本文へ移動

闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

革命という名の血の粛清

2020-06-03
ロシア中央部のエカテリンブルクに幽閉されていたニコライ2世一家は、
この反乱を機に、反革命派による奪回をおそれて、一家全員が銃殺され、
 ここにロシアロマノフ家の血は完全に断たれることになった。

「女スパイ」の時代

2020-06-01
Facebook 佐々木信雄さんの投稿

【20世紀の記憶 1917(T6)年】
 

(魔性の女マタ・ハリ)
*10.15/仏 フランス、パリにおいて、二重スパイとして活躍、ファム・ファタール(魔性の女)とも呼ばれたマタ・ハリが、ドイツ軍スパイとしてフランス軍によって処刑さる。
 

 マタ・ハリ(Mata Hari)は、オランダ生まれで本名マルガレータ・ヘールトロイダ・ツェレと言い、フランスのパリを中心に、「オリエンタル・スタイル」の舞踊を演じ、ダンサー兼ストリッパーとして活躍した。しかし、第一次世界大戦中にスパイ容疑でフランスに捕らえられ、有罪判決を受けて処刑された。
 

 その妖艶な美貌とオリエンタルな芸風(ジャワ島からやって来た王女というふれ込み)で、その死後にはさまざまな尾ひれがつき、世界で最も有名な女スパイとして、女スパイの代名詞的存在となった。マタ・ハリは、多数のフランス軍将校およびドイツ軍将校とベッドを共にしたとされ、いわゆる二重スパイだったとされる。
 

 ドイツの在外武官の暗号通信がフランスによって傍受解読され、マタ・ハリがスパイ活動をしていると判明し、逮捕される原因となった。しかしマタ・ハリの諜報活動が具体的にどのようなものだったかは、はっきりはされていない。彼女は低級レベルでの諜報要員であって、少なくとも、決定的な重要情報をもたらしたという証拠は見つけられていない。
 

 当時の戦況はフランスに不利に展開しており、フランスの政府や軍部にとっては、軍事上の失敗を何でもマタ・ハリの活動に結びつけるのが、好都合でもあった。彼女は有罪となり、サンラザール刑務所にて、10月15日に銃殺刑に処せられた。
 

 マタ・ハリの裁判、処刑の様子には、さまざまな逸話が語られる。たとえば、

1.処刑を免れるため、妊娠していると申告することを勧められたが、本人が拒否した。
2.処刑の際、銃殺隊はマタ・ハリの美貌に惑わされないよう目隠しをしなければならなかった。
3.彼女は銃殺の前兵士たちにキスを投げた、また銃殺寸前にロング・コートの前をはだけ、全裸で銃殺された。
4.処刑の際、目隠しや木に縛りつけられることを拒絶し、泰然自若として銃の前に立った。
などなど。
 

 「魔性の女(ファム・ファタール)」というイメージとともに、これらの逸話は広く喧伝された。以後、何度も映画化され、さらにそれらは具体的なエピソードとして定着していったと考えられる。なかでも、マタ・ハリの名前を広く知られるようにした映画には、『マタ・ハリ』(1931年/米 グレタ・ガルボ主演)が挙げられる。
https://ja.wikipedia.org/…/%E3%83%9E%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%8…
 
$参考図書:『危険な愛人マタハリ―今世紀最大の女スパイ (20世紀メモリアル)』(1994年/ジュリー ホィールライト 著』
https://www.amazon.co.jp/%E5%8D%B1%E9%99%BA%E3…/…/4582373275
 

 また、のちの中国戦線で日本軍の諜報活動に従事し、「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれた川島芳子も存在する。川島芳子は旧清朝の皇族であり、日本人の養子として育てられた。その活動の内容はつまびらかではないが、中華民国に逮捕されて、同じく銃殺されたとされている。
 

〇この年の出来事 
*2.1/独 ドイツ、「無制限潜水艦作戦」を再開。アメリカの参戦のきっかけとなる。
*4.6/米 アメリカ、ドイツに対し宣戦布告。第一次世界大戦の趨勢は、大きな転機を迎える。
*11.2/英 イギリスが「パルフォア宣言」を発表。パレスチナにユダヤ人国家の建設を支援。
 

*ブログで読む>https://naniuji.hatenablog.com/entry/20170524

戦争の世紀の幕開け

2020-05-21
Facebook 佐々木信雄さんの投稿

【20世紀の記憶 1914(T3)年】
 

(第一次世界大戦 勃発)
*7.28/墺 オーストリア、セルビアに対して宣戦布告、「第一次世界大戦」勃発!
 

