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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

◎長屋王の変と藤原氏勢力

2021-06-03
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【8th Century Chronicle 721-740年】
*724.2.4/ 元正天皇が譲位し、首皇子(聖武天皇)が即位する。
*727.11.2/ 聖武天皇と光明子(不比等の娘)の子 基王(生後1ヵ月)が皇太子となる。
*729.2.12/ 左大臣長屋王(54)が、謀反の疑いをかけられ、自殺する(長屋王の変)。
*729.8.10/ 光明子が、臣下として初めて皇后(光明皇后)となる。
*737.-.-/ この年天然痘が流行し、左大臣藤原武智麻呂ら藤原4兄弟が、相次いで死亡する。
*740.9.3/ 大宰少弐藤原広嗣が反乱を起こすが、大野東人に討たれる(藤原広嗣の乱)。
*740.10.29/ 聖武天皇(45)は、伊勢・美濃・近江に行幸し、以後5年にわたって恭仁京・難波京・紫香楽宮を転々とする。
 「長屋王」は、高市皇子の長男で天武天皇の孫にあたる皇族である。父の「高市皇子」は大津の皇子とともに、壬申の乱で長男として大海人皇子(天武)を助けて重要な役割を果たしたが、天武の後継としては、母親の身分ゆえか草壁・大津皇子に次ぐ3位とされた。
 686年、天武天皇が崩御すると、直後に大津皇子が謀反の疑いをかけられ自殺する。天武の皇后鸕野讚良が「持統天皇」として即位し、草壁皇子は帝位を継承しないまま3年後に病死する。高市皇子は太政大臣として持統政権を支え、藤原京遷都を進めたのは高市皇子ではないかとも言われる。
 696年、高市皇子が薨御し、翌697年持統天皇は、草壁皇子の子で孫にあたる軽皇子(文武天皇)に皇位継承し、 702年に持統は崩御する。「文武天皇」の擁立に尽力した「藤原不比等」は、娘の宮子を文武夫人としており、大宝律令編纂に中心的な役割を果たし、平城京遷都を実質的に仕切ったとされる。
 平城遷都の直前に、若くして文武天皇(25)が崩御すると、草壁皇子の正妃で文武天皇の母が「元明天皇」として即位し、藤原不比等とともに、「平城京遷都」、「風土記」編纂、「古事記」の完成、「和同開珎」の鋳造など、律令国家の根幹となる施策を進める。
 715年、元明天皇は、孫の首皇子(のちの聖武天皇)はまだ若かったため、娘の氷高皇女(「元正天皇」)に皇位を譲り、太上天皇として元正天皇を後見する。721年、元明太上天皇が崩御し、前年には藤原不比等(62)も薨去しており、娘婿の「長屋王」が後事を託され、右大臣として政務を仕切ることになる。
 724年、元正天皇は譲位し「聖武天皇」(24)が即位し、長屋王は正二位・左大臣に進む。聖武天皇は生母の藤原宮子(藤原不比等の娘)を「大夫人」と称するとしたが、長屋王はこれは違令だと意義を奏上した。この事件をきっかけに長屋王と藤原四兄弟との政治的な対立が表面化した。
 聖武天皇の外戚である藤原氏4兄弟( 武智麻呂・房前・宇合・麻呂)は、聖武夫人で妹の光明子が産んだ基王が生後間もなく死んでしまい、皇位継承権のある男子をもつ長屋王は、藤原氏系の皇位継承に不安を抱かせる存在でもあった。
 729年2月、長屋王が謀反を企てているとの密告があり、藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲し、糾問された結果、長屋王はじめ一族は自殺においこまれる。こうして、皇親勢力の筆頭だった長屋王は、藤原不比等以来勢力を拡張してきた藤原氏勢力に排斥されてしまった(長屋王の変)。
 長屋王の変のあと、藤原4兄弟は妹光明子を聖武天皇の皇后に押し上げて、藤原四子政権を樹立する。しかし、737年の天然痘の大流行で4人とも揃って病死してしまい、長屋王を冤罪で死に追い込んだ祟りではないかと噂されたという。
(この時期の出来事)
*723.4.17/ 開墾を奨励するために「三世一身の法」を施行。
*730.1.13/ 大宰帥大伴旅人が、自邸で観梅の宴を催す。この時の万葉集の詞書から「令和」の語がひかれた。
