本文へ移動

闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

王室、戴冠式といえば・・・、

2020-06-03
エリザベス女王 戴冠式

詳細

国王ジョ-ジ6世の死去に伴って即位したエリザベス女王の戴冠式が6月2日、ウェストミンスター寺院で行われた。
この模様はイギリス国内だけでなく世界各国に当時の最新メディアであるテレビで伝えられた。
エリザベス女王は、以来、半世紀以上にわたって女王の座にあり、諸外国を訪問している。
1975(昭和50)年には日本を訪問し、昭和天皇主催の晩さん会に出席したほか、NHKを訪れて大河ドラマの収録を見学した。

· 昭和天皇ご夫婦と上皇さま。

2021-07-29
Facebook 石山 裕子さん曰く、将棋対決微笑ましいですね。

反戦と言わずに、反戦を語る・・・。

2021-07-23

夢中になれるものを届ける。

2021-07-23

反戦の系譜

2020-09-07
Facebook佐々木信雄さんのコメント
*1903.11.15/ 平民社を結成した堺利彦・幸徳秋水らが、週刊の平民新聞を創刊する。
 1903(明36)年10月、非戦論を主張していた『萬朝報』が、社論を開戦論へと転換したため、同紙記者であった幸徳秋水・堺利彦・内村鑑三が、萬朝報から去る。内村はキリスト者として人道的反戦論を展開するが、幸徳・堺は改めて社会主義的非戦論を訴え、社会主義思想の宣伝・普及を行うために「平民社」を結成した。
 平民社は、週刊「平民新聞」を創刊するが、社会主義者と社会主義支援者らのセンターの役割をも担い、事実上、社会主義協会と共に社会主義運動の中心組織であった。週刊「平民新聞」第1号(11月15日)には、「平民社同人」署名の「宣言」と、堺・幸徳署名の「発刊の序」が掲載されており、「宣言」では、平民社が今後、「平民主義・社会主義・平和主義」を唱えていくことが述べられている。
 日本の社会主義運動は、1901(明34)年に幸徳らによって結成された「社会民主党」に始まるが、これは即日禁止されており、その「社会民主党宣言書」の精神を引き継ぐことが平民新聞で「宣言」された。「平民新聞」第53号(1904年11月)には、堺・幸徳の共訳で「共産党宣言」が訳載されたが、直ちに発売禁止になった。
 「平民新聞」は英文欄も設け、英米やロシアの社会主義者らへ情報の発信をおこない、国際的な連帯を訴えた。その成果として、日露戦争中の1904(明37)年8月、アムステルダムで開催された第二インターナショナル第6回大会で、片山潜とロシア代表のプレハーノフが共に副議長に選出されて、社会主義者の国境を越えた連帯と協力を確認した。
 日露戦争非戦の主張は官憲に目をつけられ、戦争終結後の1905(明38)年10月、平民社は活動2年足らずで解散することになった。その後、再興するも当局の弾圧で1910(明43)年3月に解散、その年5月の「幸徳(大逆)事件」で、主要メンバーの大半を失った。
 世間は圧倒的に日露開戦になびいていたが、平民社グループの社会主義的反戦論以外にも、内村鑑三らの人道主義的非戦論、与謝野晶子・大塚楠緒子らのロマン主義的厭戦詩などが、日露の戦いに否を唱えた。
 1904(明37)年9月、日露戦争の最中に、歌人与謝野晶子は、旅順で戦う弟を思う新体詩「君死にたまふことなかれ」を、夫与謝野鉄幹が主宰する雑誌「明星」に発表した。発表時は反戦厭戦詩と認識され、先輩歌人の大町桂月から厭戦的で国威発揚に反する批判されるも、「歌はまことの心を歌うもの」と反論している。
 
*「君死にたまふことなかれ」 https://www.culturebeanz.com/entry/2019/03/26/002828/
 
 しかしこの詩は、戦場で死ぬかも知れない末弟に対する「(死んで欲しくない、という)まことの心」を歌ったまでで、与謝野晶子は必ずしも平和主義者でも反戦主義者でもなかった。第一次世界大戦の折には「いまは戦ふ時である 戦嫌ひのわたしさへ 今日此頃は気が昂る」と極めて励戦的な戦争賛美の歌を作っているし、1942(昭17)年に、海軍大尉として出征する四男に対して「わが四郎 み軍にゆく たけく戦へ」と、反戦家としては一貫しない正反対の歌をうたっている。
TOPへ戻る