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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

永井隆

2020-10-24
爆死した妻のために半年間喪に服した (昭和21年(1946) 撮影)
長崎市永井隆記念館 永井隆ストーリーより
「そこへ不意に落ちてきたのが原子爆弾であった。ピカッと光ったのをラジウム室で私は見た。その瞬間、私の現在が吹き飛ばされたばかりでなく、過去も滅ぼされ、未来も壊されてしまった。
見ている目の前でわが愛する大学は、わが愛する学生もろとも一団の炎となっていった。
わが亡きあとの子供を頼んでおいた妻は、バケツに軽い骨となってわが家の焼け跡から拾われねばならなかった。台所で死んでいた。私自身は慢性の原子病の上にさらに原子爆弾による急性原子病が加わり、右半身の負傷とともに、予定より早く動けない体となってしまった。」
(永井 隆著「この子を残して」より)

宗教弾圧

2020-10-22
大本教の場合
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1935年(s10)】
◎第二次大本教弾圧事件
*1935.12.8/ 警察隊が大本教本部や別院を急襲。不敬罪・治安維持法違反容疑で幹部ら65人をいっせいに検挙する。(第二次大本教事件)
 大本事件は、新宗教「大本(おおもと)」の宗教活動に対して、日本の内務省が行った宗教弾圧である。1921(大10)年に起こった第一次大本事件と、1935(昭10)年に起こった第二次大本事件の2つがある。特に第二次大本事件における当局の攻撃は激しく、大本を徹底的に壊滅させる目的での弾圧であった。
 「大本」(俗にいう「大本教」)は、京都府綾部の地に住む一介の老女「出口なお」が、「艮(うしとら)の金神」が神懸かりしたとして始めた土着的な新宗教であった。一方で、同じく京都府丹波地域の亀岡の農家に生まれた上田喜三郎は、さまざまな新宗教を遍歴したのち、出口なおに関心を抱くと数回に及び綾部を訪問、やがて"なお"の信任を得ると、その五女で後継となる「出口すみ」と結婚し、入り婿となり「出口王仁三郎」と改名した。
 出口なおは、国常立尊のものとされる神示が「お筆先」として伝えられるとして、元来の文盲にもかかわらず、ひらがなばかりであるが自動速記のようにして書き続けた。このような開祖としての「なお」のシャーマン的な霊性と、希代の天才的オルガナイザーであった出口王仁三郎の俗世能力とが合体して、「大本」は拡大の道を歩むことになる。
 "なお"が亡くなると、娘の出口すみが二代「教主」となり、すでに霊性を認められた夫の王仁三郎が「教主輔」となる。王仁三郎の出生の地亀岡に、もと明智光秀の居城であった亀山城の址地を買収して、綾部と並ぶ教団の本拠地に改修した。さらには、大正日日新聞を買収してマスメディアを通じての言論活動をするなど、活発な布教活動により教勢を伸ばした。
 "なお"がひらがなで記した「お筆先」を、漢字に書き直し加筆編集して『大本神諭』として発表することで、宗派としての教義を確立し、"なお"の土着性に王仁三郎が普遍性を付加して、世界宗教としての萌芽さえ見せるようになった。「おおもと」はすべて一つの神であるという一神教性と、その教義の根幹にあった黙示録的な終末論とその「立替え説」は、第一次世界大戦や米騒動、ロシア革命などで揺れる世情不安の動揺をとらえ、信者数を拡大して陸海軍や上流階級にまで影響力を持つようになった。
 1921(大10)年の第一次弾圧は、不敬罪・新聞紙法違反として80名が検挙され、王仁三郎には懲役5年という判決が下ったが、控訴審・再審と続くうちに、大正天皇の崩御があって免訴となる。不敬を理由に教団の施設破壊も行われたが、決定的な打撃とはならなかった。公判中にもかかわらず、保釈中であった出口王仁三郎は、われ関せずとモンゴルへ出向き、当地の馬賊の頭領とともに活動するありさまであった。
 1935(昭10)年12月8日に始まる第二次大本事件での大弾圧は、まさに徹底したものであった。満州事変勃発後、国内ではクーデター未遂やテロルが横行して、不安定な状況下にあった。ますます勢力を拡大し、政治的な動きを増しつつある大本は、軍部皇道派や右翼団体と連動して反政府民衆運動を惹起する懸念を当局に抱かせていた。
 1935(昭10)年12月8日、警官隊500人が綾部と亀岡の聖地を急襲した。当局は大本側の武装を当然とし決死の覚悟で踏み込んだが、大本の施設からは竹槍一本見つからず、幹部も信徒も全員が全くの無抵抗であった。王仁三郎は巡教先の松江市で検挙され、信者987人が検挙され、特高警察の拷問で起訴61人中16人が死亡したという。
 邪教撲滅のために全国の教団施設の撤去が決定すると、当局は綾部・亀岡の教団施設をダイナマイトで跡形も無く破壊し、それらの破壊費用を大本側に請求した。また王仁三郎一家の個人資産、教団の資産もすべて処分、出口なおをはじめ信者の墓あばくなど、西欧中世カトリック教会の「異端」迫害を思わせるような弾圧をおこなった。
 大本教団はほぼ壊滅させられ、王仁三郎は保釈されるも故郷亀岡で隠遁生活を送り、戦後の恩赦で解放されると教団活動を復活させたが、まもなく死去する。たとえ大本教団が狂気の集団であったとしても、それに輪を掛けた国家権力側の狂気は、まさに戦争に向う狂気の抗いがたい「空気」のもとで進められたのであった。

