本文へ移動

闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

【安倍元首相銃撃】母・洋子さん、悲嘆の肉声「もう晋三はいないんですよ」

2022-07-13
母・洋子さんにとっては、夫と息子を同じ67歳で亡くしたことになる(共同通信社/時事通信フォト)

 安倍晋三・元首相が7月8日、奈良県内での遊説中に銃撃されて死亡した事件は国内外に衝撃を与え、いまだ動揺は収まる気配がない。何より、遺された家族のショックは計り知れない。

 妻の昭恵夫人は、事件を受け都内の自宅から奈良に向けて出発。夕方に安倍元首相の入院先だった奈良県立医科大学附属病院に到着すると、対面から8分後に死亡が確認された。翌9日の朝、病院から遺体を乗せた車が出発すると、昭恵夫人は後部座席で前を見据え、病院を後にする際に頭を下げた。車は午後、自宅に着き、安倍元首相は無言の帰宅を遂げた。

 実弟の岸信夫・防衛相は会見で「兄は政治に命を賭けてやってきた。でも、このような形で命を取られるとは思ってもみなかった。悔しくてたまらない」と無念の胸中を明かした。生前、安倍元首相は健康不安説が取りざたされる岸氏のことを気にかけていたという。岸氏の後援会関係者は言う。

「岸さんは車いすや松葉づえを使って移動していますが、足元がおぼつかない状態です。活舌も悪く、地元でも『防衛大臣が続けられるのか』と懸念の声が上がっていました。現在は息子の信千世さん(元フジテレビ記者)が秘書官を務めており、次の衆院選では岸さんの代わりに信千世さんが継ぐともっぱらです。安倍さんは我がことのように心配し、信千世さんともよく連絡を取って、後継への準備を進めていたと聞きます」

 安倍元首相と岸防衛相の母である洋子さんも、岸家の後継には重大な関心を寄せていたという。それだけに、まさか、という思いだろう。同関係者が明かす。

「安倍さんが亡くなったとの一報が流れた後、後援会幹部の一人に洋子さんから電話があったそうです。『もう晋三はいなんですよ。明日から信千世の選挙戦が始まると思ってやりなさい』と声をしぼりだし、『もう晋三は……』と、最後は涙声で聞き取れなかったそうです」


母94歳の誕生会

安倍氏の専属SPが号泣 後援会幹部の「お前の責任じゃない」電話にも言葉にならず涙

2022-07-13
© NEWSポストセブン 提供 2018年、明治神宮を参拝する安倍氏に張り付く複数のSP(写真/時事通信フォト)
 安倍晋三・元首相(67)が遊説中に銃撃され死去した事件を受けて、奈良県警にクレームが殺到しているという。

【写真】安倍氏と昭恵さんの結婚時のツーショット。他、母・洋子さんの94才の誕生会に参加した安倍氏ら三兄弟

 安倍氏は7月8日、奈良・大和西大寺駅の北口前で参院選の応援演説を行っていた。現場では、奈良県警の警備部参事官をトップとする体制で指揮がとられ、県警本部や奈良西署の警察官、さらに東京から随行した警視庁警護課のSP(要人警護官)1名が安倍氏の警護に当たったという。しかし、安倍氏は約5メートルの至近距離で背後から撃たれ、命を落とす結果となってしまった。

 総理大臣の警護を担当したこともある警視庁元SPは、発砲があった瞬間の現場の動きについて「少なくとも犯人が前に出てきた瞬間に、後方を警戒していた人間がまず飛び出すべきでした」と悔やむ。

 世間では「警護体制は適切なものだったのか」という疑問が噴出し、奈良県警には11日午前7時までに電話やメールなど約1300件のクレームが殺到した。また、12日に警察庁で行われた記者会見では、中村格長官が「警察としての責任を果たせなかった」「警察庁の関与のあり方にも問題があった。長官として慚愧にたえない。責任は誠に重いと考えている」として、警護措置要領を見直す方針を示した。警察庁が、個別の事案について会見を開くのも、長官が責任を認める発言をするのも異例のことだ。

 安倍氏の後援会幹部によると、事件の現場を担当していたSPは強いショックを受けているという。

「警視庁から派遣されたSPに後援会会長が電話したところ、号泣して言葉にならなかったそうです。『お前の責任じゃない』とは伝えたものの、ずっとそんな調子で泣いていたと聞きました。安倍さんならきっと、こういう時に『キミじゃなくてよかったよ』と言っていたのではないかと思いますが……」

 後援会の幹部は、安倍氏との思い出を悲痛な様子で振り返る。

「地元の支援者としては、何をしても今はつらい。ふとした場面で『ああ、ここを安倍さんと歩いた』など思い出してしまいます。8月13日には、関門海峡花火大会が3年ぶりに開催されます。安倍さんも下関に毎年来られて楽しみにしていた花火大会だったのに、今年はご覧になれないと思うと……」(後援会幹部)

