会前でも、暴力団と右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの負傷者を出すなどするなか、全学連主流派が指揮するデモ隊が国会内に突入、機動隊と激しく衝突する。そのさなかで、デモに参加していた東京大学学生の樺美智子が圧死した。
 新安保条約は、衆議院議決1ヵ月後の6月19日、参議院の議決がないままに自然成立した。またアイゼンハワーの来日は延期(実質上の中止)となった。そして岸内閣は、混乱の責任をとる形で、新安保条約の批准書交換の日である6月23日、総辞職を表明した。これらにより、安保反対運動は急速に沈静してゆく。
(この年の出来事)
*1960.3.28/ 1.5無期限ストに突入していた三井三池炭鉱は、ロックアウト解除をめぐって第1と第2組合で衝突、さらに泥沼化する。
*1960.5.16/ 慶応幼稚舎2年生の男の子が誘拐され、19日に死体で発見される。(正樹ちゃん誘拐事件)
*1960.8.25/ 第17回オリンピック・ローマ大会が開催される。 
*1960.11.8/ 米大統領選挙で、ジョン・F・ケネディが当選する。

共同訓練を実施しました。

2022-05-27
5月24日~25日、護衛艦 #てるづき関東南方において、米海軍 #ロナルドレーガン #アンティータム 及び #ベンフォールドと共同訓練を実施しました。
海上自衛隊は本訓練を通じて日米同盟の抑止力・対処力を強化するとともに海上自衛隊の戦術技量及び米海軍との相互運用性の向上を図りました。

日米の第5世代戦闘機 #F35A 同士が初の対戦闘機戦闘訓練を実施

2022-03-15
3月10日、日米の第5世代戦闘機 #F35A 同士が初の対戦闘機戦闘訓練を実施
#航空自衛隊 のF-35Aは、2018年に三沢基地に配備されて以降、訓練を着実に積み重ねてきました。
本訓練によって、進化する #日米同盟 の姿と両国の揺るぎない絆を示しました!

無人偵察機「グローバルホーク」の第1号機

2022-03-15
3月12日、三沢基地に、
#航空自衛隊 が運用する無人偵察機「グローバルホーク」の第1号機が
納入されました。
民間機の飛行しない高高度に長時間滞空して情報収集に当たり、
我が国のインテリジェンス向上に大きく寄与します。
厳しい軍事情勢の中、警戒態勢を一層強化していきます。
#防衛省・自衛隊

自衛隊の装備品等を米軍機によりウクライナに届ける準備を進めています。

2022-03-17
ウクライナに届ける #自衛隊 の防弾チョッキやヘルメット等を載せた米軍機C-17が、
横田基地を出発する予定です。
日米は強固に連携し、ウクライナを応援します。
3月16日 #防衛省・自衛隊 は、在日米軍横田基地において #鬼木防衛副大臣 、エマニュエル駐日米国大使@USAmbJapan 、セメニューク駐日ウクライナ大使館@UKRinJPN公使参事官が見守る中、自衛隊の装備品等を米軍機によりウクライナに届ける準備を進めています。 #日米同盟
国際秩序の根幹を揺るがす今回のロシアによるウクライナ侵略は我が国の安全保障の観点からも、決して看過できません。今回の米軍機による輸送は、この事態に対し、日米両国が、#日米同盟 の下、国際社会と結束して毅然と行動していく決意を示すものです。#ウクライナのために #防衛省・自衛隊

闘いすんで 陽が暮れて・・・

硫黄島からの帰還です。

2022-02-09
Facebook 徳田 秀光さん曰く
 硫黄島から、英霊が77年ぶりに雨模様の中、自衛隊のc-130h輸送機でお帰りに成りました。埼玉県の入間基地で儀じょうにより出迎えました。
  この度、ご帰還された英霊は14柱。
帰路の自衛隊機には14人分の席を用意されました。
英霊にとっては77年ぶりのご帰還。
安らかに帰れるようにと自衛隊員達は隣の席の骨箱に、優しい手付きでシートベルトを着けました。 
 米軍の火炎放射器等で塞がれた地下壕で発見された英霊は、家族から届いた手紙の束を握りしめたままの方々もいます。
 『お父さんお元気ですか。僕も元気で毎日学校に行ってべんきょうしています…………』
 発見者は、涙が出て全てを読めなかったと報告書に記しています。

