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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

昭和20年9月、皇居。空襲の被害を受けているようだ

2021-02-28
Facebook永井由紀夫さんより
明治宮殿が焼け打ちています。
現在の皇居、反対方向からです。

本日は、2月26日です。

2021-02-26
「酒は自腹で!」 Facebook Tetsuzo Mukaiさんより 



「酒は自腹で!」
85年前の今日、東京は雪景色。1939年2月26日早朝、1400人の若い将校が首相官邸や警視庁を襲い、高橋是清首相を殺害、4日間国会を占拠した。「2.26事件」である。この三年前に自由主義的な刑法論を説いた京都大学の滝川教授が休職処分に追いやられる。世は学問の自由への弾圧が強まり、暗黒の時代に突入していく。戦後滝川教授は復職して京都大学総長になった。そして学生たちに向かって話す。「酒を飲むのはよろしい。しかし、それは自分の銭で飲むことが絶対条件」。当時造船疑獄で政界は揺れていた。いつの時代も節度は大切だ。
85年前の今日、東京は雪景色。1939年2月26日早朝・・・

事件の渦中

2021-04-28
2・26事件

◆五代目柳家小さん

 落語家。人間国宝。
 1936年1月、東京・麻布の陸軍第3連隊に入隊。直後に同連隊に所属する青年将校らによるクーデター「2・26事件」が発生し、小さんの部隊は「反乱軍」として動員された。小さんは、意気消沈した仲間の前で得意の落語を披露したが、笑う者はいなかったという。
〔写真〕1995年当時の五代目柳家小さん(1995年03月14日) 【時事通信社】

5・15事件

◆チャプリン

 映画「独裁者」などで知られる喜劇俳優。
 1932年5月14日に初来日。

翌日、犬養毅首相と会う予定だったが、その日に「5・15事件」が起きた。

チャプリン自身も将校らの暗殺の標的となっていたが、予定が二転三転したため難を逃れた、とされる。
〔写真〕1921年当時のチャプリン(1921年撮影) 【AFP=時事】

昭和20年10月、東京の空襲跡に立ち並ぶバラック。畑も見える。

2021-02-25
Facebook永井由紀夫さんより

松平容保

2021-02-24
松平容保
この写真は京都守護職時代(27~32歳、満年齢)の肖像写真で、彼が着用している陣羽織の生地は、初めて参内した時に孝明天皇から賜った「緋の衣」であり、これを陣羽織に仕立てたものです。
 孝明天皇から「緋の衣」を賜ったのは文久3年(1863)1月ですので、容保28歳(満年齢)の時です。彼は翌年(1864年)に京都守護職を免ぜられています(同年復帰。1867年に辞職)。
 この陣羽織を着用して馬揃え(軍事教練)の指揮に当たったといいます。また天覧の馬揃えが行われたのは文久3年(1863年)です。この写真は28~32歳の間に撮られたものでしょうが、あるいは天覧の馬揃え(28歳)の時に撮られたものかも?。
 容保は孝明天皇を敬愛し、孝明天皇も彼に何通もの御宸翰(ごしんかん、天皇の直筆)を与えています。

闘いの転機(戦いの前と後)

もう無理です。 戦えません・・・。

2020-11-01
無条件降伏を受諾いたします。
アメリカの頭が交代いたしました。
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1945年(s20)】
◎ポツダム宣言受諾・無条件降伏
*1945.2.4/ 米・英・ソの3首脳が、ソ連クリミヤ半島のヤルタで会談、ドイツ降伏後のヨーロッパ処理が話し合われる。同時に秘密協定として、対日参戦が約束される。(ヤルタ会談)
*1945.3.10/ 東京大空襲。
*1945.5.7/ ナチスドイツ無条件降伏。
*1945.7.17/ トルーマン(米)・チャーチル(英)・スターリン(ソ)3首脳が、壊滅した独ベルリン郊外のポツダムで会談。26日、日本の無条件降伏を勧告する「ポツダム宣言」が発せられる。(ポツダム会談)
*1945.8.6/ 広島に原爆投下、続いて9日には長崎に投下される。。
*1945.8.8/ ソ連、対日宣戦布告。
*1945.8.15/ 天皇による終戦の詔勅放送(玉音放送)・ポツダム宣言受諾による戦争終結
 1945(昭20)年7月26日、米英中の3ヵ国(のちにソ連も参加)はポツダム宣言を発し、日本軍の無条件降伏を要求した。日本政府は当初黙殺し、一方で日ソ中立条約があるソ連に期待して和平講和の仲介を託していたが、8月6日に広島市に原子爆弾が投下され、8月8日にソ連が対日宣戦布告、8月9日には広島市に続き長崎市にも原子爆弾が投下されるという重大な事態が続いた。
 日本政府は中立国を通じて、国体の変更を伴わないかどうかを連合国側に確認した。しかし、確答が得られぬまま、8月14日の御前会議で、昭和天皇の聖断によりポツダム宣言受諾が決定され、終戦の詔勅が発せられ、連合国に対しポツダム宣言の受諾を通告した。
 前年の1944(昭19)年7月、サイパン陥落をうけて東条内閣が倒れると、戦争終結への動きが具体化し始める。あとを受けて、予備役陸軍大将小磯國昭が内閣を組閣するが、和平工作を模索するも「本土決戦」を主張する陸軍を抑えきれず、何をするにも遅い動きから「木炭自動車」と揶揄され、1945(昭20)年3月に米軍の沖縄上陸を許すと内閣総辞職に至った。
 4月7日誕生した鈴木貫太郎内閣は、事実上の終戦準備内閣として成立した。ながらく侍従長を務め天皇の信任が厚い鈴木だが、江戸時代の生まれで当時は超高齢の77歳、退役の海軍大将で枢密院議長という名誉職にあり、辞退の意を示したが昭和天皇のたっての願いで就任した。鈴木が就任後すぐに、米大統領ルーズベルトが死去、4月末にはヒットラーが自殺するなど、情勢は刻々と変化していた。
 鈴木貫太郎は自身の見解を明示することなく、閣僚や軍部の見解をひたすら聞くことに徹した。外務大臣東郷茂徳が、日ソ中立条約をたよりにソ連を仲介とした和平交渉を行おうとしたが、ソ連は2月のヤルタ会談で、ドイツ降伏から3ヵ月以内の対日宣戦するという秘密協定に合意しており、日本政府の依頼を受ける気はなかった。
 7月26日にアメリカ合衆国・中国・イギリスの首脳名で発表された降伏勧告「ポツダム宣言」に対して、鈴木内閣はこれを「黙殺」するという方針を公表する。しかし8月6日に広島、9日には長崎に原子爆弾が投下され、同8日にはソ連軍が満州国に侵攻していた(ソ連対日参戦)。和平工作の失敗が明白となった8月9日深更から、最高戦争指導会議および閣議の御前会議が開かれ、ポツダム宣言を受諾して降伏するか、あくまでも本土決戦を期して戦争を遂行するかで議論は紛糾する。
 議論は「国体護持」をめぐって錯綜した。東郷外相らの受諾派に対して、阿南陸相らは陸軍のメンツのたつような諸条件の確約を主張した。未明に至って、鈴木首相は昭和天皇の聖断を仰ぎ、「万世一系」の天皇を中心とする「国体護持」を条件として、ポツダム宣言受諾に意見統一した。この場合の国体護持とは、天皇の身分の保障以外の意味を持たず、これには誰も反論し得なかった。
 連合国側からは確たる返答をえられなかったが、8月14日再度の御前会議における「ご聖断」によって、ポツダム宣言の無留保受諾が決定された。天皇は終戦の詔書を発布し、即座に連合国側にその旨通告され、翌8月15日正午から、ラジオ放送を通じて、天皇自ら終戦の詔書を朗読する形で、ポツダム宣言の受諾が伝えられた(玉音放送)。 https://www.youtube.com/watch?v=vlPrtkI0U6c
 最後まで本土決戦を主張した陸軍大臣阿南惟幾は、終戦の詔勅に署名したのち鈴木首相のもとを訪れ、「陸軍を代表して強硬な主張したが、総理にはご迷惑をかけました」と挨拶を述べたという。阿南は陸軍将校らの反乱を抑えるために反対を続けていたとされ、陸軍将校らに対して承詔必謹を命じた後、同日明け方に自決した。鈴木内閣の決断が遅れたことで、原子爆弾の投下やソ連参戦を招いたとされるが、当時の国内政局を見れば、やむを得ない流れでもあったと考えられる。

