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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

◎山本五十六司令長官の搭乗機撃墜

2022-04-03


Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1943(s18)年】-1
◎山本五十六司令長官の搭乗機撃墜
*1943.4.18/ 山本五十六連合艦隊司令長官が、ブーゲンビル島上空で搭乗機を撃墜され戦死する。
 1943(昭18)年3月中旬、ガダルカナル島から撤退を余儀なくされた日本軍は、ソロモンおよび東部ニューギニア方面への連合軍の反攻企図を妨ぐべく、連合艦隊独自の立案で「い号作戦」を実施した。第3艦隊母艦機を南東方面に展開し、ラバウル基地の基地航空部隊との連動で、ソロモンや東部ニューギニアの敵船団・航空兵力を攻撃し、敵の戦線を攪乱する目的で実行された。
 ミッドウェー、ガダルカナルの敗戦でかなり憔悴していたと言われる山本五十六長官は、「い号作戦」を直々に立案したとされ、この時、トラック島に泊留の連合艦隊旗艦「武蔵」を離れ、「い号作戦」を陣頭指揮するため、幕僚をしたがえてラバウル基地に来ていた。それまで、はるか北方のトラック島の旗艦の戦艦大和や武蔵の艦上で、好きな幹部と将棋やトランプにうち興じていて、「大和ホテル」「武蔵屋御殿」などと揶揄する声もあったという。
 山本は、ブーゲンビル島、ショートランド島の前線航空基地の将兵の労をねぎらうための計画をたて、幕僚とともにラバウル基地を飛び立った。この方面は日本海軍の制空権下にあり安全とされていたが、前線視察計画は関係方面に打電され、その暗号電文は米軍に傍受され解読されていた。この情報は、米海軍のチェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令長官にまで報告され、ニミッツは、山本長官が暗殺に足りうる人物か検証したが、山本の戦死が日本の士気が大きく低下させ得るとの報告があり、山本機攻撃を決断したという。
 1943(昭18)年4月18日、山本機がブーゲンビル島上空に差し掛かった時、米機16機に待伏せされ撃墜され、山本長官は戦死する。山本長官の撃墜は「海軍甲事件」と称して1ヵ月以上伏せられた。5月21日、大本営により公表されると新聞は連日報道を行い、日本国民は大きな衝撃を受けた。6月5日、日比谷公園で国葬がとり行われた。皇族、華族ではない平民が国葬にされたのは、これが戦前の唯一の例であった。
 山本五十六は、日米開戦に最後まで反対し、やむを得ず開戦になると、真珠湾攻撃を立案し、開戦直後の快進撃を支えた名将としてうたわれる。坂本龍馬が司馬遼太郎の小説で描かれたように、山本五十六も阿川弘之などの作品で人物像が形成されている側面がある。しかし、その指揮官や作戦立案の能力には、否定的な見解も多くみられ、将軍としてよりも軍政官としての適性を指摘する同僚もいたようである。
(この年の出来事)
*1943.1.31/ 独ソ戦のスターリングラード攻防で、ついに独軍が降伏する。
*1943.2.1/ ガダルカナル島から日本軍が撤退を始めるが、大本営発表はこれを「転進」と表現する。
*1943.9.8/ イタリアのバドリオ政権が、連合軍に無条件降伏する。
*1943.11.22/ ルーズベルト・チャーチル・蒋介石が、エジプトのカイロで会談、対日方針を定めた「カイロ宣言」を発表する。
Facebook 福田誠  さん曰く

1943年4月18日、連合艦隊司令長官山本五十六大将、ブーゲンビル上空で、P-38戦闘機16機の待ち伏せ攻撃にあい戦死。
この時護衛の零戦はわずか6機、暗号解読により山本長官が来るのを知っていたアメリカ軍は、零戦との戦いを避け一式陸攻を狙ったという。
戦艦武蔵から東京駅に 帰着した山本長官の遺骨
山本長官の葬列

◎日米開戦

2022-03-31

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1941(s16)年】-3
◎日米開戦
*1941.7.25/ 日本の南部仏印進出への報復措置として、米政府が在米日本資産の凍結令を公布。
*1941.8.1/ ルーズベルト大統領が、対日石油輸出を全面禁止とする。
*1941.11.26/ ハル米国務長官が日本側の提案を拒否し、日本軍の中国撤退を求める強硬な新提案を提示。27日、日米交渉は決裂する。(ハル・ノート)
*1941.12.8/ 日本時間午前2時、日本軍がマレー半島へ上陸開始。午前3時19分、日本軍がハワイ真珠湾を空襲。日本が米英両国に宣戦布告する。(アジア太平洋戦争開始)
 日本側が「ABCD包囲網」(米America・英Britain・中China・蘭Dutch)と呼んだ各国による経済封鎖は、この時期、中でも影響の大きいアメリカの主導で進められつつあった。三国同盟を結び独ソ戦が開始されると、日本軍は7月2日の御前会議で「対ソ戦準備・南部仏印進駐(南進・北進準備)」を決定、それを受けて7月7日からは、満州での「関東軍特種演習(関特演)」に向けて内地から兵員動員が開始される。
 同時に南進の準備も進める日本に対して、アメリカは7月25日「在米日本資産の凍結」を決定する。当時は金本位制であり、日本政府の為替決済用在外資産はニューヨークとロンドンにあり、ニューヨークの日本政府代理店には莫大な貿易決済用の金融資産があった。もちろん日本民間の在米資産も膨大であった。
 日米交渉が座礁し、7月28日、日本軍はすでに決めていた南部仏印進駐を開始すると、8月1日米政府は「対日石油輸出全面禁止」を発動した。この時点でルーズベルト米大統領は、「太平洋での戦争」を必至と考えていたもようである。日本は石油の約8割をアメリカから輸入しており、国内における石油の備蓄は民事・軍事を合わせても2年分とされた。早期開戦論だった陸軍のみならず、慎重だった海軍も石油欠乏は海軍力の致命傷になるとして、早期開戦論に傾いた。
 三国同盟以降から、日米の交渉は断続的に続けられていたが、6月の独ソ戦開始を契機に、アメリカ側は対日妥協から強硬路線へ舵を切ることになる。第2次近衛内閣の外相松岡洋右は、三国同盟にソ連を参加させるという四国連合案は破綻していたにもかかわらず、対米には強硬案を主張、妥協派の近衛首相と対立した。近衛は松岡を外相から外すために、えざわざ内閣総辞職して、再度第3次近衛内閣を組閣する。
 9月6日の御前会議では、外交交渉の期限を10月上旬とし、妥結の目途がない場合直ちに対米開戦を決意すると決定された。近衛は日米首脳直接会談に唯一の期待をしたが、アメリカ側に日米首脳会談を事実上拒否される。戦争の決断を迫られた近衛は、妥協策による交渉に道を求めたが、東条英機陸相に日米開戦を要求されたため内閣は瓦解、10月16日に近衛内閣は総辞職する。
 18日東条内閣が成立したが、これには本人も予想外であったらしく、内大臣木戸幸一が独断で東条を後継首班に推挙し天皇の承認を取り付けてしまった。最も強硬に開戦を主張する陸軍を抑えるには、陸軍大将でもある東条しかおらず、毒をもって毒を制する案だということで、対米戦争回避を望む天皇もこれ承諾したらしい。東条も、それまでの態度を一変し、天皇の意をくむ忠臣として2つの妥協案を用意、交渉妥結の可能性をさぐった。
 しかし対日戦不可避と判断していた米は、日本側の新規提案は両案ともに問題外であると拒否。11月26日、コーデル・ハル国務長官は、いわゆる「ハル・ノート」を駐米日本大使に提示した。内容は日本へ対する中国大陸、仏印からの全面撤退と、三国同盟の解消という極めて強硬なものであった。ハル・ノートは国務長官の「覚書」との位置付けであったが、日本政府はこれを「最後通牒」として受け取り、開戦の決断を行うことになった。
 日米交渉決裂の結果、東条内閣は12月1日の御前会議において、日本時間12月8日の開戦を最終決定した。日本陸軍は日本時間12月8日未明にイギリス領マレー半島に上陸し、英印軍と交戦状態に入る。イギリス政府に対する宣戦布告前の奇襲によって太平洋戦争の戦端が開かれた(マレー作戦)。
 並行して、日本海軍航空隊によって、ハワイのオアフ島真珠湾のアメリカ軍基地に対する奇襲攻撃も、日本時間12月8日午前1時30分に発進、日本時間午前3時19分から攻撃が開始された(真珠湾攻撃)。
(追記2022/01/22)
 ハルノートの事実上の起草者は財務次官のハリー・ホワイトで、彼は戦後ソ連のスパイとして告発されて自殺している。ルーズベルトの周囲にはスターリン指揮下のコミンテルンのスパイが張り巡らされており。ルーズベルト自体が、容共主義者でレイシストだった。かくして彼をして、日米開戦を推進する状況が整っていた。
 一方で、日本の近衛首相も公家の血を引きながら、「貧乏物語」で有名な社会主義者 河上肇に学ぶため京都帝大に転学するなど、社会主義的な思想に馴染んでおり、首相となった近衛の周囲には、やがてゾルゲ事件で死刑となる尾崎秀実や、戦後は社会党顧問になった社会主義者 風見章など、コミンテルンの息のかかったスパイが内閣の中枢に絡んでいた。
 スターリンは、ヒトラードイツの侵略を想定しており、東方の満州を支配している日本と対立しないために、日ソ中立条約を結び、さらに日本を南進させる工作を、ゾルゲなどを通じて進めていた。他方で、アメリカにも日米開戦に向けさせるようにルーズベルト周辺に工作員を侍らせた。
 かくして、真珠湾攻撃の情報を得ながら、無視して攻撃させたルーズベルトは、日米開戦にこぎ着け、さらに念願のヨ-ロッパ戦線に参画するのに成功した。そして、東方戦線の憂慮を消すのに成功したスターリンは、すべての戦力をナチスドイツとの西部戦線に投入できたわけだ。
 スターリンの指揮下のコミンテルン恐るべし、という話が、ソ連崩壊やソ連の戦時中の暗号電信を解読したヴェノナ文書などで、徐々に明らかになりつつあるようである。
(この年の出来事)
*1941.6.22/ 独軍がバルト海から黒海にわたる戦線でソ連攻撃を開め、「バルバロッサ作戦」が開始される。(独ソ戦が始まる)
*1941.10.16/ 対米開戦が不可避になるも、近衛文麿首相は開戦責任を避けようとし、東条陸相と対立、内閣を投げ出して総辞職。18日、内相と陸相を兼任して東条内閣が成立する。
*1941.11.22/ 国民勤労報国協力令が公布され、男子14~39歳、未婚女子14~24歳には勤労の義務が課される。