日本です。新婚旅行です。ディマジオがいっしょでした。

2021-11-11
Facebook Nostalgia&Rock'n’ Roll ノスタルジア・ロックンロールさん曰く
朝鮮戦線を慰問、日本での新婚旅行を中座して・・・。

マリリン・モンロー ジョー・ディマジオ来日(新婚旅行)の日程 

 

1954年(昭和29) 2月1日 午後5時35分 羽田着 

夫のジョー・ディマジオ サンディエゴ・パドレス監督の

フランク・オドウル氏らとともにオープンカーをつらねて帝国ホテルへ。

              

2月2日 記者会見

   ディマジオの為の記者会見だったが、質問はすべてマリリン

へのものだった。

 

2月8日 午後7時30分 板付着 

那珂川河畔の国際ホテル(現在の城山ホテル跡)へ

                     ホテルを500人あまりのファンが取り巻く。

マリリンは2階の窓辺に現れ、カーネーション の花びらを

ファンにばらまいて、投げキッスをふりまいた。

滞在中は、1人で、西戸崎へ米軍キャンプの慰問、

ドライブなどを楽しむ。

ディマジオ、オドウル監督らは、香椎球場で日本プロ野球選手の

技術指導を行う。

夕食はお忍びで、ホテルの通りをはさんだ向かいのレストラン

ロイヤル(旧花の木)で食事を楽しむが、店をファンに埋め尽くされる一幕も。

            

2月11日 午前9時10分 岩国市の米軍基地へ

                    ディマジオ・マリリン一行は、自動車で宮島の一茶苑に向かったが、

ファンが殺到しMPが出動する騒ぎだった。

            

2月14日 岩国から大阪へ

            

2月16日から19日まで

     マリリンは、朝鮮の国連軍慰問(10ヵ所以上の駐屯地を訪問)し、カゼを引く

     ディマジオは、大阪・奈良などを訪問し、野球指導を行う。

            

2月25日 午後2時7分 羽田からサンフランシスコへ帰国

ロイヤルのこの器は、今(2021年)でも、この形で、テーブルにサービスされています。

昭和天皇の御巡幸 戦後全国を御巡幸された陛下。

2021-11-25
Facebook 上野不二子 さん曰く、親しみやすい笑顔が印象的ですね。

真宗大谷派の取り組みについて

「全戦没者追弔法会」の和讃

2021-04-04
Facebookしんらん響流館さん曰く
1987年から「戦没者追弔会」に「全」と仏法の「法」という文字を加えて「全戦没者追弔法会」と名称を改め勤められています。

【4/2全戦没者追弔法会】

2021-04-04
Facebookしんらん交流館さん曰く
1987年から「戦没者追弔会」に「全」と仏法の「法」という文字を加えて「全戦没者追弔法会」と名称を改め勤められています。

尾畑文正先生の発言

2022-04-24
Facebook鈴木 君代さんの投稿です。

【春の法要ライブ配信】全戦没者追弔法会(4月2日10時10分~)

2021-04-02

全戦没者追弔法会 戦争でいのちを奪われた方々を憶念し、仏が願われた「兵弋無用(軍隊も武器もいらない)」の教えから、私たちの今を問い直す法要です。
 ◆法要 10時20分~ 
【法要次第】
 出仕
 着座楽 
総礼 
伽陀 稽首天人 
登高座 
表白 
伽陀 万行之中
 御経 仏説阿弥陀経 
伽陀 直入弥陀 
下高座 
総礼 
正信偈 草四句目下(同朋唱和) 
念仏讃 淘五 三重念仏 
和讃 無明長夜の燈炬なり 次第三首 
回向 願以此功徳 
総礼 
恩徳讃 
退出楽 退出
全戦没者追弔法会   表 白
謹んで阿弥陀如来、宗祖親鸞聖人 、ならびに
三世十方の諸仏如来に申し上 げます。
 本日ここに、親しく宗祖親鸞聖人のまえに坐 すことを得て、全戦没者追弔法 会を厳修いたします。このときにあたり、一つには過去の 罪障を懴悔し、二つには現在の遇法を慶喜び、三つには将来に同朋社会の顕現を期したいと存じます。 
第一に、過去の罪障を懴悔するとは、われらの宗門が、先の悲惨な侵略戦争 に自ら荷担し、それを「聖戦」と呼び、「まったくおおせにてなきことをも、 おおせとのみもうす」罪を犯したことであります。 実に、五逆謗法の咎逃れがたく、今更あらため 全戦没者の悲しみを 憶念し、ここに真宗大谷派が無批判に戦争に荷担した罪を表明し、過去の罪障を懴悔いた します。
 第二に、現在の遇法を慶喜ぶとは、そのわれらの罪障にも拘らず、如来の本 願はその罪を私たちに知らしめ、罪に向き合い、平和への道を歩ましめるので あります。
 第三に、同朋社会の顕現を期すとは、本願念仏の教法に生きる者は「四海の 内みな兄弟とするなり」という浄土の 荘厳功徳をこの身に受け、死者と生者が 一つに出会い、国家や民族の境を超えた「同朋社会」の顕現に 向 む かって 生 い きる 者 もの となるのであります。 われら 真宗門徒、ここに 非戦平和の誓いを 表 白し、ひとえに、この身とこの世の無明の闇を 照らす仏の教えに随い、ともに生きあえる世界 への道を歩まんことを誓うものであります。 

