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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

王政復古のクーデター

2021-05-27
◎乙巳の変と大化の改新
Facebook佐々木信雄さん曰く【7th Century Chronicle 641-660年】
【7th Century Chronicle 641-660年】
◎乙巳の変と大化の改新
*645.6.12/ 中大兄皇子が中臣鎌足らと、板葺宮で蘇我入鹿を暗殺する(乙巳[いつし]の変/大化の改新の始まり)。
*645.6.13/ 蘇我蝦夷が、館に火を放ち自殺する。
*645.6.14/ 孝徳天皇が即位し、中大兄皇子が皇太子となり、中臣鎌足は内臣とする。
*645.6.19/ 初めて元号を定め「大化」とする。
*646.1.1/ 「改新の詔」4ヵ条を発布する。
*652.1.-/ 最初の班田収授が行われる。
*652.9.-/ 難波長柄豊碕宮が完成する。
*655.1.3/ 孝徳天皇と不仲になった中大兄皇子が、皇極上皇を再び即位させ斉明天皇とする。
*656.-.-/ この年、後飛鳥岡本宮に斉明天皇が移る。
 「乙巳の変」(いっしのへん)は、「中大兄皇子」「中臣鎌足」らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変のことを指し、それに続いて、中大兄皇子を中心に体制を刷新する一連の改革が行われ、それを「大化の改新」と呼ぶ。
 推古天皇30(622)年2月、厩戸皇子(聖徳太子)が死去した。聖徳太子は蘇我氏の血を濃く引いており、「蘇我馬子」と連携して推古天皇の摂政的役割をになっていたが、その死により蘇我氏を抑える者がいなくなり、蘇我氏の専横が際立つようになった。
 推古天皇36(628)年3月、推古天皇が後嗣を指名することなく崩御すると、馬子の後を継いだ「蘇我蝦夷」は、後継に田村皇子を推し、「山背大兄王」(聖徳太子の子)を推す叔父の境部摩理勢を滅ぼしてしまい、強引に田村皇子(舒明天皇)を即位させた。
 皇極天皇2(643)年10月、蘇我蝦夷は朝廷の許しも得ず、紫冠を自分の継嗣「蘇我入鹿」に授け大臣となし、自分の後継とした。皇極天皇2(643)年11月、蘇我入鹿は、蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を次期天皇に擁立しようと望み、有力な皇位継承権者である山背大兄王を襲撃させ、聖徳太子の血を引く上宮王家を滅亡させてしまう。
 舒明天皇の子「中大兄皇子」や神祇職の一族の「中臣鎌足」は、蘇我氏の専横を憎み蘇我氏打倒の計画を密に進めた。鎌足らはさらに、蘇我一族の長老 蘇我倉山田石川麻呂を同志に引き入れ、機会をうかがった。
 皇極天皇4(645)年、三韓(新羅・百済・高句麗)からの使者が進貢をする朝廷の儀式が行われることになり、大臣の入鹿も必ず出席するとして、中大兄皇子たちはこれを暗殺の絶好の機会とした。
 皇極天皇4(645)年6月12日、板葺宮の大極殿に皇極天皇が出御し、蘇我入鹿も入朝し、石川麻呂が上表文を読み上げる。その時、潜んでいた中大兄皇子と中臣鎌足らは、一気に入鹿に斬りかかり、逃げようとする入鹿を討ち取った。
 中大兄皇子は迅速に周辺を固め、諸皇族・諸豪族を従わせることに成功した。翌6月13日、観念した蝦夷は自ら舘に火を放ち自殺し、強盛を誇った蘇我本宗家は滅亡した。翌6月14日、皇極天皇は軽皇子(孝徳天皇)へ譲位し、中大兄皇子は皇太子となった。
 中大兄皇子は阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、中臣鎌足を内臣に任じ、後に「大化の改新」と呼ばれる一連の改革を断行する。初めて元号を「大化」と定め、翌 大化2(646)年正月には、新政権の方針を大きく4ヵ条にまとめた「改新の詔」を発布した。改新の詔は、それまでの「氏姓制度」を廃止し、天皇を中心とする中央集権の「律令国家」を目指すものであった。
 これらは、大化の改新が律令体制を目指した改革だと示すものであったが、日本書紀などにおける記述は、天武・持統以降の律令が整えられた時代に沿うように粉飾されたものだと判明している。以降、中大兄皇子が「天智天皇」として即位してからも、近江京に遷都するなど、政権も政策も不安定な状況が続くことになる。
(この時期の出来事)
*642.1.15/ 皇極天皇が即位。蘇我蝦夷の子入鹿が執政となる。
*643.4.28/ 皇極天皇が離宮から、完成した板葺宮に移る。
*643.10.6/ 蘇我蝦夷が、天皇の授けるべき紫冠を、独断で子の入鹿に授け、大臣に擬する。
*643.11.1/ 蘇我入鹿が、聖徳太子の継嗣山背大兄王を襲撃し、一族を滅亡させる。
*649.3.25/ 蘇我倉山田石川麻呂が、謀反の疑いをかけられ自殺する。
*650.2.9/ 宍戸(長門)の国から白い雉が献上され、瑞祥として「白雉」と改元する。
*658.4.-/ 阿倍比羅夫が、水軍を率いて日本海を北上、秋田・能代の蝦夷を平らげる。
*658.11.11/ 孝徳天皇の皇子 有間皇子(19)が、謀反のかどで処刑される。
*660.7.16/ 百済が唐・新羅に滅ぼされる。百済の将軍鬼室副信は、日本に救援を求める。

