本文へ移動

闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

夢千代、そして私の願い

2023-04-05
facebook 川野 晃斉さん曰く

中日新聞に寄せられた坂本龍一氏の最後の「反原発」のメッセージです。

2023-04-03
facebook尾畑 文正さん曰く、テレビの訃報番組でスルーされていたのでしょうかいします。
原文は3月16日の中日ですが、4月3日にも再録されてます。この遺言を大切にしたい。

今日3月10日は、東京大空襲の日です。

2023-03-10
facebook 安田 稔さん曰く
今日3月10日は、東京大空襲の日です。昭和20年3月10日深夜0時過ぎからB29の爆撃機約300機が房総沖から飛来し、下町(深川・木場が最初に被弾)を中心に空爆が始まりました。
焼夷弾攻撃だったので猛火が発生し、東京の下町全体が火の海になり焼け野原になりました。死者数は資料により違いがありますが約10万人、羅災者は300万人(当時の東京市の人口は約680万人)に及びました。
作家の早乙女勝元さんは自身も12歳で空襲に被災し、1970年に当選間もない美濃部都知事に要請し、東京都空襲・戦災記録集の編纂への協力を取り付け、東京空襲を記録する会を創立し全力投球されたそうです。
そうした集大成として『東京大空襲』(岩波新書)などが生まれました。いずれも貴重な記録ですが、これらを読むと当時の模様がよく分かります。
特に新潮文庫の『写真版 東京大空襲の記録』は、生々しい悲惨な実態を今に伝えてくれます。こうした都市への無差別攻撃は第二次世界大戦から始まりましたが、今も現実に起こっているウクライナの各都市への空爆の映像がだぶってしまいます。

天皇が「伊藤博文暗殺の一報」を聞いた数日後、思わず漏らした「驚きの一言」

2023-03-04
学術文庫&選書メチエ編集部 の意見

〈この陛下を、お驚かせした事件は、伊藤公がハルピン駅頭で撃たれたとの突然の情操でございました。さすがのお上(編集部注:明治天皇のこと)も、

「ううん、伊藤が殺されたか」

とただお一言、深いため息をおつきになりました〉

この反応はある程度、想像のつくものかもしれません。しかし、興味深いのはこの直後の記述です。

〈そして数日後のお食事中、

「日本につれてこられてから、ただ一人爺や爺やと伊藤ばかりをたよりにしていた朝鮮の坊ちゃんは、さぞ心細いだろう。可哀想にね、いわば人質だから、この間東宮さん(大正天皇)が来た時、これから仲よくして可愛がってあげなさいと、言っておいたけれど」


「朝鮮の坊ちゃん」とは誰か?

ここで言う「朝鮮の坊ちゃん」とは、「大韓帝国最後の皇太子」として知られる、李垠(り・ぎん/イ・ウン)のことであると見られます。

大韓帝国皇帝・高宗の息子として生まれた李垠は、幼少期に伊藤博文の舵取りによって日本を訪れ、そのまま学習院や陸軍士官学校で学びました。日本にとって、大韓帝国に対する「人質」的な立場だったのではないかと考えられています。

1910年の日韓併合を経て、日本の「準皇族」となり、やがて皇族の梨本宮方子と結婚。帝国陸軍では、中将まで務めました。

戦後は、韓国において「対日協力者」として帰国を拒否されたかと思えば、朴正煕政権下では李王家の末裔として厚遇され……と、評価が揺れ動きました。混乱する20世紀の東アジアにおいて数奇な人生を歩んだ人物として知られます。

明治天皇にとって李垠は、いわば「自国が支配している植民地の王族」と言えるわけです。しかし、上記の明治天皇のセリフからは、李垠を見る際のより複雑な含みが伝わってきます。そこからは、明治天皇が置かれた一筋縄ではいかない立場も垣間見えるようです。

ちなみに、明治天皇の頼みをきちんと聞いていたのか、皇太子時代の大正天皇はその後、李垠ととても仲よくなったことが知られています。

伊藤博文と李垠(1907年頃)

李 垠(り ぎん、イ・ウン、朝鮮語이은光武元年(1897年10月20日 - 1970年5月1日)は、
大韓帝国最後の皇太子で、韓国併合後には王世子として日本王族に列し、
1926年には王位を継ぎ「昌徳宮李王垠」と称された。
皇太子時代の称号は英王
王族時代の敬称は「殿下」。
諡号は文仁武莊至孝明暉懿愍皇太子


日本皇太子嘉仁親王(左:後の大正天皇)訪韓時、有栖川宮威仁親王(右)と共に(1907年)
李王家邸(現在の赤坂プリンスクラシックハウス)
「梨本宮伊都子妃が娘の嫁ぎ先を早く決めねばと焦ったのもよく分かる」

 韓国併合後の日本の皇族と朝鮮の王太子との縁談を描いた、林真理子さんの新刊『李王家の縁談』

 明治時代に旧佐賀藩藩主、鍋島直大(なおひろ)の娘として生まれ、19歳で梨本宮守正(もりまさ)王に嫁いだ伊都子(いつこ)は、長女・方子(まさこ)を朝鮮王家に、次女・規子(のりこ)を伯爵家に嫁がせるなど、家柄を重んじた縁談を次々に進め国に尽くした。本作では、彼女の日記を紐解きながら、大韓帝国最後の皇太子・李垠(イウン)と方子の縁談を中心に、大正から戦後までの激動の時代が描かれていく。

 昨年ご結婚された、小室圭さん、眞子さんのように、「やんごとなき」方々の縁談は世間の注目を集めてきた。歴史家の磯田道史さんと、著者の林真理子さんに話を聞いた。(全3回の1回目。#2#3を読む。初出:オール讀物2021年12月号。年齢、肩書等は掲載時のまま)

京都芸大と美術工芸高の移転

2023-02-16
2014年に京都市立芸術大学(京都芸大)の崇仁地区への移転を含む「京都芸大移転整備基本構想」を策定。
京都市立銅駝美術工芸高等学校の移転(校名は「京都市立美術工芸高等学校」に改称予定)も決まり、2018年には「京都市立芸術大学及び京都市立銅駝美術工芸高等学校移転整備基本設計」が策定された。
美術工芸高は鴨川沿いの崇仁小学校のあった場所に新築移転される
崇仁 (京都市)
東九条北河原町の風景(2022年)

崇仁(すうじん)は、京都府京都市の地区名。
崇仁地区」と呼ばれる京都駅の東側の一帯(27.4ヘクタール)で、2020年令和2年)の国勢調査によれば、人口は1380人。平均年齢は53.9歳、高齢化率は38.55パーセントと高齢化が進む。
地名は条坊制により中国風に名付けられた「崇仁坊」に由来する。
長年、差別的な扱いを受けてきた地区として知られ、京都駅に近い好立地ながらも長らく京都の人々から避けられてきた「塩漬け」の土地であったが、京都市立芸術大学の移転計画などを契機に再評価が進んでいる
TOPへ戻る