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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

Emperador (2012)

2023-01-14
- Hirohito se reúne con MacArthur escena (No Subtítulos)
The Japanese Surrender aboard the USS Missouri in 1945 in color! [HD restored & AI colorized]
025.1. A Japanese lady who worked for GEN MacArthur / マッカーサー元帥の思い出
General Macarthur Receives Japan's Highest Honour (1960)

映画『日本のいちばん長い日』

2023-01-14
映画『日本のいちばん長い日』本編映像(昭和天皇の御聖断シーン)
特別映像

満州国皇帝溥儀訪日 皇紀2600年【AIカラー化・高精細化】/ Puyi visited Japan in 1940

2022-12-28
1940年6月、皇紀2600年のお祝いをするために満州国皇帝 康徳帝 溥儀が日本を訪問しました。今回は、この動画をAIでカラー化・高精細化したものをご紹介します。
戦後の溥儀、その波乱の人生 / Puy's life after WW2
愛新覚羅浩 その生涯 ~日中友好の懸け橋として~【平成30年11月18日】すぎなみスタイル

切符で服を買う、馬がバスを引く 80年前の戦時日本

2022-12-26
1942年11月、金属供出のため、各寺から集められた釣り鐘=東京・駒込肴町の蓮光寺 © 朝日新聞社
朝日新聞社 によるストーリー • 3 時間前
80年前の1942年、日本は戦争をしていました。前年の12月8日、真珠湾攻撃から始まった太平洋戦争。各地で日本軍の攻勢が続きましたが、6月のミッドウェー海戦で大きな転換点をむかえます。また、物資の不足で、国民の生活も大きく制約されました。


1月、日本軍は南方資源の輸送ルートを確保するため、米統治下のフィリピンの首都マニラを占領。各地に侵攻していきました。4月にバターン半島で捕虜を収容所まで長時間歩かせた行為は「バターン死の行進」と呼ばれ、多数が死亡しました。

■背広50点、もんぺ10点 靴下1点 

 2月、政府は物資不足に対応するため、衣料切符制を実施。「背広三つぞろい50点」「国民服32点」「もんぺ10点」「靴下1点」などと点数が決められていました。現金があっても、衣料切符がなければ品物を購入できませんでした。

 4月、米軍は太平洋上の米空母「ホーネット」からB25爆撃機16機を発進させ、東京や横浜、名古屋、神戸などを空襲しました。米軍による初の日本本土空襲で、数十人の死者が出ました。指揮したドゥーリトル中佐にちなみ、ドゥーリトル空襲と呼ばれています。

 6月、ミッドウェー海戦で、主力空母の「赤城」「加賀」「蒼龍(そうりゅう)」「飛龍(ひりゅう)」が日本の暗号を解読していた米軍の攻撃を受けて沈没。以降は戦況が逆転し、米軍の反攻が始まりました。

■球をよけるな、交代も禁止 「幻の甲子園」

 8月、文部省は「国民精神の高揚」のため、全国中等学校錬成野球大会を阪神甲子園球場で開催しました。全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高校野球選手権大会)は開戦前に中止されており、錬成野球大会は大会史に記録されていないため「幻の甲子園」と呼ばれています。打者が球をよけることは「突撃精神に反する」と許されず、負傷以外の選手交代は禁止するなど、軍事色の強い決まりがありました。

 10月、福井県では小型バスを改造し馬に引かせる乗合馬車の試運転が行われていました。戦前の米国による日本への石油禁輸を機に、営業用や自家用乗用車、バスなどのガソリン消費が禁止されていました。


改良ジェットをF15が護送 ゼレンスキー氏運んだ「特別空輸作戦」

2022-12-22
2022年12月21日、米軍機でワシントン郊外のアンドルーズ空軍基地に到着したウクライナのゼレンスキー大統領(中央左)。ウクライナ大統領府提供=ロイター © 朝日新聞社
ウクライナのゼレンスキー大統領は、戦時下のウクライナを抜け、どうやって米国にたどり着いたのか――。

