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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

エールフランスロゴ

2021-07-01

 エンブレムは、
魚の尾を持つ翼のある馬の形をした
神話上の生き物である海馬のイメージを使用しています。
伝説によると、それは古代の神々が戦車に入れた最速の動物だという。
ネレイドもそれに乗った。
極端なスピードの体現として彼が
彼のロゴのためにエールフランス航空会社によって選ばれたのは彼でした。

Casablanca / As Time Goes By (Dooley Wilson)カサブランカ(映画)/ 時の過ぎゆくままに

2021-07-01

「カサブランカ」アメリカ映画(1942年) 
主題歌:「時の過ぎゆくままに」ドーリー・ウィルソン 
配役:ハンフリー・ボガード(リック・ブレイン)  イングリッド・バーグマン(イルザ・ラント)      ポール・ヘンリード(ヴィクトル・ラズロ)  クロード・レインズ(ルノー署長)
監督:マイケル・カーティス 
第16回アカデミー賞で作品賞・監督賞・脚色賞を受賞

田中家の休日 (昭和49年 文京区目白)

2021-06-30

田中家の休日 (昭和49年 文京区目白)
家族とくつろぐ角栄総理。
孫の雄一郎さんは50歳になり公認会計士として活躍中ですが、
議員として擁立しようとして断られた政党があったとか…

二人の作家と金閣

2021-06-30
金閣は放火により炎上、その再建は昭和30(1955)年のことでした。
昭和31(1956)年、「金閣寺」
昭和42(1967)年、「五番町夕霧楼」
ドキュメンタリー作品、モデルは林承賢。
Facebook 佐々木信雄さん曰く
 火災から再建された翌昭和31(1956)年、三島由紀夫は「金閣寺」を発表する。放火犯で吃音症などのコンプレックスで孤立する徒弟僧と、荘厳華麗な金閣の対比は、識者の関心を呼んだ。綿密な取材に基づいた観念小説であり、「仮面の告白」の続編とも言える。同時期に始めたボディビル等の「肉体」改造と同じく、この作品を通じて「文体」の改造構築を試みた。三島にとって、自己も自分の肉体も、ありのままなど認められない「構築すべきもの」であったと言える。
 一方、直木賞作家として遅いデビューとなった水上勉は、三島より数歳年上とはいえ同世代に属するが、戦中に十代すでに文壇デビューしていた三島とは、まったく異なる文学履歴をもっている。水上は昭和42(1967)年に「五番町夕霧楼」で、同じ放火犯の修行僧を主人公とした小説を書く。
 吃音などのコンプレックスが内向し、観念上で創り上げてしまった金閣の前で自意識が堂々めぐりし、結局、放火するより仕方なくなったという三島「金閣寺」に対して、水上の「五番町」では、西陣の遊郭五番町に売られた同郷の幼なじみ夕子をヒロインとして、修行僧の一縷の安逸の場をもうけている。
 高級官僚の家庭に生まれ、若くして早熟の天才として注目された三島とは対照的に、水上は福井の寒村に生まれ、砂を噛むような貧窮のもとで、早くから京の禅院に小坊主に出された。幾度か禅門から逃亡し文学をこころざすも、文筆活動では食えず生活苦を極めた。40歳を過ぎてやっと、小坊主体験をもとに描いた「雁の寺」で直木賞を受賞し世に認められた。
 水上の「五番町」が、三島の「金閣寺」を意識して書かれたのは間違いない。しかし、水上は放火犯林承賢とは福井の同郷であり、ともに禅林に徒弟修業に出され孤立をかこっていたのも同じような境遇。自己の投影の単なる素材として扱う三島作品に対して、「それは違う」という異議申し立ての気分が強かったと思われる。20年以上たってからも「金閣炎上」というドキュメンタリー作で、再度林承賢の実像に迫り続けたことが、それを示していると言えよう。
 文学に関心のあるむきは、単なる金閣寺観光だけでなく、この両小説を読み比べてみるのも、一趣ではないだろうか。 