 安倍氏の銃撃事件により、多くの人の心が深く傷ついている。

安倍昭恵さんが夫の葬儀のあとに「涙目で見つめていたもの」

2022-07-13
© FRIDAYデジタル 葬儀が終わり、昭恵さんは涙目で「あるもの」を見つめていた
7月12日、東京都港区の増上寺で安倍晋三元総理の葬儀が執り行われた。近親者による「家族葬」という形だったが、岸田文雄首相など、政財界から多くの要人が出席した。安倍氏の「盟友」である麻生太郎副総理が弔辞を読み、

「あんたが私の弔辞を読むことになっていたんじゃないのか」

と故人の死を悼んだ。喪主を務めたのは妻の昭恵さん。夫の衝撃的な死からわずか4日、彼女もまた現実を受け止めきれていないようだ。

「昭恵さんは喪主の挨拶で安倍さんについて『これほど優しい人はいなかった。いつも私のことを守ってくれた』と語ったそうです。参列者が花を手向けるときには、昭恵さんが別れを惜しむように、安倍さんに数分間、頬擦りをしていたそうです」(自民党関係者)

予定より少し遅れ、14時半すぎに出棺となった。昭恵さんは棺を乗せた霊柩車の助手席に座り、車は永田町の自民党本部、衆参議員会館、総理官邸と順に回っていった。夫の位牌を抱いた昭恵さんは憔悴した様子で、うつむいていることが多かった。

すると、ある地点で昭恵さんがふっと何かに目をやった。車の助手席から、じっと国会議事堂を見つめていたのだ。その目には涙が浮かんでいるように見える。国会議事堂を通りすぎると、またうつむいたり、沿道の人に頭を下げるようになった。国会議事堂を見つめていたのは、ほんの一瞬だったが、昭恵さんは何を思っていたのか。

「この日、霊柩車が巡った場所は、もちろんどこも安倍さんとゆかりが深いところです。ただ、昭恵さんはよく安倍さんが総理時代に国会で野党などからの質問攻勢にさらされていることを心配していたようです。もちろんそれは総理として、絶対に果たさなくてはいけない責務ではありますが、本人の体力的、精神的負担を気にかけていた。国会での夫の姿が『辛くてテレビが見られない』と冗談交じりに話していたこともあったそうです。そんな記憶がふと頭をよぎったのかもしれません」(前出・自民党関係者)

今はただ安倍元総理の冥福を祈りたい。


© FRIDAYデジタル 目を伏せる昭恵さん
© FRIDAYデジタル 後日、お別れの会が開かれるという

安倍元首相 なぜ急きょ奈良演説の経緯「京都決まったので奈良まで」高市氏が優勢伝えるも、2紙予想厳しいと

2022-07-13
© (C)デイリースポーツ 安倍晋三氏
   自民党の高市早苗政調会長が12日付でツイッターに、安倍晋三元首相が凶弾に倒れたことへの悲しみや当日の出来事を記した中で、安倍氏が急きょ奈良に参院選の応援演説に入ったことを説明した。

 これまでも安倍氏の遊説日程は直前に変更となり、当初は奈良での演説は予定されていなかったとされていた。

 高市氏は「安倍元総理と最後にメールをやり取りしたのは事件前日夕方」とし、事件前日の7月7日夕方のことと説明。

 奈良が地元の高市氏は、「急な奈良県入りを知り、党情勢調査で奈良県は優勢の旨を送信した」と安倍氏にメールを送ったという。

 安倍氏から「問題ないとは思うけど、京都に行くことが決まったので、奈良まで行きます。毎日と日経が厳しく出ているので」と返信があったことを明かした。

 高市氏は「京都も奈良も当選したことを御霊前に報告しました」と記した。

菅原文太さんのことば

2022-07-12
Facebook 神田 寛哉さん曰く、①真宗 大谷派 正蓮寺さま ②福岡県 田川 ③令和4年6月28日

データベース(武器を用いない闘いの歴史の中で、人は如何に生きたか・・・。)

【KTN】世界文化遺産

2022-02-21
【KTN】世界文化遺産 第1回「プロローグ」

2018年6月に世界文化遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」について、歴史的背景や当時の世情などを7回に亘り、映像と識者の解説で分かりやすく伝える。
 第1回は「プロローグ編」。

