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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

東久邇成子さま

2021-04-16

Facebook 永井 由紀夫さん曰く



昭和天皇と良子さまの第一子で、
御結婚前は照宮成子内親王
皇族の東久邇家へお嫁入りされ、
戦後は臣籍降下で平民として苦労に苦労を重ねられ、
5人の幼い子どもを残して35歳の若さでガンで亡くなられたお方です。
ご学友だった酒井美意子さんは
「学習院の錚々たる御家柄のプライドの高い女生徒たちが『このお方には敵わない』と敬愛したプリンセスの中のプリンセス」
「戦後の苦労の中でも輝きを増していった稀有なお方」
と語っています。
生まれた時は臣民はもとより良子さまのお母様までガッカリしましたが、
昭和天皇だけが
「女の子は優しいからいいね」
と仰いました。

アンネとオードリー

2021-05-01
〔アンネ・フランクとわたしは〕同じ年に生まれ、同じ国に住み、同じ戦争を体験した。
ただ、彼女は家のなかに閉じこもり、わたしは外にいた点だけが異なっていた。

Facebook永井 由紀夫さん曰く


オードリーもアンネも同じ1929年生まれ。オードリーは5月4日ベルギーのブリュッセルで生まれ、アンネは6月12日ドイツのフランクフルトアムマインで生まれ2人の誕生日は半月の差。
有名な話ですよね チャップリンとヒトラーも同じ歳4日差でしたよね
そして1939年、2人が10歳の時に第2次世界大戦が勃発。男爵の称号を持つオードリーの母は彼女を連れて中立国であるオランダ、アルンヘムに連れ帰ります
二人の魂は同じ時間 同じ場所を共有し始めます   
「ナチスに関しては,聞いたり読んだりする恐ろしいことを割り引いて考えてはいけません。それは想像をはるかに超える恐ろしいことなのです。」オードリー  
オードリーは一九四七年にオランダ語でのゲラ刷りの段階で『アンネの日記』を読んでおり、その時のことを「涙が洪水のように流れた。わたしは半狂○状態だった」とふり返っている
日記に書かれていた事は まさしくオードリーが戦時下で経験した事そのままだった
「〔アンネ・フランクとわたしは〕同じ年に生まれ、同じ国に住み、同じ戦争を体験した。ただ、彼女は家のなかに閉じこもり、わたしは外にいた点だけが異なっていた。二つの部屋から一歩も外へでられず、日記を書くことしか自己を表現する手段を持たなかった思春期の少女。彼女が季節のうつろいを知る方法は、屋根裏の窓から一本の木をのぞき見ることだけだった  
「太陽の光と雲ひとつない青空があってそれを眺めていられるかぎり、どうして悲しくなれるというの?」 アンネ  
オードリーは『アンネの日記』の次の一節を好きで暗誦していたというこの一節は「アンネ・フランクが死の収容所に送りこまれるわずか六ヶ月前の一九四四年に書かれた」
「わたしは屋根裏へ行って、床のお気に入りの場所から、青い空を、枝にくっついた小さな雨粒が銀色に輝いている葉の落ちたクリの木を見あげる。カモメやほかの鳥たちが風に乗って滑空するのが見える。これがあるかぎり、わたしは生きてそれを見ることができる。この日光と雲ひとつない青空が続くかぎり、わたしは不幸になれない……是があるかぎり、そしてそれはいつまでも続くだろう、すべての雀たちに慰めがあることをわたしは知っている」アンネ
ジョージ・スティーヴンスの頼みで、アンネの父親のオットー・フランクが、オードリーを説得してアンネの役を引き受けてもらうべく、チューリッヒの自宅からビュルゲンシュトックへやってきた」
オードリーはこの時撮った写真をお守りとして『アンネの日記』にはさむほど心を揺さぶられる体験であったのだが、それでもアンネを演じることはできなかった。「彼女の一生と死を自分の利益にする――出演料をもらい、おそらく映画でほめられるために利用する気にはなれなかった」
もっとも彼女の友人のドリス・ブリンナーはまた「実際的な問題」も指摘している。「彼女は十五歳の少女の役をやるのは無理なことを知っていた」。
『アンネの日記』が公開されたの一九五九年、オードリーはすでに三十歳に
右下  
オードリーヘップバーン ~* 大女優の名を冠した気品あるバラ
彼女を永遠の妖精と呼ぶ気にはなれない
彼女ほど苦しみ抜いて 最も人間らしく散った人はいないと思う
わたしの望みは、死んでからもなお生き続けること!
          (1944年4月5日)
日記の突然の切断 この様な悲劇を二度と繰り返してはいけないと思います
なおも模索しつづけるのです、わたしがこれほどまでにかくありたいと願っている、そういう人間にはどうしたらなれるのかを。きっとそうなれるはずなんです。
    (1944年8月1日 最後の日記)

子どもじゃないか!!