   二〇二一年四月二日  釋修如

仏が願われた「兵弋無用(軍隊も武器もいらない)」の教え

2021-08-15
Facebook 阪下 大介さん曰く

【 Facebook闘いのページ】のページ、管理者は住職です。

政局について

「若手政治家」の登竜門

2022-03-18
自民党青年局長

Facebook 時事通信社さん曰く


1955年の結党時から存在する役職で、「若手政治家」の登竜門とも言われる自民党青年局長。
同局は、議員外交や党改革などで独自の存在感を発揮する一方、近年は時代の変化への対応も求められている。

「政界Web」最新記事はこちら⇒https://www.jiji.com/jc/v8?id=20220318seikaiweb

ロシアのウクライナ侵略は、日本にも考えさせられることが多いようです。

2022-03-09

Facebook 伊吹 文明さん曰く


ロシアのウクライナ侵略は、日本にも考えさせられることが多いようです。
国民に安心安全で幸せな日常を担保する理念・統治の仕組は、国により様々です。自由と市場経済の国、統制や計画経済の国、国民主権の民主制の国、世襲の君主制の国、民主制の衣を纏っていても反対の価値観や意見を抑えこむ独裁国家も。そのなかで各国は国益をかけ動くのが国際社会の現実です。
この現実のなかで、国際秩序・平和を護る大原則は、軍事力等力で現状を変えない、他国の主権を犯さないとの国際法や国連憲章の基本原則です。
 全ての国がこの基本原則を護るとは期待できない現実をウクライナ侵略は教えています。
だからこそ各国は防衛力を整備し、相互に助け合う同盟関係や安全保障条約を締結しています。
日本国憲法の前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、我々の安全と生存を保持しようと決意…」は、冷徹な国際社会の力の現実であるウクライナ侵略、北朝鮮の核とミサイル開発、尖閣問題、竹島や北方四島の現状からは、どう考えれば良いのでしょう。
 国際紛争の当事国には自らを正当化する各々の言い分があり、プーチン大統領の暴挙にも、ロシアを対象とする軍事同盟NATOが、自国の身近に迫るのを抑止したいとの言訳が。
しかし、プーチン大統領の言い分の理解と暴挙への理解は違うのです。
ウクライナはNATO加盟国ではありませんが、ロシアの苛立ちがウクライナを戦場にし、ウクライナ国民に犠牲を背負わせています。
武器を含めた援助や各種制裁も大切ですが、ウクライナの平和と安全を保障する為、米国と欧州がロシアとの交渉の前面に直接出て、NATOとロシアの相互譲歩の交渉・合意は出来なかったのでしょうか。
ゼレンスキー大統領の姿勢、ウクライナ国民のけな気さが心を打つだけに、国際社会の冷徹な現実を感じます。
 核保有の軍事大国が力による現状変更を強行した時、核保有国同士の争いを覚悟のうえで、当事国(今回はウクライナ)を他国が前面に出て助けるでしょうか。
日本は世界三位の経済大国であり、日米安保条約による米国の同盟国ですが、それでも米バイデン大統領の今回の発言や米国世論を見ると、どうでしょう。
防衛力増強や核の共同管理(米国の核の国内配備と共同運用)について、観念的・感情的に主張、反対する前に、まず安穏な日常を当り前とせず、冷徹な国際社会のなかで祖国・日本がどうあるべきかの国民的議論の時だと思うのです。

揺らぐ自公連立 その裏で岸田首相の政敵・菅氏と創価学会とのパイプ復活

2022-02-28
© NEWSポストセブン 提供 菅義偉氏が持つ公明党・創価学会とのパイプとは?(時事通信フォト)
© NEWSポストセブン 提供 自公の選挙協力体制に変化?(公明党の山口那津男・代表/時事通信フォト)
2022/03/01 07:15