沖縄の住民、よく闘いましたが・・・。

2020-11-01
絶望の中の無謀でありました。
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1945年(s20)】
◎沖縄戦
*1945.4.1/ 米軍が沖縄本島に上陸を開始する。
*1945.7.2/ 米軍による沖縄戦終結宣言。
 沖縄戦は、太平洋戦争末期の1945(昭20)年、沖縄諸島に上陸したアメリカ軍を主体とする連合国軍と日本軍との間で行われた戦いである。太平洋戦争において、日米軍の最大規模かつ最後の戦闘となった。沖縄戦は1945(昭20)年3月26日から始まり、主な戦闘は沖縄本島で行われ、組織的な戦闘は6月20日開始、6月23日に終了した。
 アメリカ軍の目的は、対日本本土爆撃のための航空基地確保と日本本土進攻の補給基地の確保であった。日本軍の目的は、大本営がアメリカ軍に大打撃を与えて和平に持ち込むことを狙ったのに対し、現地軍司令部は本土決戦に向けた時間稼ぎの「捨石作戦」としていた。現地第32軍は、サイパンの戦いなどで失敗した水際防御を避け、ペリリューの戦い・硫黄島の戦いで行われた内陸部に誘い込んでの持久戦を選んだ。
 3月下旬からの、沖縄周辺諸島や本島への空爆など予備的な攻撃から、4月1日朝、アメリカ軍は沖縄本島への上陸作戦を開始した。日本軍は、那覇市のある宜野湾以南に結集して持久作戦をとる方針で、水際作戦を放棄したため、手薄な中西部沿岸地域に上陸に成功したアメリカ軍は、4月3日までに東岸に達し、日本軍は沖縄本島南北に分断された。日本軍は本島南部を主戦場とする予定の為、北部は手薄で、アメリカ軍は第6海兵師団を主力として攻撃をかけ、4月22日までに沖縄本島北部の制圧は完了した。
 日本軍は首里城(那覇市)地下に置かれた司令部を中心とし、沖縄本島南部での持久戦術を採ったため、沖縄戦の殆どの期間が南部攻略に費やされた。アメリカ軍は日本軍の抵抗を排除しながら首里の司令部を目指して南進するが、途中の各所で日本軍の頑強な陣地に阻まれ、進撃は停止、戦線は膠着状態に陥った。米軍は4月19日から23日にかけて総攻撃を加え、双方大きな損害を被ったが、日本軍は首里防衛ラインの外郭を突破されて、防衛線の再構築を迫られた。
 沖縄防衛戦の初めから、もはや日本艦船隊は壊滅しており、航空機による特攻頼りであった。しかし米海軍にとってこの「カミカゼ」特攻は脅威であり、多大な損失を受けるとともに、兵士に心理的恐怖を呼び起こしていた。太平洋艦隊チェスター・ニミッツ司令長官は、日本軍の抵抗にあっている陸軍の進撃速度のあまりの遅さに、上陸部隊司令官サイモン・バックナー陸軍中将がわざと慎重な手法を使っていると疑うなど、陸海軍の間に不協和音が生れつつあった。
 その後も、相互に総攻撃を行うなど激しい攻防を繰り返したが、籠城戦の日本軍は徐々に戦力を失い、5月27日、牛島司令官は首里の司令部を後退させる。日本軍は南部に撤退して抗戦したが、6月下旬までに組織的戦力を失い、6月23日には牛島司令官らが自決。その後も掃討戦は続き、アメリカ軍は7月2日に沖縄戦終了を宣言したが、最終的な沖縄守備軍の降伏調印式が行われたのは、8月15日終戦告知のさらにあとの9月7日であった。
 沖縄戦では、本土との海上交通が阻害されたため、沖縄守備隊は現地の人的・物的資源の戦力化を強引に進めた。日本軍は兵力不足を補うために戦闘員として、住民を根こそぎ動員した。正規の動員以外に、在郷軍人会などによる自主参加が建前の義勇隊なども組織され、中学校や女学校に在籍する生徒も防衛召集や「志願」による生徒隊として軍組織に組み込まれた。これらは「防衛隊」「鉄血勤皇隊」「ひめゆり学徒隊」「白梅学徒隊」などと呼称され、悲惨な状況に直面した。
 戦闘員以外にも、軍事関係などに徴用されて工場労働や農作業などに従事させられ、男女を問わず、また対象年齢外の老人や国民学校の児童らも「自主参加」の形で作業に従事することになった。そして戦闘に巻き込まれて死亡する民間人も、日本本土とは比較にならないほどの割合となった。軍の指示により多くの住民が南部に避難していたが、そこへ敗走して来た兵士たちが紛れ込み収拾が取れない混乱となった。米軍の掃討作戦が始まると、捕虜になるなと指示されていた住民たちは集団自殺するなど、沖縄戦における住民戦没者全体の6割が、日本軍が南部撤退した6月以降に南部地域において亡くなっているとされる。