仏ルモンドなどによると、ウクライナとポーランドとの国境までは列車で移動。航空追跡サイトをたどると、米軍機がポーランド南東部のジェシュフからワシントン郊外にあるアンドルーズ空軍基地に飛んでいるという。ゼレンスキー氏の搭乗機には、米軍のF15戦闘機の護送がついたという。

 航空専門のサイトによると、搭乗機はボーイング737型機をベースに作られたビジネスジェットに改良を加えたもので、大統領専用の「エアフォース・ワン」と同様の水色の塗装が施されている。ペロシ下院議長が今年8月に台湾を訪問した際にも同型機が使われ、今回のフライトには「特別空輸作戦」という便名が付けられたという。(畑宗太郎、丹内敦子)

データベース(武器を用いない闘いの歴史の中で、人は如何に生きたか・・・。)

◎キリスト教と鎖国政策

2021-08-19
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【17th Century Chronicle 1631-1635年】
◎キリスト教と鎖国政策
*1631.6.20/ 幕府は海外渡航の貿易船に朱印状のほか、老中による奉書の公布が必要であると定める。(奉書船貿易)
*1631.閏10.20/ 京都所司代板倉重宗が、キリシタン・浪人の隠匿、新寺建立を禁止する。
*1633.2.28/ 奉書船以外の日本船の海外渡航を禁止。(第1次鎖国令)
*1634.5.11/ 幕府はイエズス会宣教師セバスチャン・ビエラらを処刑する。
*1634.5.28/ 幕府は長崎に、外国船の来航・奉書船以外の渡航を禁止する高札を立てる。(第2次鎖国令)
*1634.-.-/ 各地で踏絵がさかんに行われる。
*1635.5.20/ 外国船の入港・貿易を長崎一港に限定し、日本人の海外渡航・帰国を全面禁止する。(第3次鎖国令)
*1635.-.-/ 全国で、キリシタンでないことを証明する「寺請制度」が広がる。
 キリスト教禁教と鎖国政策は、切り離しては語れない。織田信長は京都などの仏教勢力に対抗するため、積極的にキリスト教を取り込んだ。信長の跡を継いだ豊臣秀吉も、当初は信長同様にキリスト教容認の立場を取っていた。しかし、長崎がキリシタン大名大村純忠からイエズス会に寄進され、長崎がキリスト教布教の拠点となるなどして、西国のキリシタン大名が貿易の利益を独占するのを危惧した秀吉は、天正15(1587)年、長崎を直轄領にするとともに「バテレン追放令」を出して宣教師を国外追放とした。
 秀吉は貿易を独占するため朱印船貿易を始めたが、宗教統制と経済とを分離する政策を採ったため、キリシタン取り締まりは、それほど厳しくなかった。ところが慶長元(1596)年、京都のフランシスコ会の教徒たちを捕らえて長崎で処刑するという「二十六聖人殉教事件」が起こる(1596年の禁教令)。これは、同年にスペイン船が土佐に漂着し、その乗組員がスペイン王国の征服意図を誇大に吹聴した「サン・フェリペ号事件」が原因といわれるが、ポルトガルのイエズス会と、後発のスペインのフランシスコ会の布教競争も背景にあったとされる。
 関ヶ原で勝利し江戸幕府を開いた徳川家康は、朱印船貿易を活発に行い、貿易の利益を得ようとした。旧教国ポルトガル・スペインとの南蛮貿易を盛んに行い、カトリック宣教師によるキリスト教布教についても黙認した。しかし後発の新教国であったオランダやイギリスが平戸に商館を開くと、先行したポルトガル・スペインと抗争し、これらカトリック国が布教を通じて日本征服を企んでいると、幕府に吹き込んだ。
 大坂の陣を控えていた家康は、キリスト教勢力が豊臣方に付くことを恐れたこともあって、キリスト教禁教に傾いた。やがて肥前のキリシタン大名有馬晴信とポルトガル・スペイン船の抗争で、マードレ・デ・デウス号爆沈事件が起こされ、その事後処理で仲介役のキリシタン岡本大八の収賄事件が発覚した。
 キリスト教布教とは直接関係ない事件だったが、これをきっかけに慶長17(1612)年、家康は「慶長の禁教令」を発布する。この禁教令では、京都や長崎など全国の教会を破壊するとともに、高山右近や内藤如安など有力なキリシタン武将をマニラなど国外に追放した。その背景には、中国産の上質生糸(白糸)を輸入する際に、それに関わるポルトガル・スペイン船やキリシタン大名有馬晴信らの勢力を排除し、幕府が直接に貿易を統制するという狙いがあった。