 サラエボ事件で、オーストリア=ハンガリー帝国政府は、セルビア政府に対して宣戦を布告し、第一次世界大戦が開始された。当初は、関連諸国に世界戦に拡大するという認識は薄かった。しかしその背景には、一触即発で世界大に広がる複雑な構図があった。
 

 直接はオーストリアとセルビアであったが、オーストリアの後ろにはドイツ帝国があり、セルビアは汎スラブ主義を進めるロシア帝国があった。そしてさらに各国は、ドイツ・オーストリア・オスマン帝国・ブルガリアからなる中央同盟国(同盟国)と、三国協商を形成していた英・仏・露を中心とする連合国(協商国)と、2つの陣営に分かれ対立した。
 

 さらに日本が日英同盟を理由に参戦し、イタリア、アメリカも連合国側として参戦する。そして、それら列強が世界中に植民地展開していたため、植民地間での戦闘も含めて、またたくまに世界を巻き込む戦争となった。一般では戦争が早期に終結するものと楽観されていた。
 

 しかし、進化した機関銃の組織的運用等により、防御側の優位の状況が生じ、「塹壕戦」による持久戦が主流となり、戦線は膠着し、戦争は長期化した。この結果、大戦参加国は、国民総動員体制をとり、国民経済のすべてを投入する「国家総力戦」を強いられ、それまでの常識をはるかに超える物的・人的被害がもたらされた。
 

 協商国側は海上封鎖で、同盟諸国の植民地との連絡を断つ戦略を展開し、経済を疲弊させた。1918年にはオスマン帝国、オーストリアで革命が発生して帝国が瓦解、ドイツでも、キール軍港での水兵の反乱で、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は退位に追い込まれ大戦は終結した。足かけ5年にわたった戦争では900万人以上の兵士が戦死し、その人的被害、経済的被害は、史上初の世界大戦として記録された。
 

 第一次大戦の結果、戦敗国であるドイツ、オーストリアは当然のこと、戦勝国側のイギリス、フランスも国力が疲弊し、やがてヨーロッパ諸国に代ってアメリカが世界の中心に登場する原因となった。またロシアでは、大戦末期にロシア革命が起り、内戦状態となり、終戦をまたず離脱することになった。
 

 第一次大戦を舞台にした映画は数多くある。激戦の戦場を描いたものは多いが、これも大戦を背景にしたものだと言うのを挙げてみると、『アラビアのロレンス』"Lawrence of Arabia”、これはイギリスの諜報将校として、アラビア人の世界に入りこみ、アラビアの独立に協力するロレンスを描く。
 

 また、スピルバーグ『戦火の馬』"War Horse" は、第一次大戦に投入された馬の、数奇な運命を描いた、異色の戦争映画。
 

(追補)
 イギリスの「三枚舌外交」は、以下の三つの協定に集約され、それぞれ、アラブ・フランス(+ロシア)・ユダヤの利害に配慮した。その相互矛盾がのちの中東問題の起点となった。

 1. 1915年サイン=マクマホン協定(中東のアラブ独立)
 2. 1916年5月サイクス・ピコ協定(英仏露による中東分割・秘密協定)
 3. 1917年11月 バルフォア宣言(パレスチナにおけるユダヤ民族居住地建設)
 

 オスマントルコが束ねていた地域が、小トルコとそれ以外に分割され(!)、その残余部分が西欧列強によって勝手に分割され(2)、ユダヤ資金と引き換えに、後のイスラエル建設に暗黙の了解を与えた(3)。まさに現在の中東地図に描かれる状態を準備したことになる。
 