よく闘いました・・・。

2020-10-31
硫黄島の指揮官は、栗林中将でした。
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1945年(s20)】
◎硫黄島玉砕
*1945.2.16/ 米艦隊が硫黄島に徹底攻撃を開始。3月25日、日本軍守備隊が玉砕する。
 1944(昭19)年8月、グアム島をほぼ制圧し、同年12月にフィリピンのレイテ島を陥落させた連合国軍は、日本本土への攻撃拠点として、小笠原諸島南端に位置する火山島「硫黄島」に戦略目標を定めた。硫黄島の攻略は、沖縄上陸および日本本土戦略爆撃が実現可能となる重要なステップとされた。
 1945(昭20)年2月16日、アメリカ海兵隊の硫黄島強襲が艦載機と艦艇の砲撃支援のもと開始された。前哨戦に続き、19日明け方から猛烈な艦砲射撃が始まり、さらに爆撃機および艦載機による銃爆撃が続くと、午前9時、第1波が上陸を開始して、本格的な上陸戦が展開された。水際での日本軍の抵抗は少なく、海兵隊は円滑に上陸し前進したが、日本軍は地下坑道に潜み艦砲射撃に耐えて、10時過ぎになってから一斉攻撃を開始、海兵隊の先頭へ集中攻撃を浴びせた。
 19日だけで米海兵隊は500名以上の戦死者を出したが、夕方までには圧倒的な兵力で海岸堡を築き東海岸線への上陸を果たした。翌20日以降、島南端にある摺鉢山の要塞と、島中央北部の飛行場のある元山方面とに分かれて侵攻開始したが、摺鉢山の戦いは熾烈を極めた。張り巡らした地下坑道に潜伏し、ゲリラ的に反撃を加える日本軍に対し、米軍は坑道入り口から火炎放射器を浴びせたり、入り口をブルドーザでふさぎ上部に開けた穴からガソリンを流し込み焼き尽くす「馬乗り攻撃(日本兵側の呼称)」などで、逐一つぶしていった。
 23日午前、アメリカ軍は攻撃開始後7日目にしてようやく擂鉢山を制圧し、山頂に到達した海兵師団兵士が付近で拾った鉄パイプを旗竿にして星条旗を掲揚した。しかしその星条旗はみすぼらしくその場面を確認した者も少なかったので、あらためて別の兵士たちによって大きな星条旗を掲揚するシーンを、従軍専属カメラマンに撮らせたものが有名な「硫黄島の星条旗」として残された。その写真をもとにして、アーリントン国立墓地の近くの「合衆国海兵隊戦争記念碑」は作成されている。
 栗林忠道陸軍中将指揮下の守備軍は、3月5日戦線縮小を決定し拠点を島の中央部から北部へ移したが、7日、米海兵師団は奇襲を断行し中央突破、日本軍を島の北部と東部に分断した。この日、栗林中将は最後の戦訓電報(戦闘状況を大本営に報告する一連の電報)を発する。戦訓電報は、戦況を分析し、のちの作戦立案などに生かすため参謀本部に送るものであるが、栗林は恩師にあたる蓮沼蕃侍従武官長にも宛てている。この電文は客観的合理的な提言であるが、参謀本部に握りつぶされることを危惧したためと言われる。
 栗林中将は無意味なバンザイ攻撃を許さず、最後まで可能な限り組織的攻撃をすべしと命じた。しかしいよいよ追い詰められると、16日栗林中将は大本営へ訣別電報を送った。17日、大本営はその多大な功績を認め日本軍最年少の大将に昇進させるが、栗林は同日に、最後の総攻撃を企図し各部隊へ最後の指令を送った。
 しかし出撃の機会が見つけられず転進したのち、26日栗林大将は最後の反攻を敢行する。栗林中将以下、残された約400名の将兵はアメリカ軍陣地へ攻撃をかけたが、この最後の攻撃は決して万歳突撃ではなく、最大限の打撃をあたえる決死の夜襲であった。攻撃を受けたアメリカ陸軍航空軍の野営地は混乱に陥り、200名以上の死傷者を出したとされる。
 また、予科練育ての親とも言われた市丸利之助海軍少将は、途中から合流し総攻撃に加わったが、遺書として米大統領フランクリン・ルーズベルトに宛てた「ルーズベルトニ与フル書」をしたため、英訳させたものとを部下とともに懐中して戦死した。米軍が将校の遺体を検査することを見越して携行したもので、目論見どおりアメリカ軍の手に渡り、アメリカの新聞にも掲載された。それは、日米戦争の責任の一端をアメリカにあるとし、ファシズムの打倒を掲げつつ共産主義ソ連と連携する連合国の大義名分の矛盾を突くものであった。
 末期的な前線における栗林中将や市丸少将の冷静な論述は、国民に知らされることなく、大本営は3月21日、硫黄島守備隊の玉砕を発表した。「コノ硫黄島守備隊ノ玉砕ヲ、一億国民ハ模範トスヘシ。」・・・栗林や市丸の理知的な思考を、参考にさえできなかったのは誰なのか。
 日本軍には増援や救援の具体的な計画はもとよりなく、硫黄島守備兵力2万名はほぼ玉砕戦死。一方、アメリカ軍の戦死・戦傷は3万近くにおよび、太平洋戦争後期の上陸戦でのアメリカ軍の被害が日本軍を上回った稀有な戦いであった。また、硫黄島上陸とほぼ同時に始められた、対ドイツのノルマンディー上陸作戦における戦死傷者数を上回るなど、第二次世界大戦屈指の最激戦として米国でも認識されている。
 硫黄島の戦いは日米双方の映画・テレビのドラマで取上げられている。クリント・イーストウッド監督は、日米双方の視点から連作として描いた。
『父親たちの星条旗』(2006年アメリカ、監督:クリント・イーストウッド、主演:ライアン・フィリップ) https://www.youtube.com/watch?v=WQfpHrHx_Oc
『硫黄島からの手紙』(2006年アメリカ、監督:クリント・イーストウッド、主演:渡辺謙) https://www.youtube.com/watch?v=0x54bOTdJA0
(この年の出来事)
*1945.9.11/ GHQが東条英機ら39人の戦犯の逮捕を命令する。(東条は自殺未遂)
*1945.9.27/ 天皇が米大使館にマッカーサーを訪問。
*1945.9.26/ 哲学者三木清(49)が、豊多摩拘置所で獄死する。
*1945.10.24/ 国際連合(UN)が正式に発足する。
*1945.11.2/ 日本社会党結成、9日に日本自由党、16日に日本進歩党など、戦後政党の結成が相次ぐ。
*1945.12.6/ GHQが近衛文麿ら9人の戦犯逮捕追加を命令、近衛は16日に服毒自殺。(戦犯逮捕)
*1945.1211/ 抗生物質ペニシリンを発見した英国細菌学者アレグザンダー・フレミングに、ノーベル医学生理学賞が授与される。

