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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

とうとう塀の向こうへ堕ちました。

2022-06-24

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1974(s49)年】-5
◎田中角栄金脈問題で田中首相が辞任
*1974.10.10/ 立花隆「田中角栄研究ーその金脈と人脈」を掲載した「文芸春秋」11月号が発売される。
*1974.11.26/ 金脈問題を追及されていた田中首相が、辞意を表明する。
 立花隆の「田中角栄研究―その金脈と人脈」が文芸春秋に掲載され、田中ファミリー企業群などによる土地転がしなどによる金脈疑惑が報じられた。当初、完全無視を通していたが、やがて欧米メディアでも報じられると、プレスクラブで外国人記者会見に応じた。
 海外に潔白を示すという思惑ははずれ、外国人記者たちの追及にあくせくする様子などが報じられると、一気に国内で政治問題化し、11月には退陣表明、12月には内閣総辞職と、たった2ヵ月足らずのうちに総理の座から引きずり下ろされることになった。
 フリージャーナリストであった立花隆の緻密な調査報道は、政権トップでさえもみ消し出来ない正確さを備えていた。近年のマスメディアはほとんどこのような調査報道がなく、政治家のリップサービスや政府広報の受け流しに堕している。
 田中角栄は首相辞任後も、その人脈と金脈を維持し、政界の黒幕として支配力を発揮しつづけ「目白の闇将軍」と呼ばれた。その2年後、アメリカ議会で「ロッキード事件」が告発され、角栄内閣崩壊前後からすでに、金銭授受に深く関わっていたことが徐々に明らかになった。やがてその後の公判で実刑判決を受け(1983/s58)、さらに控訴中に脳梗塞で倒れる(1985/s60)など、さしもの田中角栄も政治的命脈を絶たれた。
(この年の出来事)
*1974.1.31/ 日本赤軍とPFLPのゲリラがシンガポールにあるシェルの製油所を爆破、2.6には別のゲリラがクウェートの日本大使館を占拠、日本政府が要求を受け入れ用意した脱出機で、南イエメン経由で逃亡する。
*1974.8.15/ 韓国の光復節記念式典で、朴大統領が狙撃され、夫人が死亡する。
*1974.10.8/ 佐藤栄作前首相が、ノーベル平和賞を受賞。

【皇室コラム】天皇陛下 沖縄とベルリンでかみしめた平和の貴さ

2022-06-24
© 日テレNEWS 1987年9月19日 沖縄・那覇空港/初めて沖縄に入られた天皇陛下(当時 浩宮さま) 日テレNEWS

沖縄戦が終結した慰霊の6月23日が今年も巡ってきました。その日に黙とうを欠かさない天皇陛下が、沖縄を初めて訪問されたのは1987(昭和62)年9月、27歳の時です。偶然にもその旅は、昭和天皇の病気が明らかになった日に始まって手術の当日に終わり、訪問がかなわなかった昭和天皇の無念さに重なる記憶でしょう。1か月半後には当時の西ドイツで冷戦の象徴「ベルリンの壁」も目にされ、その年は、戦争を知らない世代の陛下が世界的な視野で「平和の貴さ」をかみしめた注目すべき年でした。(日本テレビ客員解説員 井上茂男)

【皇室コラム】「その時そこにエピソードが」第18回〈天皇陛下 沖縄とベルリンでかみしめた平和の貴さ〉

© 日テレNEWS 提供・読売新聞社/1975年7月 ひめゆりの塔/上皇ご夫妻(当時 皇太子ご夫妻)に向かって火炎瓶が投げつけられる 日テレNEWS
© 日テレNEWS 1987年9月19日 ひめゆりの塔/生存者から話を聞かれる天皇陛下(当時 浩宮さま) 日テレNEWS
© 日テレNEWS 1987年11月 西ドイツ(当時)・ベルリン/東西ベルリンの境にあるブランデンブルク門を視察 日テレNEWS

「数日間、韓国に行ってみませんか?」

2022-06-22
マリリン・モンローと野球界のレジェンド、ジョー・ディマジオは1954年1月にサンフランシスコで結婚しました。その直後、二人は日本の東京で新婚旅行に出発し、ディマジオは多くの野球クリニックに出席する予定だった。


「寒さは厳しかったが,彼女は急いで立ち去ることはなかった」と彼は締めくくった。「マリリンは素晴らしいエンターテイナーでした。彼女は何千人ものGIに、彼女が本当に気にかけているように感じさせました。 