停戦直後のガザをドローン撮影

2021-05-25
攻撃の応酬が続いた中東イスラエルとイスラム組織「ハマス」が日本時間の5月21日、停戦で合意しました。
その翌日、パレスチナ自治区・ガザに入ったTBSの取材チームが、激しい空爆を受けた街の様子を空から撮影した映像を公開します。

最終勝利者

2020-12-02
鄧小平と周恩来

革命の勝者

2020-12-02
虎の威を借る四人組の一人、江西夫人

革命の犠牲者

2020-12-02

データベース(武器を用いない闘いの歴史の中で、人は如何に生きたか・・・。)

雅子さま、安倍晋三氏との浅からぬ縁と強い追悼のお気持ち 国葬開催決定に影響か

2022-07-31

天皇皇后両陛下としては最大限の追悼の意を、安倍晋三氏の死去に際して示された。平成から令和にかけて、国の安寧のために共に身を捧げたというシンパシーだけではないだろう。雅子さまは、皇太子妃として皇室に入られるずっと以前から、安倍氏とは浅からぬ縁をお持ちだった。

 広々とした和室の床の間の前に、祭壇が設けられている。中心には、ノーネクタイの安倍晋三元首相が笑みをたたえる遺影があり、《紫雲院殿政譽清浄晋寿大居士》と刻まれた位牌と骨壺が並んでいる。

 東京・渋谷区富ヶ谷の安倍邸の一室は、弔問客が絶えない。その祭壇を取り囲むのは、大きな白い生花、紅白の供物、色とりどりの果物。それらに添えられた大きな文字に弔問客は目を奪われる。

「天皇皇后両陛下」

 それらはすべて、両陛下からの供物だという。

 7月11日午後、増上寺(東京・港区)で行われた安倍氏の通夜に、両陛下の焼香の名代として、側近である侍従が派遣された。

「両陛下は安倍元総理に、一般の香典に当たる祭粢料、供物、生花を贈られました。大物政治家の葬儀の祭壇といえば、並べられた供花に数多くの名札が立つのが通例ですが、安倍元総理の場合はたった1つだけ、『天皇皇后両陛下』の名札が置かれたのが印象的でした。そもそも、両陛下が首相経験者の葬儀に侍従を派遣することはめったにありません。昭和に安倍元総理の祖父である岸信介氏、平成に小渕恵三氏のケースがあったくらいでしょう」(自民党関係者)

 岸田文雄首相は14日、安倍氏の「国葬」を今秋に行う方針を発表した。

「当初、自民党内では別の形での大々的な葬儀の開催が検討されていました。しかし、岸田総理が急転直下の決断をし、異例の発表となりました。実はこの決定の背景に、雅子さまの強い追悼のお気持ちがあったそうです」(政界関係者)

水平社宣言

2022-07-24
水平社宣言視聴覚映像
『人間は勦わるべきものではなく尊敬すべきもの 全国水平社の創立と宣言に学ぶ』(16分) 制作:南御堂(真宗大谷派 難波別院) 協力:水平社博物館/大阪市部落解放・人権研究所/大阪人権博物館