◎ゾルゲ事件

2022-03-31

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1941(s16)年】-2
◎ゾルゲ事件
*1941.10.15/ 国際スパイ容疑で、尾崎秀美(ほつみ)が検挙される。18日、独新聞特派員リヒャルト・ゾルゲも検挙される。(ゾルゲ事件)
 ドイツ紙の記者として東京に在住していたゾルゲを頂点として、数多くのソ連のスパイ組織が日本国内で諜報活動をしていたことが判明、1941(昭16)年9月から1942(昭17)年4月にかけてその構成員が逮捕された。当初、特別高等警察はアメリカ共産党党員である宮城与徳および北林トモたちの周辺を内偵していたが、10月10日に宮城が逮捕され数多くの証拠品が見つかると、はじめてその事件の重要性が認識された。
 宮城は取調べの際に自殺を図り失敗すると、以後は陳述を始め、尾崎秀実やリヒャルト・ゾルゲなどの大物がスパイであることが判明する。ゾルゲは独有力紙「フランクフルター・ツァイトゥング」の東京特派員かつナチス党員という肩書で日本に赴き、駐日ドイツ大使オイゲン・オットーや大使館付将校ヨーゼフ・マイジンガーらからも信頼を得ていた。
 また尾崎秀美は、元朝日新聞社記者で、近衛文麿政権のブレーンとして、政界・言論界・軍部に深く関わっており、日中戦争から太平洋戦争開戦直前まで、政府の最上層部・中枢と接触し国政に影響を与えていた。尾崎はゾルゲとともに処刑されるが、戦後、尾崎秀実をモデルに「愛は降る星のかなたに」というタイトルで映画化され、さらに獄中の尾崎から妻子に宛てた書簡集「愛情はふる星のごとく」」が出版されベストセラーとなった。http://www.nikkatsu.com/movie/20157.html
 また、尾崎のコードネームは「オットー」とされ、劇作家木下順二により「オットーと呼ばれる日本人」として戯曲化されている。左翼系の新劇劇団「劇団民藝」や「前進座」で何度も上演されているが、あの「夕鶴」の作家木下順二が共産党シンパであったことは初めて知った。さらに、文芸評論家尾崎秀樹は秀美の異母弟にあたり、「生きているユダ わが戦後への証言」」を著し、ゾルゲ事件への独自の考察を行っている。
 事件捜査では、ドイツ人・ロシア人などの多くの在日外国人が容疑者や参考人として事情聴取され、日本側にも多くの有力者が含まれていた。また、ドイツ大使オットーや、親衛隊将校で「ワルシャワの屠殺人」と呼ばれたマイジンガーまでもが、ゾルゲを信用しきっており日本側の捜査に異を唱えた。裁判では、ゾルゲ、尾崎が死刑、合計20名が無期懲役など有罪判決を受け、1944(昭19)年11月7日のロシア革命記念日に両人の死刑が執行された。
 日ソ中立条約が結ばれ、一方で独ソ戦が開始される時期に、このような大規模のスパイ組織が暗躍していたことは、日本政府や軍にとっても衝撃であった。日本のちぐはぐな外交は、目に見えない裏側で、このような情報戦に翻弄されていたわけである。 
(この年の出来事)
*1941.6.22/ 独軍がバルト海から黒海にわたる戦線でソ連攻撃を開め、「バルバロッサ作戦」が開始される。(独ソ戦が始まる)
*1941.10.16/ 対米開戦が不可避になるも、近衛文麿首相は開戦責任を避けようとし、東条陸相と対立、内閣を投げ出して総辞職。18日、内相と陸相を兼任して東条内閣が成立する。
*1941.11.22/ 国民勤労報国協力令が公布され、男子14~39歳、未婚女子14~24歳には勤労の義務が課される。
佐々木 信雄さん曰く
ゾルゲ事件は、太平洋戦争勃発の直前に摘発されたので、曖昧なまま処理された。日米開戦そのものが、スターリンの工作で実現されたことは、戦後になってやっと明かになってきた。
処分されたゾルゲや近衛のブレーン尾崎秀実だけでなく、内閣書記官長(官房長官相当)・司法大臣などを務め、戦後も社会党の重鎮となった風見章、最後の元老西園寺公望の孫西園寺公一なども実質スパイで、さらに追及すれば首相近衛文麿にも及んだはず。
そんなソ連傀儡政権のもと、いざ日米開戦となると、ポイっと政権を投げ出されたのがヘタレ軍事官僚東条英機、あとは軍部が勝手に動くアノミー世界なのだ(笑)

