本文へ移動

闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

コロナ感染予防対策の只中で、今年も、6月23日が巡ってきました。

2020-07-23
和解の島 2020-07-05投稿

「和解の島〜ハンセン病 対話の先に〜」

沖縄本島北部の島で始まったハンセン病の元患者と島民たちの対話。初めて明かす偏見や差別の実態。見えてきた相互不信や怒り。“負の歴史”に向き合おうとする人々の物語。 物語の舞台は、かつてのハンセン病隔離施設がある沖縄・屋我地島。今、ここでハンセン病の元患者と島民たちの異例の対話が始まっている。きっかけは、施設の開園80周年の記念誌に住民側から見た差別の実態を記録に残し、和解の道を探ろうとしたことだ。島民たちが初めて明かす偏見や差別の数々。島民たちもまた島を一歩出れば他の地域住民から差別を受けていたという告白。不信を乗り越え“負の歴史”に向き合う人々を見つめる。

半島とお付き合いがしていた頃

2020-07-14
Fb佐々木信雄さんの投稿より

【19th Century Chronicle 1811-1815年】

 

◎最後の朝鮮通信使

*1811.5.22/対馬 朝鮮通信使、最後の来日。朝鮮使節を対馬で応対する。(最後の使節)

 

 朝鮮通信使の歴史は、室町幕府の将軍足利義満からの使者に対しての高麗王朝の返礼に始まる。高麗王朝にとって代った李氏朝鮮は、1392年から5世紀以上にわたって朝鮮半島を支配しており、ほぼその間、断続しながら朝鮮使節の派遣は続いた。「朝鮮通信使」となったのは、江戸幕府になって再開された時からであった。

 

 江戸期の朝鮮通信使は12回に及び、日朝の交流には、対馬藩の宗氏が重要な仲介の役割を果した。朝鮮との交易が主要な収入を占めた対馬宗氏は、日朝双方の国書を改竄するまでして交流を繋いだ。通信使は釜山から海路で、対馬を経て馬関(下関)から瀬戸内海に入り、大坂からは淀川を遡航し、陸路で京都を経て江戸に向かうルートを取った。

 

 通信使は江戸時代に入って様式化され、正使に伴う一行が500人あまり、これに対馬藩からの案内や警護1500人ほどが加わったという。朝鮮通信使は朝貢を意味したわけではないが、江戸の将軍に謁見するという一行は、江戸幕府の権威付けのために大仰な行列で行われた。しかし末期になると、朝鮮や江戸幕府双方の経済的負担が大きく、最後の使節団は対馬差し止めという形となった。

 

 鎖国中の江戸幕府にとって、朝鮮通信使は東アジア地域の動向を知る重要な情報源でもあった。しかし幕末が近づくと、西欧外国船が出没するようになり、東アジアの情勢が不安定となるとともに、使節団がもたらす情報も貴重なものでなくなってきた。それとともに、李氏朝鮮も内乱などで国力が消耗していったので、この年をもって通信使は途絶することになった。

 

(この時期の出来事)

*1811.5.-/ 天文方に蛮書和解御用係を設け、外国語翻訳の専門機関とする。

*1811.***/江戸 無敵の大力士雷電為右衛門が引退する。驚異の勝率9割6分2厘。

*1813.3.28/江戸 幕府が、菱垣廻船積問屋仲間に株札を交付、以後の新規加入を禁止。(十組仲間に株仲間として独占権を与える)

*1913.4.-/江戸 幕府が、三橋会所頭取杉本茂十郎に米会所の設立を許可。

*1913.9.18/江戸 米価下落のため、幕府は町人にも御用金を命じる。

*1814.5.24/越後 越後の幕府領で、農民が大挙して富豪や庄屋などを襲撃して打ち毀す。(北越騒動)

*1815.6.28/尾張美濃 尾張および美濃一帯で大洪水が発生する。

 

*ブログで読む>http://ehimosesu2nd.blogspot.com/…/19th-century-chronicle-1…

「もう一度めぐみを…」 講演1400回、署名1300万超…声を力に訴え続け 横田滋さん死去

2020-06-06

 「もう一度めぐみを抱きしめたい」。北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの父滋さんが5日、死去した。半生をかけ娘の救出を訴え続けた父の願いはついに届かなかった。

 1977年秋、中学1年生だっためぐみさんの13歳の誕生日会。カメラが趣味の滋さんは、親友に囲まれためぐみさんをうれしそうに写真に収めた。それから約1カ月後の11月15日、めぐみさんはバドミントン部の練習を終え帰宅する途中に、突然姿を消した。滋さんはあの日のことを「家族写真を撮って当たり前に過ぎていった毎日が幸せだった。あの日、すべてが変わりました」と語っていた。

 めぐみさんの失踪後、自宅の電話には誘拐を疑った警察の逆探知用装置が取り付けられ、捜査員が出入りするようになった。就寝時は電話をそばに置き、出勤前は手がかりになるものが漂着しているかもしれないと自宅近くの海岸を歩いた。いつ戻ってもいいように玄関には明かりをともし、テレビの「尋ね人」のコーナーで情報提供を呼びかけた。だが、めぐみさんにつながる情報は何も得られなかった。



