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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

2023-05-04
銃撃事件当日を振り返った岩田明子さん【写真:荒川祐史】 © ENCOUNT
ENCOUNT の意見

単独インタビュー 安倍元首相の銃撃事件当日、翌日の対面を振り返る

政治ジャーナリストで元NHK解説委員の岩田明子さん。故・安倍晋三元首相に“最も食い込んだ記者”として知られている。2002年、当時官房副長官だった安倍元首相の番記者を担当して以来、20年以上に渡って取材をしてきた。だが、22年7月8日に安倍元首相は演説中に銃撃され、亡くなる。あの時、岩田さんは何を思って、どのような対面を果たしたのか、振り返ってもらった。(取材・構成=中村智弘)

安倍さんが銃撃されたという一報は、NHKの関係者から聞きました。ちょうど、永田町に向かって歩いているときです。「安倍さんが撃たれたみたいだが、ちょっと深刻かもしれない」と伝えられました。「まさか、そんなこと」と思いました。

強運の持ち主で、晴れ男。雨の予報であっても現地に赴けば晴れてしまう。絶対に、弾は当たっていないはずだと根拠もなく確信をしていました。すぐに安倍さんの携帯に電話をしましたが、つながりません。ひとまず、渋谷のNHK放送センターに戻ることにしました。

きっと取り込んでいるのだろう。手が空けば、すぐにコールバックがきて「大変だったけど、大丈夫だから!」と電話がくると信じていました。でも、握りしめた携帯には、一向に連絡がこない。報道を見ていると、どんどん深刻な状況になっていて、私は頭が真っ白になりました。動悸(どうき)が激しくなるのが自分でも分かりました。

同行していた秘書に電話したり、他社の記者からも問い合わせや連絡があったりして、情報は錯綜(さくそう)していました。ただ、時間がたつにつれて、周辺の人たちが「とにかく祈ろう」と口にし始めました。私もひたすら祈ることにしました。

亡くなったことを知ったのは、NHKの廊下でした。涙が止まらなかったです。必ず助かると信じていましたから、どうしてこんなことになるのか? と頭が混乱しました。「日本のために」が口癖で、持病を抱えながらもストイックに頑張ってきた一国の指導者が、なぜ選挙期間中にテロで命を落とさなければならないのか。こんな悲劇が起こるはずがないと、現実を受け入れられずにいました。

その日はBS国際報道とラジオジャーナルで、銃撃事件や安倍さんの歩みを解説しました。ラジオジャーナルでは、ジャーナリストの江川昭子さんと対談し、放送後の雑談の中で、江川さんから「眠れないかもしれないけど、食べることと眠ることが大事よ」と声をかけてもらいました。鉛のような体を引きずるようにしてセンターを後にしましたが、とにかくご遺体に対面しなければと思いました。


安倍さんのご遺体が富ヶ谷のご自宅に到着したのは、事件の翌日です。ご自宅には弔問を希望する人が殺到していましたが、夕方に私も対面することができました。心のどこかでは事実を認めたくない自分がいて、死に顔を見てしまったら、立っていられるかどうか自信がありませんでした。

ご自宅では、石原伸晃さんや公明党の太田昭宏さんらとすれ違いましたが、みな号泣していました。室内からは悲痛な声も聞こえてきて、玄関に足を踏み入れた途端、涙が出てきました。

妻・昭恵さんや親族の方と手を握り合うも言葉が出ず、手が震え線香をあげられず

出迎えた妻の昭恵さんや親族の方たちと手を握り合いましたが、私はお悔やみの言葉すら出てきませんでした。部屋に入ると、お母さま(安倍洋子さん)が座っていらっしゃった。憔悴(しょうすい)した表情のお母さまが「ああ、岩田さん」と顔を上げると、「晋三はかわいい子だったわ」とおっしゃいました。

このとき、お母さまの気持ちは、“子どもの頃の半ズボン姿の晋三”と一緒にいるのだ、と感じました。母親が息子に先立たれた悲しみを思うと、本当に辛かったです。私は頭に包帯を巻いて横たわっている安倍さんに、「総理、起きてください」と言おうとしましたが、ほとんど言葉になりませんでした。ただただ涙が出て、数珠を持つ手も震え、線香をあげることもままなりませんでした。

安倍さんはやすらかに眠っていました。その口は、「岩田さん、」と今にも言い出しそうに見えました。そのとき、絶望とはこういう気持ちを表現するのだと実感しました。

しばらくは血圧が上がり、一睡もできない日々が続きました。夢であってほしいと願うのですが、すぐに現実に引き戻されることの繰り返しでした。事件が起きたのは夏でしたが、国葬が終わると、あっという間に秋は深まり、少しずつ日常が戻り、大みそかと元旦が例年と同じようにめぐってきました。