◎日ソ中立条約

2022-03-31

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1941(s16)年】-1
◎日ソ中立条約
*1941.4.13/ 日ソ中立条約が調印される
 1936(昭11)年、日本は「日独防共協定」を結び、満州国北部国境の脅威となるソ連を牽制することにしたが、1939(昭14)年、ドイツは日本への通知なく「独ソ不可侵条約」を締結し、すぐにポーランドに侵攻して第2次世界大戦が始められた。ソ連囲い込みを意図した防共協定は事実上の意味を失い、1940(昭15)年、より明確な同盟関係の「日独伊三国軍事同盟」を締結した。
 ヨーロッパで快進撃をするドイツに乗り遅れるなと、三国同盟で意を強くした日本は南進を始め、英米との対立関係が顕著となっていた。松岡洋右が外務大臣に就任すると、日独伊ソ四国による「ユーラシア枢軸」を構想し、三国軍事同盟に続き、「日ソ中立条約」でソ連を枢軸国側に引き入れることを目指した(「日独伊ソ四国同盟構想」)。
 妄想に近い構想であるが、松岡自身はこのユーラシア枢軸によって、国力に勝るアメリカに対抗できると考えた。ソ連側は相手にしなかったが、まもなく「ドイツの対ソ侵攻計画」を察知したことで、対独戦に専念できるように、松岡構想と違う狙いで日本の提案を受諾し、1941年4月13日モスクワで調印した。
 ヒトラーは三国同盟締結時にすでにソ連侵攻を決めており、状況を読み違えた松岡の日独伊ソ四国同盟構想などはあり得ないことであった。しかしソ連は日ソ中立条約によって極東の部隊を西部へ移動させることができ、同年12月のモスクワ防衛戦に投入した結果モスクワは防衛された。
 ヒトラーは日本への通知なく独ソ戦を開始しており、ソ連を甘く見ると同時に、日本の役割を軽視した。もし日ソ中立条約を結ばせず、ソ連の兵力を東西に分散させたままならば、ソ連を崩壊させられたかも知れない。また、この条約の締結に先立ち、チャーチルは松岡に、ドイツは早晩、ソ連に侵攻することを警告していたという。
 日本にとって意味のない日ソ中立条約であったが、敗戦ぎりぎりまで日本が頼りにしたのもこの条約であった。日本側は条約の有効期間がまだ残っているとして、ソ連の仲介による和平工作を期待している。しかしヤルタ会談において、秘密裏にソ連の対日参戦が約束されており、ソ連はこれを黙殺し密約どおり対日参戦を行うことになる。
 ドイツに軽視されソ連に裏切られたなどと、国家間の情報戦で恨みごとを言っても始まらない。戦闘以前に「情報戦」ですでに敗北していたのであり、この年の10月には「ゾルゲ事件」の摘発が始まったが、露見したのは諜報活動のごく一部に過ぎない。友邦ドイツにも仮想敵国の共産ソ連にも、日本の機密情報は漏れ漏れであり、まもなく全面戦争に入るアメリカにも、言うまでもなく情報戦で完全敗北していたのであった。
(この年の出来事)
*1941.6.22/ 独軍がバルト海から黒海にわたる戦線でソ連攻撃を開め、「バルバロッサ作戦」が開始される。(独ソ戦が始まる)
*1941.10.16/ 対米開戦が不可避になるも、近衛文麿首相は開戦責任を避けようとし、東条陸相と対立、内閣を投げ出して総辞職。18日、内相と陸相を兼任して東条内閣が成立する。
*1941.11.22/ 国民勤労報国協力令が公布され、男子14~39歳、未婚女子14~24歳には勤労の義務が課される。

征露から正露へ・・・。

2022-03-20
どっこい生きてる、征露丸・・・。 どちらかへ贈ってあけたいような・・・。

闘いの転機(戦いの前と後)

「ワレニ追イツク敵機ナシ」:彩雲艦上偵察機

2022-05-01
艦上偵察機「彩雲」。乗員は3名で、極限まで空気抵抗を低減した機体であることがわかる。武装はコックピット後端に旋回機銃1丁を備えた。
日本海軍機の最高速となる時速約640キロを記録

第2次大戦中、「浮かぶ航空基地」こと空母を実戦で使用したのは、アメリカ、イギリス、日本の3カ国のみであった。この空母には、搭載できる艦上機の数に限りがある。そのため、1機種がいくつもの任務をこなせれば、搭載する機種が減らせるうえ、必要に応じて、それぞれの任務に従事する機数を容易に増減できる。

 このような発想から、各国とも艦上機は、水平爆撃機兼雷撃機、戦闘機兼急降下爆撃機といった兼用できる機種の開発に余念がなく、ましてや偵察機ともなれば、それはどれかの機種の副次的な任務にしてしまえばよい、ぐらいに考えられていた。

 例えばアメリカ海軍では、ダグラスSBDドーントレスやカーチスSB2Cヘルダイヴァーといった艦上急降下爆撃機が、また、イギリス海軍ではフェアリー・ソードフィッシュ艦上攻撃機が、それぞれ偵察任務に従事するケースが多かった。また、大戦中期以降になって機載レーダーやカメラ、長距離通信機の性能が向上すると、1人乗りの艦上戦闘機であるヴォートF4UコルセアやグラマンF6Fヘルキャットなども、容易に偵察任務に携われるようになった。

 だが日本海軍は偵察にことさら力を入れており、中島飛行機に対して、高速の艦上偵察専用機を開発するよう要請した。十七試艦上偵察機と呼ばれたこの機体は、太平洋戦争初期の1942年6月に試作が始まり、1944年中頃に艦上偵察機「彩雲(さいうん)」として制式化された。

 2000馬力級の誉二一型空冷エンジンを搭載し、究極まで空気抵抗を削減した「彩雲」は、試験飛行時に時速約640キロという当時の日本海軍機の最高速を記録。量産機になってからやや性能が低下したが、それでも高速機であることに間違いなかった。

「ワレニ追イツク敵機ナシ」。これは、偵察に出撃した「彩雲」が敵戦闘機に追撃されたものの、見事に振り切って虎口を脱した際に発した報告電文と伝えられる。

 だが「彩雲」が部隊配備された時期は、すでに日本空母で実戦に参加可能な艦が払底した状態だった。そのため本機は、ほとんど空母運用には供されず、陸上基地から発進して偵察飛行を実施した。特に日本周辺の洋上偵察、沖縄方面への特攻機の誘導やその戦果確認などに活躍。斜め銃を搭載した対B-29用の夜間戦闘型も開発されたが、これは実戦には間に合わなかった。

 戦後、アメリカは鹵獲(ろかく)した日本機をテスト飛行に供したが、同国製の高品質の燃料とエンジンオイルを使用した「彩雲」は、最大速度時速約694キロという高性能ぶりを発揮。アメリカ側技術者を驚かせたという。

数々の伝説を生んだ傑作戦闘機:零式艦上戦闘機 21 型・32型

96式艦上戦闘機という傑作機を手に入れた日本海軍は、同機に続く世界をリードする性能の艦上戦闘機の開発を求めた。これが12試艦上戦闘機で、1937年に三菱航空機と中島飛行機に試作の要請が出された。

 

 だが、96式艦戦よりもいっそう厳しくなった海軍側の要求に、中島は途中で辞退。三菱でも、96式艦戦をものにした堀越二郎らですら、前作よりさらにハードルが高くなった要求性能に頭を抱えることなった。

 

 こうして、再度堀越が主務者となって設計が始まった。海軍の要求は、軽快な運動性と優れた速度性能、長い航続距離、重武装を望むもので、この全てを満たす要求に対して、堀越が何かを犠牲にしなければならないことを示すと、防御能力がそれにあてられた。つまり防弾関連の重量を削減することで、それ以外の要求を実現するという方法が選ばれたのだ。

 

 さらに零戦の重量削減策として有名なのが、フレームに多数の孔(あな)を開けるという工程上の手間をかけて、強度を損なうことなく材料の中抜きを行い、その分の重量を浮かせたという逸話だろう。

 

 また、20mmという当時としては大口径で威力のある機関銃を搭載したが、同じく搭載していた7.7mm機関銃と弾道特性が異なるため、この両方の機関銃を巧みに使うにはパイロットの腕が大きくものを言った。

 

 かくして193941日に試作1号機が初飛行を行い、19407月に零式艦上戦闘機11型が制式採用された。そして同年中に中国での戦闘に出撃し、その驚異的な性能を発揮して中国空軍機を片端から撃墜。このとき、現場部隊から防弾についての要望の声も一部聞かれたが、勝ち戦だったため立ち消えになってしまった。

 

 太平洋戦争が始まると、零戦の主力は21型となっていた。同時代のアメリカのカーチスP-40トマホークやグラマンF4Fワイルドキャット、イギリスのホーカー・ハリケーンやスーパーマリン・スピットファイアなどは、熟練パイロットが操る零戦の巧みな空戦術によってバタバタと撃墜された。それまで、航空技術の後進国と思われていた日本の戦闘機に太刀打ちできないアメリカやイギリスのパイロットのみならず航空機メーカーも、「ゼロファイターの脅威」の前に、対抗策を講じるべく急遽研究を進めることになった。

 

 戦前から零戦で訓練を重ね、中国で実戦を経験してきた日本のパイロットの技量はそれこそ神業にも例えられるほどで、連合軍パイロットにとって零戦は恐怖の的であった。

 

 しかしもちろん、連合軍側も強敵である零戦の研究を怠っていたわけではない。不時着した機体などを徹底的に調査して弱点を調べ上げ、それを味方のパイロットたちに周知させたのである。また、零戦よりも大馬力のエンジンを積んだグラマンF6FヘルキャットやロッキードP-38ライトニング、リパブリックP-47サンダーボルトやスピットファイアの出力向上型の登場で、大戦中期になると零戦の優位もかなり揺らぐようになっていた。