滋さんの訃報を受け、兵庫県神戸市出身の拉致被害者有本恵子さんの父・明弘さんは「拉致被害者家族会の会長が横田さんでよかった。会長をほかにできる人なんていない。拉致問題の解決が早かったら良かったのに」と話しました。 明弘さんの妻・嘉代子さんも2020年2月に亡くなり、拉致被害者の親で健在なのは明弘さんと、滋さんの妻・早紀江さんの2人だけになりました。

横田滋さんだけが気づいた娘からの「メッセージ」

2020-06-07

87歳で亡くなられた横田滋さんについて忘れられないことがある。中断していた日本と北朝鮮の政府間交渉が3カ月ぶりに再開された2004年11月のことだ。

このとき、日本からは外務省、警察庁など19名の訪朝団が組織され、交渉のテーブルについた。交渉の目的は、北朝鮮側の説明を矛盾点から突き崩すことにあった。その2年前、小泉純一郎首相が訪朝した日朝首脳会談により、拉致被害者の蓮池薫さん夫妻、地村保志さん夫妻、曽我ひとみさんの5人が25年ぶりに帰国している。

内閣府は帰国した被害者から聞き取りを行い、A4サイズの極秘ファイルを作成。中身がマスコミに漏れないように「拉致被害者・家族支援室」(当時)内部で厳重に管理していた。このファイルをもとに、横田めぐみさんなど他の被害者が「死亡」したという北朝鮮側の説明に誤りがあると、追及する予定でいたのだ。

しかし、この交渉で日本側が想定していなかったことが起きた。横田めぐみさんの元夫が姿を現したのである。

横田めぐみさんの元夫は、韓国人拉致被害者のキム・チョルジュンこと金英男氏である。10代の少年時代、友だちと海水浴をしているときに北朝鮮の工作船に連れ去られたとされている。金英男氏についてはのちにテレビカメラの前で記者会見を行うまで、当時の時点ではどういう人物か詳細は明らかになっていなかった。横田めぐみさんと結婚した後、蓮池薫さん夫婦や地村保志さん夫婦と同じ「太陽里」という集落で暮らす仲間だったという。

当時、私は金英男氏のことを日韓両国で調べた。蓮池さんと同じ翻訳所で働いた時期があり、勤務先で蓮池さんと共に徹夜作業をする同僚だったという。金氏はめぐみさんと離婚後、1997年に平壌市人民委員会副委員長の娘で、党幹部専用の専門学校生と再婚。この副委員長は金正日総書記と昵懇の仲である。つまり、めぐみさんの元夫は将軍様を囲むグループの一員になっていたのだ。

日朝政府間の交渉中に、めぐみさんと婚姻関係にあった人物が現れたのは、日本側にとって大きな驚きだった。そして、金英男氏は意外なものを日本側に手渡した。それがめぐみさんの「遺骨」である。

のちに日本政府の鑑定で別人のものとされて、世論が騒然となったことを覚えている人も多いだろう。結局、この交渉で進展はなく、その後、日本では「北朝鮮のニセ遺骨」報道が過熱していった。

例えば、めぐみさんが入院した病院は「平壌49号予防院」ではなく、(中国との国境沿いにある)「義州の病院」という点や、「1994年に死亡」という時期の説明に矛盾があることなどだ。

このとき、もう一つ大きなニュースとなったのが交渉の席で渡された3枚の写真だ。おとなになった横田めぐみさんの写真である。

それまで報道される横田めぐみさんの写真といえば、中学に入学するときの制服姿の写真がほとんどだった。新潟で行方不明になる前の近影である。1977年に誘拐事件として捜査に使用された写真だ。母親の早紀江さんによると、あの写真はめぐみさんの体調が悪いときに撮られたものであり、「表情が娘らしくない」ものだという。この写真が長い間、報道を通して国民の目に焼き付いていただけに、北朝鮮側が渡した写真は驚きをもってテレビで何度も報じられた。だが、いくつもの番組で、この写真の真偽を訝しがるコメントが噴出した。

「影の位置がおかしい」「背景が変だ」「偽造修正されているのではないか」というのだ。遺骨の件と同様に、3枚の写真についても、ああでもないこうでもないと議論が飛び交ったのである。しかし、そうした騒ぎをよそに報じられなかったのが、横田滋さんの言葉だ。

滋さんは日本政府側から写真を手渡されたとき、こう口走っている。

「あ、めぐみだ」

滋さんにしかわからないメッセージが写真にはあった。カメラが趣味だった滋さんは、めぐみさんが生まれたときから熱心に写真を撮り続けてきた。笑うとエクボができる娘をかわいがり、カメラを向けるとき、よくこう言ったという。

「右足を出して、少し斜めに肩を出すと、かっこよく写るよ」

父親が向けるカメラのファインダーに向かって、小さな娘が笑顔を見せて、父親から教わったポーズをとる。世界中のどこにでもある親と子のありふれた風景だ。

そして1977年に新潟市内から姿を消してから27年後。父親は、成人しためぐみさんの写真を突然渡された。写真のなかでめぐみさんは立ち姿だった。大人になった彼女は、右足を出し、少し斜めに肩を出していたのだ。幼い頃、父親がカメラのファインダーで覗いたときと同じポーズをとるめぐみさんがそこにいた。言葉はなくても、父と子にしかわからない合図であるかのように──。
 