あれだけ大きな存在の人がいなくなっても、時は粛々と流れ、何事もなかったかのように自然はめぐるのだ、と思うととてつもない寂寥(せきりょう)感が込み上げてきました。年が明けてからも、安倍さんがよく訪れたレストランや事務所などに、顔を出したこともありました。もしかして、と思ってのぞき込むのですが、当然、安倍さんの姿は、そこにはありません。

夜の10時から12時は、安倍さんとの“電話タイム”でした。それは20年間、ずっと続けてきました。この時間帯は、安倍さん自身も「情報収集の時間」に決めていて、いろいろな方面に電話をしていたようです。

私はガラケーとスマホ両方持っているのですが、安倍さんはガラケーの方に電話をかけてきました。そもそも記者として、いつでもどんな取材先からも電話を取り損ねたくなかったので、新しい服を購入したときには、必ずガラケーが収まるポケットを作っていました。でも、もうこの時間帯に携帯が鳴ることはありません。

安倍さんとのやり取りで心に残っているのは、第2次安倍内閣が退陣した後のこと。私とのやりとりの中で、台湾海峡をめぐる問題や、国際情勢を考えると、将来的に、第3次安倍内閣の待望論が出てくるのではないかという話になりました。そのとき、安倍さんは「天が望めば」と口にしました。私欲ではなく、最後まで政治家として、人生を全うしようとしているのだと感じました。頭の中では、いつも日本のため、世界のためを考えている、根っからの政治家だったと思います。

□岩田明子(いわた・あきこ)千葉県船橋市出身。1996年、NHKに入局。岡山放送局へ配属。2000年、東京放送センター報道局政治部へ異動、官邸記者クラブ所属。02年、当時官房副長官だった安倍晋三元首相の番記者を担当し、以来、20年以上に渡って安倍元首相を取材。08年、外務省記者クラブに所属、北朝鮮問題を担当。09年、政権交代を経て鳩山由紀夫内閣の菅直人副首相の担当を務める。13年、NHK解説委員室へ異動、政治担当の解説委員と政治部の記者職を兼務。22年7月、NHKを退局、ジャーナリストとして報道番組に出演する一方で、月刊誌や専門誌などで執筆活動も続けている。趣味は昭和歌謡。現在は母親と二人暮らしで、介護に奮闘中。千葉大学客員教授・中京大学客員教授。中村智弘

「聞け万国の労働者(メーデー歌)」

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ロシア大統領ウラジーミル・プーチン就任式。モスクワ。クレムリン - 2