 

 このような流れの中で、速度の向上と生産の容易化を図るため主翼端を角型にした零戦32型の生産が開始されたが、前線部隊ではこの改修は嫌われ、結局、主翼端は後の型で元の丸型に戻された。

 

 零戦の圧倒的な優位が揺らぎ始めたのは、ベテランパイロットの不足が目立ち、連合軍戦闘機の性能向上や新型機が登場するようになった1943年頃からである。一方で零戦も、21型や32型から新しい型への移行が始まることになる。

零戦の前段階に誕生した「もうひとつの傑作機」:96式艦上戦闘機(A5M)

1930年代中頃、日本海軍は、まだ複葉の95式艦上戦闘機を運用していた。しかし1920年代末から1930年代のこの時期にかけて、航空技術は世界的に急速な進歩を遂げており、複葉機では近々に旧式化することが明白だった。

 

 そこで日本海軍は、近代的な次世代の戦闘機を求めて9試単座戦闘機を発注することにし、試作の要請が三菱航空機と中島飛行機に出された。試作機の完成は1935年で、審査の結果、三菱案が採用となった。

 

 こうして誕生した96式艦上戦闘機は、続いて零戦を手がけることになる堀越二郎の設計で、海軍の制式機としては初の全金属製低翼単葉機だった。

 

 また、96式陸上攻撃機と共に、日本機として初めて沈頭鋲(ちんとうびょう)を全体に使用した。小さな鋲の頭だが、数がまとまると大きな空気抵抗となる。だが、頭が飛び出していない鋲の使用で、この空気抵抗を解消でき、性能の向上につながった。加えて、日本製実用機種として初めてフラップを採用している。

 

 主脚については、開発時期的に引込脚も実用化されていたが、脚部構造の重量増加を避け、さらに最前線の未舗装滑走路でのラフな運用を考慮して、あえて固定脚とし、フェアリング(覆い)をかぶせて空気抵抗の削減を図った。

 

 96式艦戦は開放式コックピットを備えていたが、転覆時などにコックピットが潰されてパイロットが死傷する恐れがあった。そこで、着陸時にフラップを作動させると、連動式のセーフティー・バーがコックピットの後方からせり上がるという工夫が施された。機体の転覆時はこのバーが先に接地して、コックピットが潰れるのを防ぐ仕掛けである。

 

 1937822日、日中戦争が勃発したため作戦行動中の空母加賀に96式艦戦が送り込まれた。そして94日に中国軍のカーチス・ホークを3機落とし、本機による初撃墜を記録した。さらに同年129日には、日本航空史に残る「片翼の帰還」が、樫村寛一(かしむらかんいち)三空曹の96式艦戦によってはたされ、本機の優秀さを広くアピールすることとなった。樫村機は空戦中に中国空軍のカーチス・ホークⅢと空中衝突してしまい、左の主翼の外側を大きく失ったものの、巧みな操縦によって帰還に成功したのである。

 

 その後、零戦が艦上戦闘機として制式化されても、同機の不足を補うために一部の空母での運用が続けられたが、1942年頃には全機引き揚げられて訓練など二線の任務に就いた。96式艦戦は、出現した時代において世界最優秀の戦闘機と言っても過言ではない名機であった。

 

 なお、連合軍は本機をMitsubishiの“Claude”というコードネームで呼んでいた

水上戦闘機から発達した零戦をしのぐ傑作戦闘機:紫電改

先に本連載で紹介した2式水上戦闘機は、実は、とある別の水上戦闘機の開発が遅延したことによる、リリーフ的立場の機体であった。その本来の水上戦闘機とは、川西航空機が開発した強風(きょうふう)である。

 

 大出力エンジンが必要だったため、雷電と同じ火星エンジンを搭載し、自動空戦フラップという空戦時のフラップ調整を自動で行う機構が組み込まれた、きわめて意欲的な設計の機体であった。しかし2式水上戦闘機がすでに実戦配備されて相応の成果をあげており、戦局は水上戦闘機を必要としない状況になりつつあったため、わずか97機の生産に留まった。

 

 そこで川西は194112月末、強風を、引込脚を備える局地戦闘機に改修する計画を海軍に提出した。当時、海軍は新型機雷電の不具合の調整と、零戦の後継機問題で悩んでいたため、既存の機種からの改修で実用化が可能と思われたこの計画を承認した。しかし当時の川西は、飛行艇や水上機のメーカーとしての評価こそ高かったが、陸上機に関しては経験がやや浅く、海軍内部の技術者の中から計画を懸念する声も聞かれた。このような状況を受けて、改めて審査の席が設けられ、その結果として計画にゴー・サインが出されている。

 

 当初の予定では、できるだけ速く実用化するため強風の設計を極力流用することになっていた。しかしエンジンを火星からより高出力の誉(ほまれ)に換装したことなどにより、各部に設計変更が必要となり、外観こそ似ているものの別の機体といえるほど手が加えられた。ただし水上機の強風譲りの中翼は変わらず、そのため主脚が長くなっている。

 

 こうして完成した機体は、紫電11型とされ、紫電(しでん)と略して呼ばれた。

 

 だが紫電は、自動空戦フラップや引込脚の不調、そして何よりも、プルフィーングが足りない誉の不具合に悩まされ、実戦部隊で高い評価を得ることができなかった。このことについて、当の川西も満足していなかった。というのも、紫電には素質として良い点もあったからだ。

 

 そこで、水上機だった強風に由来する中翼配置を零戦のような低翼配置に改め、直径の大きな誉に合わせて胴体のデザインや各翼の位置を修正。自動空戦フラップの信頼性も向上し、さらに、逼迫する戦況に対応すべく生産性向上と原材料節約の観点から、紫電よりも部品数を減した紫電21型が開発された。そしてこの機体は、紫電改(しでんかい)と呼ばれることになった。

 

 紫電改はきわめて優れた戦闘機で、パイロットの腕さえともなえば、零戦や雷電では荷が重かったグラマンF6Fヘルキャット、ヴォートF4Uコルセア、ノースアメリカンP-51マスタングといった強力なアメリカ製戦闘機と互角に戦うことができた。特に、紫電改を優先的に配備された第343海軍航空隊は、本土防衛に参加して大活躍をはたしている。

 

 かくして紫電改は、戦争末期の日本本土防空戦の勇戦をもって、海軍航空隊の戦いに最後の煌(きらめ)きを添えたのである。

 

 なお、連合軍は本機を“George”のコードネームで呼んだ。

戊辰戦争で使用された「ガトリング砲」は、どのくらい敵を殺傷したのか?

2022-05-01
ガトリング砲は一度に大量の弾丸を消費するため、供給が追い付かないことや、小回りが利かないことなどがネックになり、外国でも普及しなかった。
写真は河合継之助記念館に展示されているガトリング砲の模型。

戊辰戦争一番の激戦地といったら、皆さんはどこを思い浮かべるだろうか?

 白虎隊の悲劇があった会津、同じく少年たちが活躍した二本松、藩主不在のまま戦いとなった白河、戊辰戦争最後の戦いの舞台となった箱館、厳密にいえば箱館の五稜郭は城郭ではないのだが、これらの激戦地では城が落ちている。

 だが、同じ城が2回落ちている場所がある。どういうことだ?  と思われるかもしれないが、一度落ちた城を奪還した後に戦い、再び城を手離さなければならなくなったのが、長岡藩である。

 戊辰戦争の際、長岡藩は旧幕府側にも新政府側にもつかない、つまり中立を打ち出した。中立を保つためには強力な軍事力が必要である。そのため長岡藩の家老であった河合継之助(かわいつぎのすけ)は、大量の兵器を謎の外国人エドワルド・シュネルから買い付けた。謎というのは、出身地や生没年などの詳細が不明だからだ。

 継之助が彼から買ったものの中に奇妙な兵器があった。それが当時発明されたばかりのガトリング砲であった。

 ガトリング砲と呼ばれているが、大砲ではない。連発銃を6本円形に繫げたもので、ハンドルを回すと連続して弾を発射することができ、1分間に150発から200発撃つことができた。当時の兵士が1回の会戦で200発の弾薬を用意したといわれているから、それをわずか1分で撃ってしまうことになる。