 当時の重要な輸入品である白糸(中国産の生糸)は、ポルトガル商人により独占的価格で持ち込まれており、幕府は、京都・堺・長崎の有力商人に糸割符仲間を作らせて価格統制をする「糸割符制度」を導入して対抗していた。このような幕府の貿易統制策は禁教と結びついて進められ、宣教師を先兵に進出する旧教国ポルトガル・スペインの「南蛮人」に対して、キリスト教布教にこだわらない新教国オランダ・イギリスの「紅毛人」にシフトしていく流れができてきたのである。
 元和2(1616)年に家康が死去すると、徳川秀忠は、キリスト教禁制と貿易統制の強化を結びつけた鎖国政策を急速に進めてゆく。同年に貿易港を平戸と長崎に限定し(二港制限令)、元和6(1620)年には「平山常陳事件」が起こり、英蘭がポルトガルの交易を妨害し「元和の大殉教」に繋がる。
 元和6(1620)年、平山常陳が船長をつとめる朱印船が、台湾近海でイギリスおよびオランダの船隊によって拿捕された。この朱印船には、スペイン人宣教師2名が商人として乗船していたことが発覚し、この年7月、長崎で平山常陳および2名の宣教師が火あぶり、船員12名が斬首とされた。
 これが江戸幕府のキリシタンに対する不信感を決定づけ、翌月には長崎で、それまでに逮捕されていた宣教師や信徒など教会関係者55名が一斉に処刑された。これが「元和の大殉教」と呼ばれ、以後、諸大名もこれにならって、各地でキリシタンに対する迫害を強化徹底した。
 翌 元和9(1623)年、幕府はポルトガル人の日本在住禁止、朱印船のマニラ渡航の禁止などを次々に公布し、江戸幕府の対外政策の方向性を決定付けていくことになる。同年、イギリスがオランダとの競争に敗れて平戸商館を閉鎖、さらに1624(元和10)年にはスペイン船の来航を禁止、寛永8(1631)年には、朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要とする「奉書船制度」を開始した。
 寛永9(1632)年、大御所徳川秀忠の没後も、引き継いだ3代将軍家光は、さらに鎖国政策を徹底していく。寛永10(1633)年、奉書船以外の渡航を禁じ、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁じた(第1次鎖国令)。寛永11(1634)年、第1次鎖国令の再通達と長崎に出島の建設を開始(第2次鎖国令)。寛永12(1635)年、中国・オランダなど外国船の入港を長崎一港に限定、東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁じた(第3次鎖国令)。寛永13(1636)年、貿易に関係のないポルトガル人とその妻子をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す(第4次鎖国令)。
 そして寛永14(1637)年から寛永15(1638)年にかけて、「島原の乱」が勃発する。この乱の鎮圧に幕府は半年を費やし、オランダから武器弾薬の援助を受けるなどして、やっと幕府開闢以来の叛乱を収めた。キリシタンにすっかり懲りた幕府は、寛永16(1639)年、ポルトガル船の入港を禁止(第5次鎖国令)し、新教国オランダのみが西洋の交易国となる。これをもって「鎖国の完成」とされるが、さらに2年後の1641(寛永18)年、平戸からオランダ商館が移設され、オランダ人も出島に隔離された。
(この時期の出来事)
*1631.5.-/ 将軍家光の弟徳川忠長(国松)が甲斐に幽閉される。
*1631.9.21/ 関所の通過規制を強化し、通行手形のない不審者・女性は厳重に差し止められた。
*1632.1.24/ 大御所徳川秀忠(54)没。
*1632.12.17/ 水野守信・柳生宗矩ら4名が「総目付」に任命され、幕政に関わる大名や諸役人の不正を監視する。(「大目付」の初め)
*1633.3.15/ 幕府が筑前黒田藩の騒動を裁断し、家老栗山大膳を南部藩預けとする。
*1633.3.23/ 将軍家光が松平信綱など「六人衆」を起用し、幕政の刷新・若返りを断行する。(「若年寄」の初め)
*1633.12.6/ 乱行により、高崎に幽閉されていた徳川忠長(28)が自刃する。
*1634.7.1/ 将軍家光が上洛し、朝廷との関係修復をはかる。
*1634.8.4/ 譜代大名妻子の江戸居住を命じる。
*1634.11.7/ 荒木又右衛門の助太刀で、伊賀越えの仇討が成就される。
*1635.3.11/ 係争中の対馬藩国書偽造事件(柳川一件)に、将軍家光が処断を下す。
*1635.6.21/ 武家諸法度の改正により、諸大名に「参勤交代」が義務付けられる。
*1635.11.9/ 寺社と遠国の訴訟を管轄する「寺社奉行」が設置される。
*1635.11.10/ 幕府は、老中・若年寄・寺社奉行・町奉行・勘定頭などの職務権限を定める。

