本文へ移動

闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

【日蓮生誕800年記念】

2021-07-09
創価学会・池田名誉会長が民放インタビュー番組に初出演

日蓮大聖人御聖誕800年記念

日蓮大聖人が安房国(現在の千葉県南部)で御聖誕(1222年2月16日)されてから800年になります。大聖人御在世当時、地震や飢饉、疫病がまん延し、人々は苦しんでいました。その中で、民衆救済のため、万年の平和社会の建設のため、大難を耐え忍ばれ、大法を説き弘められました。 日蓮大聖人御聖誕800年を記念し、創価学会・池田名誉会長が民放インタビュー番組に初出演を配信します。
池田主任副会長インタビュー 新・人間革命30巻〈上〉

SGI- IFU DODO NO UTA - 'Indomitable Dignity' Song

2021-07-09

第23回本部総会昭和36年5月3日 日大講堂

2021-07-09
説明 池田大作先生
池田大作先生会長就任挨拶 「第三代会長就任式」 昭和35年5月3日 日大講堂 .

【永久保存】 2013.02.12 衆議院予算委員会 石原慎太郎 日本維新の会

2021-07-05
1016衆議院本会議「代表質問」石原慎太郎(維新会)

◎僧徒(僧兵)の強訴

2021-07-03
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【11th Century Chronicle 1081-1100年】
【11th Century Chronicle 1081-1100年】
◎僧徒(僧兵)の強訴
*1081.3.5/ 興福寺の僧徒が多武峰を襲い、多武峰の僧徒が入京して強訴。
*1081.6.9/ 延暦寺僧徒が園城寺を焼き討ち。9.15にも再度焼き討ちする。
*1082.10.17/ 熊野の僧徒が神輿を奉じて入京、尾張国司による僧徒殺害を訴える。
*1087.12.29/ 宇佐神宮の神人らが、神輿を射た大宰大弐藤原実政を訴える。翌11月、実政は伊豆へ配流される。
*1092.3.6/ 興福寺の僧徒が賀茂荘に乱入、民家200余戸を焼く。
*1093.8.26/ 興福寺僧徒が近江守高階為家の非法報を強訴し、為家は土佐へ流される。
*1094.10.24/ 延暦寺僧徒が、美濃守源義綱が僧徒を殺害したと入京し強訴。迎撃した源頼治が、のちに佐渡に流される。
*1100.6.8/ 園城寺僧徒が、長吏(最高僧位)隆明の房舎を焼く。
 平安時代後期から鎌倉・室町時代にかけて、僧形の武装集団が横行した。京都・奈良などの大寺院に所属する武装集団で、僧衆、悪僧などと呼ばれたが、のちに「僧兵」と呼称されるようになった。これに対し、神社に所属する武装集団は「神人(じにん)」と呼ばれた。
 藤原氏などの大貴族とともに、奈良や京都などの大寺院や神社は、寄進などで荘園などの私有地を拡大していった。そのような寺社は、社会が乱れるなかで、盗賊などから自主防衛する必要が生じるとともに、在地領主らの武装勢力や、国府などの権力を背景にする官吏など、さまざまな勢力と対抗する必要が生じてきた。
 平安時代末期には強大な武力集団となり、興福寺・延暦寺・園城寺(三井寺)、東大寺などの寺院を拠点として、寺院同士の勢力争いや、朝廷や摂関家に対して強訴をくりかえした。特に、興福寺と延暦寺は「南都北嶺」と呼ばれ、宗教的権威を背景とする強訴は、僧兵の武力以上の威力をもった。
 興福寺は春日大社の神木、延暦寺は日吉大社の神輿を担いで、洛中の内裏や院に押し掛けて強訴行い、白河法皇をして「心にままならぬもの、賀茂川の水、双六の賽、山法師(延暦寺の僧兵)」と嘆かしめた。
 朝廷や院の権威に基づく公家権力、新興の武家権力、そして宗教的権威を押し出す寺社権力、これらが相互に補完しながらも争うという形が、平安時代末期から鎌倉・室町時代と続いたが、応仁の乱で荘園制が事実上崩壊すると、武士の現実的な武力が優先する戦国時代となってゆく。
 寺社勢力は戦国末期においても、織田信長、豊臣秀吉などに激しく敵対し続けたが、信長の延暦寺焼き討ち、秀吉の刀狩令などで、約五百年間続いたさしもの寺社勢力も、日本の権力構造から消えることとなった。
(この時期の出来事)
*1086.11.26/ 白河天皇が8歳の皇子善任親王(堀河天皇)に譲位し、上皇として院政を始める。(院政の開始)
*1090.1.22/ 白河上皇が熊野参詣に出発する。
*1091.6.12/ 源義家と弟義綱が争う。義家の入京が禁止され、田畑寄進も禁止される。
*1093.3.3/ 白河上皇が、諸国の荘園乱立の制止を内大臣藤原師通に諮問する。
*1096.6.-/ 田楽が大流行する。(永長の大田楽)
TOPへ戻る