 ガトリング砲は、アメリカを二分した南北戦争中の1862年、アメリカの医師リチャード・J・ガトリングによって発明された。彼は、マシンで動く銃を作れば、その分戦場に行く兵士が減り、負傷する者も命を落とす者も減ると考えていたという。しかし、この新しい兵器は北軍にも南軍にも正式採用されることなく南北戦争は終結してしまう。

 その後、起こった普墺(ふおう)戦争でも活躍することなく、慶応3年(1867)、横浜に2門陸揚げされたものを、継之助が15000両、計1万両で買い付けたのだ。この当時インフレが進んで1両が1万円程度だったとはいえ、1億円もの巨費を投じたことになる。

 継之助は、中立を保とうとしたものの、新政府軍がこれを許さず、慶応4年5月10日、長岡藩は新政府軍に対して引き金を引いたのである。ミニエー銃を手に持ち、フランス式で訓練された長岡藩軍に対して攻めあぐねていた新政府軍は、とんでもない行動に出た。城の外堀代わりであった信濃川を渡河したのである。当時は旧暦を使用していたから、5月といえば、今の6月、つまり梅雨の真っ最中で、この年は特に長く、川は増水しており川を渡るのは無謀と思える行為だった。

 思わぬ敵からの攻撃に長岡城下はパニックに陥った。敵の急襲に継之助は、秘密兵器ガトリング砲を引いて駆けつけ、信濃川の近く大手門の土手を楯にして乱射したという。しかし、継之助の奮戦むなしく落城してしまう。725日に八丁沖の戦いで城を奪還したものの、その4日後、再び落城。継之助も負傷し、会津へと落ちていく途中で人生の幕を閉じた。

 ガトリング砲が活躍したのは519日の攻城戦の時だけで、その後の記録はない。明治2年(1869)の宮古湾開戦で、旧幕府軍の回天に対してガトリング砲による攻撃が行われたため、回天は新政府軍の軍艦甲鉄に近づくことができなかった。このガトリング砲が、継之助が購入したガトリング砲であったがどうかは不明である。ただ、明治元年925日に長岡藩が降伏した時に没収された武器の中にガトリング砲は含まれていなかったという。

オランダから輸入された「ゲベール銃」は、なぜ旧式ながら戊辰戦争で活躍したのか?

 ゲベール銃とは1670年にフランスで採用され、1777年にオランダで軍用として取り上げられた銃のこと。弾を銃口から装填(そうてん)する前装銃であるが、写真のゲベール銃をよく見て欲しい。銃には必ずあると思われる、あるパーツがない。これがそれまで日本で使用されていた火縄銃と洋式銃の戦法の違いを端的に表している。この銃には銃口の上部に突起がない。上部の突起は、標的を狙う時に照門になり、これを使って照準を合わせる。

 

 日本では、目標物に照準を合わせて撃つ方法が尊ばれた。これは、火薬の原料となる硝石(しょうせき)が日本ではほとんどが産出しなかったためだろう。火薬の製造量に限りがあるため、一発必中、例えていうならばゴルゴ13のような腕が必要されていたのである。

 

 一方、硝石が簡単に手に入るヨーロッパでは、火薬を節約しなくてもよかった。鉄砲隊が密集し、前列に並ぶ膝撃ちの兵の後に立ち撃ちの兵が並んで号令に合わせて打ち放つ。花火に使用されることが多い黒色火薬だと、先が見通せないほどの煙で幕が張ったようになる。19世紀末のスーダンを舞台にした映画「サハラに舞う羽根」には、「阿蘭陀直伝高島流砲術巻」の中に描かれている光景がそのまま登場するので、参考までにご覧になってみてほしい。

 

 先の見えないほどの煙幕の中から飛んでくる弾は、敵方は避けようにも難しいため、あまり狙撃に優れていない撃ち手でも敵にダメージを与えることができた。ひらたくいえば「下手な鉄砲数撃てば当たる」。狙撃手を育てるのには時間がかかるが、この方法だと一通り鉄砲の扱いを覚えさえすれば戦力になる。もっとも狙撃しようにもゲベール銃の照準制度は低かった。

 

 火縄銃もゲベール銃も前装式なので弾と火薬を入れてから棒(朔杖/かるか)で奥まで押し込むまでは両者とも一緒だが、火縄銃は火皿と呼ばれる部分に少量の火薬を入れ、引き金を引くと火縄が火皿の火薬に点火し、そこから銃口に入れた火薬へ火が点いて弾が飛び出る。いつでも使えるように火縄に火が点いたままにしておくにはコツがあり、慣れないと難しい。

 

 一方ゲベール銃の方は、引き金を引いて火打石で出た火花で火薬に点火するので、手順が少ない上、扱いも簡便だった。燧石(すいせき)式ゲベール銃に使われていた火打石だが、日本では雨が多く、湿気も高いのでうまく火花が散らないことがある。また、まねして作ろうにも良質な石を見つけることが難かった。やがてさらに簡便な管打式のゲベール銃が発明されるとすぐに日本でも使用されるようになり、国内でも製造されるようになって一気に広まった。

 

 戊辰戦争ではもっと新しい形式の銃が活躍したが、それでもかなりの数が使用されていた。実は旧式ならではの利点があったからだ。最新式のスペンサー銃などは専用の薬莢(やっきょう)式弾丸が必要で、銃があっても弾丸がないと使用することができない。火縄銃やゲベール銃は銃口に入れば弾でなくても発射することができた。その証拠に戦国時代の戦場の遺跡から火縄銃の弾として使用されたのではないかと思われる石などが見つかっている。まさか、戊辰戦争で石が弾丸の代わりに使用されていたとは考えにくいが、弾丸に使われる鉛は融点が低いため、丸い弾ならば簡単に製造することができた。実際に戦場で製造していたという記録が残されている。

旧式兵器「火縄銃」は戊辰戦争で活躍したのか?

 俗説ではあるが、旧幕府軍が新政府軍に敗れたのは、使われた銃が戦国時代に日本に伝わった古い形式の火縄銃が多かったからだという。では、本当に火縄銃は戊辰戦争で使用されていたのだろうか。

 

 火縄銃は寛永14年(1637)に起こった島原の乱が翌年終結すると、兵器として活躍する場面はほとんどなくなった。これ以降従来は火縄銃関係の産業は衰退していったと考えられていたが、近年堺市で鉄砲鍛冶をしていた家から資料が発見された。これによると江戸時代を通して数は少ないが新調や修理などもあり、これまで考えられていたよりも使用が盛んであったことが明らかになった。

 

 それでも平和な世の中では銃はあまり使用されることはない。農民たちが鑑札を受けた上で猟をする程度だった。それが再び注目されるようになったのは、江戸時代も後半になり、日本近海を外国船がうろうろし始めたからだ。

 

 文化5年(18088月、長崎港にイギリス軍艦フェートン号がオランダ船と偽って入港する事件が起こる。だまされたとはいえ、やすやすと侵入を許した責任を取って長崎奉行の松平康英(まつだいらやすひで)が切腹、警護の当番であった佐賀藩の藩主鍋島斉直(なべしまなりなお)も処分された。

 

 こうした事態を憂いて、西洋の火器を入手し、広めようとした人物がいる。長崎の町年寄高島秋帆(たかしましゅうはん)だ。町年寄の仕事のかたわら蘭学を学び中でも砲術に通じてオランダからゲベール銃などを取り寄せるほどだった。

 

 江戸時代日本は鎖国していたといわれているが、実際にはオランダを通じていち早く外国の情報を入手しており、当然隣の大国清がアヘン戦争でイギリスに敗れたことを幕閣などは知っていたという。オランダ人からそのことを知った秋帆は清が負けたのは砲術が未熟であったからだとし、我が国の海防に西洋流砲術を取り入れるべきだと幕府に上書。これが受け入れられ、幕府関係者を集めて徳丸原で天保12年(18415月に西洋流砲術を披露した。

 

 幕府は西洋流の採用を決めるが、保守派の反対に合い頓挫。しかし、嘉永6年(18536月にペリー艦隊が来航すると事態は一変する。軍事力に圧倒されて外国との条約を結ばざるを得なくなったからだ。軍備の違いを見せつけられ、軍事力の強化を痛感した幕府や諸藩は欧米諸国から争うように洋式銃を購入。しかし、洋式銃は高価で数多く購入することは難しかった。