最低、最悪の作戦

2020-10-30
インパール作戦
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1944年(s19)】
◎インパール作戦
*1944.3.8/ ビルマ(ミャンマー)の日本軍がインパール作戦を開始する。
*1944.7.2/ 大本営がインパール作戦の中止を命令する。
 1944(昭19)年3月8日、日本軍は、インド北東部の都市インパールを攻略する作戦を開始した。連合軍の反攻の食い止めを目指し、中国国民党政府への援助(援蒋ルート)の遮断を戦略目的とした。しかし、補給線を軽視した杜撰な作戦により多くの犠牲を出し、無謀な作戦の代名詞ともなっている。
 「牟田口廉也」中将を総司令官とし、第15軍隷下3個師団を主力とする日本軍は、補給増援がままならない中で作戦を開始するが、ビルマ・インド国境間には100km以上にわたって、ジャングル・2000m級の山地・数本の急流が横たわっていた。1個師団がインパール北方のコヒマを目指し、残り2個師団が東、南東、南の3方向よりインパールを目指した。
 牟田口司令官が考案した補給不足打開作戦は、牛・山羊などの「駄牛中隊」を編成し、必要に応じてそれを食料に転用する「ジンギスカン作戦」というものであったが、牛や山羊は急流渡河時に多くが流され、さらに行く手を阻むジャングルや急峻な山地で、兵士の口に入る前にほとんどが失われた。そして人力で運ぶしかなくなった重砲・重火器は、行く手の険しい地形に阻まれるなど、前線で敵軍と向かい合う前に、ほとんどの戦闘力を消耗している始末だった。
 迎え撃つイギリス軍が採用した円筒陣地は、外周を重火器で防備し、包囲されても輸送機から補給物資を空中投下して支える態勢で、頑強な防備をほこった。最前線の日本兵は、空腹のうえ軽装備だったためまったく歯が立たず、これを「蜂の巣陣地」と呼んだ。さらに、飢えた日本兵は、敵軍輸送機の投下した食糧物資を奪うための決死隊を組み、これで飢えをしのいで「チャーチル給与」と呼ぶありさまだった。
 インパール作戦は、当初から無謀な作戦であるとの反対が多かったにもかかわらず、牟田口軍司令官によって強引に進められとされる。司令部に要請した支援もなく、前線部隊の自壊の危機に瀕した第31師団長佐藤幸徳陸軍中将は、後方司令部で作戦継続を厳命する牟田口司令官の命令を拒否、独断で撤退する。この抗命事件は牟田口の逆鱗に触れ、佐藤師団長を更迭する。同様に他の2師団長も更迭、主力3師団長の更迭の結果、第15軍は最早組織としての体を成さない状況に陥った。
 7月3日、やっとのことで作戦中止命令が下されたが、投入兵力8万6千人に対して、帰還時の兵力は僅か1万2千人に減少していたという。もはや撤退戦を維持する戦闘戦力もなく、事実上の壊走だった。退却路は戦線以上に悲惨であった。日本軍兵士達は飢えに苦しみ、陸と空からイギリス軍の攻撃を受け、衰弱してマラリアや赤痢に罹患し、次々と脱落してゆき放置された。延々と続く友軍の腐乱死体や白骨が横たわる退路を、日本兵は「白骨街道」などと呼んだという。
 インパール作戦の失敗後、日本陸軍はビルマ方面軍の高級指揮官・参謀長らの敗戦責任を問い、そのほとんどを更迭した。しかし軍法会議で責任を追及し事態を解明することなく、多くは予備役投入などでお茶を濁した。責を問う軍法会議が開催した場合、インパール作戦失敗の要因が明らかにされ、その責任追及が軍中枢に及ぶことを回避したためとも言われる。まさに「失敗の本質」が解明されることなく、同じ失敗が繰り返される構造を示したものとなった。
 牟田口廉也は、終戦直前に予備役中将として陸軍予科士官学校長に補され、同年8月に内地で敗戦を迎えた。A級戦犯に指名されるも不起訴になり、別の下級シンガポール軍事法廷に送致されて有罪とされるも、2年で釈放されている。戦後しばらくは公の場に顔を出さず反省の意を示していたが、ほとぼりが冷めると、戦時中と同様に「自分のせいではなく、部下の無能さのせい」と自説を繰り返したという。
 結果的に負け戦の将だったため、敵兵や現地住民を殺したり残虐行為をはたらく機会が少なかったのが幸いし、敵国やGHQの手で戦犯として問われた罪は軽かった。しかしながら、下級参謀だった辻正信などと同様、多数の日本人兵士を死地に追いやった罪は、ついに日本国民自身の手で問われることはなかった。
(この年の出来事)
*1944.1.29/ 中央公論社と改造社の編集者らが検挙され、以後、知識人・言論人などが続き30人以上に及ぶ。(横浜事件)
*1944.6.23/ 北海道の洞爺湖畔の平地で大噴火が発生、「昭和新山」が誕生する。
*1944.6.30/ 学童疎開が閣議決定され、8.4より学童集団疎開が始まる。
*1944.7.18/ マリアナ海戦敗北・サイパン陥落などで東条独裁体制に批判が集中、東条内閣が総辞職。7.22に小磯国昭内閣が成立。
*1944.8.25/ パリのドイツ軍が降伏、パリが解放される。
*1944.11.24/ マリアナ基地を飛び立ったB29爆撃機が、東京を初空襲する。
*1944.12.7/ 東海地方が大地震・津波に襲われ大被害を受ける。(東海大地震)

壊滅です。

2020-11-01
レイテの戦い
弩級戦艦武蔵、沈没いたしました。
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1944年(s19)】
◎レイテ沖海戦
*1944.10.20/ 米軍4個師団がフィリピンのレイテ島に上陸。24日レイテ沖海戦が始まり、25日に日本の連合艦隊は壊滅状態に陥る。
 「レイテ島の戦い」は、1944(昭19)年10月20日から戦われたフィリピン・レイテ島での攻防で、日本軍守備隊とアメリカ上陸部隊の激しい地上戦となった。10月20日、連合軍はレイテ島上陸に着手、20万以上の陸上部隊が投入され、数千の航空機と海上からは艦隊による火力がこれを支援した。
 フィリピン防衛を担当する第14方面軍司令官に着任後間もない山下奉文大将は、マニラのある比国の中心ルソン島に主力を集中した戦闘を考えていたが、大本営は連合軍が襲ったレイテ島に主力を移動して迎え撃つ命令を出した。同時に大本営は「捷号(しょうごう)作戦」を発動して、日本海軍が残存軍艦の総力をあげた艦隊を派遣し、アメリカ側も太平洋に展開する大半の軍事力を投じため、10月23日から25日にかけて、史上最大の海戦と言われる「レイテ沖海戦」が戦われた。
 日本海軍はマリアナ沖海戦で空母部隊が壊滅していたが、戦艦大和、武蔵という超巨大戦艦姉妹艦を投入して背水の陣をしき、はじめて「神風特別攻撃隊」による攻撃を行うなど総力を投入したが、武蔵が撃沈されるなど多大な艦隊戦力を失い、この海戦での敗北を最後に日本軍艦隊は事実上壊滅し、以後大規模かつ組織的活動が不可能となった。
 その直前の台湾沖航空戦やレイテ沖海戦では、現地からの大戦果の誤報や過大報告が相次ぎ、それを信じた大本営は戦況を読み誤った。フィリピン現地の山下大将の状況把握を無視して、レイテ島への主力陸上部隊の移転を命じたが、移送中に大損害を受け補給もままならず、戦闘以前に溺死餓死などで多くの死者を出すことになった。約2ヵ月の戦闘でレイテ島の日本軍は敗北し、大半の将兵が戦死する結果となった。そしてこのレイテ島戦は、翌年8月の終戦まで続く「フィリピンの戦い」の大方の帰趨を決する戦闘となった。
 南西太平洋方面の連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは、フィリピンの奪回作戦に執念をもやした。なにより、フィリピンを支配する在マニラ・アメリカ極東陸軍の司令官であったとき、日本軍に追い詰められ豪州に脱出、" I shall return " と負け惜しみを言うしかない屈辱を味わった地である。さらに事実上のフィリピン総督として、農園を持つなど個人的に多くの資産を形成していた。
 アメリカ参謀本部では、フィリピンを飛ばして台湾や沖縄に侵攻する案が強く、フィリピン奪還は戦略上必要なしとの判断であった。しかしマッカーサーは、「フィリピン国民との約束」の履行を理由に、フィリピン作戦を強引に主張した。マッカーサーは、フィリピンからの「敵前逃亡」("I shall return"は兵士間ではこの意味だった)を行った汚名をそそぐことと、多くの利権を持っていたフィリピンにおける利権の回復という、個人的な理由を優先させた。
 また、ルーズベルト(民主党)は大統領選を控えており、国民的人気のマッカーサー(共和党)が対抗馬になるのを恐れて、マッカーサーに手柄を立てさせないように仕組んできていたが、彼が大統領選に出る気がないという言動をしたため、その要求をしぶしぶ呑んだとも言われている。膝まで海に浸かってレイテ上陸を果たすマッカーサーの写真は有名だが、実際の場にカメラマンが居ず、あらためて場を設定して撮り直させたものだという。
(この年の出来事)
*1944.1.29/ 中央公論社と改造社の編集者らが検挙され、以後、知識人・言論人などが続き30人以上に及ぶ。(横浜事件)
*1944.6.23/ 北海道の洞爺湖畔の平地で大噴火が発生、「昭和新山」が誕生する。
*1944.6.30/ 学童疎開が閣議決定され、8.4より学童集団疎開が始まる。
*1944.7.18/ マリアナ海戦敗北・サイパン陥落などで東条独裁体制に批判が集中、東条内閣が総辞職。7.22に小磯国昭内閣が成立。
*1944.8.25/ パリのドイツ軍が降伏、パリが解放される。
*1944.11.24/ マリアナ基地を飛び立ったB29爆撃機が、東京を初空襲する。
*1944.12.7/ 東海地方が大地震・津波に襲われ大被害を受ける。(東海大地震)

データベース(武器を用いない闘いの歴史の中で、人は如何に生きたか・・・。)