訃報です。

2020-10-18
3.5 スターリンソ連首相が死去(73)。
Facebook佐々木信雄さんの投稿です。
『Get Back! 50's / 1953年(s28)』
(スターリン死去)
○3.5 スターリンソ連首相が死去(73)。東京証券市場では、軍需株を中心にダウ価が急落する。(スターリン暴落)
 1953年3月1日、スターリンは政権幹部らとの徹夜の夕食の後、寝室で脳卒中の発作で倒れた。猜疑心の強いスターリンの性格も作用して、翌日の午後になるまで発見が遅れた。昏睡状態が続き意思疎通はできないまま、4日後危篤に陥り、死亡した。スターリンの死には謀略説もあり、計画的な暗殺だったとする説や、脳卒中で倒れ昏睡状態の間に、死を早める措置をしたとか、意図的に放置したとかの噂があるが、真相は不明のままである。
 ヨシフ・スターリン(実名ヨシフ・ベサリオニス・ジュガシヴィリ)は、帝政ロシア支配下のグルジア(現ジョージア 共和国)の貧しい職人の家庭に生まれ、神学校に進むもマルクス主義に近づき退校、やがて労働者となり、労働者の組織化や地下の革命活動に進む。ヨシフはグルジアでボリシェヴィキの活動家となるとともに、やがてレーニンと直接出会い認められるようになった。
 ロシア革命によりソビエトが成立すると、レーニンを補佐してトロツキーとスターリンは並び立つ存在になった。1924年レーニンが死去すると、ライバルのトロツキーを追い落としてレーニンの後継の地位に就いた。レーニンはその遺書で「猜疑心の強いスターリンを指導者にしてはならない」との旨を書いていたとされるが、遺書は握りつぶされた。
 ソ連を追放されたトロツキーは、各地を転々としたあとメキシコにまで逃亡したが、スターリンの派遣した暗殺者にピッケルで頭をぶち抜かれて暗殺された。スターリンは多くの政敵を、「人民の敵」という罪状を発明して次々に粛清していった。1930年代の「大粛清」では、犠牲者数は諸説あるが200万人にも上るとされる。
 死後から程なくして、ニキータ・フルシチョフらによるスターリンに対する批判が展開され始める。これにより一転して、スターリンは偉大な国家指導者から恐るべき独裁者という評価へ引きずり降ろされた。60・70年代の日本の学生運動のスローガンは「反帝反スタ(反日米帝国主義・反スターリン主義)」であったほどである。
 近代国家において最大とされる大粛清を行い、第二次大戦では、敗戦枢軸国の日独以上の最大の犠牲者を出したソビエト連邦の指導者スターリン、その功績はと問われるとすぐには出てこない。ただ、結果的に第二次大戦の戦勝国となり、まがりなりにも70年近く続いた強大な共産主義国家を構築し、米ソ対立の冷戦世界に一方の超大国として君臨した指導者として、歴史に名をとどめたことは間違いない。
*この年
1934年以来の大凶作/街頭テレビが大人気/蛍光灯が家庭に普及/映画「君の名は」空前の大ヒットでストールの真知子巻きが流行/うたごえ運動盛ん/テレビの流れ作業生産が始まる
【事物】森永スープ/噴流式の電気洗濯機/無線タクシー
【流行語】さんずい(汚職の隠語)/さいざんす/むちゃくちゃでござりまするがな
【歌】雪の降るまちを(高秀男)/君の名は(織井茂子)
【映画】ひめゆりの塔(今井正)/十代の性典(島耕二)/シェーン(米)/禁じられた遊び(仏)
【本】伊藤整「火の鳥」/山岡宗八「徳川家康」/ボーボワール「第二の性」