*733.-.-/ この頃、「出雲風土記」「肥前風土記」「豊後風土記」などが編纂される。
*735.4.26/ 唐での留学から帰国した吉備真備と僧玄昉が、持ち帰った唐の文物を献上する。
◎長屋王の変と藤原氏勢力
*724.2.4/ 元正天皇が譲位し、首皇子(聖武天皇)が即位する。
*727.11.2/ 聖武天皇と光明子(不比等の娘)の子 基王(生後1ヵ月)が皇太子となる。
*729.2.12/ 左大臣長屋王(54)が、謀反の疑いをかけられ、自殺する(長屋王の変)。
*729.8.10/ 光明子が、臣下として初めて皇后(光明皇后)となる。
*737.-.-/ この年天然痘が流行し、左大臣藤原武智麻呂ら藤原4兄弟が、相次いで死亡する。
*740.9.3/ 大宰少弐藤原広嗣が反乱を起こすが、大野東人に討たれる(藤原広嗣の乱)。
*740.10.29/ 聖武天皇(45)は、伊勢・美濃・近江に行幸し、以後5年にわたって恭仁京・難波京・紫香楽宮を転々とする。
 「長屋王」は、高市皇子の長男で天武天皇の孫にあたる皇族である。父の「高市皇子」は大津の皇子とともに、壬申の乱で長男として大海人皇子(天武)を助けて重要な役割を果たしたが、天武の後継としては、母親の身分ゆえか草壁・大津皇子に次ぐ3位とされた。
 686年、天武天皇が崩御すると、直後に大津皇子が謀反の疑いをかけられ自殺する。天武の皇后鸕野讚良が「持統天皇」として即位し、草壁皇子は帝位を継承しないまま3年後に病死する。高市皇子は太政大臣として持統政権を支え、藤原京遷都を進めたのは高市皇子ではないかとも言われる。
 696年、高市皇子が薨御し、翌697年持統天皇は、草壁皇子の子で孫にあたる軽皇子(文武天皇)に皇位継承し、 702年に持統は崩御する。「文武天皇」の擁立に尽力した「藤原不比等」は、娘の宮子を文武夫人としており、大宝律令編纂に中心的な役割を果たし、平城京遷都を実質的に仕切ったとされる。
 平城遷都の直前に、若くして文武天皇(25)が崩御すると、草壁皇子の正妃で文武天皇の母が「元明天皇」として即位し、藤原不比等とともに、「平城京遷都」、「風土記」編纂、「古事記」の完成、「和同開珎」の鋳造など、律令国家の根幹となる施策を進める。
 715年、元明天皇は、孫の首皇子(のちの聖武天皇)はまだ若かったため、娘の氷高皇女(「元正天皇」)に皇位を譲り、太上天皇として元正天皇を後見する。721年、元明太上天皇が崩御し、前年には藤原不比等(62)も薨去しており、娘婿の「長屋王」が後事を託され、右大臣として政務を仕切ることになる。
 724年、元正天皇は譲位し「聖武天皇」(24)が即位し、長屋王は正二位・左大臣に進む。聖武天皇は生母の藤原宮子(藤原不比等の娘)を「大夫人」と称するとしたが、長屋王はこれは違令だと意義を奏上した。この事件をきっかけに長屋王と藤原四兄弟との政治的な対立が表面化した。
 聖武天皇の外戚である藤原氏4兄弟( 武智麻呂・房前・宇合・麻呂)は、聖武夫人で妹の光明子が産んだ基王が生後間もなく死んでしまい、皇位継承権のある男子をもつ長屋王は、藤原氏系の皇位継承に不安を抱かせる存在でもあった。
 729年2月、長屋王が謀反を企てているとの密告があり、藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲し、糾問された結果、長屋王はじめ一族は自殺においこまれる。こうして、皇親勢力の筆頭だった長屋王は、藤原不比等以来勢力を拡張してきた藤原氏勢力に排斥されてしまった(長屋王の変)。
 長屋王の変のあと、藤原4兄弟は妹光明子を聖武天皇の皇后に押し上げて、藤原四子政権を樹立する。しかし、737年の天然痘の大流行で4人とも揃って病死してしまい、長屋王を冤罪で死に追い込んだ祟りではないかと噂されたという。
(この時期の出来事)
*723.4.17/ 開墾を奨励するために「三世一身の法」を施行。
*730.1.13/ 大宰帥大伴旅人が、自邸で観梅の宴を催す。この時の万葉集の詞書から「令和」の語がひかれた。
*733.-.-/ この頃、「出雲風土記」「肥前風土記」「豊後風土記」などが編纂される。
*735.4.26/ 唐での留学から帰国した吉備真備と僧玄昉が、持ち帰った唐の文物を献上する。

