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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

落下傘といえば、パレンバンですが・・・。

2021-01-12
昭和17年1月11日に、その作戦は決行されました。

昭和17年1月11日の本日、海軍落下傘部隊がセレベス島メナドに奇襲降下しました。

落下傘部隊の奇襲作戰は、セレベス島の北部ミナハサ州攻略に際して初めて敢行しました。
帝國海軍特別陸戰隊が、メナドおよびケマに敵前上陸したのに呼応して、敵手中のカカス飛行場目指しで敢行し、敵基地を一挙にわが手に収め、しかる後、海空よりの両部隊の聯絡を完成して、14日までにミハナサ州一帯の敵要地を攻略しました。
横一特がセレベス島北端のメナド(マナド)攻略作戰において落下傘降下を実施し、ランゴアン飛行場占領に成功した。
ついでティモール(チモール)島攻略作戰において、横三特がクーパン飛行場を狙った降下作戰を実行したが、地上戰斗に手間取り大きな成果を得ることはできなかった。
メナド降下作戰は陸軍に先駆けた日本最初の空挺作戰であったが、陸軍空挺部隊が予定するパレンバン空挺作戰の企図秘匿のため、その戰果はすぐには公表されず、1ヶ月以上後の大本營發表でパレンバン空挺作戰の成功とほぼ同時の發表となった。
なお、飛行場のみならず、東亜細亜屈指の産油量を誇る油田地帯・製油所という、南方作戰における日本軍の最重要戰略目標を僅かな損害で攻略した陸軍空挺部隊(第一挺進團)の功は海軍の功よりはるかに大きく、目立つ結果となり、陸軍への對抗意識が根強い海軍関係者の一部では不満が生じた。
また、日本軍落下傘部隊を謳った軍歌として大ヒットした『空の神兵』は、後に陸軍空挺部隊を描いた同名の映画『空の神兵』の主題歌になり、後述の通り陸軍空挺部隊は大戰後期にも数度の空挺作戰を行っているため、知名度や戰功の点からみて海軍空挺部隊の働きは陸軍空挺部隊より劣るものとなってしまった。
もっとも、海軍空挺部隊についても報道員が撮影した降下映像をもとにした短編ニュース映画や、大戰末期になるものアニメ映画『桃太郎 海の神兵』が公開されたこともあり、國民にある程度は存在を知られることになる。
(ウィキペディア参照。)
Facebook英霊の本日の出来事

東洋の真珠

2021-01-06
デヴィ・スカルノという生き方
Facebook浅見俊彦さんの投稿
【デヴィ夫人】
【デヴィ夫人】
こんなミステリアスで国際社会を渡り歩いた日本人はいまだかっていないのではないでしょうか。
赤坂の有名高級クラブ「コバカバーナ」で働く。
1959年19歳の時に、インドネシアの開発援助に伴い、東日貿易の秘書と言う名目で、スカルノ大統領のもとにおくりこまれた。
1962年スカルノ大統領と正式に結婚、4人の夫人のうちの第三夫人となる。
1965年軍事クーデターによりスカルノが失脚、デヴィ夫人はフランスへ亡命。
妖艶な美貌、フランス社交界の華
「東洋の真珠」
あのアランドロンとも交際。


不毛地帯とデヴィ夫人

フジテレビ開局50周年記念連続ドラマの最後として不毛地帯が始まった。
この不毛地帯は、山崎豊子の原作で、過去ベストセラーにもなった名作である。
ドラマ化に際して書店などでも平積みされており、ぜひ一度読んで欲しい大作でもある。
この作中の人物は、実在の人物をモデルにしているらしいことは、出版当時から噂されており、
主人公の壱岐正中佐は、瀬島龍三(1911‐2007)氏であることがつとに有名である。
軍歴や、その後伊藤忠での活躍と、小説で描かれる経歴がほとんど同じであることがわかっている。
その他、第1回にも登場したクラブ「ル・ボア」の浜中紅子(天海祐希が演じている)は、テレビ等で見かける「デヴィ夫人」であることも有名である。
※ドラマでは母親がやっているバーという設定になっていた。
「デヴィ夫人」とは、本名根本七保子さんといい、東京都立三田高等学校定時制部を中退後に赤坂の有名高級クラブ「コパカバーナ」のホステスとして働いていた。
その後、来日したインドネシアのスカルノ大統領の元に、丸紅から「東日貿易の秘書」として送り込まれ、その後スカルノ大統領の第3夫人として数々の対日本の貿易等にも関与したといわれている。スカルノ失脚後、数々の変遷を経て、ある時期からデヴィ夫人として日本の芸能界のご意見番として登場して以降はみなさんご存知の通りである。
なお、主人公である壱岐こと瀬島氏は、後に瀬島機関と呼ばれる組織を動かし伊藤忠を総合商社へと押し上げる原動力となり、伊藤忠商事会長まで務め、さらにはその能力を買われ数々の政審会等で活躍することになる。
特に中曽根康弘政権では、土光臨調(第二次臨時行政調査会)で政権を支えたといわれている。