 

 手先の器用な日本人は、洋式銃の製造を試みて成功したのだが、大量生産には至らなかった。もしかしたらそれよりも簡単で安価に大量に銃をそろえる方法が生み出されたのも少しは影響していたのかもしれない。実は、国内にあった火縄銃を改良して洋式銃のようにしたものが造られるようになったのだ。火縄銃は火縄を用いて点火し発砲する。火縄は雨が降ると火が消えてしまうなど扱いが難しい。これを撃鉄(げきてつ)を落とした摩擦熱で点火する方法に変えた。こうした改良銃を「菅打ち火縄銃」(かんうちひなわじゅう)という。火縄銃は銃口から弾を入れるが、これを尾栓から詰める方法に改良した火縄銃もあった。

 

 もっとも、軍備を増強するにあたり火縄銃をその持ち主ごと徴発することもあったというから、戊辰戦争で一体どれくらいの火縄銃が使用されたか記録はないが、立派に役目を果たしていたようだ。

なぜ「ミニエー銃」は新政府軍と旧幕府軍の両軍で使用されたのか?
従来の小銃に比べ、射的距離、命中精度を大幅に向上させたミニエー銃。その性能の良さから佐幕派、倒幕派の枠を越えて両軍の主要兵器となった。その秘密に迫る。

発砲事件や、刑事ドラマなどで、残された弾丸から「この銃は以前の〇〇事件で使用されたものと同じ」といわれるのを目にしたことがあるだろう。ではなぜ、銃から発射された弾丸だけでそんなことがわかるのだろうか。

 

 現在使用されている小銃や拳銃の銃身の内側には普通4本から6本ほどの溝が彫られ、この溝は銃口から見ると傾斜が付いた螺旋になっている。弾を発射する時に火薬の爆発によって生じるガス圧で弾丸が膨張しこの溝に押し付けられながら銃身内を進む。そのため、発射された弾丸には回転が加えられるのだ。

 

 この時に弾丸には溝に押し付けられた時の傷が残る。溝は機械で同じように作っても弾に残る傷は1丁ごとに異なるという。回転しない弾は空気抵抗や引力の影響を受けてすぐに下へ落ちてしまうため、あまり遠くまで飛ばないし、命中率もあまり高くはない。地球上で生活している限り、空気抵抗や引力は必ずついて回る問題なのだ。

 

 銃の内側に刻まれている溝のことをライフルといい、銃が誕生した後の比較的早い時期から、ライフルを刻んだ銃は存在したといわれている。だが、円形の弾だと、この溝にうまく食い込ませることができなかったり、弾を装填するのに時間がかかったりして、実用的ではなかった。

 

 それを、実戦に耐えるものに改良したのが、フランスのクロード・エティエンヌ・ミニエー大尉だ。1846年にそれまでの丸い弾を、俗に椎の実弾とよばれる先が尖った円柱形に成型。この銃弾の底の部分には空間を作りここに栓がしてあった。初期の栓は木製であったらしいが、後には金属に代わった。

 

 この弾丸を銃口から入れて槊丈(かるか)で押し込むと栓がライフルにうまくはまり込む上、火薬の爆発で生まれた圧力によって弾丸が内側に彫られた溝にしっかり密着し、回転しながら勢いよく飛び出す。この弾の誕生によって、命中率と有効射程距離が格段に向上した。

 

 なお、この椎の実弾であるが、回転を加えないと尖った先端部分がまっすぐに目標に向かって飛ばず、思ったような効果を得られなかった。空気抵抗という見えない壁を破るには流線型と目にも止まらないスピードの回転が必要だったということだろう。

 

 ミニエーが発明したこの弾丸を撃つための銃がミニエー銃である。ミニエー弾とミニエー銃は一世代前のゲベール銃に比べると格段に有効射程距離が延び、命中精度も一説によると3倍以上になったという。

 

 1851年にイギリスで採用されるとヨーロッパで一気に広まり、日本では文久3年(1863)ごろから輸入され、国産も試みられた。なお、この後、さらに改良を加えた前装式のライフルがいくつかあるが、日本ではライフリングされた前装銃のことを全般にミニエー銃と呼んでいる。弾の装填の効率化を図って開発された後装銃や、まとめて弾を装填できる連発銃も戊辰戦争の時点で日本に入って来ていたものの、銃そのものがミニエー銃に比べて高価であったことや専用弾丸の入手の問題もあって、それほど多くは使われていない。戊辰戦争もっとも広く一般的に使用されていたのは、前装式ライフルの「ミニエー銃」だったのだ。

『トップガン マーヴェリック』フィーチャレット解禁!

2022-04-30

茨城空港のファントムの塗装が終わったと聞いて見に行ってきました

2022-04-24
Facebook 向笠 哲生 さん曰く、大変きれいにしていただき有難うございました。

一瞬分からなかった件

2022-04-24
Facebook 森 一理 さん曰く

データベース(武器を用いない闘いの歴史の中で、人は如何に生きたか・・・。)

「糟糠(そうこう)の妻」がファーストレディーとしてのスタートを切った。

2022-05-24
© 産経新聞 バイデン米大統領(中央)を茶道のお点前でもてなす岸田文雄首相と裕子夫人=23日、東京都港区の八芳園(内閣広報室提供)
2022/05/24 00:57

岸田文雄首相がバイデン米大統領を迎えた東京・白金台の八芳園での夕食会は、首相の裕子夫人にとって、ファーストレディーとしての本格的な外交デビューとなった。首相の「日本の美を伝えたい」(官邸関係者)との意を受けた裕子夫人は和服姿で茶の湯の点前を披露し、バイデン氏をもてなした。

裕子夫人は平成28年、首相の外相時代に広島市で開かれた先進7カ国(G7)外相会合でも和服姿で各国外相夫人を迎えた。当時も茶の湯でもてなしており、今回の夕食会でも白羽の矢が立った。

バイデン氏を迎えるにあたり、裕子夫人は茶席で使用する茶器を八芳園に備えているものか、普段から使い慣れているものかを悩み、最終的に使い慣れているものを使うことを決めた。会場も自ら視察するなど入念な準備を重ねた。

茶の湯だけではなく、語学も堪能な裕子夫人は首相も頼る存在だ。令和2年の自民党総裁選で敗れた不遇の時代も首相を支えた「糟糠(そうこう)の妻」がファーストレディーとしてのスタートを切った。(永原慎吾)

◎マルコムX 暗殺

2022-05-24

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1965(s40)年】-1
◎マルコムX 暗殺
*1965.2.21/ 急進的な米国黒人運動指導者マルコムXが、演説中に暗殺される。
 日本では、アメリカの黒人解放運動と聞いてキング牧師を思い浮かべる人は多いが、マルコムXという奇異な名前の人物はあまり知られていない。ガンジーゆずりの平和無抵抗主義を維持したキング牧師に対して、マルコムXは非合法的な運動も認めるような過激な演説で黒人たちの支持を集めた。
 キング牧師らの解放活動が「公民権法」の成立に大きな寄与をしたのは間違いないが、ケネディ、ジョンソンと続く政権が公民権法の制定を急いだ背景には、マルコムXらの過激な主張から切り離したいという思惑も働いたと考えられる。
 公民権法成立後も事実上の差別は無くならず、目標を達成して存在感が弱まったキングらの無抵抗主義に対して、マルコムXらの過激派の勢力が増した。やがてマルコムXの暗殺、さらに数年後キングの暗殺と、むしろ黒人たちをさらに過激に走らせる事件が相つぐことになる。
 ちなみに、ボクシング史上最大のチャンプともされるモハメド・アリは、マルコムXを信奉し、従来のカシアス・クレイというのは奴隷の名前だとして、彼から授けられたムスリム名のアリに改称した。
MalcomX speech"We declare our right on this earth"
映画「マルコムX」(1992/米) 監督スパイク・リー/主演デンゼル・ワシントン
(この年の出来事)
*1965.3.20/ 河野一郎国務大臣から、記録性に欠けると批判された市川崑監督「東京オリンピック」が公開され、大ヒットとなる。
*1965.6.12/ 新潟大学の植木幸明教授らが、阿賀野川流域で水俣病に似た有機水銀中毒患者が発生していると発表する。(第2水俣病)
*1965.10.21/ 朝永振一郎博士が、ノーベル物理学賞を受賞決定。

