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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

ジョージ・スミス・パットン・ジュニア

2021-06-14
モットーはアメリカの陸軍軍人。「大胆不敵であれ!(Be audacious!)」。
パットン大戦車軍団
ジョージ・C・スコット

◾️田中角栄55歳 田中真紀子29歳 (昭和48年 羽田空港)

2021-06-07
Facebook Chikafumi Etouさん曰く、イギリス、フランス、西ドイツ、ソ連に向かう田中父娘。 ブレジネフ書記長との会談は外遊のヤマ場でした。

散華の跡

2021-06-03
Facebook 湯浅 宗浩さん曰く
  45年3月27日沖縄沖で掃海活動中の米駆逐艦ドーセイに突入した特攻機。
 99艦爆とされてきたが同艦乗組員の保存していたこのプレートにより陸軍の99襲撃機であったことが確認された。

◎長屋王の変と藤原氏勢力

2021-06-03
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【8th Century Chronicle 721-740年】
*724.2.4/ 元正天皇が譲位し、首皇子(聖武天皇)が即位する。
*727.11.2/ 聖武天皇と光明子(不比等の娘)の子 基王(生後1ヵ月)が皇太子となる。
*729.2.12/ 左大臣長屋王(54)が、謀反の疑いをかけられ、自殺する(長屋王の変)。
*729.8.10/ 光明子が、臣下として初めて皇后(光明皇后)となる。
*737.-.-/ この年天然痘が流行し、左大臣藤原武智麻呂ら藤原4兄弟が、相次いで死亡する。
*740.9.3/ 大宰少弐藤原広嗣が反乱を起こすが、大野東人に討たれる(藤原広嗣の乱)。
*740.10.29/ 聖武天皇(45)は、伊勢・美濃・近江に行幸し、以後5年にわたって恭仁京・難波京・紫香楽宮を転々とする。
 「長屋王」は、高市皇子の長男で天武天皇の孫にあたる皇族である。父の「高市皇子」は大津の皇子とともに、壬申の乱で長男として大海人皇子(天武)を助けて重要な役割を果たしたが、天武の後継としては、母親の身分ゆえか草壁・大津皇子に次ぐ3位とされた。
 686年、天武天皇が崩御すると、直後に大津皇子が謀反の疑いをかけられ自殺する。天武の皇后鸕野讚良が「持統天皇」として即位し、草壁皇子は帝位を継承しないまま3年後に病死する。高市皇子は太政大臣として持統政権を支え、藤原京遷都を進めたのは高市皇子ではないかとも言われる。
 696年、高市皇子が薨御し、翌697年持統天皇は、草壁皇子の子で孫にあたる軽皇子(文武天皇)に皇位継承し、 702年に持統は崩御する。「文武天皇」の擁立に尽力した「藤原不比等」は、娘の宮子を文武夫人としており、大宝律令編纂に中心的な役割を果たし、平城京遷都を実質的に仕切ったとされる。
 平城遷都の直前に、若くして文武天皇(25)が崩御すると、草壁皇子の正妃で文武天皇の母が「元明天皇」として即位し、藤原不比等とともに、「平城京遷都」、「風土記」編纂、「古事記」の完成、「和同開珎」の鋳造など、律令国家の根幹となる施策を進める。
 715年、元明天皇は、孫の首皇子(のちの聖武天皇)はまだ若かったため、娘の氷高皇女(「元正天皇」)に皇位を譲り、太上天皇として元正天皇を後見する。721年、元明太上天皇が崩御し、前年には藤原不比等(62)も薨去しており、娘婿の「長屋王」が後事を託され、右大臣として政務を仕切ることになる。
 724年、元正天皇は譲位し「聖武天皇」(24)が即位し、長屋王は正二位・左大臣に進む。聖武天皇は生母の藤原宮子(藤原不比等の娘)を「大夫人」と称するとしたが、長屋王はこれは違令だと意義を奏上した。この事件をきっかけに長屋王と藤原四兄弟との政治的な対立が表面化した。
 聖武天皇の外戚である藤原氏4兄弟( 武智麻呂・房前・宇合・麻呂)は、聖武夫人で妹の光明子が産んだ基王が生後間もなく死んでしまい、皇位継承権のある男子をもつ長屋王は、藤原氏系の皇位継承に不安を抱かせる存在でもあった。
 729年2月、長屋王が謀反を企てているとの密告があり、藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲し、糾問された結果、長屋王はじめ一族は自殺においこまれる。こうして、皇親勢力の筆頭だった長屋王は、藤原不比等以来勢力を拡張してきた藤原氏勢力に排斥されてしまった(長屋王の変)。