勲一等瑞宝章、逝去後に従三位が贈られている。


レジスタンス

2021-01-06
2021年10月には96歳になられます。
Facebook橋本 新一さんの投稿



ナチスを苦しめた女性。
シモーヌ・セグアン 彼女のコードネーム、ニコール・ミネト 
彼女は18歳で自由フランス軍で、レジスタンス活動に参加。
シャルトルやパリ解放に参加。
中尉まで昇進しいくつかのメダルを授与され。
戦後小児科の看護師として活躍。

易々と死んでもらう訳にはいかないのでありました。

2020-12-29
東条元首相逮捕の顛末
1945年(昭和20年)9月11日:戦犯として逮捕される直前に拳銃自殺を図るも未遂に終わった東条英機・元陸軍大臣および参謀総長。
自殺を予測していたアメリカ軍はあらかじめ救急車を用意しておくという用意周到さで、
銃声が聞こえると一斉に踏み込んで治療を施し、
東條氏は奇跡的に九死に一生を得ることとなります。
後に東京裁判でA級戦犯として起訴され、
絞首刑が執行されています。 

終戦、敗戦

2020-12-23
サイゴン陥落
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1975年(s50)】
◎サイゴン陥落
*1975.4.30/ 解放勢力軍がサイゴンに無血入城する。(ベトナム戦争終結)
 1973年1月に「パリ和平協定」が結ばれたが、これはアメリカ軍の「名誉ある撤退」のための一時停戦に過ぎず、ニクソンの跡をついだフォード政権は南ベトナムを防御する何の方策ももち得なかった。南ベトナムは、いわば関ヶ原の合戦後の大阪城のようなもので、最終決着のタイミングを待つばかりであった。
 北ベトナム軍および南ベトナム解放勢力は、一気に南の首都サイゴン(現ホーチミン市)に迫り、ほとんど抵抗もなくサイゴンは陥落した。ここにおいてベトナム戦争は、北ベトナムの南解放という形で統一され、完全終結した。
 写真は、解放勢力のサイゴン入城を歓迎するサイゴン市民の様子と、一方、最後の米軍の救出ヘリコプターにわれ先と乗り込もうとする人々。歓迎する人々の心中も様々であろうし、逃げようとする市民たちは、米軍・南ベトナム関係の仕事をしてたり、南政府支持をするなど、残れば殺されるような人とその家族たちであったと思われる。この二枚の写真の中にも、当時の南ベトナム住人たちの複雑な状況がうかがえる。
 このジョン・レノンの手になる曲は、ジョンとヨーコそれぞれの子供たちのためのクリスマスを祝うために作られた。"War Is Over" と歌われているが、実際にはベトナム戦争の泥沼化の最中の1971年に発表されている。ベトナム戦争が念頭にあるのは間違いないが、ジョンやヨーコが、("Kyoko"と"Julian" だけでなく)世界中の娘・息子たちの世代が戦争のない平和な社会を生きられるようにと願ったもので、普遍的な平和ソングとして残るものであろう。
”John Lennon - Happy Xmas (War Is Over)” https://www.youtube.com/watch?v=flA5ndOyZbI
(この年の出来事)
*1975.5.19/ 前年来の三菱重工ビルを始めとする連続企業爆破事件で、警視庁は容疑者8人を逮捕する。
*1975.7.17/ 皇太子夫妻が沖縄を訪問し「ひめゆりの塔」の参拝中、過激派から火炎瓶を投げつけられる。
*1975.7.19/ 沖縄国際海洋博覧会が開催される。
*1975.11.15/ フランスのランブイエで、第1回主要先進国首脳会議(サミット)が開催される。
*1975.11.26/ 三工社五現業などの総評系組合で組織された「公共企業体等労働協議会(公労協)」が、「スト権奪回スト」を結構するも成果なく、これが国鉄・公社の民営化につながる。
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