【ノーカット】日本医師会会見 次期会長選挙に中川会長「不出馬」表明

2022-05-24
 「横倉義武君174票、中川俊男君191票」
毎日新聞 2020/6/30 東京朝刊

 医療界で大きな影響力を持つ日本医師会の新会長に、副会長だった中川俊男氏(69)が就任した。27日投開票された会長選で、5期目を目指した現職の横倉義武氏(75)を破った。安倍晋三首相や麻生太郎副総理兼財務相との太いパイプを生かし、8年間にわたって安定運営してきた横倉氏からの「政権交代」は、医療界と政治の関係にどう影響するのだろうか。【原田啓之】

 「横倉義武君174票、中川俊男君191票」。東京都の日本医師会館で開票結果が読み上げられると、静かな拍手が広がった。中川氏は壇上で「堂々と物を言える新しい日本医師会に変えていこうと思っている」と力強く語った。

民間から初めて・・・、

2022-05-18
Facebook 浅見俊彦さん曰く、昭和の美智子さま 皇室史上最高の気品、上品、美しさを誇りました

「太平洋ひとりぼっち」 堀江青年が小型ヨットで単独太平洋横断

2022-05-17

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1962(s37)年】-4
◎「太平洋ひとりぼっち」 堀江青年が小型ヨットで単独太平洋横断
*1962.8.12/ 1962年5月12日、西宮を出発した堀江健一(23)青年が、小型ヨット「マーメイド号」でサンフランシスコに到着、単独無寄港太平洋横断に成功した。
 1962(s37)年5月12日、23歳の堀江健一青年が、単独無寄港太平洋横断を目指して、小型ヨット「マーメイド号」で兵庫県西宮を出港した。途中連絡が途切れ家族から捜索願が出されたたりするなか、8月12日、アメリカのサンフランシスコに無事入港し、太平洋横断に成功した。航海日数は94日。
 堀江がサンフランシスコに到着したとの連絡を受けた大阪海上保安監部は、アメリカで不法入国者として強制送還され、日本に着いたその場で逮捕されることになるとしていた。しかし、サンフランシスコ市長は「コロンブスもパスポートは省略した」と、尊敬の念をもって名誉市民として受け入れ、1ヵ月間の米国滞在を認めた。
 このニュースが日本国内に報じられると、当初、迷惑な無謀冒険者扱いだった日本国内の雰囲気が、手のひらを返すように、堀江の冒険を“偉業”と称え、一気に英雄扱いの論調となった。1ヵ月後、飛行機で帰国すると大歓迎を受け、艇を係留した「くい」をみやげに両親とともに記者会見した。
 堀江青年の太平洋航海の手記をまとめた「太平洋ひとりぼっち」が出版されると、世界に飛び出す若者のバイブルとされ、翌1963年には、石原プロモーションの映画製作第1回作品として、市川崑監督、石原裕次郎主演で映画化された。 https://www.youtube.com/watch?v=Kx2PBVCWMJg
(この年の出来事)
*1962.8.30/ 日本航空機製造の戦後初の国産旅客機「YS-11」が、試験飛行に成功する。
*1962.10.10/ ファイティング原田(19)歳が世界フライ級王座に初挑戦、世界フライ級王者のポーン・キングピッチ(タイ)に11RにKO勝ちでチャンピオンとなる。
*1962.10.22/ ケネディ大統領が、キューバにソ連のミサイル基地が建設中と発表。(キューバ危機)

日本国自衛隊

*1960.1.19

2022-05-10
「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」が締結される。

Facebook 佐々木 信雄さん曰く


【20th Century Chronicle 1960(s35)年】-1
◎日米新安保条約(60年安保)
*1960.1.19/ ワシントンで「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」が締結される。
*1960.5.19/ 19日、社会党議員を強制排除して始まった衆議院本会議は、20日午前零時過ぎに、自民党単独で新安保条約を衆議院可決。
*1960.6.10/ アイゼンハワー大統領来日の事前打ち合わせに来たハガチー大統領補佐官は、羽田空港でデモ隊に包囲され、米軍ヘリコプターで脱出。
*1960.6.15/ 安保阻止実力行使に全国で580万人(主催者側発表)が参加、全学連主流派が国会構内に突入、警官隊と衝突し東大生樺美智子が死亡する。
*1960.6.19/ 33万人のデモ隊が国会を包囲するなか、午前零時、新安保条約が自然成立する。
 1960(s35)年6月15日、安保阻止最大のデモで、全学連主流派が国会に突入し、防衛する警察機動隊・右翼団体・暴力団等と衝突、この混乱のさ中で東大生樺美智子が圧死する事故が起った。その数日後の6月19日、安保条約は参議院の議決のないまま自然成立する。10万規模のデモを官邸から見下ろした岸首相は「となりの後楽園球場には平和な民衆が5万と居る」とつぶやいたとか。
 1951(s26)年のサンフランシスコ講和条約の成立(日本主権回復)と同時に、吉田首相が単独で署名した旧日米安保条約は、日本に片務的で臨時的なものであった。日本の主権回復とともに駐留軍が撤退するため、日本の軍事的空白を防ぐために、引き続き米軍の駐留を認める必要があった。ただしそれは、米国の「駐留権」を認めるという形で、日本の防衛や駐留自体は、もっぱら米国の都合次第という条約であった。
 岸信介は、1957(s32)年2月、病に倒れた石橋湛山首相の後継に指名され、石橋内閣を引き継ぐと、1958(s33)年5月の総選挙で政権としての信任を得て、第2次岸内閣を組閣する。選挙を経て自信を得た岸首相は、アジア重視の自主外交を進めながら、一方で対米尊重の基本枠は譲らず、日米安保条約の改定に向けて、着々と条件を整えていった。
 1960(s35)年1月に、岸首相以下全権団が訪米し、アイゼンハワー大統領と合意し、1月19日、新安保条約の調印にこぎつけた。ワシントンで「新安保条約」に署名するが、その発効には国会の承認が必要であり、岸訪米団が帰国してから、本格的な反対運動が起こる。
 新条約の承認を巡る国会審議では、安保廃棄を掲げる日本社会党が徹底抵抗の姿勢を示し紛糾した。また国会外では、社会党や共産党が指導する労働者団体だけでなく、社会党や共産党の既存革新政党を批判する急進派学生らにより、「共産主義者同盟(ブント)」が結成され、ブントの主導する「全日本学生自治会総連合(全学連)」主流派が、総力を上げて反安保闘争を展開した。
 1960(s35)年5月19日、衆議院日米安全保障条約等特別委員会で新条約案が強行採決され、続いて5月20日未明に衆議院本会議を通過した。委員会採決では、自民党は座り込みをする社会党議員を排除するため、右翼などから屈強な男たちを動員し、警官隊と共に社会党議員を追い出しての採決であった。本会議は、翌20日に日付が変わったころ、自民党議員だけで議決された。
 この強行採決の模様がテレビニュース等で流されると、一般市民の間にも反対の運動が高まり、国会議事堂の周囲は連日デモ隊で取り囲まれた。参議院での議決が為されない場合、新安保が自然承認される6月19日には、アイゼンハワー大統領訪日が予定されており、6月10日にその日程調整に来日したハガチー大統領報道官は、羽田空港を出たところでデモ隊に包囲され、アメリカ海兵隊のヘリコプターで救出されるという事件が発生した(ハガチー事件)。
 過激な全学連は国会突入戦術を推進していたが、社会党は傘下の組合の時限ストやデモを組織しつつ、全学連の強硬路線には静観的な立場を取り、共産党は「極左冒険主義の全学連(トロツキスト=分派主義)」と批判した。一方、当のブント全学連は、既成政党の穏健デモを「お焼香デモ」と非難した。
 そして6月15日、安保改定阻止国民会議の呼びかけで、全国各地で560万人が集い、各地で大規模な集会やデモが実施された。国会前でも、暴力団と右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの負傷者を出すなどするなか、全学連主流派が指揮するデモ隊が国会内に突入、機動隊と激しく衝突する。そのさなかで、デモに参加していた東京大学学生の樺美智子が圧死した。
 新安保条約は、衆議院議決1ヵ月後の6月19日、参議院の議決がないままに自然成立した。またアイゼンハワーの来日は延期(実質上の中止)となった。そして岸内閣は、混乱の責任をとる形で、新安保条約の批准書交換の日である6月23日、総辞職を表明した。これらにより、安保反対運動は急速に沈静してゆく。
(この年の出来事)
*1960.3.28/ 1.5無期限ストに突入していた三井三池炭鉱は、ロックアウト解除をめぐって第1と第2組合で衝突、さらに泥沼化する。
*1960.5.16/ 慶応幼稚舎2年生の男の子が誘拐され、19日に死体で発見される。(正樹ちゃん誘拐事件)
*1960.8.25/ 第17回オリンピック・ローマ大会が開催される。 
*1960.11.8/ 米大統領選挙で、ジョン・F・ケネディが当選する。