 長屋王の変のあと、藤原4兄弟は妹光明子を聖武天皇の皇后に押し上げて、藤原四子政権を樹立する。しかし、737年の天然痘の大流行で4人とも揃って病死してしまい、長屋王を冤罪で死に追い込んだ祟りではないかと噂されたという。
(この時期の出来事)
*723.4.17/ 開墾を奨励するために「三世一身の法」を施行。
*730.1.13/ 大宰帥大伴旅人が、自邸で観梅の宴を催す。この時の万葉集の詞書から「令和」の語がひかれた。
*733.-.-/ この頃、「出雲風土記」「肥前風土記」「豊後風土記」などが編纂される。
*735.4.26/ 唐での留学から帰国した吉備真備と僧玄昉が、持ち帰った唐の文物を献上する。
◎長屋王の変と藤原氏勢力
*724.2.4/ 元正天皇が譲位し、首皇子(聖武天皇)が即位する。
*727.11.2/ 聖武天皇と光明子(不比等の娘)の子 基王(生後1ヵ月)が皇太子となる。
*729.2.12/ 左大臣長屋王(54)が、謀反の疑いをかけられ、自殺する(長屋王の変)。
*729.8.10/ 光明子が、臣下として初めて皇后(光明皇后)となる。
*737.-.-/ この年天然痘が流行し、左大臣藤原武智麻呂ら藤原4兄弟が、相次いで死亡する。
*740.9.3/ 大宰少弐藤原広嗣が反乱を起こすが、大野東人に討たれる(藤原広嗣の乱)。
*740.10.29/ 聖武天皇(45)は、伊勢・美濃・近江に行幸し、以後5年にわたって恭仁京・難波京・紫香楽宮を転々とする。
 「長屋王」は、高市皇子の長男で天武天皇の孫にあたる皇族である。父の「高市皇子」は大津の皇子とともに、壬申の乱で長男として大海人皇子(天武)を助けて重要な役割を果たしたが、天武の後継としては、母親の身分ゆえか草壁・大津皇子に次ぐ3位とされた。
 686年、天武天皇が崩御すると、直後に大津皇子が謀反の疑いをかけられ自殺する。天武の皇后鸕野讚良が「持統天皇」として即位し、草壁皇子は帝位を継承しないまま3年後に病死する。高市皇子は太政大臣として持統政権を支え、藤原京遷都を進めたのは高市皇子ではないかとも言われる。
 696年、高市皇子が薨御し、翌697年持統天皇は、草壁皇子の子で孫にあたる軽皇子(文武天皇)に皇位継承し、 702年に持統は崩御する。「文武天皇」の擁立に尽力した「藤原不比等」は、娘の宮子を文武夫人としており、大宝律令編纂に中心的な役割を果たし、平城京遷都を実質的に仕切ったとされる。
 平城遷都の直前に、若くして文武天皇(25)が崩御すると、草壁皇子の正妃で文武天皇の母が「元明天皇」として即位し、藤原不比等とともに、「平城京遷都」、「風土記」編纂、「古事記」の完成、「和同開珎」の鋳造など、律令国家の根幹となる施策を進める。
 715年、元明天皇は、孫の首皇子(のちの聖武天皇)はまだ若かったため、娘の氷高皇女(「元正天皇」)に皇位を譲り、太上天皇として元正天皇を後見する。721年、元明太上天皇が崩御し、前年には藤原不比等(62)も薨去しており、娘婿の「長屋王」が後事を託され、右大臣として政務を仕切ることになる。
 724年、元正天皇は譲位し「聖武天皇」(24)が即位し、長屋王は正二位・左大臣に進む。聖武天皇は生母の藤原宮子(藤原不比等の娘)を「大夫人」と称するとしたが、長屋王はこれは違令だと意義を奏上した。この事件をきっかけに長屋王と藤原四兄弟との政治的な対立が表面化した。
 聖武天皇の外戚である藤原氏4兄弟( 武智麻呂・房前・宇合・麻呂)は、聖武夫人で妹の光明子が産んだ基王が生後間もなく死んでしまい、皇位継承権のある男子をもつ長屋王は、藤原氏系の皇位継承に不安を抱かせる存在でもあった。
 729年2月、長屋王が謀反を企てているとの密告があり、藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲し、糾問された結果、長屋王はじめ一族は自殺においこまれる。こうして、皇親勢力の筆頭だった長屋王は、藤原不比等以来勢力を拡張してきた藤原氏勢力に排斥されてしまった(長屋王の変)。
 長屋王の変のあと、藤原4兄弟は妹光明子を聖武天皇の皇后に押し上げて、藤原四子政権を樹立する。しかし、737年の天然痘の大流行で4人とも揃って病死してしまい、長屋王を冤罪で死に追い込んだ祟りではないかと噂されたという。
(この時期の出来事)
*723.4.17/ 開墾を奨励するために「三世一身の法」を施行。
*730.1.13/ 大宰帥大伴旅人が、自邸で観梅の宴を催す。この時の万葉集の詞書から「令和」の語がひかれた。
*733.-.-/ この頃、「出雲風土記」「肥前風土記」「豊後風土記」などが編纂される。
*735.4.26/ 唐での留学から帰国した吉備真備と僧玄昉が、持ち帰った唐の文物を献上する。