2021-04-23
Battle of the Bulge with english intro
帝国の存亡かけた最期の戦いに参じた兵は、子どものような兵士だった!

昭和21(1946)年9月。 

2021-04-19
薬を10錠飲むよりも、心から笑った方がずっと効果があるず。- アンネ・フランク -
1944年(昭和19年)8月。東京の小学校にて。学童疎開に行く生徒たちが残る生徒たちに別れを告げている
昭和21(1946)年9月。深刻な食糧不足で弁当を持参できない児童たちに、GHQ放出の小麦粉でつくられたコッペパンが1日だけ配給されました。
写真は京橋の小学校にて。
学校給食が始まるのは、
翌年の昭和22(1947)年1月から

Facebook佐々木信雄さん曰く
放出物資に喜ぶ子供たち=1946年撮影
終戦直後の子供達。いつの時代も子供の笑顔には救われる

◎大韓航空機爆破事件

2021-04-09
Facebook佐々木信雄さん曰く
*1987.12.8/ ワシントンでレーガンとゴルバチョフの米ソ首脳が会談、INF(中距離核戦力)全廃条約に調印する。
【20th Century Chronicle 1987年(s62)】
◎大韓航空機爆破事件
*1987.11.29/ ビルマ(ミャンマー)沖で、大韓航空機がバンコク空港と交信後、消息を絶つ。12月1日、偽造旅券の男女2人がバーレーンで警察に拘束される。(大韓航空機爆破事件)
 1987年11月29日、バクダット発アブタビ―バンコク経由ソウル行きの大韓航空858便ボーイング707型機(乗員乗客115人)が、ビルマ(ミャンマー)の南方海上で消息を絶った。当初、事故による山中墜落説や海中墜落説など様々な憶測が飛び交ったが、12月1日、バーレーンの空港でローマ行きの飛行機に乗り換えようとしていた2人の男女が、日本人のパスポートを偽造所持していたのが判明、乗り込む直前に取り押さえた。
 取調べ中に男は用意していた毒薬を飲み込み服毒自殺、同様に飲み込んだ女は、すぐに吐き出させたため一命を取り留めた。2人は日本人親子を装った北朝鮮の秘密工作員で、死亡した蜂谷真一名義の男は「金勝一」、生き残った蜂谷真由美は「金賢姫(キムヒョンヒ)」であることが判明した。
 金賢姫の自供によると、爆破目的は翌年開催予定のソウル・オリンピックの妨害・阻止であったこと、命令指示は金正日の親筆であったとされる。韓国の安全性に疑いを抱かせ、ソ連や東欧共産圏諸国のボイコットを狙ったが、当時西側との関係修復過程にあったソ連は北による謀略があったとし、東欧諸国にも卑劣なテロ国家として認識がひろがり、ソウル五輪は無事に行われることになった。
 金賢姫は、韓国で起訴され死刑判決が確定した。しかし盧泰愚大統領は、「事件の生き証人」という政治的な配慮で特赦した。そのあとの記者会見で、自己批判と北朝鮮の体制批判をしたが、この時、日本人拉致被害者とされる「李恩恵」こと田口八重子の話が飛び出し、一躍日本でも、拉致問題の有力な証言者として注目されるようになった。
(この年の出来事)
*1987.5.3/ 西宮市の朝日新聞阪神支局で、覆面の男が侵入し散弾銃を発射、記者1人が死亡、1人が重傷を負う。(朝日新聞阪神支局襲撃事件)
*1987.11.20/ 全日本民間労働組合連合会(連合)が発足する。
*1987.12.8/ ワシントンでレーガンとゴルバチョフの米ソ首脳が会談、INF(中距離核戦力)全廃条約に調印する。
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