徳川家康三方ヶ原戦役画像

2021-08-08
Facebook 徳川美術館さん曰く
◆◆夏季特別展「家康から義直へ」◆◆
徳川家康三方ヶ原戦役画像
聖聡院従姫(9代宗睦嫡子治行正室)所用  2021年8月15日まで展示
-半跏思惟の家康-
 三方ヶ原合戦での敗戦直後の姿を描いたとされてきた家康の画像です。近年では、目を見開いて歯を見せる忿怒(ふんぬ)の表情、片足を上げて顔を頬にあてる半跏思惟(はんかしゆい)の姿から、家康を武神として祀る礼拝像であったと指摘されています。
 2021年8月17日からは桜井清香(きよか)による模本を展示します。

◎鎌倉幕府の滅亡

2021-07-21
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【14th Century Chronicle 1321-1340年】
【14th Century Chronicle 1321-1340年】
◎鎌倉幕府の滅亡
*1324.9.19/ 後醍醐天皇の討幕計画が発覚、六波羅探題の軍勢により鎮圧される。(正中の変)
 *1326.3.13/ 北条高時(24)が病を理由に出家する。後継を巡り内紛が起こり混乱する(嘉暦の騒動)も、高時は遊行にふけり政務をおろそかにするようになる。
*1331.8.24/ 後醍醐天皇の討幕計画が、側近の密告により露顕、後醍醐は神器を奉じて御所を脱出、山城国笠置山において挙兵する。(元弘の乱)
*1331.9.11/ 楠木正成が河内赤坂城で挙兵する。
*1331.9.29/ 幕府軍が山城笠置を攻略、後醍醐天皇を捕らえる。天皇は翌年、隠岐へ配流される。
*1331.10.21/ 河内赤坂城が陥落し、楠木正成は脱出する。
*1332.11.-/ 後醍醐の子 護良親王が吉野で兵を挙げ、呼応して楠木正成が千早城で挙兵する。
*1333.4.29/ 山陰道を西に向かっていた足利高(尊)氏が、丹波篠村(亀岡)で天皇方に転じ、一期に状況が一変する。
*1333.5.7/ 足利高氏・赤松則村らが京都六波羅を攻略する。
*1333.5.21/ 新田義貞軍が稲村ヶ崎から鎌倉に突入、北条高時(31)ら一族は東勝寺で自刃し、鎌倉幕府が滅びる。
 幕府が朝廷へ介入したことによって、持明院統・大覚寺統の両統迭立となった皇統は、さらに大覚寺統内では、嫡流の後二条天皇派と本来中継ぎであった後醍醐天皇派に分かれて対立していた。そして、幕府は朝廷内の争いに巻き込まれていくことになった。
 文保2(1318)年、後醍醐天皇が即位すると、天皇を中心とする政治体制の再構築を企てた。こうした後醍醐天皇の姿勢は、幕府の得宗専制と衝突することとなった。正中1(1324)年、後醍醐天皇の倒幕計画が露呈すると、天皇派の土岐頼兼・多治見国長らが討たれ、日野資朝・日野俊基など側近公家が処罰された(正中の変)。