◎平城京遷都

2021-06-02
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【8th Century Chronicle 701-720年】-2
◎平城京遷都
*708.12.5/ 平城宮の地鎮祭が行われる。
*710.3.10/ 都を「平城京」に移す(平城京遷都)。
*710.3.-/ 藤原不比等が、氏寺を平城京に移して興福寺と改称する。
*711.1.2/ 平城京遷都にともない、中央と地方を結ぶ道路整備が進められ、山城・河内・摂津・伊賀の4国に7駅を設置する。
 飛鳥京の西北部に、わが国で初めて都城制を敷いた「藤原京」は、持統8(694)年から和銅3(710)年までの16年間、持統・文武・元明の3代にわたって都がおかれた。この時代は、日本における古代国家の基本法として、飛鳥浄御原令、さらに大宝律令が公布され、古代律令国家の形成過程であった。
 しかし、和銅元(708)年に元明天皇より遷都の勅が下り、和銅3(710)年に「平城京」に遷都されることになる。その翌年に、藤原宮が焼けたとされているが、藤原京から平城京へ遷都の理由は不明である。
 和銅3(710)年3月の遷都時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備されたが、寺院や邸宅および庶民の住居などは、その後段階的に造営されていったもようである。平城遷都を主導した藤原不比等は、率先して藤原氏の氏寺を興福寺と改名し移転、新都の隆盛をはかった。また、中央と地方を結ぶ街道も整備され、畿内など4国に7駅が置かれ、交通網が整えられた。
 すでに完成された大宝律令のもとで律令制が施行され、その強大な中央集権体制を象徴する平城宮には、大極殿・朝堂院・内裏が配置され、その周囲には二官八省の官庁が立ち並んだ。そして、「古事記」や「日本書紀」という国史が編纂され、また地方には「風土記」の編集が指示された。
 平城京遷都は、実質上、藤原不比等が仕切ったと考えられる。不比等は、持統天皇から譲位された文武天皇の即位に関わったとされ、娘の宮子を文武天皇に嫁がせた。そして生まれた首皇子(のちの聖武天皇)を天皇にすることを企んだ。さらに首皇子にも、娘 光明子を嫁がせて、外戚となることを目指していた。
 しかし707年に文武は若くして亡くなり、首皇子はまだ幼いため、文武の母元明天皇が即位し、平城京遷都の詔勅を出すことになった。不比等は平城遷都に精力を注ぎ、それが成ったあとも、大宝律令の改定に取り組み、養老律令の編纂に労をさいた。しかし720年、不比等は病をえて死去する。聖武天皇が即位するのは、その4年後となる。
(この時期の出来事)
*708.8.10/ 銅銭「和同開珎」を発行する。
*711.10.23/ 「蓄銭叙位の法」が制定され、私鋳銭を禁止する。
*712.1.28/ 太安万侶が歴史書「古事記」を完成する。
*713.5.2/ 諸国に「風土記」の編纂を命じる。
*719.7.13/ 国司などの行政を監察する「按察吏」をおく。
*720.5.21/ 舎人親王らが「日本書紀」を完成する。

