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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

安倍元総理の暗殺者は誰か?

2022-07-20
Facebook 村山 和夫さん曰く、首に被弾し心臓に入った弾は山上の銃ではない。 どこかビルの屋上からの銃としか考えられない。

大本営 陸軍部

2022-07-19
Facebook 高橋晃一さん曰く

防衛省市ヶ谷駐屯地
市ヶ谷記念館(旧陸軍省一号庁舎)
1937年建設(取り壊し後、1998年一部再建)
東京国際軍事裁判所になる等、歴史のさまざまな舞台になったところです。
大元帥陛下をお迎えする玉座を備えた大講堂です。
極東軍事法廷は、こちらで開廷されました。

大陸進出の入り口は、こちらでした。

2022-07-18

~7/16、企画展、始まります~
【記憶の中の大連~満洲の玄関口 大連からハルピンへ~】

 
本年は舞鶴市と大連市が友好都市になって40年目。それを記念して7/16より「記憶の中の大連~満洲の玄関口 大連からハルピンへ~」の企画展を開催します。10/16まで。
 中国・大連市は、第2次世界大戦後に日本への引揚者の出発港となった都市の一つ。終戦前の大連には20万人近い日本人が暮らしており、大連で生まれ育った方々が現在でも日本各地におられます。満洲の玄関口であった大連は当時の満洲各地で暮らしていた日本人にとっても馴染みの深い港町でした。本企画展では、終戦前後の大連の町を当館が収蔵する資料で紹介します。是非、ご来館ください。詳細は、上記URLにて確認してください。

宮殿で出迎え受けたバイデン氏、表情ぎこちなく…記者殺害で孤立の皇太子に「免罪符」

2022-07-18
© 読売新聞 (写真:読売新聞)
 【ジッダ(サウジアラビア西部)=蒔田一彦、カイロ=上地洋実】中東歴訪中の米国のバイデン大統領は15日、サウジアラビア西部ジッダで、同国の実権を握るムハンマド・ビン・サルマン皇太子と会談した。バイデン氏は、サウジ人記者殺害事件を巡って冷え込んでいた両国関係の修復に踏み切った。事件で批判を浴びてきた皇太子にとっては、外交舞台への復帰を印象づける場となった。

■ツーショット

 両氏はジッダの宮殿で対面した。車を降りたバイデン氏を皇太子が出迎え、握手の代わりに拳をタッチさせてあいさつした。「皇太子に会いに行くのではない」と公言していたバイデン氏は、ツーショットの場面を避けたかったとみられ、ぎこちない表情だった。

 会談では、記者殺害事件も協議された。バイデン氏は会談後の記者会見で、「米大統領として、人権問題に沈黙することはできないということを伝えた」と明らかにした。

■お膳立て

 米サウジ関係は、事件に対するバイデン政権の対応を巡り、悪化していた。バイデン氏は2020年の大統領選期間中から、「サウジをのけ者として扱う」と発言し、大統領就任直後には、サウジが軍事介入するイエメン内戦に関し、サウジへの軍事支援を停止した。昨年2月には、皇太子が事件に関与したとの報告書を公表した。

 そうした冷遇にもかかわらず、サウジ側は今回のバイデン氏訪問に向け、お膳立てをしてきた。イエメンでは今年4月、支援する暫定政権と反政府武装勢力フーシとの停戦を実現した。6月には、石油輸出国機構(OPEC)加盟国やロシアなどによる「OPECプラス」の閣僚級会合で、サウジが主導して原油を追加増産する合意を取りつけた。国交がないイスラエルの航空機の領空通過も認めた。いずれも米側が対応を求めていたものだ。

■「免罪符」見方も

 サウジがバイデン氏訪問にこだわった背景には、王位継承者としての皇太子の威信回復を図る狙いがあるとみられる。

 事件を機に皇太子は長らく、欧米から距離を置かれてきた。主要20か国・地域(G20)首脳会議の場で皇太子と握手を交わすのは、中国やロシアなど人権問題に口を挟まない権威主義国家の指導者だけだった。

 そうした中でバイデン氏との会談が実現したことは、皇太子が米国から事実上の「免罪符」を得たとの見方が広がっている。

 米サウジ関係は、米国が安全保障を担い、サウジが石油を安定供給するという「石油と安全保障」の盟約のもとに成り立ってきた。サウジとすれば、バイデン政権との従来の外交関係を回復させ、産油国として影響力を誇示できただけでも大きな外交成果だ。会談に同席したサウジのアデル・ジュベイル国務相(外務担当)は16日、地元紙アラブ・ニュースのインタビューで「訪問は、米国にとってのサウジの重要性を象徴するもので、大成功だった」と評価した。