自民党と公明党の連立が大きく揺らぎ始めた。公明党の山口那津男・代表が2月6日放送のBSテレ東の報道番組で、夏の参院選での自公選挙協力について、「(自民党に)相互推薦をお願いしたが、現にない以上、自力で勝てるようにやらざるを得ない」と岸田自民に“最後通牒”を突きつけたのだ。

 支持母体の創価学会も足並みを揃えている。創価学会は1月27日に国政選挙や地方選挙の方針を決める中央社会協議会を開催し、選挙の支援方針は「人物本位」で選び、「今後より一層、党派を問わず見極める」ことを申し合わせたことが報じられた。これからは自民党以外の候補者を支援することもあり得るという大きな方針転換だ。

学会の政治担当が“現場復帰”

 さる2月5日、朝日新聞に小さな訂正記事が掲載された。

〈4日付総合4面「『相互推薦』自公あつれき」の記事で、創価学会の「佐藤浩元副会長」とあるのは「佐藤浩副会長」の誤りでした。佐藤氏は昨年学会職員を定年で退いた後も、引き続き副会長を務めています。確認が不十分でした〉

 創価学会に朝日新聞が掲載した訂正文について聞くと、「事実と違うため指摘しました」(広報室)と回答。佐藤氏が現在も「副会長」という肩書きを持っていることに対しては「法人職員の退職と組織役職は無関係です」と答えた。

 佐藤氏といえば、創価学会の政治担当責任者として安倍晋三・菅義偉両政権に太いパイプを持っていたことで知られる。特に菅氏とは官房長官時代から政治懸案があると水面下で交渉にあたったとされる人物だ。安保法制などタカ派路線の安倍政権時代に「平和と福祉」を掲げる公明党・創価学会との関係がうまくいっていたのは、「菅・佐藤の“ホットライン”で事前に入念にすりあわせしていたからだ」(官邸関係者)と言われる。

 だが最近、佐藤氏の引退説が流れていた。『宗教問題』編集長の小川寛大氏が語る。

「佐藤氏が昨年2月に学会本部職員を定年退職したとき、引退との見方が流れた。公明党の遠山清彦・前代議士(貸金業法違反で起訴)がコロナ禍の銀座通いを批判されて議員辞職したタイミングだったため、学会の政治担当としてケジメをつけたのではないかと見られたわけです。だから朝日も『元』副会長と勘違いしたのでしょう」

 しかし、佐藤氏は引退していなかったという。

「昨年10月の総選挙で、創価学会には選挙を仕切ることができる人材が少ないので、定年退職していた佐藤氏が力を必要とされて“現場復帰”した。佐藤氏の活躍で公明党は久しぶりに700万票を獲得した」(同前)

 朝日の「元副会長ではなく現在も副会長」という訂正記事は、佐藤氏が創価学会内部で依然力を持っていることを内外に示す効果があった。

 その佐藤氏の“現場復帰”に合わせたようなタイミングで自公関係が悪化したのは偶然だろうか。菅氏の側近の証言は重要だ。

「菅さんが総理の間は、佐藤副会長とはほとんど連絡を取っていなかった。官房長官と副会長なら釣り合うが、トップの総理と副会長が親しくし過ぎると、佐藤氏が創価学会内部でにらまれて立場が悪くなりかねないという配慮もあった。しかし、菅さんが総理を辞めてからは以前のように連絡を取り合っているようで、最近は創価学会の話をよくするようになった」

 佐藤氏は菅氏とのパイプも復活していたというのである。

 そこに自公の選挙協力問題が持ち上がり、公明党・創価学会が菅氏の政敵の岸田自民に“選挙協力破棄”を突きつけた。

 岸田首相の政治路線は「ハト派リベラル」とされ、政策的には公明党と親和性が高いはずだが、岸田政権には公明・創価学会指導部との人脈がほとんどないとされる。そのことが、公明党を制御できない政治的弱点だ。政治ジャーナリスト・野上忠興氏が指摘する。

「安倍・菅政権時代は、官邸では菅氏が創価学会とパイプを持ち、党では当時の二階俊博・幹事長が公明党と良好な人間関係を築いていた。しかし、岸田首相には学会中枢とのパイプがないし、茂木幹事長も公明党との関係が良くない。ホットラインがないから重要な選挙協力をまとめられない。