 元弘1(1331)年、再び後醍醐天皇の倒幕計画が発覚し、六波羅探題が軍勢を御所に送り込むと、後醍醐は御所を脱出し、山城国笠置山にこもり挙兵する。さらに後醍醐の皇子 護良親王が吉野で、河内国の悪党 楠木正成が下赤坂城で挙兵した(元弘の変)。
 幕府は足利高氏(尊氏)・新田義貞らの討伐軍を差し向け、9月に笠置山は陥落(笠置山の戦い)、次いで吉野も陥落し、楠木軍の下赤坂城のみが残った。劣勢の楠木正成軍は、奇策を駆使して対抗するが、10月、自ら下赤坂城に火をかけて姿をくらませる(赤坂城の戦い)。
 後醍醐は幕府に捕らえられ、翌年、隠岐島に配流され、倒幕運動は鎮圧されたかに見えた。幕府は後醍醐天皇を廃し、持明院統の光厳天皇を即位させ、元号を正慶と改めさせる。しかし潜伏して機をうかがっていた楠木正成は、正慶1(1332)年、河内国金剛山の千早城で挙兵し、同月、護良親王も吉野で挙兵して倒幕の令旨を発した。
 幕府は大軍を差し向け、まず正成の悪党仲間の平野将監入道らが守る上赤坂城を攻め落とす。さらに、吉野でも護良親王が敗れる。しかし、楠木正成はわずかな軍勢で千早城に篭城し、奇策奇襲を用いて90日間にわたって大軍を相手に戦い抜いた(千早城の戦い)。
 播磨国で挙兵した赤松則村は、周辺の後醍醐方を糾合し京都へ進撃する勢いであった。この状況を見て、元弘3(1333)年閏2月、後醍醐天皇は隠岐島を脱出し、伯耆国の船上山に入って倒幕の綸旨を天下へ発した(船上山の戦い)。
 幕府は船上山を討つため足利高氏、名越高家らの援兵を送り込んだが、名越高家が赤松円心に討たれると、足利高氏は所領のある丹波国篠村八幡宮で幕府へ反旗を翻す。そして5月7日、足利高氏は赤松則村らと呼応して六波羅探題を攻め落とし、京都を制圧した。
 六波羅陥落の翌日、新田義貞が上野国で挙兵し、関東御家人を糾合しながら鎌倉を目指し、小手指原の戦い(埼玉県所沢市)を端緒に、何度もの合戦で危機に会いながら鎌倉に迫る。5月21日、新田義貞の軍勢は、海岸線の隘路稲村ヶ崎を干潮を利用して突破、鎌倉市内になだれ込んだ。
 両軍は市中において激戦を繰り広げたが、22日までに幕府軍の有力武将が相次いで戦死・自害し、北条高時はじめ北条氏一族は菩提寺東勝寺に集合し、寺に火を放って自害し果てる(東勝寺合戦)。さらに3日後、九州の鎮西探題も陥落し、鎌倉幕府は完全に消滅した。
(この時期の出来事)
*1322.-.-/ 津軽の安東季長と宗季が家督をめぐって争い、双方に蝦夷勢力が加担し「蝦夷の反乱」の様相を呈する。
*1325.7.18/ 幕府は元に建長寺船を派遣、元との交易が復活する。
*1331.-.-/ 吉田兼好「徒然草」が完成する。
*1339.-.-/ 北畠親房(顕家の父親)が「神皇正統記」を著す。