 ◆サウジ人記者殺害事件=サウジ王室を批判してきたサウジ人記者のジャマル・カショギ氏が2018年10月、トルコのサウジ総領事館で殺害された事件。サウジは当初、事件を否定していたが、殺害時の音声データなどの流出を機に、殺害を認めて容疑者を拘束した。ムハンマド皇太子が殺害を指示したとの疑いが持たれているが、サウジ側は否定している。

弔詞

2022-07-13

安倍先生、今日はどういう言葉を申し上げればよいのか、何も見つけられないまま、この日を迎えてしまいました。参院選の街頭遊説のさなかに凶弾に倒れた。いくら何でもそれはなかろう。この事態は私にとって、到底受け入れられるものではありませんでした。そしてまた、多くの国民もやり場のない怒りや悲しみに暮れております。誰もがどうお悔やみを申し上げればよいのか、その言葉すら知りません。

 ただただ、ご冥福(めいふく)をお祈りするばかりであります。振り返りますと、先生と私は随分長い時間、お付き合いをさせて頂いたことになります。時に官房副長官と政調会長、時に総理と幹事長、時に総理と副総理として、先生とは政策、また政局において様々な課題に取り組んで参りました。そこにありましたのは、先生との信頼関係。いかなる局面においても、日本という国、及び国益を最優先する信念、先生と私をつなぐ一番の絆であることを確信しております。

 少々、かっこよく言い過ぎたのかも知れません。普段はお酒を酌み交わし、ゴルフ場で冗談を言いながら回る。むしろ、そんないつもの光景の、そこにあった安倍先生の笑顔が目を閉じれば浮かんでまいります。

 総理としてのご功績は今更私が申し上げるまでもなく、多くの方々の知るところであります。内政はもちろんのこと、外交において、間違いなく、戦後の日本が生んだ最も優れた政治家ではなかったか、そう確信するものであります。

 戦後最長となられた在任期間を通じ、積極的な安倍外交は、あなたの持ち前のセンスと、守るべき一線は譲らない類まれなる胆力によって、各国の首脳からも一目置かれ、日本のプレゼンス、存在を飛躍的に高めたと確信しております。

 あなたが総理を退任された後も、ことあるごとに「安倍は何と言っている」と、各国首脳が漏らしたことに私は日本人として誇らしい気持ちを持ったものであります。

 世界が今、大きな変革の下に、各国が歩むべき王道を迷い、見失い、進むべき羅針盤を必要とする今この時に、あなたを失ってしまったことは日本という国家の大きな損失にほかならず、痛恨の極みであります。

 先生はこれから、(父親の)晋太郎先生の下に旅立たれますが、今まで成し遂げられたことを胸を張ってご報告をして頂ければと思います。そして、(祖父の)岸信介先生も加われるでしょうが、政治談議に花を咲かせられるのではないかとも思っております。

 ただ先生と苦楽を共にされて、最後まで一番近くで支えて来られた昭恵夫人、またご親族の皆様もどうかいつまでも温かく見守って頂ければと思います。そのことをまた、家族ぐるみのお付き合いをさせて頂きました友人の一人として心からお願いを申し上げる次第であります。

 まだまだ安倍先生に申し上げたいことがたくさんあるのですが、私もそのうちそちらに参りますので、その時はこれまで以上に冗談を言いながら、楽しく語り合えるのを楽しみにしております。正直申し上げて、私の弔辞を安倍先生に話して頂くつもりでした。無念です。

 令和4年7月12日 元内閣総理大臣 友人代表 麻生太郎

データベース(武器を用いない闘いの歴史の中で、人は如何に生きたか・・・。)

【KTN】世界文化遺産

2022-02-21
【KTN】世界文化遺産 第1回「プロローグ」

2018年6月に世界文化遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」について、歴史的背景や当時の世情などを7回に亘り、映像と識者の解説で分かりやすく伝える。
 第1回は「プロローグ編」。

第1回...プロローグ https://youtu.be/zzbM5l9bd9g 

第2回…島原の乱(潜伏のきっかけ) https://youtu.be/m94Km8od_MU

 第3回…潜伏(どのような信仰だったのか) https://youtu.be/SlqT6uYjV8w 

第4回…新天地(五島へ渡ったキリシタン) https://youtu.be/2DFKtDWdAYY 

第5回…終焉(信徒発見) https://youtu.be/-gclX7Effkc 

第6回…変容(カトリックに復帰) https://youtu.be/SBG7QGhW5qU 

第7回…エピローグ(潜伏キリシタンの歴史的意味) https://youtu.be/JR4pJQADV_o
【KTN】世界文化遺産 第2回「潜伏のきっかけ…島原の乱」