第1回...プロローグ https://youtu.be/zzbM5l9bd9g 

第2回…島原の乱(潜伏のきっかけ) https://youtu.be/m94Km8od_MU

 第3回…潜伏(どのような信仰だったのか) https://youtu.be/SlqT6uYjV8w 

第4回…新天地(五島へ渡ったキリシタン) https://youtu.be/2DFKtDWdAYY 

第5回…終焉(信徒発見) https://youtu.be/-gclX7Effkc 

第6回…変容(カトリックに復帰) https://youtu.be/SBG7QGhW5qU 

第7回…エピローグ(潜伏キリシタンの歴史的意味) https://youtu.be/JR4pJQADV_o
【KTN】世界文化遺産 第2回「潜伏のきっかけ…島原の乱」

世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」 Ⅱ潜伏のきっかけ…島原の乱
 1637年(寛永14年)、かつてキリシタン大名が統治していた島原と天草で、大規模な宗教一揆が起こった。
島原の乱と呼ばれている。
 キリシタン禁制が続く中、いったんは棄教していた農民達が一斉にキリシタンに立ち返り、キリスト教信仰の容認を幕府に求めて武装蜂起したのだった。 
三ヶ月に亘る攻防戦の後、「原城」に立て籠もった数万人の一揆勢は全滅した。 
そして乱に参加しなかったキリシタン達は、表向きは仏教徒を装いながら秘かに信仰を続けていくこととなった。
 研究者へのインタビューをを交えながら、キリシタン潜伏のきっかけとなった島原の乱について紹介する。
【KTN】世界文化遺産 第3回「潜伏~どのような信仰だったのか~」
【KTN】世界文化遺産 第4回「新天地~海を渡ったキリシタン~」
【KTN】世界文化遺産 第5回「終焉〜信徒発見〜」
【KTN】世界文化遺産 第6回「変容~カトリックに復帰~」
【KTN】世界文化遺産 第7回「エピローグ…潜伏キリシタンの今日的意味」

【死神】 立川談志

2022-01-08

令和3年7月に再生回数が50万回に達しました。ありがとうございます。 このサゲに落ち着いたのは平成7年頃。『あれだけのことをやられたんだから、やっぱり死神に吹かせたいんだよ。死神が怒らないわけないもの』(家元談) 平成17年1月の高座(北とぴあさくらホール)
立川談志「談志半生記」2016/11/26

破天荒な行動や毒舌。落語界の反逆児と言われた落語家・立川談志。江戸時代からの古典落語に革命を起こした。昭和11年東京に生まれた談志は、16歳で五代目柳家小さんに入門。27歳で立川談志を襲名し真打昇進を果たした。しかしその頃から「師匠に教えられたとおり古典落語をやっているだけでは落語はいずれ滅びる」と危機感を抱く。「時代に合わせて落語を変えていかなければならない」というのが生涯を貫くテーマとなった。談志の落語哲学は「落語は人間の業の肯定」である。つまり「人間の弱さや愚かさを認めたうえで、そうした人間らしさを描き出すことこそが落語である」というのである。落語を愛し、生涯通じて理想の高座を求めて続けた半生が語られる。


今日は岡本太郎氏の命日らしい(Taro Okamoto.1911.2.26 - 1996.1.7)

2022-01-07
Facebook 永井資久さん曰く
今日は岡本太郎氏の命日らしい(Taro Okamoto.1911.2.26 - 1996.1.7)
彼の名を多くの人に知らしめたのは言うまでもなく、大阪万博の「太陽の塔」だろう。当初、私も意味も判らずとんでもない醜悪なものだと思った時期もあった。彼のこの言葉を聞いた時に理解出来たような気がする。
「精神の自由さから来るデタラメこそが真の芸術である。」
ピカソに傾倒し、ダイナミックな作品創りを精力的にこなしていた。よくテレビに出演して「芸術は爆発だぁ〜!」「何だこれは!」などと叫んでおられたのが印象に残っている。作品にはとにかく圧倒される迫力がある。今後ピカソを越えるアーティストとして世界で高く評価されると思う。
偉大なるデタラメ人、岡本太郎氏に敬意と感謝を込めて。。。。合掌。
大谷大学 #きょうのことば
Facebook 大谷大学さん曰く
本学教員が「伝道掲示板」の解説文を執筆しています。



· 若き日の小澤征爾とシカゴ交響楽団のRCA録音版

2022-01-07
Facebook 伊東 一郎さん曰く、ベートーベンとチャイコフスキーの5番より、春祭が良い。ボストンと小澤の日本公演を思いだした。
Facebook 伊東 一郎さん曰く
今週、思うところあって、小澤征爾のCD爆買い。 1969年にモーツァルトの35番と28番をニューフィルハーモニー管弦楽団と録音したCDは持っていたが、水戸室内管弦楽団とのモーツァルトは、知らなかった。