東大教授の上野千鶴子さん

2022-03-28
平成31年度東京大学学部入学式 祝辞
20110709 上野千鶴子退職記念特別講演
2011年7月9日 東京大学弥生講堂において行われた最終講義に当たる特別講演
「主婦業の対価」京大出身で東大教授の上野千鶴子さんの「女性学」の講義です
昭和男は耳をかっぽじって聞きなさい! 
主婦の労働対価について理論的に説明されています。 
東大の入学式での祝辞でいきなりのダメだしが有名です ↓↓↓ 
主婦の労働には今のご時世なら旦那の親の介護も含まれています。
 たいへんだと思います


イムジン河 悲しくてやりきれない きたやまおさむ 坂崎幸之助 南こうせつ

2022-03-30

きたやまおさむ、九州大学、定年退職を記念して2010年3月21日(日)さよならコンサート
あの素晴しい愛をもう一度 きたやまおさむ 坂崎幸之助
きたやまおさむ、九州大学、定年退職を記念して2010年3月21日(日)さよならコンサート

戦争を知らない子供たち きたやまおさむ 坂崎幸之助 杉田二郎



北山 修 プロデュース「さよならコンサート」 日時 2010年3月21日(日) 九州大学医学部 百年講堂大ホール

昭和の時代は都市銀行もこれだけあったものだけど。

2022-02-27
Facebook 福田 晋也さん曰く、今東京がとれてしまったがそれは反映されていない。

 無声映画「殉教血史 日本二十六聖人」

2022-03-19
1931年(昭和6年)、浦上のカトリック信者・平山政十さんの巨額の出資により製作されました。

Facebook 日本二十六聖人記念館さん曰く


4月2日(土)長崎・カトリック浦上教会で二十六聖人の映画が上映されます。
 13:30開場で14:30開演です。
 角川財団「バチカンと日本 100年プロジェクト」の長崎シンポジウムの関連イベントとして企画されました。
 無声映画「殉教血史 日本二十六聖人」は、1931年(昭和6年)、浦上のカトリック信者・平山政十さんの巨額の出資により製作されました。
 これまでも小崎修道士により復刻され、二十六聖人記念館や長崎各地の教会で上映されたことがありました。
 今回の浦上教会(浦上天主堂)での上映では、国立映画アーカイブに残されていたフィルムを基に、弁士による語りとギター&フルートによる生演奏付きの観覧となります。
 今後いつ実現するかわからない、とても貴重な機会となります。
 長崎在住の皆さん、また当日長崎を訪れる予定の皆様に、ひとりでも多く観ていただきたいと思います。
 今回の上映会を告知するチラシやポスターなどは作られないとのこと。興味を持ちそうな方に、是非お伝えください。

豊田章男、母校でのスピーチに拍手が止まらず

2022-03-19
母校であるバブソン大学の卒業式でのスピーチが大きな反響を生んだ豊田章男トヨタ社長。 バブソン大学HPより

【社会】豊田章男、母校でのスピーチに拍手が止まらず. . .
INSIDE TOYOTA #17 【スピーチ】豊田章男が米国で伝えたかったこと
トヨタ豊田社長が社員集会で「公聴会」涙の報告(10/03/05)

トヨタ自動車の豊田章男社長が社員向けの集会で挨拶し、
米議会の公聴会などについて涙を見せながら報告しました。
 ・・・記事の続き、その他のニュースはコチラから!
 [テレビ朝日ANN NEWS] http://www.tv-asahi.co.jp/ann/
Toyota President Aiko Toyoda on Toyota Recalls
2010年、トヨタ車のリコール問題を巡って、豊田社長は米議会公聴会で証言した。 Kevin Lamarque/Reuters

Toyota President Aiko Toyoda gives his opening statement before the House Commerce Oversight Committee hearing 2/24/10.
トヨタ社長 リコール問題で米公聴会出席へ(10/02/19)

トヨタ自動車の豊田章男社長が、
リコール問題についての米議会の公聴会に出席することになりました。
下院が社長本人の出席を正式に要請したことから、訪米を決めました。 ・・・
記事の続き、その他のニュースはコチラから! 
[テレビ朝日ANN NEWS] http://www.tv-asahi.co.jp/ann/

日本国自衛隊

*1960.1.19

2022-05-10
「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」が締結される。

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1960(s35)年】-1
◎日米新安保条約(60年安保)
*1960.1.19/ ワシントンで「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」が締結される。
*1960.5.19/ 19日、社会党議員を強制排除して始まった衆議院本会議は、20日午前零時過ぎに、自民党単独で新安保条約を衆議院可決。
*1960.6.10/ アイゼンハワー大統領来日の事前打ち合わせに来たハガチー大統領補佐官は、羽田空港でデモ隊に包囲され、米軍ヘリコプターで脱出。
*1960.6.15/ 安保阻止実力行使に全国で580万人(主催者側発表)が参加、全学連主流派が国会構内に突入、警官隊と衝突し東大生樺美智子が死亡する。
*1960.6.19/ 33万人のデモ隊が国会を包囲するなか、午前零時、新安保条約が自然成立する。
 1960(s35)年6月15日、安保阻止最大のデモで、全学連主流派が国会に突入し、防衛する警察機動隊・右翼団体・暴力団等と衝突、この混乱のさ中で東大生樺美智子が圧死する事故が起った。その数日後の6月19日、安保条約は参議院の議決のないまま自然成立する。10万規模のデモを官邸から見下ろした岸首相は「となりの後楽園球場には平和な民衆が5万と居る」とつぶやいたとか。
 1951(s26)年のサンフランシスコ講和条約の成立(日本主権回復)と同時に、吉田首相が単独で署名した旧日米安保条約は、日本に片務的で臨時的なものであった。日本の主権回復とともに駐留軍が撤退するため、日本の軍事的空白を防ぐために、引き続き米軍の駐留を認める必要があった。ただしそれは、米国の「駐留権」を認めるという形で、日本の防衛や駐留自体は、もっぱら米国の都合次第という条約であった。
 岸信介は、1957(s32)年2月、病に倒れた石橋湛山首相の後継に指名され、石橋内閣を引き継ぐと、1958(s33)年5月の総選挙で政権としての信任を得て、第2次岸内閣を組閣する。選挙を経て自信を得た岸首相は、アジア重視の自主外交を進めながら、一方で対米尊重の基本枠は譲らず、日米安保条約の改定に向けて、着々と条件を整えていった。
 1960(s35)年1月に、岸首相以下全権団が訪米し、アイゼンハワー大統領と合意し、1月19日、新安保条約の調印にこぎつけた。ワシントンで「新安保条約」に署名するが、その発効には国会の承認が必要であり、岸訪米団が帰国してから、本格的な反対運動が起こる。
 新条約の承認を巡る国会審議では、安保廃棄を掲げる日本社会党が徹底抵抗の姿勢を示し紛糾した。また国会外では、社会党や共産党が指導する労働者団体だけでなく、社会党や共産党の既存革新政党を批判する急進派学生らにより、「共産主義者同盟(ブント)」が結成され、ブントの主導する「全日本学生自治会総連合(全学連)」主流派が、総力を上げて反安保闘争を展開した。
 1960(s35)年5月19日、衆議院日米安全保障条約等特別委員会で新条約案が強行採決され、続いて5月20日未明に衆議院本会議を通過した。委員会採決では、自民党は座り込みをする社会党議員を排除するため、右翼などから屈強な男たちを動員し、警官隊と共に社会党議員を追い出しての採決であった。本会議は、翌20日に日付が変わったころ、自民党議員だけで議決された。
 この強行採決の模様がテレビニュース等で流されると、一般市民の間にも反対の運動が高まり、国会議事堂の周囲は連日デモ隊で取り囲まれた。参議院での議決が為されない場合、新安保が自然承認される6月19日には、アイゼンハワー大統領訪日が予定されており、6月10日にその日程調整に来日したハガチー大統領報道官は、羽田空港を出たところでデモ隊に包囲され、アメリカ海兵隊のヘリコプターで救出されるという事件が発生した(ハガチー事件)。
 過激な全学連は国会突入戦術を推進していたが、社会党は傘下の組合の時限ストやデモを組織しつつ、全学連の強硬路線には静観的な立場を取り、共産党は「極左冒険主義の全学連(トロツキスト=分派主義)」と批判した。一方、当のブント全学連は、既成政党の穏健デモを「お焼香デモ」と非難した。
 そして6月15日、安保改定阻止国民会議の呼びかけで、全国各地で560万人が集い、各地で大規模な集会やデモが実施された。国会前でも、暴力団と右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの負傷者を出すなどするなか、全学連主流派が指揮するデモ隊が国会内に突入、機動隊と激しく衝突する。そのさなかで、デモに参加していた東京大学学生の樺美智子が圧死した。
 新安保条約は、衆議院議決1ヵ月後の6月19日、参議院の議決がないままに自然成立した。またアイゼンハワーの来日は延期(実質上の中止)となった。そして岸内閣は、混乱の責任をとる形で、新安保条約の批准書交換の日である6月23日、総辞職を表明した。これらにより、安保反対運動は急速に沈静してゆく。
(この年の出来事)
*1960.3.28/ 1.5無期限ストに突入していた三井三池炭鉱は、ロックアウト解除をめぐって第1と第2組合で衝突、さらに泥沼化する。
*1960.5.16/ 慶応幼稚舎2年生の男の子が誘拐され、19日に死体で発見される。(正樹ちゃん誘拐事件)
*1960.8.25/ 第17回オリンピック・ローマ大会が開催される。 
*1960.11.8/ 米大統領選挙で、ジョン・F・ケネディが当選する。