ロシアのプーチン大統領の出席を認めない方向で調整に入った

2022-07-23
2022年7月22日 23時41分 読売新聞オンライン

Facebook ライブドアニュース さん曰く


政府は、安倍晋三元首相の「国葬」を巡り、ロシアのプーチン大統領の出席を認めない方向で調整に入った。仮にプーチン氏が国葬の参列を希望しても、拒否する方針だ。安倍氏は首相在任中、北方領土問題などを巡ってプーチン氏と会談を重ねた。

メディアは信頼できないと、多くの国民のが思い始めた。

2022-07-23
Facebook Shino Makarotoさん曰く

安倍晋三はなぜ「財務省」と戦い続けたのか…知られざる肉声を明かす 「彼らは怖い役所だから」

2022-07-18
© 現代ビジネス 安倍晋三はなぜ「財務省」と戦い続けたのか…知られざる肉声を明かす 「彼らは怖い役所だから」

「アベノミクス」を推し進めた故・安倍晋三元首相は、国の予算を握り霞が関で「最強官庁」と呼ばれる財務省に対して、強い反発心を持っていたことで知られる。だが意外にも、なぜ安倍氏がそのような考えを抱いたのかについて、生前自ら語る機会は少なかった。

安倍氏を若手議員時代から取材してきたジャーナリストの戸坂弘毅氏が、知られざる貴重な肉声を明かす。

安倍氏が残した足跡

安倍氏が亡くなった日、米英ロ中印など世界各国の要人たちがこぞって安倍氏を悼み、首相在任中の功績を称賛するコメントを出した。インドやブラジルでは国として喪に服することを決めたとの報道にも接し、安倍氏が日本の政治家として前例がないほど、国際社会で存在感を発揮してきたことを再認識した。

安倍氏がその評価は別にしても「自由で開かれたインド太平洋構想」を打ち出し、日米豪印の「クワッド」枠組みを構築するなど、日本の首相としては稀有な「価値観外交」を展開し、欧米諸国の戦略にも一定の影響を与えたことはしっかり記憶しておくべきだろう。

Photo by gettyimages

中国・韓国など近隣諸国との関係悪化を招いたとの批判はあるが、中国の習近平国家主席が岸田首相に送った弔電で安倍氏に最大限の弔意と敬意を表したことからもわかるように、安倍氏は日中関係の改善にも一定の足跡を残し、中国側から畏敬の念を持たれていた。

日本の国内事情に精通した中国政府高官は昨年、日本のジャーナリストに対し、「安倍氏の3度目の首相就任も十分あり得るのではないか」と警戒心を込めて語っていたという。

第一次安倍政権「前夜」の酒席で

平成時代に入ってから政治の現場を取材するようになった私は、安倍氏が父親の晋太郎氏の秘書を務めていた時に初めて名刺を交換し、父親の病死を受けて初当選した後の1年生議員の時代に、時々話をするようになった。

その頃は、外相や自民党幹事長だった父親の秘書時代に彼が見聞きした、竹下登元首相をはじめとする自民党及び清和会(自民党安倍派)の大幹部たちに関する裏話を安倍氏から聞くのが大変興味深く、安倍氏のもとをふらっと訪ねたものだ。

同時に、安倍氏の1期上だった衛藤晟一・前少子化担当相ら当時の保守派若手議員たちが、その頃から「安倍晋三は考え方の軸がしっかりしていてブレない。間違いなく将来の総理候補だ」と語っていたことから、「先物買い」の意味もあって安倍事務所を時折訪ねていた。

安倍氏が若い頃から安全保障や歴史認識問題に深い関心を寄せ、岡崎久彦元駐タイ大使らと勉強会を重ねていたことなどは、もちろん認識していた。だが、私が思い出す安倍氏の印象的な言葉は、2006年に第一次政権が発足する1年程前、少人数の酒席で安倍氏が語った「統治機構改革」に関する発言だ。

首相に就任したら何をやりたいか、という話の一環だったと思う。安倍氏が、「これからの時代は、何事も政治主導・官邸主導で物事を決めていかなければならない、それはすなわち、長年続く財務省主導を打破することだ」などと強調したのだ。

その発言に驚いた私が「日本は民主主義国家に相応しく、政治主導で政策決定できるように統治機構を変えるべきだと以前から思ってきたので大賛成だ。予算編成も、財務省ではなく首相官邸で行うことができるよう仕組みを変えるべきではないか」と持論を展開した時のことだった。安倍氏はさらに踏み込んだ発言をして、私を驚愕させた。

【 Facebook闘いのページ】のページ、管理者は住職です。

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