戦争と平和のモニュメントだそうです。

2020-10-17
Facebook戦艦ミズーリ記念館の投稿です。
浮かぶ戦艦ミズーリと沈んだままの戦艦アリゾナin 真珠湾

人見絹枝という生き方

2020-10-17
アムステルダム大会の思い出
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1928年(s3)】
◎アムステルダム 第9回オリンピック大会
*1928.7.28/ アムステルダムで第9回オリンピック大会が開催される。
 第9回夏季オリンピックは、1928年7月28日から8月12日まで、オランダのアムステルダムで開催された。日本は第5回スウェーデンのストックホルム大会で初参加、第7回ベルギーのアントワープ大会、第8回パリ大会と(第6回ベルリン大会は第一次世界大戦のため中止)、参加経費などの工面に苦労しながらも参加を続けてきたが、その成果はこのアムステルダム大会で発揮された。
 陸上競技三段跳びで織田幹雄、競泳200m平泳ぎで鶴田義行が金メダルを獲得。また、この大会から初めて女子の陸上競技への参加が認められ、日本から女子選手として唯一人参加した人見絹枝は、800m走で女子初めて銀メダルを獲得した。最終的に日本選手団は、金2、銀2、銅1、入賞者合計では11名と大活躍をみせた。
 この大会から初めて女性の参加が認められたほか、聖火が大会を通じて継続して燃やされた最初の大会でもあった。またコカ・コーラ社が初の大会スポンサーとなって、コカ・コーラが参加関係者に支給されるなどした。しかし、この時期の大会ではアマチュアリズムが徹底され、トップ選手のプロ化が進みつつあったテニスは実施競技から除外された。またこの大会で通算9個目の金メダルを獲得したフィンランドの中長距離陸上選手パーヴォ・ヌルミは、後の賞金大会に出たという理由から、以降の五輪参加を認められず最後の金となった。
 女子でたった一人日本から参加した人見絹枝は、100m走、200m走、走幅跳びで世界記録を出すなど、日本女子アスリートの先駆者であった。アムステルダム五輪では得意の走り幅跳びや200m走は実施されず、事実上100m走に絞って出場したが準決勝4位で敗退してしまう。そこで人見は、それまで走ったことのない800m走への出場を急遽決め、決勝ではドイツのリナ・ラトケに次ぐ2着となり、日本人女性初のオリンピックメダリスト(銀メダル)となった。
 アムステルダム五輪後も、人見は競技者として各地に遠征する傍ら、後進の育成、講演会や大会に向けての費用工面などに忙殺された。1930年には、国際女子オリンピック大会への遠征費捻出のために、幾つもの国内の競技に出場しながら募金活動に駆けずり回り、さらに一ヵ月以上かけての船便で欧州に向うと、女子選手団を率いて、プラハでの国際女子競技大会をメインに欧州を転戦。半月の内に5つの大会が集中するなどして、肉体的精神的に疲労困憊、人見は体調を崩しながらも競技に出場し奮闘した。
 帰りの海路ですでに体調は悪化していたが、年末に帰国した後も遠征報告や募金へのお礼などで走り回り、その過労がたたり翌3月に喀血、結核性肋膜炎で阪大病院に入院、8月2日結核からくる肺炎を併発して死去、享年24。奇しくも、アムステルダム800m決勝の日から、ちょうど3年後の日であったという。
(この年の出来事)
*1928.4.18/ 京都帝大教授川上肇が赤色教授として辞職を迫られる。ほかにも、東京帝大の大森義太郎、九州帝大の向坂逸郎らも、同様に大学を追われる。
*1928.7.1/ 治安維持法の改正をうけて、内務省保安課が拡充強化され、未設置だった各県警察にも「特別高等科(特高)」が設置される。
*1928.9.-/ 英の細菌学者アレグザンダー・フレミングが、アオカビから細菌の繁殖を止める抗生物質「ペニシリン」を発見、結核など伝染病治療に画期的な効果をもたらす。
*1928.10.8/ 北伐に成功した蒋介石が、南京を首都とする国民政府の首席に就任する。
*1928.10.12/ 松竹楽劇部が設立され、第1期生として水の江滝子らが入部、浅草に本格的なレビューが誕生する。32年からは「松竹少女歌劇部(SSK)」となる。
*1928.11.10/ 新天皇裕仁(昭和天皇)の「即位の大礼」が、京都御所紫宸殿で行われる。
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