源氏の白旗、平氏の赤旗

2020-05-05
Facebook 佐々木 信雄さんの投稿 【12th Century Chronicle 1101-1120年】

【12th Century Chronicle 1101-1120年】
 

◎平氏・源氏の興隆
*1101.7.7/京都 源義家の子源義親が九州を荒らしたため、追討官符が下る。(1102.12.28隠岐に配流)
*1104.10.26/京都 延暦寺僧徒と座主慶朝との争いで、源義家・義綱に延暦寺悪僧を逮捕させる。
*1108.1.29/京都 源義親が配流先で出雲の目代を襲ったため、因幡守平正盛が追討を命じられ、討ち取った正盛は義親の首を下げて帰京する。
*1109.2.17/近江 検非違使源義忠(義家の子)を殺害した罪で、叔父義綱を捕らえる。
*1110.3.27/出羽 出羽守源光国、摂政藤原忠実の寒河江荘を侵す。
*1113.4.29/山城・近江 清水寺別当の任命をめぐって強訴合戦(永久の強訴)を繰り返す延暦寺と興福寺の闘争を制止するため、平忠盛・源重時を宇治(対興福寺)に、源光国・平盛重を西坂本(対延暦寺)に派遣して、僧徒の入京を阻止する。
*1119.12.27/京都 平正盛が、九州地方の賊平真澄を討ち、その首を携え入京する。
 

【清和源氏】
 

 源氏には天皇を祖とする源氏二十一流があり、なかで清和天皇からの流れを汲む氏族が「清和源氏」と呼ばれ、のちに歴史の舞台に登場する源氏の主流となった。清和天皇の曽孫にあたる「源満仲」が摂津国多田の地に源氏武士団を形成し、その子「頼光」・「頼親」・「頼信」がそれぞれ引き継いだ地名を冠して、「摂津源氏」・「大和源氏」・「河内源氏」と分派された。
 

 「河内源氏」の祖とされる「源頼信」は、嫡男「頼義」とともに、長元4(1031)年、東国で「平忠常の乱」を平定し、その後の河内源氏の東国での地盤を形成する。この乱の以後、坂東武士が河内源氏と主従関係を結ぶようになり、河内源氏が東国を支配下におき、武家源氏の主流となっていった。
 

 永承6(1051)年、陸奥での安倍氏の反乱(前三年の役)で、前任に代わって陸奥守となった「源頼義」は、嫡男「義家」とともに、途中苦戦するも、最終的には清原氏の支援を得て、陸奥を平定する。その功績により、頼義は正四位下伊予守、嫡男義家も従五位下出羽守に任じられ、中央での評価も高めた。
 

 永保3(1083)年、陸奥守として赴任した「源義家」は、清原氏の内紛に積極的に介入する(後三年の役)。義家は、清原家の養子である「清衡」を支援し、後三年の役を終結させるが、朝廷はこれを私戦とし、恩賞はなく、かつ陸奥守を罷免される。これは義家が陸奥守として貢納すべきものを、私戦に費やして、陸奥守としての職務を怠ったと見なされたためであった。
 

 動員した坂東武士への恩賞も義家の私財で賄ったが、これは結果的には義家が強い主従関係で関東に地盤を築くことになった。しかし以後10年間、義家は中央で地位を得る機会はなかった。やっと白河法皇から許され、院昇殿を許される官位となった。
 

 その後も、弟義綱の方が中央で台頭して競合したり、次男の対馬守源義親が、鎮西において問題を起こしたりと、河内源氏棟梁として頭を悩ますことが頻発する。嘉承元(1106)年には、別の息子の源義国(足利氏の祖)が、叔父で義家の弟源義光と争いを起こすなか、源氏棟梁の義家は68歳で没する。
 

 その翌年には、隠岐に配流されていた源義親が出雲国で再び騒乱を起こす。義親追討に源氏に適任が見当たらず、白河法皇は因幡国の国守で院近臣でもあった「平正盛」に義親の追討を命じる。正盛は義親を討ち、源氏より平氏が院の信任を得るようになっていった。
 

 さらに天仁2(1109)年、河内源氏の棟梁を継いだ義家の息子義忠が暗殺される事件が発生、犯人は義綱と子の源義明とされ、義親の子「源為義」が義綱一族を追討し、家督は為義が継いだ。義光・義国や義忠の遺児河内経国、為義の子源義朝などは関東へ下り勢力を蓄える。
 