◎モルガンお雪

2022-01-07
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【20th Century Chronicle 1903(m36)年】-2
◎モルガンお雪
*1903.9.30/ 京都祇園の芸妓 加藤ゆきが、当時4万円(現在の8億円相当)という莫大な身請け金で、米国富豪 ジョージ・モルガンに身請けされる。
 1903(明36)年9月、祇園の芸妓「お雪」が、当時4万円(現在の8億円相当)という莫大な落籍料により、ジョージ・デニソン・モルガンに身請けされ、翌1904(明37)年1月、横浜領事館で結婚式をあげる。ジョージは、モルガン財閥の創始者J・P・モルガンの甥で、当時30歳の彼も大富豪であった。
 モルガンお雪は本名 加藤ユキ、芸妓名は「雪香」として、京都縄手新橋上ルの外人専用のお茶屋 「小野亭」で芸妓をしており、1901(明34)年、初来日したアメリカ人富豪ジョージ・モルガンに見初められた。ジョージは、お雪が求婚を承諾するまでの4年間に3度も来日した。
 当時、芝居小屋「千本座」を営んでいた牧野省三(のちに「日本映画の父」と呼ばれる)は、祇園の茶屋遊びを重ねていて、芸妓だったお雪と懇意になった。牧野は、お雪に「鷲鼻の毛唐」からの身請け話を打ち明けられた。省三は「4、5万円くらい吹っかけてみろ」と冗談でいったところ、数日後、「四万円の貞操」というセンセーショナルな大見出しが、新聞紙上に踊った。お雪身請けの派手な記事のせいで、省三はお雪と別れなければならなくなったが、省三はこの切ない恋物語を、「モルガンお雪」の題で千本座の舞台で上演、大ヒットさせる。
 お雪は「日本のシンデレラ」と呼ばれ、ジョージとアメリカに渡るが、当時の排日法によりアメリカへの帰化は許可されなかった。1905(明38)年、ジョージとともに一時帰国するが、日本でも「金に目がくらんだ女」などと、世間の好奇の目は変わらなかった。2年ほど日本で暮らした後、渡欧してフランスのパリに移り、現地の社交界で大変な評判を呼ぶ。
 1915(大4)年、夫ジョージが44歳で心臓麻痺で死去。その時お雪は34歳だったが、その後、遺産相続をめぐる夫の一族との裁判に勝ち、60万ドル(当時)という莫大な資産を得るも、米国籍を剥奪され無国籍者となる。そのまま欧州フランスで悠々自適の生活を送る。
 1916(大5)年、陸軍士官で言語学者のサンデュルフ・タンダールと恋に落ち、マルセイユで同棲する。結婚はせず、受け継いだ莫大な遺産を、タンダールの学問援助に費やすが、遺産をモルガン家に没収される恐れがあるため、タンダールと再婚はしなかった。1931(昭6)年、タンダールが心臓麻痺で死去、ニースの別荘に移る。
 1938(昭13)年、第2次世界大戦勃発を前に欧州が不穏化したため、家族の世話もあり京都に帰る。戦局が逼迫すると、モルガン家からの送金も途絶え、無国籍のお雪は特高警察に目を着けられて、軍政下で財産を差し押さえられるなど、苦難に遭遇した。日本敗戦後、71歳でカトリックの洗礼を受け(洗礼名テレジア)、以後はいちカトリック信者として京都紫野 大徳寺門前の小家で隠棲、1963(昭38)年、急性肺炎により死去。享年81。
 お雪は、日米欧にかけて数奇な運命を生き抜き、その生涯は何度も著作物や舞台演劇で取り上げられた。なお、この時期、東アジア・東南アジアなどに娼婦として送られた日本人女性「からゆきさん」は、「唐(外国)行きさん」であって、「お雪さん」から来たものではない。
 「からゆきさん」は、熊井啓監督の「サンダカン八番娼館 望郷/1974年」によって、戦前で途絶えていた呼び名が思い起こされることになった。さらに1980年代バブル絶頂期日本では、東南アジアなどからの逆輸入版で、日本への出稼ぎにくる女性は「ジャパゆきさん」という造語で呼ばれた。
(この年の出来事)
*1903.4.13/ 文部省は、小学校令の一部改正により国定教科書採用に踏み切る。
*1903.6.-/ 内村鑑三が「聖書之研究」や、万朝報で日露非開戦論・戦争絶対反対を論じる。
*1903.7.5/ 幸徳秋水が「社会主義神髄」を出版する。
*1903.10.6/ 小村寿太郎とローゼン駐日ロシア公使とが、満州の権益をめぐり日露交渉を始めるも、双方譲らず不調に終わる。

【 Facebook闘いのページ】のページ、管理者は住職です。

TOPへ戻る