◎平城京遷都

2021-06-02
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【8th Century Chronicle 701-720年】-2
◎平城京遷都
*708.12.5/ 平城宮の地鎮祭が行われる。
*710.3.10/ 都を「平城京」に移す(平城京遷都)。
*710.3.-/ 藤原不比等が、氏寺を平城京に移して興福寺と改称する。
*711.1.2/ 平城京遷都にともない、中央と地方を結ぶ道路整備が進められ、山城・河内・摂津・伊賀の4国に7駅を設置する。
 飛鳥京の西北部に、わが国で初めて都城制を敷いた「藤原京」は、持統8(694)年から和銅3(710)年までの16年間、持統・文武・元明の3代にわたって都がおかれた。この時代は、日本における古代国家の基本法として、飛鳥浄御原令、さらに大宝律令が公布され、古代律令国家の形成過程であった。
 しかし、和銅元(708)年に元明天皇より遷都の勅が下り、和銅3(710)年に「平城京」に遷都されることになる。その翌年に、藤原宮が焼けたとされているが、藤原京から平城京へ遷都の理由は不明である。
 和銅3(710)年3月の遷都時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備されたが、寺院や邸宅および庶民の住居などは、その後段階的に造営されていったもようである。平城遷都を主導した藤原不比等は、率先して藤原氏の氏寺を興福寺と改名し移転、新都の隆盛をはかった。また、中央と地方を結ぶ街道も整備され、畿内など4国に7駅が置かれ、交通網が整えられた。
 すでに完成された大宝律令のもとで律令制が施行され、その強大な中央集権体制を象徴する平城宮には、大極殿・朝堂院・内裏が配置され、その周囲には二官八省の官庁が立ち並んだ。そして、「古事記」や「日本書紀」という国史が編纂され、また地方には「風土記」の編集が指示された。
 平城京遷都は、実質上、藤原不比等が仕切ったと考えられる。不比等は、持統天皇から譲位された文武天皇の即位に関わったとされ、娘の宮子を文武天皇に嫁がせた。そして生まれた首皇子(のちの聖武天皇)を天皇にすることを企んだ。さらに首皇子にも、娘 光明子を嫁がせて、外戚となることを目指していた。
 しかし707年に文武は若くして亡くなり、首皇子はまだ幼いため、文武の母元明天皇が即位し、平城京遷都の詔勅を出すことになった。不比等は平城遷都に精力を注ぎ、それが成ったあとも、大宝律令の改定に取り組み、養老律令の編纂に労をさいた。しかし720年、不比等は病をえて死去する。聖武天皇が即位するのは、その4年後となる。
(この時期の出来事)
*708.8.10/ 銅銭「和同開珎」を発行する。
*711.10.23/ 「蓄銭叙位の法」が制定され、私鋳銭を禁止する。
*712.1.28/ 太安万侶が歴史書「古事記」を完成する。
*713.5.2/ 諸国に「風土記」の編纂を命じる。
*719.7.13/ 国司などの行政を監察する「按察吏」をおく。
*720.5.21/ 舎人親王らが「日本書紀」を完成する。