◎前九年の役

2021-06-29
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【11th Century Chronicle 1041-1060年】
【11th Century Chronicle 1041-1060年】
◎前九年の役
*1051.-.-/ 安倍頼時の反乱を鎮圧するため、新たに源頼義を陸奥守に任命する。(前九年の役の始まり)
*1054.-.-/ 安倍頼時の子貞任が、陸奥守兼鎮守府将軍源頼義の兵営を襲撃する。
*1056.12.29/ 陸奥守源頼義を征夷大将軍に任命し、あらためて安倍頼時追討を命じる。
*1057.7.26/ 源頼義が、安倍頼時を討つ。
*1057.11.-/ 源頼義が、頼時の子安倍貞任に大敗を喫する。
*1062.-.-/ 源頼義が安倍貞任を討つ。(前九年の役終結)
 すでに100年以上前に関東では「平将門の乱」、瀬戸内では「藤原純友の乱」が同時的に引き起こされ、これらは合わせて「承平・天慶の乱(935-41)」と呼ばれる。地方に土着して力を蓄えた武士団の反乱は、朝廷の貴族たちを驚かせたが、その後に、藤原道長・頼通の摂関政治の最盛期を迎える。
 しかしその間にも、荘園などの私有地増大と連動して、地方では武士が着々と力をつけていた。そして再び中央を驚かせた反乱が、「前九年の役(1051-62)」と「後三年の役(1083-87)」であった。
 これらは、武士団の反乱を、朝廷の意を受けた別の武士団が平定するという形で、いずれにせよ武士の名声を高めることになった。なかでも源氏(河内源氏)は、これらの反乱を鎮圧することで、武士団の棟梁的立場を確立する。
 「前九年の役」は、陸奥国の有力土豪だった安倍氏が、貢租を怠るなど半独立状態になっていたのを、永承6(1051)年、陸奥守藤原登任が兵を出して安倍氏の懲罰を試みたことに始まる。
 玉造郡鬼切部で戦闘が勃発するが、この戦いでは安倍氏が勝利し、敗れた登任は更迭され、河内源氏の「源頼義」が後任の陸奥守となった(鬼切部の戦い)。その翌年、大赦があり安倍氏も罪を赦され、安倍頼良は陸奥に赴いた陸奥守源頼義を饗応し、自ら名を「安倍頼時」と改めた。
 しかし、陸奥守源頼義の任期が終わる天喜4(1056)年、頼義の配下が安倍頼時の手勢に襲われたという疑義が生じ、鎮守府将軍源頼義・義家と安部頼時・貞任父子との間に争いが再発した。天喜5(1057)年、一進一退の戦況のなか、源頼義が仕掛けた挟撃策に対処するため、安部頼時は急遽で向いた津軽で、身内の寝返りで深手を負った末に死去する。
 源頼義は安部頼時戦死を報告するも、論功行賞を受ける事が出来ず、同年11月、頼時のあとを継いだ「安部貞任」を討つべく、再び出撃する。しかし源頼義ひきいる国府軍は安倍軍より少ない手勢で、しかも不慣れな厳寒の中で行軍は難航し、地の利を得た安部貞任の軍が圧勝した(黄海の戦い)。
 その後、安倍氏はさらに勢力を伸ばし続け、他方、国府側は二度の敗戦での痛手回復に手間取った。康平5(1062)年、苦戦を強いられていた頼義は、中立を保っていた出羽国(秋田県)の豪族清原氏に援軍を要請した。
 清原氏の族長清原光頼はこれを承諾し、弟武則を総大将として軍勢を派遣した。かくして源頼義・清原氏連合が成立し、清原氏の参戦によって形勢は一気に逆転する。同年9月、安倍氏の拠点であった厨川柵や嫗戸柵が陥落し、安倍貞任は戦死し安倍氏は滅亡した(厨川の戦い)。
 騒乱を鎮定した源頼義は正四位下伊予守に任じられ、清原武則は戦功により従五位下鎮守府将軍に補任され、清原氏が奥羽の覇者となった。しかし皮肉にも20年後には、この清原氏の内紛に源頼義の子義家が介入することで「後三年の役」が勃発することになる。
(この時期の出来事)
*1042.3.10/ 延暦寺の僧徒が円城寺円城院を焼く。
*1043.5.8/ 全国的な大干ばつのため、僧正仁海が請雨経修法を神泉苑で行う。その5日後に降雨がある。
*1048.3.-/ 仏師定朝が、興福寺造仏の功績により法眼となる。
*1048.8.11/ 明尊が延暦寺天台座主となるも、13日後には山徒の反対で辞任、源心が就任。
*1049.12.28/ 興福寺の僧徒が、大和守源頼親の館を襲う。
*1050.1.25/ 興福寺と闘い続けた大和守源頼親・頼房父子が、ついに土佐および隠岐に配流される。
*1051.2.13/ 藤原頼通の娘女御寛子が皇后となる。
*1052.3.22/ 関白藤原頼通が、宇治の別荘を仏寺とし平等院と号し、翌年3月には平等院阿弥陀堂(鳳凰堂)の落慶供養が行われる。
*1052.-.-/ この年から末法初年に入るとされ、末法思想が流行する。
*1055.-.-/ 「堤中納言物語」「浜松中納言物語」「夜半の寝覚」が成立する。
*1059.-.-/ 藤原孝標女が「更級日記」を書き上げる。
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