朝鮮のコントロールに失敗した日本

2023-04-06
facebook 佐々木信雄さん曰く
◎甲申政変
◎甲申政変
*1884.12.4/ 朝鮮の漢城(ソウル)でクーデターがおこり、日本の竹添公使らが軍隊を率いて王宮を占領する。(甲申政変・甲申事変)
 1880年代前半、朝鮮の国論は、清の冊封国としての立場を維持する「守旧派(事大党)」と、朝鮮の近代化を目指す「開化派」に分かれていた。後者はさらに、穏健で中間派ともいうべき「親清開化派(事大党)」と、清朝間の宗属関係に依拠せず、むしろこれを打破して独立近代国家の形成をはからなければならないとする「急進開化派(独立党)」とに分れていた。
 「壬午軍乱」以降、清国の影響下に置かれた閔氏政権は、「親清開化派」として事大主義に傾斜しつつあった。一方の「急進開化派」は、明治維新の日本を朝鮮近代化のモデルとして、日本の協力をあおいで自主独立の国を目指そうという立場であった。金玉均・朴泳孝・徐載弼ら独立党のリーダーは、朝鮮の開化をめざして日本に接近しつつあった。
 金玉均らは、高宗にはたらきかけて訪日を実現し、力強く歩む明治維新の日本において、政治・教育・産業などをつぶさに見て回り、福澤諭吉を介して日本の政財界の重鎮とも知己を結んだ。そして日本からの帰途、「壬午軍乱」発生の報に初めて接した。
 壬午軍乱は、清国軍が乱の首謀者で国王の父 興宣大院君を中国の天津に連行して収束、高宗と閔氏の政権が、清国の影響下で復活する。以後、開化政策は清国主導で進められることになり、日本の影響力は低下した。
 朝鮮政府は、軍乱後に日朝間で結んだ「済物浦条約」の規定によって、謝罪使節団を派遣し、金玉均も顧問としてこれに加わった。一行は日本政府高官とも接触して、朝鮮独立援助を要請したが、日本側は清国の軍事力を考慮し、あいまいな支援策を提示したのみであった。
 軍乱後に王宮に復帰した閔妃は、閔氏一族を始めとする私情に偏った守旧政治で、朝鮮半島の政治を混迷させるばかりだった。この状況に危機感をいだいた独立党は、日本の協力を期待し金玉均を派遣したが、日本側の対応は冷たいものであった。金玉均は失意のうちに帰国するが、まもなくベトナムの支配権をめぐって「清仏戦争」が勃発した。
 この戦いで劣勢に立った清国が、止むを得ず朝鮮駐留軍の多くを内地に移駐させたため、独立党はこれを好機ととらえ、日本もまた、壬午軍乱以降の失地回復の好機とみて、帰国中の公使竹添進一郎を漢城に帰任させ、金玉均ら独立党に近づいた。
 金玉均らはこの好機にさいしてクーデター計画を立て、竹添公使からも支援の約束を得た。しかし、クーデターに動員できる軍事力は、日本公使館警備の日本軍150名と、朝鮮人士官学生などごく少数であり、1,500名を有する清国兵や朝鮮政府軍に対抗するのは無謀といってよかった。
 金玉均らは、フランスとの戦争下にあった清国が、朝鮮を手薄にさせている状況に期待し、クーデター決行を決めるが、実行直前に清国がフランスとの和議に動き、また、支援を約束したはずの日本政府中央も、直前になってクーデターへの加担を差し止めてしまった。
 こうしたなか、郵征局開局の祝宴を狙って、計画は予定通り1884(明17)年12月4日に実行に移された。日本政府の関与は不明だが、竹添進一郎公使は会合には参加せず、いつでも出動できるよう公使館で待機していた。金玉均らは王宮に急行し、高宗を確保するとともに、日本公使に救援を依頼するよう高宗に要請した。あらかじめ待機していた竹添公使と日本軍はただちにこれに応じ、国王護衛の政府軍とともに王宮の守りについた。
 翌5日、金玉均らは新政権の成立宣言し、新政府の閣僚は夜を徹して話し合い、国王の稟議を経て、翌6日「革新政綱」を公表した。政綱では、門閥の廃止、人民平等の権利、才能による官選など、旧態を一掃する近代化方針をうたった。
 開化派のクーデターに対し、閔氏側はただちに清国軍の出動を要請、袁世凱らが率いる清国軍は王宮への攻撃を開始した。王宮護衛の朝鮮政府軍兵士は頼りにならず、結果として日本軍150名だけで、清国兵1,300名と戦う状況となった。日本軍は奮闘するも、ついに竹添公使は撤収を命じ、金玉均らも公使とともに公使館に帰着する。
 清国軍は、高宗を陣営内に確保し、臨時政権を樹立させた。竹添の公使館逃避前後から、漢城は大混乱に陥り、清国兵や朝鮮人暴徒によって破壊・掠奪され、日本人居留民たちも略奪・殺害された。竹添公使は7日午後、新築落成なったばかりの日本公使館に火を放って全員退去を命じ、漢江をくだって仁川府に向かった。竹添一行は仁川領事館から長崎へと向かうが、竹添はクーデターの関与を詮索されるのを恐れ、朴泳孝・金玉均らの同行を露骨に嫌がったという。
 クーデターの失敗によって死を免れた金玉均、朴泳孝ら9名は日本に亡命し、金玉均は、関与をほうかむりする日本政府からは冷遇され、失意のうちに上海に渡るが、同地において朝鮮国王の放った刺客よって暗殺される。遺体は朝鮮半島に移送され凌遅刑に処せられ、五体を引き裂かれたのち朝鮮各地に分割して晒された。
 金玉均らによる政変は、失敗に帰したが、朝鮮半島において、近代国家の樹立をめざした最初の真っ当な民族運動としての歴史的意義を有する。しかし、日本や清国を始めとした外国勢力によって左右される、当時の朝鮮政権の脆弱さは、明治維新の日本のように独自の近代化を進めるには、あまりにも時代に取り残された存在であった。
 事後、日朝間では「漢城条約」、日清間は「天津条約」が締結されたが、朝鮮のコントロールに失敗した日本は、半島での立場をいっそう悪化させ、「日清戦争」での直接対決へと向ってゆく。
(この年の出来事)
*1884.3.-/ 東京大学予備門学生 有坂鉊蔵が、本郷弥生町の向ヶ丘貝塚で「弥生土器」を発見する。
*1884.7.7/ 「華族令」が定められ、公・侯・伯・子・男の五爵に分け、戸籍・身分を宮内庁管理とする。国会開設に向けて、身分制の貴族院議員の準備作業でもあった。

俳優の竹下景子

2023-04-05
作家の高史明氏作詞の「追弔の偈 戦争にいのち奪われたあなた方よ」の朗読がありました。
東本願寺御影堂にて「全戦没者追弔法会」(テーマ:人間はなぜ争うのか)が勤まりました。
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