データベース(武器を用いない闘いの歴史の中で、人は如何に生きたか・・・。)

雅子さま、安倍晋三氏との浅からぬ縁と強い追悼のお気持ち 国葬開催決定に影響か

2022-07-31

天皇皇后両陛下としては最大限の追悼の意を、安倍晋三氏の死去に際して示された。平成から令和にかけて、国の安寧のために共に身を捧げたというシンパシーだけではないだろう。雅子さまは、皇太子妃として皇室に入られるずっと以前から、安倍氏とは浅からぬ縁をお持ちだった。

 広々とした和室の床の間の前に、祭壇が設けられている。中心には、ノーネクタイの安倍晋三元首相が笑みをたたえる遺影があり、《紫雲院殿政譽清浄晋寿大居士》と刻まれた位牌と骨壺が並んでいる。

 東京・渋谷区富ヶ谷の安倍邸の一室は、弔問客が絶えない。その祭壇を取り囲むのは、大きな白い生花、紅白の供物、色とりどりの果物。それらに添えられた大きな文字に弔問客は目を奪われる。

「天皇皇后両陛下」

 それらはすべて、両陛下からの供物だという。

 7月11日午後、増上寺(東京・港区)で行われた安倍氏の通夜に、両陛下の焼香の名代として、側近である侍従が派遣された。

「両陛下は安倍元総理に、一般の香典に当たる祭粢料、供物、生花を贈られました。大物政治家の葬儀の祭壇といえば、並べられた供花に数多くの名札が立つのが通例ですが、安倍元総理の場合はたった1つだけ、『天皇皇后両陛下』の名札が置かれたのが印象的でした。そもそも、両陛下が首相経験者の葬儀に侍従を派遣することはめったにありません。昭和に安倍元総理の祖父である岸信介氏、平成に小渕恵三氏のケースがあったくらいでしょう」(自民党関係者)

 岸田文雄首相は14日、安倍氏の「国葬」を今秋に行う方針を発表した。

「当初、自民党内では別の形での大々的な葬儀の開催が検討されていました。しかし、岸田総理が急転直下の決断をし、異例の発表となりました。実はこの決定の背景に、雅子さまの強い追悼のお気持ちがあったそうです」(政界関係者)

水平社宣言

2022-07-24
水平社宣言視聴覚映像
『人間は勦わるべきものではなく尊敬すべきもの 全国水平社の創立と宣言に学ぶ』(16分) 制作:南御堂(真宗大谷派 難波別院) 協力:水平社博物館/大阪市部落解放・人権研究所/大阪人権博物館

ロシアのプーチン大統領の出席を認めない方向で調整に入った

2022-07-23
2022年7月22日 23時41分 読売新聞オンライン

Facebook ライブドアニュース さん曰く


政府は、安倍晋三元首相の「国葬」を巡り、ロシアのプーチン大統領の出席を認めない方向で調整に入った。仮にプーチン氏が国葬の参列を希望しても、拒否する方針だ。安倍氏は首相在任中、北方領土問題などを巡ってプーチン氏と会談を重ねた。