ベニトの時代

2022-06-17
Facebook 佐々木 信雄さん曰く

(ムッソリーニ ファシスタ党)
*10.28/伊 ムッソリーニがローマに進撃して制圧。ファシスタ党政権を成立させる。
 ベニート・ムッソリーニは、第一次世界大戦前からイタリア社会党に所属し、機関誌編集長として活動したが、第一次大戦に際して積極参戦を主張し除名される。ムッソリーニは志願して従軍し有能な戦士として闘ったが、瀕死の重傷を負って終戦をむかえる。1919年3月、ミラノで、自身と同じ復員軍人や旧参戦論者を中心とする新たな政党「イタリア戦闘者ファッシ(戦闘ファッシ)」を設立するが、社会主義的残滓を捨てられず、一般民衆の支持を得ることはできなかった。
 やがてムッソリーニは、綱領から社会主義的な表現を一掃、民族主義を前面に出し、愛国心・戦争礼賛・偉大な国家イタリア、といった情緒的な表現であおり、反議会主義、反社会主義を鮮明にした。ムッソリーニの主張は、戦後に頻発した社会主義者によるストライキや労働運動に、強い不安を抱いていた保守層の支持を集めた。
 北イタリアで復員兵などによって「襲撃隊」と呼ばれる民兵祖組織が作られ、社会主義者に暴力的に対抗するようになると、ムッソリーニは襲撃隊を実行行動組織として傘下に収めた。1921年10月、「国家ファシスト党(PNF)」を結成、ファシスト運動を政党化し、また各地の実力行動隊も党の私兵組織として糾合され、「黒シャツ隊」と呼ばれる様になった。
 ムッソリーニは民族主義・国家主義を掲げる政権を打ち立てるべくクーデターの準備を始め、1922年10月28日に黒シャツ隊を中心としたファシスト党員4万人がローマ進軍を決行した。ムッソリーニ自身はミラノで事態を見守っていたが、国王ビットーリオ・エマヌエーレ3世は、無策のルイージ・ファクタ政権をみかぎり、ムッソリーニをローマに召喚し、組閣を命じた。こうしてムッソリーニは政権を奪取することに成功し、39歳でイタリア史上最年少の首相となった。
 ムッソリーニが創設した「ファシスト党」は、その語源から「結束党」などと訳されるが、そこから「ファシズム」という語が派生する。ファシズムというと「全体主義」とほぼ同義で使われるが、本来は一意的に規定しがたい要素を含んでいた。ヒトラーのナチスがファシズムの代表のように受取られているが、ムッソリーニのファシズムとは、かなり違っている。
 ムッソリーニは、古代ローマの系譜をうけて「イタリア民族主義」を結束の中心に置いたが、ヒトラーは「アーリア人種主義」という怪しげな概念を持出した。このようなヒトラーの脳内に生じた妄想が、優勢人種という架空の概念を際立させるために、劣勢人種ユダヤ人という概念を作り出し、その殲滅をはかった。
 ムッソリーニとってはことは簡単で、「イタリア民族」として結束して事態にあたろうというだけであった。そしてヒトラーが、古代ローマという基盤をもたないことでコンプレックスに突き動かされていると見抜いていた。ヒトラーを、まったく信用していなかったはずである。
 絵描きくずれの粗野な浮浪者だったヒトラーに比べて、ムッソリーニは、その容貌からくるイメージに反して、意外にも深いインテリジェンスをもっていた。師範学校を首席卒業して、イタリア社会党では機関誌編集長として頭角をあらわした。当時のドイツ哲学やフランス哲学を自学し、ドイツ語、フランス語など語学にも堪能で、フランス語教師として雇用されると、歴史学と国語・地理学も担当したという。
 ムッソリーニは演説でも大衆を引き付けたが、絶叫し自己陶酔するヒトラーとは対極的に、愛国心を胸に秘めながら、理路整然と理知的に語り、それでも民衆を熱狂させた。また、国家を統合するために、ファシスト党が全権を握る必要があると考えたが、自身が独裁者になるつもりはなかったという。しかし、ヒトラーが、政権奪取に利用した突撃隊を粛清したのには否定的な見解を漏らし、苛酷な粛清を嫌った。それは「独裁者」としてのムッソリーニにとって、逆に「甘さ」であったかもしれない。
 また、スイスでの放浪時代には、レーニンと知己を得て、誰も理解できないマルクス=レーニン主義の理論を、ほぼ理解したという。そのようなムッソリーニが、やがて独裁者となり、ヒトラーと結んで第二次大戦に参戦し、敗色濃厚となるとパルチザンにつかまり、愛人と共に逆さ吊りして晒されるという終末をむかえることとなる。

植野 茂幸さんのコメント、 左奥、GHQ。

2022-06-17
Facebook 渡辺 恒久さんより
三菱財閥の本拠前/1968年(昭和43年)に解体されました
当初図(ジョサイア・コンドルの設計図)
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