共同訓練を実施しました。

2022-05-27
5月24日~25日、護衛艦 #てるづき関東南方において、米海軍 #ロナルドレーガン #アンティータム 及び #ベンフォールドと共同訓練を実施しました。
海上自衛隊は本訓練を通じて日米同盟の抑止力・対処力を強化するとともに海上自衛隊の戦術技量及び米海軍との相互運用性の向上を図りました。

日米の第5世代戦闘機 #F35A 同士が初の対戦闘機戦闘訓練を実施

2022-03-15
3月10日、日米の第5世代戦闘機 #F35A 同士が初の対戦闘機戦闘訓練を実施
#航空自衛隊 のF-35Aは、2018年に三沢基地に配備されて以降、訓練を着実に積み重ねてきました。
本訓練によって、進化する #日米同盟 の姿と両国の揺るぎない絆を示しました!

無人偵察機「グローバルホーク」の第1号機

2022-03-15
3月12日、三沢基地に、
#航空自衛隊 が運用する無人偵察機「グローバルホーク」の第1号機が
納入されました。
民間機の飛行しない高高度に長時間滞空して情報収集に当たり、
我が国のインテリジェンス向上に大きく寄与します。
厳しい軍事情勢の中、警戒態勢を一層強化していきます。
#防衛省・自衛隊

自衛隊の装備品等を米軍機によりウクライナに届ける準備を進めています。

2022-03-17
ウクライナに届ける #自衛隊 の防弾チョッキやヘルメット等を載せた米軍機C-17が、
横田基地を出発する予定です。
日米は強固に連携し、ウクライナを応援します。
3月16日 #防衛省・自衛隊 は、在日米軍横田基地において #鬼木防衛副大臣 、エマニュエル駐日米国大使@USAmbJapan 、セメニューク駐日ウクライナ大使館@UKRinJPN公使参事官が見守る中、自衛隊の装備品等を米軍機によりウクライナに届ける準備を進めています。 #日米同盟
国際秩序の根幹を揺るがす今回のロシアによるウクライナ侵略は我が国の安全保障の観点からも、決して看過できません。今回の米軍機による輸送は、この事態に対し、日米両国が、#日米同盟 の下、国際社会と結束して毅然と行動していく決意を示すものです。#ウクライナのために #防衛省・自衛隊

闘いすんで 陽が暮れて・・・

硫黄島からの帰還です。

2022-02-09
Facebook 徳田 秀光さん曰く
 硫黄島から、英霊が77年ぶりに雨模様の中、自衛隊のc-130h輸送機でお帰りに成りました。埼玉県の入間基地で儀じょうにより出迎えました。
  この度、ご帰還された英霊は14柱。
帰路の自衛隊機には14人分の席を用意されました。
英霊にとっては77年ぶりのご帰還。
安らかに帰れるようにと自衛隊員達は隣の席の骨箱に、優しい手付きでシートベルトを着けました。 
 米軍の火炎放射器等で塞がれた地下壕で発見された英霊は、家族から届いた手紙の束を握りしめたままの方々もいます。
 『お父さんお元気ですか。僕も元気で毎日学校に行ってべんきょうしています…………』
 発見者は、涙が出て全てを読めなかったと報告書に記しています。

日本です。新婚旅行です。ディマジオがいっしょでした。

2021-11-11
Facebook Nostalgia&Rock'n’ Roll ノスタルジア・ロックンロールさん曰く
朝鮮戦線を慰問、日本での新婚旅行を中座して・・・。

マリリン・モンロー ジョー・ディマジオ来日(新婚旅行)の日程 

 

1954年(昭和29) 2月1日 午後5時35分 羽田着 

夫のジョー・ディマジオ サンディエゴ・パドレス監督の

フランク・オドウル氏らとともにオープンカーをつらねて帝国ホテルへ。

              

2月2日 記者会見

   ディマジオの為の記者会見だったが、質問はすべてマリリン

へのものだった。

 

2月8日 午後7時30分 板付着 

那珂川河畔の国際ホテル(現在の城山ホテル跡)へ

                     ホテルを500人あまりのファンが取り巻く。

マリリンは2階の窓辺に現れ、カーネーション の花びらを

ファンにばらまいて、投げキッスをふりまいた。

滞在中は、1人で、西戸崎へ米軍キャンプの慰問、

ドライブなどを楽しむ。

ディマジオ、オドウル監督らは、香椎球場で日本プロ野球選手の

技術指導を行う。

夕食はお忍びで、ホテルの通りをはさんだ向かいのレストラン

ロイヤル(旧花の木)で食事を楽しむが、店をファンに埋め尽くされる一幕も。

            

2月11日 午前9時10分 岩国市の米軍基地へ

                    ディマジオ・マリリン一行は、自動車で宮島の一茶苑に向かったが、

ファンが殺到しMPが出動する騒ぎだった。

            

2月14日 岩国から大阪へ

            

2月16日から19日まで

     マリリンは、朝鮮の国連軍慰問(10ヵ所以上の駐屯地を訪問)し、カゼを引く

     ディマジオは、大阪・奈良などを訪問し、野球指導を行う。

            

2月25日 午後2時7分 羽田からサンフランシスコへ帰国

ロイヤルのこの器は、今(2021年)でも、この形で、テーブルにサービスされています。

昭和天皇の御巡幸 戦後全国を御巡幸された陛下。

2021-11-25
Facebook 上野不二子 さん曰く、親しみやすい笑顔が印象的ですね。

真宗大谷派の取り組みについて

「全戦没者追弔法会」の和讃

2021-04-04
Facebookしんらん響流館さん曰く
1987年から「戦没者追弔会」に「全」と仏法の「法」という文字を加えて「全戦没者追弔法会」と名称を改め勤められています。