 ロレンスは1の実現をタテに工作を進めたが、2・3によって、まったく別の中東世界が形成されることになる。英の「一枚目の舌」に乗っかって暗躍した小物に過ぎなかった。
 

〇この年の出来事
*8.15/パナマ 大西洋から太平洋へ、基線が通り抜けた。苦難30年、パナマ運河開通。
*8.23/日 日本、ドイツに対して宣戦布告。
*10.14/南洋諸島 日本軍、ドイツ領南洋諸島を占領し、同盟国イギリスと「山分け」する。
*11.1/日 少年雑誌『少年倶楽部』創刊。発行元は「大日本雄弁会講談社」
*12.18/日 帝都交通の要「東京駅」が開業、ヨーロッパ風の赤煉瓦3階建て。
 

*ブログで読む>https://naniuji.hatenablog.com/entry/20170509

サラエボ事件、第一次大戦の火種

2020-05-20
Facebook 佐々木信雄さんの投稿

【20世紀の記憶 1914(T3)年】
 

(サラエボ事件)
*6.28/サラエボ オーストリア皇太子夫妻、暗殺される! 大戦の「引き金」をひいた銃声2発。(「サラエボ事件」)
 

 1914年6月28日、「オーストリア=ハンガリー帝国」の皇太子フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィーが、「サラエボ」(当時オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴビナ)を視察中、セルビア人青年によって暗殺された。
 

 ボスニア・ヘルツェゴビナは、オーストリア・ハンガリー帝国に併合されたが、隣国の「セルビア」はかつての領土の回復を目指しており、これに呼応するように、ボスニア内のセルビア人住民にも、オーストリア支配への反発が高まっていた。そんな中、オーストリア皇位継承者フェルディナント大公夫妻がサラエボを訪れることになり、セルビア系の民族主義的な青年グループが暗殺を企てたのだった。
 

 バルカン半島は、古くから諸民族、諸宗教が入り乱れてモザイク状になった複雑な地域で、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた。古代以来のローマ・ラテン系、ギリシャ系に加えて、ゲルマン系、スラブ系が、それぞれさらに細かに分岐した民族に分れて定住し、さらに中世以来「オスマントルコ帝国」が支配し、トルコ人が流れ込んでいた。

 諸民族に重なるようにして、宗教もローマカトリック、ギリシャ正教、ロシア正教、そこへイスラム教が加わり、さらにそれが諸流派に分かれて浸透している。それらの複雑な地域を、オスマン大帝国が束ねる形で支配していたが、その勢力が衰えるに従い、地域内には民族主義が高まり、一部民族は独立を勝ち得ていった。
 

 抗争する諸民族の後には、オスマン帝国の再生を目指す汎トルコ主義のトルコ、汎スラブ主義で南下を目指すロシア、そして西方から拡張をはかるオーストリア=ハンガリー帝国など大国が控えており、それらの力が大きな緊張状態を引き起こしていた。そんな中で、「露土戦争」や三次にわたる「バルカン戦争」などの紛争が頻発し、各国の国境線は頻繁に書き換えられる。そのような一触即発の「火薬庫」でサラエボ事件が火を噴いた。
 

 オーストリア=ハンガリー帝国政府は、セルビア政府に対して宣戦を布告し、これをきっかけとして第一次世界大戦に発展することになる。当時のヨーロッパ列強は複雑な同盟・対立関係の中にあったため、サラエボ事件を契機に、各国の軍部は敵国の侵略に備え総動員を発令した。各国政府は開戦を避けるため力を尽くしたが、戦争の連鎖的発動を止めることができず、瞬く間に世界大戦へと発展した。
 

 サラエボは、東欧共産圏の崩壊と連動して、第二次大戦後に成立した「ユーゴスラビア連邦」が解体される過程でも、深刻な内戦に見舞われた。旧ユーゴスラビアは、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナなどが、ユーゴの中心であったセルビア共和国から分離する独立戦争という形で内戦となった。
 