 以後、「保元・平治の乱」を通じて、源氏・平氏一族が、それぞれ敵味方に分かれ入り乱れて争った結果、「源義朝」が「平清盛」に敗れ、平氏の天下が訪れる。そして義朝の遺子「源頼朝」が、関東に根を張った源氏の一族郎党に支えられ、平氏を追討して鎌倉幕府を開くという流れになる。
 

【桓武平氏】
 

 天皇から臣籍降下した平氏には四流があり、そのなかで武家平氏として歴史の舞台に登場するのは、桓武天皇から発する桓武平氏で、高望王流坂東平氏の流れをくむ常陸平氏や伊勢平氏がある。なかでも、 承平天慶の乱に功のあった「平貞盛」の四男「平維衡」から始まる「伊勢平氏」が本流となり、その五代あとの平清盛のとき最盛期を迎える。
 

 賜姓を受けた平氏一族は、関東一円に展開して勢力基盤を作った。 承平5(935)年、坂東平氏の一族「平将門」が反乱を起こし、伯父の国香まで殺してしまう(「承平天慶の乱」)。将門追討の命を受けた国香の嫡男「平貞盛」は、藤原秀郷らの協力を得てやっとのことで将門を討ち取る。
 

 貞盛の子「平維衡」は伊勢に地歩を築き、その後子孫が住みついて、「伊勢平氏」の祖となった。そして維衡の三代後から正盛・忠盛・清盛と続いて、伊勢平氏が政権に上り詰めることになる。平氏政権を打ち立てた「平清盛」とその一族が、特に「平家」と呼ばれるが、これは血流としての平氏ではなく、特定の家・一族郎党を含めて呼んだものである。
 

 一方で、維衡の異母兄にあたる「平維将」の系統からは「北条氏」が出ており、後の源頼朝の郎党として、鎌倉幕府の執権となる。清盛亡き後の平氏を討ち鎌倉幕府を樹立する源頼朝の下には、坂東に展開した平氏も多く参加しており、平氏の流れを汲む北条氏が源氏の有力郎党であったことにも不思議はない。
 

 その後の展開から、東国の源氏・西国の平氏と言われることが多いが、高望王が降籍して上総介「平高望」として赴任して以来、東国は武家平氏の基盤の地であった。すなわち坂東平氏の一族が、伊勢平氏として移り住み、中央(朝廷)にも勢力を伸ばし、やがて西国にも勢力を広げたというのが事実である。
 

 一方、北条氏や坂東八平氏などの東国の武家平氏は、源氏一門や藤原氏一門に恭順し家臣となるか、あるいは抵抗して追討されるなどして、大きな勢力を維持できなかった。そして傍流と見られた伊勢平氏の平清盛が、西国を制して中央政権を牛耳ることになった。
 

(この時期の出来事)
*1101.4.7/奈良 興福寺僧徒が金峯山寺僧徒と争い、堀河天皇と右大臣藤原忠実が制止する。
*1102.8.5/山城 興福寺僧徒が蜂起したのに対し、白河法皇は宇治橋を破壊して入京を阻ませる。
*1102.9.3/奈良 東大寺で、東大寺と興福寺の僧徒が争う。
*1103.3.3/京都 鬼神横行の妖言により、京中の人々が門戸を閉ざして閉じこもる。
*1104.3.-/近江 延暦寺と園城寺(三井寺)の僧徒の争いが激化する。
*1105.2.15/陸奥 藤原清衡が、平泉に最初院(中尊寺)を建立する。
*1106.6.-/京都 田楽が流行し、人々が路上で踊りに熱中する。
*1111.この頃 「今昔物語集」が成立する。
*1119.3.25/京都 白河法皇が、藤原忠実が寄進を受けた上野の荘園を停止させる。
*1120.11.12/ 関白藤原忠実が娘を鳥羽天皇の妃にすることを拒み、白河法皇から内覧の職を停止される。
 

*ブログで読む>https://ehimosesu2nd.blogspot.com/2020/05/12c-1101-1120.html

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