【4/2全戦没者追弔法会】

2021-04-04
Facebookしんらん交流館さん曰く
1987年から「戦没者追弔会」に「全」と仏法の「法」という文字を加えて「全戦没者追弔法会」と名称を改め勤められています。

尾畑文正先生の発言

2022-04-24
Facebook鈴木 君代さんの投稿です。

【春の法要ライブ配信】全戦没者追弔法会(4月2日10時10分~)

2021-04-02

全戦没者追弔法会 戦争でいのちを奪われた方々を憶念し、仏が願われた「兵弋無用(軍隊も武器もいらない)」の教えから、私たちの今を問い直す法要です。
 ◆法要 10時20分~ 
【法要次第】
 出仕
 着座楽 
総礼 
伽陀 稽首天人 
登高座 
表白 
伽陀 万行之中
 御経 仏説阿弥陀経 
伽陀 直入弥陀 
下高座 
総礼 
正信偈 草四句目下(同朋唱和) 
念仏讃 淘五 三重念仏 
和讃 無明長夜の燈炬なり 次第三首 
回向 願以此功徳 
総礼 
恩徳讃 
退出楽 退出
全戦没者追弔法会   表 白
謹んで阿弥陀如来、宗祖親鸞聖人 、ならびに
三世十方の諸仏如来に申し上 げます。
 本日ここに、親しく宗祖親鸞聖人のまえに坐 すことを得て、全戦没者追弔法 会を厳修いたします。このときにあたり、一つには過去の 罪障を懴悔し、二つには現在の遇法を慶喜び、三つには将来に同朋社会の顕現を期したいと存じます。 
第一に、過去の罪障を懴悔するとは、われらの宗門が、先の悲惨な侵略戦争 に自ら荷担し、それを「聖戦」と呼び、「まったくおおせにてなきことをも、 おおせとのみもうす」罪を犯したことであります。 実に、五逆謗法の咎逃れがたく、今更あらため 全戦没者の悲しみを 憶念し、ここに真宗大谷派が無批判に戦争に荷担した罪を表明し、過去の罪障を懴悔いた します。
 第二に、現在の遇法を慶喜ぶとは、そのわれらの罪障にも拘らず、如来の本 願はその罪を私たちに知らしめ、罪に向き合い、平和への道を歩ましめるので あります。
 第三に、同朋社会の顕現を期すとは、本願念仏の教法に生きる者は「四海の 内みな兄弟とするなり」という浄土の 荘厳功徳をこの身に受け、死者と生者が 一つに出会い、国家や民族の境を超えた「同朋社会」の顕現に 向 む かって 生 い きる 者 もの となるのであります。 われら 真宗門徒、ここに 非戦平和の誓いを 表 白し、ひとえに、この身とこの世の無明の闇を 照らす仏の教えに随い、ともに生きあえる世界 への道を歩まんことを誓うものであります。 

   二〇二一年四月二日  釋修如

仏が願われた「兵弋無用(軍隊も武器もいらない)」の教え

2021-08-15
Facebook 阪下 大介さん曰く

【 Facebook闘いのページ】のページ、管理者は住職です。

政局について

「若手政治家」の登竜門

2022-03-18
自民党青年局長

Facebook 時事通信社さん曰く


1955年の結党時から存在する役職で、「若手政治家」の登竜門とも言われる自民党青年局長。
同局は、議員外交や党改革などで独自の存在感を発揮する一方、近年は時代の変化への対応も求められている。

「政界Web」最新記事はこちら⇒https://www.jiji.com/jc/v8?id=20220318seikaiweb

ロシアのウクライナ侵略は、日本にも考えさせられることが多いようです。

2022-03-09

Facebook 伊吹 文明さん曰く


ロシアのウクライナ侵略は、日本にも考えさせられることが多いようです。
国民に安心安全で幸せな日常を担保する理念・統治の仕組は、国により様々です。自由と市場経済の国、統制や計画経済の国、国民主権の民主制の国、世襲の君主制の国、民主制の衣を纏っていても反対の価値観や意見を抑えこむ独裁国家も。そのなかで各国は国益をかけ動くのが国際社会の現実です。
この現実のなかで、国際秩序・平和を護る大原則は、軍事力等力で現状を変えない、他国の主権を犯さないとの国際法や国連憲章の基本原則です。
 全ての国がこの基本原則を護るとは期待できない現実をウクライナ侵略は教えています。
だからこそ各国は防衛力を整備し、相互に助け合う同盟関係や安全保障条約を締結しています。
日本国憲法の前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、我々の安全と生存を保持しようと決意…」は、冷徹な国際社会の力の現実であるウクライナ侵略、北朝鮮の核とミサイル開発、尖閣問題、竹島や北方四島の現状からは、どう考えれば良いのでしょう。
 国際紛争の当事国には自らを正当化する各々の言い分があり、プーチン大統領の暴挙にも、ロシアを対象とする軍事同盟NATOが、自国の身近に迫るのを抑止したいとの言訳が。
しかし、プーチン大統領の言い分の理解と暴挙への理解は違うのです。
ウクライナはNATO加盟国ではありませんが、ロシアの苛立ちがウクライナを戦場にし、ウクライナ国民に犠牲を背負わせています。
武器を含めた援助や各種制裁も大切ですが、ウクライナの平和と安全を保障する為、米国と欧州がロシアとの交渉の前面に直接出て、NATOとロシアの相互譲歩の交渉・合意は出来なかったのでしょうか。
ゼレンスキー大統領の姿勢、ウクライナ国民のけな気さが心を打つだけに、国際社会の冷徹な現実を感じます。
 核保有の軍事大国が力による現状変更を強行した時、核保有国同士の争いを覚悟のうえで、当事国(今回はウクライナ)を他国が前面に出て助けるでしょうか。
日本は世界三位の経済大国であり、日米安保条約による米国の同盟国ですが、それでも米バイデン大統領の今回の発言や米国世論を見ると、どうでしょう。
防衛力増強や核の共同管理(米国の核の国内配備と共同運用)について、観念的・感情的に主張、反対する前に、まず安穏な日常を当り前とせず、冷徹な国際社会のなかで祖国・日本がどうあるべきかの国民的議論の時だと思うのです。

揺らぐ自公連立 その裏で岸田首相の政敵・菅氏と創価学会とのパイプ復活

2022-02-28
© NEWSポストセブン 提供 菅義偉氏が持つ公明党・創価学会とのパイプとは?(時事通信フォト)
© NEWSポストセブン 提供 自公の選挙協力体制に変化?(公明党の山口那津男・代表/時事通信フォト)
2022/03/01 07:15

自民党と公明党の連立が大きく揺らぎ始めた。公明党の山口那津男・代表が2月6日放送のBSテレ東の報道番組で、夏の参院選での自公選挙協力について、「(自民党に)相互推薦をお願いしたが、現にない以上、自力で勝てるようにやらざるを得ない」と岸田自民に“最後通牒”を突きつけたのだ。

 支持母体の創価学会も足並みを揃えている。創価学会は1月27日に国政選挙や地方選挙の方針を決める中央社会協議会を開催し、選挙の支援方針は「人物本位」で選び、「今後より一層、党派を問わず見極める」ことを申し合わせたことが報じられた。これからは自民党以外の候補者を支援することもあり得るという大きな方針転換だ。

学会の政治担当が“現場復帰”

 さる2月5日、朝日新聞に小さな訂正記事が掲載された。

〈4日付総合4面「『相互推薦』自公あつれき」の記事で、創価学会の「佐藤浩元副会長」とあるのは「佐藤浩副会長」の誤りでした。佐藤氏は昨年学会職員を定年で退いた後も、引き続き副会長を務めています。確認が不十分でした〉