2004年に北朝鮮側が渡してきた横田めぐみさんの写真

この話を私が書いたのはそれから2年後の2006年、前述の金英男氏が28年ぶりに韓国の母親と姉に再会したときだ。もう14年も前である。その後、横田滋さんとは酒席でご一緒するなど、何度かお目にかかる機会があった。しかし、言葉を交わした記憶はほとんどない。「あ、めぐみだ」という写真の出来事だけで十分な気がして、改めてお気持ちなどを質問するのが馬鹿げているように思えたからだ。

嘘、謀略、不信、断絶。そんな言葉ばかりが渦巻く日朝の間で私が目の当たりにしたもの。それは、父親にしかわからない本物の絆だった。だからこそ、長く北朝鮮報道に関わった端くれとして、何も手助けができない自分の無力さを痛感した。滋さんが亡くなった今、改めてそう思うのである。

デストロイヤー、自民党をぶっ潰す!!

2020-05-10
Facebook 佐々木信雄さんの投稿

【21th Century / 2005(h17)年】

◎郵政民営化問題

*2005.8.8/ 郵政民営化法案 参院本会議で否決 小泉首相が衆院解散

*2005.9.11/ 第44回衆院選 郵政解散 自民圧勝

*2005.10.14/ 郵政民営化関連法案が成立

 かつて、「三公社五現業」と呼ばれる公共企業体ないしは国営企業が存在した。これらは国の根幹ないしインフラを担う必須の事業であり、一方では、自由主義経済の生成期において、民間で担えないような資本・労働の集中投入が必要な産業部門であった。

 三公社とは、専売公社・電電公社・国鉄であり、五現業には、郵政事業・国有林野事業・国立印刷局・造幣事業・アルコール専売事業があげられる。しかしこれらは、高度成長期が終わる1970年代の終わりごろには、公営としての非効率性や、その独占的地位による民業圧迫など、弊害が目立つようになってきた。

 三公社は「土光臨調」などの奮闘により、80年代に順次民営化されたが、五現業では、アルコール専売事業が日本アルコール産業として民営化された以外は、国の直轄必然性が強い事業として、そのまま維持されてきた。

 国有林野事業・国立印刷局・造幣事業郵政事業は国固有の事業と言えるが、郵政は郵政三事業と呼ばれるように、「郵便事業」のほかに「郵便貯金」・「簡易保険」という事業を営んでおり、民間の銀行業や保険業と大きく事業が重なっており、その全国規模の展開から民業を脅かす存在となっていた。

 しかも「郵便貯金」や「簡易保険」という金融関連業務は、全国から膨大な資金が集まり、この資金は日本国政府に貸し出され、政府の一般財政とは別枠の「第二の予算」と呼ばれる「財政投融資」の原資とされた。これらは、旧日本道路公団や住宅金融公庫などの特殊法人へ貸し出されることになっている。

 しかしこれら特殊法人は、経営の不透明さや、官僚の天下り先となっている点が批判の対象となった。費用対効果を無視した「どんぶり勘定」の非効率な運営は、多額の赤字を計上し、それらは国の一般会計から補填されることになり、国民の税金の無駄使いとなる。

 かねてからの郵政民営化論者であった小泉純一郎は、内閣総理大臣に就任すると、小泉内閣は郵政民営化を重要施策の一つとして掲げ、小泉自身も「行政改革の本丸」であると主張した。

 一方で、郵政三事業の民営化は行政サービスの低下につながるとして激しい反対論が、野党はもとより与党である自民党内からも噴出し、衆議院で否決される事態となった。2005年7月衆議院本会議ではかろうじて可決されたものの、参議院本会議で否決されるなど、与党内からも多数の造反議員がでるなど、紛糾した郵政国会となった。

 この結果を受けて、小泉は郵政民営化の賛否を国民に問うとして、衆議院を解散(郵政解散)、郵政民営化に反対した国会議員と徹底対決する「郵政選挙」と銘打って展開し、「刺客」「小泉チルドレン」などの流行語が飛び交う「劇場型選挙」となった。

 そして9月11日に実施された第44回衆議院議員総選挙では、与党で2/3の議席を超える「圧勝」という結果になった。選挙後、自民党は郵政民営化に反対した国会議員に対して、除名や離党勧告などの重い処分を科し、後の特別国会で、10月14日に同内容の関連法案が可決・成立された。

 

(この年の出来事)

*2005.3.3/ コクド 堤義明元会長 逮捕

*2005.7.14/ 北海道「知床」世界自然遺産登録決定

*2005.10.1/ 道路公団が民営化

*2005.11.17/ 耐震強度偽装事件 発覚

*2005.11.22/ 広島 小1女児殺害事件

 

*ブログで読む>https://naniuji.hatenablog.com/entry/2020/04/27/183033

TOPへ戻る