世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」 Ⅱ潜伏のきっかけ…島原の乱
 1637年(寛永14年)、かつてキリシタン大名が統治していた島原と天草で、大規模な宗教一揆が起こった。
島原の乱と呼ばれている。
 キリシタン禁制が続く中、いったんは棄教していた農民達が一斉にキリシタンに立ち返り、キリスト教信仰の容認を幕府に求めて武装蜂起したのだった。 
三ヶ月に亘る攻防戦の後、「原城」に立て籠もった数万人の一揆勢は全滅した。 
そして乱に参加しなかったキリシタン達は、表向きは仏教徒を装いながら秘かに信仰を続けていくこととなった。
 研究者へのインタビューをを交えながら、キリシタン潜伏のきっかけとなった島原の乱について紹介する。
【KTN】世界文化遺産 第3回「潜伏~どのような信仰だったのか~」
【KTN】世界文化遺産 第4回「新天地~海を渡ったキリシタン~」
【KTN】世界文化遺産 第5回「終焉〜信徒発見〜」
【KTN】世界文化遺産 第6回「変容~カトリックに復帰~」
【KTN】世界文化遺産 第7回「エピローグ…潜伏キリシタンの今日的意味」

【死神】 立川談志

2022-01-08

令和3年7月に再生回数が50万回に達しました。ありがとうございます。 このサゲに落ち着いたのは平成7年頃。『あれだけのことをやられたんだから、やっぱり死神に吹かせたいんだよ。死神が怒らないわけないもの』(家元談) 平成17年1月の高座(北とぴあさくらホール)
立川談志「談志半生記」2016/11/26

破天荒な行動や毒舌。落語界の反逆児と言われた落語家・立川談志。江戸時代からの古典落語に革命を起こした。昭和11年東京に生まれた談志は、16歳で五代目柳家小さんに入門。27歳で立川談志を襲名し真打昇進を果たした。しかしその頃から「師匠に教えられたとおり古典落語をやっているだけでは落語はいずれ滅びる」と危機感を抱く。「時代に合わせて落語を変えていかなければならない」というのが生涯を貫くテーマとなった。談志の落語哲学は「落語は人間の業の肯定」である。つまり「人間の弱さや愚かさを認めたうえで、そうした人間らしさを描き出すことこそが落語である」というのである。落語を愛し、生涯通じて理想の高座を求めて続けた半生が語られる。


今日は岡本太郎氏の命日らしい(Taro Okamoto.1911.2.26 - 1996.1.7)

2022-01-07
Facebook 永井資久さん曰く
今日は岡本太郎氏の命日らしい(Taro Okamoto.1911.2.26 - 1996.1.7)
彼の名を多くの人に知らしめたのは言うまでもなく、大阪万博の「太陽の塔」だろう。当初、私も意味も判らずとんでもない醜悪なものだと思った時期もあった。彼のこの言葉を聞いた時に理解出来たような気がする。
「精神の自由さから来るデタラメこそが真の芸術である。」
ピカソに傾倒し、ダイナミックな作品創りを精力的にこなしていた。よくテレビに出演して「芸術は爆発だぁ〜!」「何だこれは!」などと叫んでおられたのが印象に残っている。作品にはとにかく圧倒される迫力がある。今後ピカソを越えるアーティストとして世界で高く評価されると思う。
偉大なるデタラメ人、岡本太郎氏に敬意と感謝を込めて。。。。合掌。
大谷大学 #きょうのことば
Facebook 大谷大学さん曰く
本学教員が「伝道掲示板」の解説文を執筆しています。



· 若き日の小澤征爾とシカゴ交響楽団のRCA録音版

2022-01-07
Facebook 伊東 一郎さん曰く、ベートーベンとチャイコフスキーの5番より、春祭が良い。ボストンと小澤の日本公演を思いだした。
Facebook 伊東 一郎さん曰く
今週、思うところあって、小澤征爾のCD爆買い。 1969年にモーツァルトの35番と28番をニューフィルハーモニー管弦楽団と録音したCDは持っていたが、水戸室内管弦楽団とのモーツァルトは、知らなかった。