◎律令制の成立

2021-06-01
Facebook佐々木信雄さん曰く
「養老律令」
【8th Century Chronicle 701-720年】-1
◎律令制の成立
*701.8.3/ 「大宝律令」が完成する。
*717.-.-/藤原不比等らが「養老律令」10巻を編纂する。
*720.8.3/ 藤原不比等(63)が死去し、養老律令の編纂は一旦中断する(757年に施行)。
 大化の改新における4つの施策方針で、律令制への指針が示されたが、律令制導入の動きが本格化したのは、660年代に入ってからである。天智天皇は豪族を再編成し、大王(天皇)へ権力が集中する体制作りを進め、日本史上最初の戸籍とされる「庚午年籍」が作成され、班田収授制を確立しつつあった。
 その実在は不確かながら、この時期に先駆的な近江令が制定されたという説がある。そして壬申の乱後の天武朝681年、天武天皇により律令制定を命ずる詔が発令され、天武没後の持統3(689)年6月に飛鳥浄御原令が制定された。
 ただし、浄御原令は律を伴っておらず、やがて大宝元(701)年8月、「大宝律令」が完成された。持統上皇・文武天皇の治下、律令選定には刑部親王・藤原不比等らが携わった。翌 大宝2(702)年10月には、文武天皇の命で大宝律令は諸国に頒布された。
 養老2(718)年、元正天皇が藤原不比等に大宝律令の再検を命じたが、720年の藤原不比等の死によりいったん中断され、その成果は757年に「養老律令」としてまとめられ、大宝律令に代わって施行された。
 大宝律令の原文は現存していないが、おおむね大宝律令を継承しているとされる養老律令を元にして、その復元が行われている。刑法にあたる「律」はほぼ唐律をそのまま踏襲し、行政法および民法などにあたる「令」は日本社会の実情に配慮して制定されている。
 この律令の制定によって、天皇を中心とし、二官八省の官僚機構を骨格に据えた本格的な中央集権統治体制が成立した。また地方官制については、国・郡・里などの単位が定められ(国郡里制)、中央政府から派遣される国司には多大な権限が与えられ、地方豪族を郡司などに任命し、地方の支配体制を再編成していった。そして、名実ともに律令体制の完成を示すためにも、かつてなかった広大な平城の地に新都の建設が進められた。
(この時期の出来事)
*708.8.10/ 銅銭「和同開珎」を発行する。
*711.10.23/ 「蓄銭叙位の法」が制定され、私鋳銭を禁止する。
*712.1.28/ 太安万侶が歴史書「古事記」を完成する。
*713.5.2/ 諸国に「風土記」の編纂を命じる。
*719.7.13/ 国司などの行政を監察する「按察吏」をおく。
*720.5.21/ 舎人親王らが「日本書紀」を完成する。

 

僕は、絶対に戦争には加担しない!

2021-05-31
やなせ先生の強い思いから、この方は生まれました。
やなせたかし【戦争そのものが悪】

正義の戦いそのももは存在しない。

アンパンマンの原点は戦争体験。

ひもじい思いをしている人に、
パンの一切れを差し出す行為を『正義』と呼ぶのです。

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アメリカにはアメリカの“正義”があり、フセインにはフセインの“正義”がある。アラブにも、イスラエルにもお互いの“正義”がある。

“正義”は立場によって変わる。

でも困っている人、飢えている人に食べ物を差し出す行為は、立場が変わっても国が違っても『正しいこと』には変わりません。
絶対的な正義なのです。

プロパガンダという世界

2021-05-31
右代表は、この方・・・か?
私、これらを観て、ディズニーファンの旗は終いました。
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