 岸田政権はハト派とはいえ、これから憲法改正や自衛隊の敵基地攻撃能力保有問題など創価学会にとってナーバスなテーマに取り組まなければならない。

 公明党にすれば、政権中枢に人脈的なしがらみがない分、安保政策では本来の平和主義の主張を声高に叫んで野党的な立場に回り、岸田首相を攻めることができる。そのほうが学会員にアピールでき、選挙で票も取れるという計算がある。岸田氏に引きずり下ろされた菅氏も、公明党が岸田政権を揺さぶってくれるのは都合がいい」

 公明党が菅氏と手を組んで連立にいながら“岸田野党”の立場を鮮明にしているとの見方だ。

※週刊ポスト2022年3月11日号

自公協力に亀裂、公明党は自民に長年の不満「我々は使い走りではない」の思いも

2022-02-28
© NEWSポストセブン 提供 自公の選挙協力体制に変化?(公明党の山口那津男・代表/時事通信フォト)
2022/02/28 11:15

 感染第6波の出口が未だ見えない中、国政では自民党と公明党の連立が大きく揺らぎ始めた。公明党の山口那津男・代表が2月6日放送のBSテレ東の報道番組で、夏の参院選での自公選挙協力について、「(自民党に)相互推薦をお願いしたが、現にない以上、自力で勝てるようにやらざるを得ない」と岸田自民に“最後通牒”を突きつけたのだ。

 支持母体の創価学会も足並みを揃えている。創価学会は1月27日に国政選挙や地方選挙の方針を決める中央社会協議会を開催し、選挙の支援方針は「人物本位」で選び、「今後より一層、党派を問わず見極める」ことを申し合わせたことが報じられた。自公両党は小渕恵三内閣の1999年に連立を組んで以来、野党時代を含めてこれまで23年間、国政選挙で選挙協力をしてきたが、これからは自民党以外の候補者を支援することもあり得るという大きな方針転換だ。

 そうなると、自民党の政権基盤が揺らぐ。政治ジャーナリスト・野上忠興氏が指摘する。

「公明党・創価学会が選挙で自民党に票を出して当選を支援し、代わりに自民党は公明党に大臣や副大臣、政務官ポストを与えて国政に参加させる。それが自公連立の根幹をなしている構造です。選挙協力が白紙になれば連立の基盤そのものが危うくなるのは間違いない」

 まさに自公の“熟年離婚危機”と言っていい。発端は今夏の参院選をめぐる自公協議が“破談”になったことだ。前々回の2013年参院選以来、公明党が候補者を立てない1人区(32県)で自民党候補を支援する見返りに、自公の候補がぶつかる埼玉、神奈川、愛知、兵庫、福岡の5選挙区では互いの候補を推薦し合う「相互推薦」という仕組みをとってきた。

 しかし、前回参院選は相互推薦の結果、兵庫では自民候補の票が公明党に食われて最下位当選となったことから、自民党の地方組織が抵抗して協議が難航し、茂木敏充・自民党幹事長は「上(党本部)から言うことを聞けという形は取りにくい」と協定を結ばない可能性に言及した。これに公明・学会サイドが怒った。

 公明党の強硬姿勢に驚いた岸田文雄・首相は事態収拾のため2月8日に官邸で山口氏と会談したが、山口氏は会談後、相互推薦見送りの方針は「繰り返し述べてきた通り、変わらない」と断言。

 元公明党副委員長の二見伸明・元運輸相は「公明党や創価学会には長年の不満がある」と語る。

「自民党の中には、公明党を低く見る議員がいる。特に、安倍政権の高支持率を追い風に当選してきた4回生以下は公明党・創価学会の支援は当たり前と思っているんでしょう。それに対して公明党には『我々は使い走りではない』という思いがあるはずです。

 また、ここに来て政界では自民党が日本維新の会や予算案に賛成した国民民主党と連立に動くのではないかという観測が強まっている。そんな動きを公明党は『どうぞ』とは言えない。維新や国民民主には創価学会のような票はありません。自民党がそのつもりなら、公明党・創価学会はこれまでどれだけ自民党に票を与えてきたか、この機会に力を示して思い知らせようということでしょう」

※週刊ポスト2022年3月11日号

· 自分の生まれた日の新聞、 池袋のナンジャタウンで購入 でも20年以上前、

2022-01-20
Facebook 布施 隆司さん曰く、今でもあるのかなー、。
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