◎モルガンお雪

2022-01-07
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【20th Century Chronicle 1903(m36)年】-2
◎モルガンお雪
*1903.9.30/ 京都祇園の芸妓 加藤ゆきが、当時4万円(現在の8億円相当)という莫大な身請け金で、米国富豪 ジョージ・モルガンに身請けされる。
 1903(明36)年9月、祇園の芸妓「お雪」が、当時4万円(現在の8億円相当)という莫大な落籍料により、ジョージ・デニソン・モルガンに身請けされ、翌1904(明37)年1月、横浜領事館で結婚式をあげる。ジョージは、モルガン財閥の創始者J・P・モルガンの甥で、当時30歳の彼も大富豪であった。
 モルガンお雪は本名 加藤ユキ、芸妓名は「雪香」として、京都縄手新橋上ルの外人専用のお茶屋 「小野亭」で芸妓をしており、1901(明34)年、初来日したアメリカ人富豪ジョージ・モルガンに見初められた。ジョージは、お雪が求婚を承諾するまでの4年間に3度も来日した。
 当時、芝居小屋「千本座」を営んでいた牧野省三(のちに「日本映画の父」と呼ばれる)は、祇園の茶屋遊びを重ねていて、芸妓だったお雪と懇意になった。牧野は、お雪に「鷲鼻の毛唐」からの身請け話を打ち明けられた。省三は「4、5万円くらい吹っかけてみろ」と冗談でいったところ、数日後、「四万円の貞操」というセンセーショナルな大見出しが、新聞紙上に踊った。お雪身請けの派手な記事のせいで、省三はお雪と別れなければならなくなったが、省三はこの切ない恋物語を、「モルガンお雪」の題で千本座の舞台で上演、大ヒットさせる。
 お雪は「日本のシンデレラ」と呼ばれ、ジョージとアメリカに渡るが、当時の排日法によりアメリカへの帰化は許可されなかった。1905(明38)年、ジョージとともに一時帰国するが、日本でも「金に目がくらんだ女」などと、世間の好奇の目は変わらなかった。2年ほど日本で暮らした後、渡欧してフランスのパリに移り、現地の社交界で大変な評判を呼ぶ。
 1915(大4)年、夫ジョージが44歳で心臓麻痺で死去。その時お雪は34歳だったが、その後、遺産相続をめぐる夫の一族との裁判に勝ち、60万ドル(当時)という莫大な資産を得るも、米国籍を剥奪され無国籍者となる。そのまま欧州フランスで悠々自適の生活を送る。
 1916(大5)年、陸軍士官で言語学者のサンデュルフ・タンダールと恋に落ち、マルセイユで同棲する。結婚はせず、受け継いだ莫大な遺産を、タンダールの学問援助に費やすが、遺産をモルガン家に没収される恐れがあるため、タンダールと再婚はしなかった。1931(昭6)年、タンダールが心臓麻痺で死去、ニースの別荘に移る。
 1938(昭13)年、第2次世界大戦勃発を前に欧州が不穏化したため、家族の世話もあり京都に帰る。戦局が逼迫すると、モルガン家からの送金も途絶え、無国籍のお雪は特高警察に目を着けられて、軍政下で財産を差し押さえられるなど、苦難に遭遇した。日本敗戦後、71歳でカトリックの洗礼を受け(洗礼名テレジア)、以後はいちカトリック信者として京都紫野 大徳寺門前の小家で隠棲、1963(昭38)年、急性肺炎により死去。享年81。
 お雪は、日米欧にかけて数奇な運命を生き抜き、その生涯は何度も著作物や舞台演劇で取り上げられた。なお、この時期、東アジア・東南アジアなどに娼婦として送られた日本人女性「からゆきさん」は、「唐(外国)行きさん」であって、「お雪さん」から来たものではない。
 「からゆきさん」は、熊井啓監督の「サンダカン八番娼館 望郷/1974年」によって、戦前で途絶えていた呼び名が思い起こされることになった。さらに1980年代バブル絶頂期日本では、東南アジアなどからの逆輸入版で、日本への出稼ぎにくる女性は「ジャパゆきさん」という造語で呼ばれた。
(この年の出来事)
*1903.4.13/ 文部省は、小学校令の一部改正により国定教科書採用に踏み切る。
*1903.6.-/ 内村鑑三が「聖書之研究」や、万朝報で日露非開戦論・戦争絶対反対を論じる。
*1903.7.5/ 幸徳秋水が「社会主義神髄」を出版する。
*1903.10.6/ 小村寿太郎とローゼン駐日ロシア公使とが、満州の権益をめぐり日露交渉を始めるも、双方譲らず不調に終わる。

【 Facebook闘いのページ】のページ、管理者は住職です。

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