 中でもセルビア寄りに位置するボスニア・ヘルツェゴビナは、最も大変な内戦を経ることになる。ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年に独立を宣言するが、時の住民約430万人のうち、44%がボシュニャク人(ムスリム人)、33%がセルビア人、17%がクロアチア人と、異なる民族が混在していた。独立を推進するボシュニャク人(ムスリム人)とクロアチア人に対して、1/3を占めるセルビア人は、セルビアに戻って合体することを主張し、「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」と呼ばれた内戦となる。
 

 「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」の悲惨を題材とした映画は、数多く創られた。中でも、ボスニアの女性監督ヤスミラ・ジュバニッチによって描かれた『サラエボの花(2006)』は、最も悲しく,最も悲惨で,そして最も美しい作品と称され、ベルリン国際映画祭金熊賞などいくつもの賞を獲得している。
https://ja.wikipedia.org/…/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%8…
 

〇この年の出来事
*8.15/パナマ 大西洋から太平洋へ、基線が通り抜けた。苦難30年、パナマ運河開通。
*8.23/日 日本、ドイツに対して宣戦布告。
*10.14/南洋諸島 日本軍、ドイツ領南洋諸島を占領し、同盟国イギリスと「山分け」する。
*11.1/日 少年雑誌『少年倶楽部』創刊。発行元は「大日本雄弁会講談社」
*12.18/日 帝都交通の要「東京駅」が開業、ヨーロッパ風の赤煉瓦3階建て。
 

*ブログで読む>https://naniuji.hatenablog.com/entry/20170509

20世紀の光と影 北米インディアン最後の戦士ジェロニモ、屈辱と無念の生涯を終える。

2020-05-06
Facebook 佐々木信雄さんの投稿
偽の和睦提案に騙され、投降して捕縛される。以後20年間、虜囚として幽閉され、故郷アリゾナのメキシコ国境へ帰りたいという願いもかなえられず、シル砦で屈辱のうちにその一生を閉じた。

【20世紀の記憶 1909(M42)年】
 

(戦士ジェロニモ)
*2.17/米 北米インディアン最後の戦士ジェロニモ、屈辱と無念の生涯を終える。
 

 白人に対するアメリカ・インディアンの、最後の組織的抵抗を指導したアパッチ族戦士ジェロニモが、オクラホマのシル砦で虜囚として79歳で死去した。
 

 ジェロニモは誤解されるような「酋長」ではなく、シャーマンであり勇猛な戦士の一人であった。彼は、家族を皆殺しにされると復讐に立ち上がり、アパッチ族の戦士たちは、彼個人を慕って尊敬し戦ったのであった。
 

 山岳ゲリラ戦にたけたジェロニモたちは、白人入植者やアメリカ軍を恐れさせたが、偽の和睦提案に騙され、1886年投降して捕縛される。以後20年間、虜囚として幽閉され、故郷アリゾナのメキシコ国境へ帰りたいという願いもかなえられず、シル砦で屈辱のうちにその一生を閉じた。
 

 子供の頃、インディアンといえばアパッチ族で、英雄ジェロニモという図式でインプットされた。当時の西部劇では、インディアンは悪者と決まってたが、ジェロニモだけは英雄として尊重された存在だった。TV映画ライフルマンでなじみのチャック・コナーズがジェロニモ演じている。「酋長」は邦題が勝手に付けたもので、このあたりからジェロニモ酋長という誤解が発生したのかも。
 

〇この年の出来事
*8.18/日米 2000本の桜、「親善大使」としてワシントンに贈られ、ポトマック河畔に移植される。
*11.11/米 アメリカ海軍、ハワイ真珠湾に世界最大の海軍基地を建設へ。
*12.31/米 ニューヨーク・マンハッタン島とブルックリンを結ぶ、マンハッタン橋開通する。たわみ理論による長大吊り橋の先駆となった。
 

*ブログで読む>https://naniuji.hatenablog.com/entry/20170415

TOPへ戻る