 創価学会に朝日新聞が掲載した訂正文について聞くと、「事実と違うため指摘しました」(広報室)と回答。佐藤氏が現在も「副会長」という肩書きを持っていることに対しては「法人職員の退職と組織役職は無関係です」と答えた。

 佐藤氏といえば、創価学会の政治担当責任者として安倍晋三・菅義偉両政権に太いパイプを持っていたことで知られる。特に菅氏とは官房長官時代から政治懸案があると水面下で交渉にあたったとされる人物だ。安保法制などタカ派路線の安倍政権時代に「平和と福祉」を掲げる公明党・創価学会との関係がうまくいっていたのは、「菅・佐藤の“ホットライン”で事前に入念にすりあわせしていたからだ」(官邸関係者)と言われる。

 だが最近、佐藤氏の引退説が流れていた。『宗教問題』編集長の小川寛大氏が語る。

「佐藤氏が昨年2月に学会本部職員を定年退職したとき、引退との見方が流れた。公明党の遠山清彦・前代議士(貸金業法違反で起訴)がコロナ禍の銀座通いを批判されて議員辞職したタイミングだったため、学会の政治担当としてケジメをつけたのではないかと見られたわけです。だから朝日も『元』副会長と勘違いしたのでしょう」

 しかし、佐藤氏は引退していなかったという。

「昨年10月の総選挙で、創価学会には選挙を仕切ることができる人材が少ないので、定年退職していた佐藤氏が力を必要とされて“現場復帰”した。佐藤氏の活躍で公明党は久しぶりに700万票を獲得した」(同前)

 朝日の「元副会長ではなく現在も副会長」という訂正記事は、佐藤氏が創価学会内部で依然力を持っていることを内外に示す効果があった。

 その佐藤氏の“現場復帰”に合わせたようなタイミングで自公関係が悪化したのは偶然だろうか。菅氏の側近の証言は重要だ。

「菅さんが総理の間は、佐藤副会長とはほとんど連絡を取っていなかった。官房長官と副会長なら釣り合うが、トップの総理と副会長が親しくし過ぎると、佐藤氏が創価学会内部でにらまれて立場が悪くなりかねないという配慮もあった。しかし、菅さんが総理を辞めてからは以前のように連絡を取り合っているようで、最近は創価学会の話をよくするようになった」

 佐藤氏は菅氏とのパイプも復活していたというのである。

 そこに自公の選挙協力問題が持ち上がり、公明党・創価学会が菅氏の政敵の岸田自民に“選挙協力破棄”を突きつけた。

 岸田首相の政治路線は「ハト派リベラル」とされ、政策的には公明党と親和性が高いはずだが、岸田政権には公明・創価学会指導部との人脈がほとんどないとされる。そのことが、公明党を制御できない政治的弱点だ。政治ジャーナリスト・野上忠興氏が指摘する。

「安倍・菅政権時代は、官邸では菅氏が創価学会とパイプを持ち、党では当時の二階俊博・幹事長が公明党と良好な人間関係を築いていた。しかし、岸田首相には学会中枢とのパイプがないし、茂木幹事長も公明党との関係が良くない。ホットラインがないから重要な選挙協力をまとめられない。

 岸田政権はハト派とはいえ、これから憲法改正や自衛隊の敵基地攻撃能力保有問題など創価学会にとってナーバスなテーマに取り組まなければならない。

 公明党にすれば、政権中枢に人脈的なしがらみがない分、安保政策では本来の平和主義の主張を声高に叫んで野党的な立場に回り、岸田首相を攻めることができる。そのほうが学会員にアピールでき、選挙で票も取れるという計算がある。岸田氏に引きずり下ろされた菅氏も、公明党が岸田政権を揺さぶってくれるのは都合がいい」

 公明党が菅氏と手を組んで連立にいながら“岸田野党”の立場を鮮明にしているとの見方だ。

※週刊ポスト2022年3月11日号

自公協力に亀裂、公明党は自民に長年の不満「我々は使い走りではない」の思いも

2022-02-28
© NEWSポストセブン 提供 自公の選挙協力体制に変化?(公明党の山口那津男・代表/時事通信フォト)
2022/02/28 11:15

 感染第6波の出口が未だ見えない中、国政では自民党と公明党の連立が大きく揺らぎ始めた。公明党の山口那津男・代表が2月6日放送のBSテレ東の報道番組で、夏の参院選での自公選挙協力について、「(自民党に)相互推薦をお願いしたが、現にない以上、自力で勝てるようにやらざるを得ない」と岸田自民に“最後通牒”を突きつけたのだ。

 支持母体の創価学会も足並みを揃えている。創価学会は1月27日に国政選挙や地方選挙の方針を決める中央社会協議会を開催し、選挙の支援方針は「人物本位」で選び、「今後より一層、党派を問わず見極める」ことを申し合わせたことが報じられた。自公両党は小渕恵三内閣の1999年に連立を組んで以来、野党時代を含めてこれまで23年間、国政選挙で選挙協力をしてきたが、これからは自民党以外の候補者を支援することもあり得るという大きな方針転換だ。

 そうなると、自民党の政権基盤が揺らぐ。政治ジャーナリスト・野上忠興氏が指摘する。

「公明党・創価学会が選挙で自民党に票を出して当選を支援し、代わりに自民党は公明党に大臣や副大臣、政務官ポストを与えて国政に参加させる。それが自公連立の根幹をなしている構造です。選挙協力が白紙になれば連立の基盤そのものが危うくなるのは間違いない」

 まさに自公の“熟年離婚危機”と言っていい。発端は今夏の参院選をめぐる自公協議が“破談”になったことだ。前々回の2013年参院選以来、公明党が候補者を立てない1人区(32県)で自民党候補を支援する見返りに、自公の候補がぶつかる埼玉、神奈川、愛知、兵庫、福岡の5選挙区では互いの候補を推薦し合う「相互推薦」という仕組みをとってきた。

 しかし、前回参院選は相互推薦の結果、兵庫では自民候補の票が公明党に食われて最下位当選となったことから、自民党の地方組織が抵抗して協議が難航し、茂木敏充・自民党幹事長は「上(党本部)から言うことを聞けという形は取りにくい」と協定を結ばない可能性に言及した。これに公明・学会サイドが怒った。

 公明党の強硬姿勢に驚いた岸田文雄・首相は事態収拾のため2月8日に官邸で山口氏と会談したが、山口氏は会談後、相互推薦見送りの方針は「繰り返し述べてきた通り、変わらない」と断言。

 元公明党副委員長の二見伸明・元運輸相は「公明党や創価学会には長年の不満がある」と語る。

「自民党の中には、公明党を低く見る議員がいる。特に、安倍政権の高支持率を追い風に当選してきた4回生以下は公明党・創価学会の支援は当たり前と思っているんでしょう。それに対して公明党には『我々は使い走りではない』という思いがあるはずです。

 また、ここに来て政界では自民党が日本維新の会や予算案に賛成した国民民主党と連立に動くのではないかという観測が強まっている。そんな動きを公明党は『どうぞ』とは言えない。維新や国民民主には創価学会のような票はありません。自民党がそのつもりなら、公明党・創価学会はこれまでどれだけ自民党に票を与えてきたか、この機会に力を示して思い知らせようということでしょう」

※週刊ポスト2022年3月11日号

· 自分の生まれた日の新聞、 池袋のナンジャタウンで購入 でも20年以上前、

2022-01-20
Facebook 布施 隆司さん曰く、今でもあるのかなー、。
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