メディアは信頼できないと、多くの国民のが思い始めた。

2022-07-23
Facebook Shino Makarotoさん曰く

安倍晋三はなぜ「財務省」と戦い続けたのか…知られざる肉声を明かす 「彼らは怖い役所だから」

2022-07-18
© 現代ビジネス 安倍晋三はなぜ「財務省」と戦い続けたのか…知られざる肉声を明かす 「彼らは怖い役所だから」

「アベノミクス」を推し進めた故・安倍晋三元首相は、国の予算を握り霞が関で「最強官庁」と呼ばれる財務省に対して、強い反発心を持っていたことで知られる。だが意外にも、なぜ安倍氏がそのような考えを抱いたのかについて、生前自ら語る機会は少なかった。

安倍氏を若手議員時代から取材してきたジャーナリストの戸坂弘毅氏が、知られざる貴重な肉声を明かす。

安倍氏が残した足跡

安倍氏が亡くなった日、米英ロ中印など世界各国の要人たちがこぞって安倍氏を悼み、首相在任中の功績を称賛するコメントを出した。インドやブラジルでは国として喪に服することを決めたとの報道にも接し、安倍氏が日本の政治家として前例がないほど、国際社会で存在感を発揮してきたことを再認識した。

安倍氏がその評価は別にしても「自由で開かれたインド太平洋構想」を打ち出し、日米豪印の「クワッド」枠組みを構築するなど、日本の首相としては稀有な「価値観外交」を展開し、欧米諸国の戦略にも一定の影響を与えたことはしっかり記憶しておくべきだろう。

Photo by gettyimages

中国・韓国など近隣諸国との関係悪化を招いたとの批判はあるが、中国の習近平国家主席が岸田首相に送った弔電で安倍氏に最大限の弔意と敬意を表したことからもわかるように、安倍氏は日中関係の改善にも一定の足跡を残し、中国側から畏敬の念を持たれていた。

日本の国内事情に精通した中国政府高官は昨年、日本のジャーナリストに対し、「安倍氏の3度目の首相就任も十分あり得るのではないか」と警戒心を込めて語っていたという。

第一次安倍政権「前夜」の酒席で

平成時代に入ってから政治の現場を取材するようになった私は、安倍氏が父親の晋太郎氏の秘書を務めていた時に初めて名刺を交換し、父親の病死を受けて初当選した後の1年生議員の時代に、時々話をするようになった。

その頃は、外相や自民党幹事長だった父親の秘書時代に彼が見聞きした、竹下登元首相をはじめとする自民党及び清和会(自民党安倍派)の大幹部たちに関する裏話を安倍氏から聞くのが大変興味深く、安倍氏のもとをふらっと訪ねたものだ。

同時に、安倍氏の1期上だった衛藤晟一・前少子化担当相ら当時の保守派若手議員たちが、その頃から「安倍晋三は考え方の軸がしっかりしていてブレない。間違いなく将来の総理候補だ」と語っていたことから、「先物買い」の意味もあって安倍事務所を時折訪ねていた。

安倍氏が若い頃から安全保障や歴史認識問題に深い関心を寄せ、岡崎久彦元駐タイ大使らと勉強会を重ねていたことなどは、もちろん認識していた。だが、私が思い出す安倍氏の印象的な言葉は、2006年に第一次政権が発足する1年程前、少人数の酒席で安倍氏が語った「統治機構改革」に関する発言だ。

首相に就任したら何をやりたいか、という話の一環だったと思う。安倍氏が、「これからの時代は、何事も政治主導・官邸主導で物事を決めていかなければならない、それはすなわち、長年続く財務省主導を打破することだ」などと強調したのだ。

その発言に驚いた私が「日本は民主主義国家に相応しく、政治主導で政策決定できるように統治機構を変えるべきだと以前から思ってきたので大賛成だ。予算編成も、財務省ではなく首相官邸で行うことができるよう仕組みを変えるべきではないか」と持論を展開した時のことだった。安倍氏はさらに踏み込んだ発言をして、私を驚愕させた。

【 Facebook闘いのページ】のページ、管理者は住職です。

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