共同訓練を実施しました。

2022-05-27
5月24日~25日、護衛艦 #てるづき関東南方において、米海軍 #ロナルドレーガン #アンティータム 及び #ベンフォールドと共同訓練を実施しました。
海上自衛隊は本訓練を通じて日米同盟の抑止力・対処力を強化するとともに海上自衛隊の戦術技量及び米海軍との相互運用性の向上を図りました。

日米の第5世代戦闘機 #F35A 同士が初の対戦闘機戦闘訓練を実施

2022-03-15
3月10日、日米の第5世代戦闘機 #F35A 同士が初の対戦闘機戦闘訓練を実施
#航空自衛隊 のF-35Aは、2018年に三沢基地に配備されて以降、訓練を着実に積み重ねてきました。
本訓練によって、進化する #日米同盟 の姿と両国の揺るぎない絆を示しました!

無人偵察機「グローバルホーク」の第1号機

2022-03-15
3月12日、三沢基地に、
#航空自衛隊 が運用する無人偵察機「グローバルホーク」の第1号機が
納入されました。
民間機の飛行しない高高度に長時間滞空して情報収集に当たり、
我が国のインテリジェンス向上に大きく寄与します。
厳しい軍事情勢の中、警戒態勢を一層強化していきます。
#防衛省・自衛隊

自衛隊の装備品等を米軍機によりウクライナに届ける準備を進めています。

2022-03-17
ウクライナに届ける #自衛隊 の防弾チョッキやヘルメット等を載せた米軍機C-17が、
横田基地を出発する予定です。
日米は強固に連携し、ウクライナを応援します。
3月16日 #防衛省・自衛隊 は、在日米軍横田基地において #鬼木防衛副大臣 、エマニュエル駐日米国大使@USAmbJapan 、セメニューク駐日ウクライナ大使館@UKRinJPN公使参事官が見守る中、自衛隊の装備品等を米軍機によりウクライナに届ける準備を進めています。 #日米同盟
国際秩序の根幹を揺るがす今回のロシアによるウクライナ侵略は我が国の安全保障の観点からも、決して看過できません。今回の米軍機による輸送は、この事態に対し、日米両国が、#日米同盟 の下、国際社会と結束して毅然と行動していく決意を示すものです。#ウクライナのために #防衛省・自衛隊

闘いすんで 陽が暮れて・・・

硫黄島からの帰還です。

2022-02-09
Facebook 徳田 秀光さん曰く
 硫黄島から、英霊が77年ぶりに雨模様の中、自衛隊のc-130h輸送機でお帰りに成りました。埼玉県の入間基地で儀じょうにより出迎えました。
  この度、ご帰還された英霊は14柱。
帰路の自衛隊機には14人分の席を用意されました。
英霊にとっては77年ぶりのご帰還。
安らかに帰れるようにと自衛隊員達は隣の席の骨箱に、優しい手付きでシートベルトを着けました。 
 米軍の火炎放射器等で塞がれた地下壕で発見された英霊は、家族から届いた手紙の束を握りしめたままの方々もいます。
 『お父さんお元気ですか。僕も元気で毎日学校に行ってべんきょうしています…………』
 発見者は、涙が出て全てを読めなかったと報告書に記しています。

日本です。新婚旅行です。ディマジオがいっしょでした。

2021-11-11
Facebook Nostalgia&Rock'n’ Roll ノスタルジア・ロックンロールさん曰く
朝鮮戦線を慰問、日本での新婚旅行を中座して・・・。

マリリン・モンロー ジョー・ディマジオ来日(新婚旅行)の日程 

 

1954年(昭和29) 2月1日 午後5時35分 羽田着 

夫のジョー・ディマジオ サンディエゴ・パドレス監督の

フランク・オドウル氏らとともにオープンカーをつらねて帝国ホテルへ。

              

2月2日 記者会見

   ディマジオの為の記者会見だったが、質問はすべてマリリン

へのものだった。

 

2月8日 午後7時30分 板付着 

那珂川河畔の国際ホテル(現在の城山ホテル跡)へ

                     ホテルを500人あまりのファンが取り巻く。

マリリンは2階の窓辺に現れ、カーネーション の花びらを

ファンにばらまいて、投げキッスをふりまいた。

滞在中は、1人で、西戸崎へ米軍キャンプの慰問、

ドライブなどを楽しむ。

ディマジオ、オドウル監督らは、香椎球場で日本プロ野球選手の

技術指導を行う。

夕食はお忍びで、ホテルの通りをはさんだ向かいのレストラン

ロイヤル(旧花の木)で食事を楽しむが、店をファンに埋め尽くされる一幕も。

            

2月11日 午前9時10分 岩国市の米軍基地へ

                    ディマジオ・マリリン一行は、自動車で宮島の一茶苑に向かったが、

ファンが殺到しMPが出動する騒ぎだった。

            

2月14日 岩国から大阪へ

            

2月16日から19日まで

     マリリンは、朝鮮の国連軍慰問(10ヵ所以上の駐屯地を訪問)し、カゼを引く

     ディマジオは、大阪・奈良などを訪問し、野球指導を行う。

            

2月25日 午後2時7分 羽田からサンフランシスコへ帰国

ロイヤルのこの器は、今(2021年)でも、この形で、テーブルにサービスされています。

昭和天皇の御巡幸 戦後全国を御巡幸された陛下。

2021-11-25
Facebook 上野不二子 さん曰く、親しみやすい笑顔が印象的ですね。

真宗大谷派の取り組みについて

「全戦没者追弔法会」の和讃

2021-04-04
Facebookしんらん響流館さん曰く
1987年から「戦没者追弔会」に「全」と仏法の「法」という文字を加えて「全戦没者追弔法会」と名称を改め勤められています。

【4/2全戦没者追弔法会】

2021-04-04
Facebookしんらん交流館さん曰く
1987年から「戦没者追弔会」に「全」と仏法の「法」という文字を加えて「全戦没者追弔法会」と名称を改め勤められています。

尾畑文正先生の発言

2022-04-24
Facebook鈴木 君代さんの投稿です。

【春の法要ライブ配信】全戦没者追弔法会(4月2日10時10分~)

2021-04-02

全戦没者追弔法会 戦争でいのちを奪われた方々を憶念し、仏が願われた「兵弋無用(軍隊も武器もいらない)」の教えから、私たちの今を問い直す法要です。
 ◆法要 10時20分~ 
【法要次第】
 出仕
 着座楽 
総礼 
伽陀 稽首天人 
登高座 
表白 
伽陀 万行之中
 御経 仏説阿弥陀経 
伽陀 直入弥陀 
下高座 
総礼 
正信偈 草四句目下(同朋唱和) 
念仏讃 淘五 三重念仏 
和讃 無明長夜の燈炬なり 次第三首 
回向 願以此功徳 
総礼 
恩徳讃 
退出楽 退出
全戦没者追弔法会   表 白
謹んで阿弥陀如来、宗祖親鸞聖人 、ならびに
三世十方の諸仏如来に申し上 げます。
 本日ここに、親しく宗祖親鸞聖人のまえに坐 すことを得て、全戦没者追弔法 会を厳修いたします。このときにあたり、一つには過去の 罪障を懴悔し、二つには現在の遇法を慶喜び、三つには将来に同朋社会の顕現を期したいと存じます。 
第一に、過去の罪障を懴悔するとは、われらの宗門が、先の悲惨な侵略戦争 に自ら荷担し、それを「聖戦」と呼び、「まったくおおせにてなきことをも、 おおせとのみもうす」罪を犯したことであります。 実に、五逆謗法の咎逃れがたく、今更あらため 全戦没者の悲しみを 憶念し、ここに真宗大谷派が無批判に戦争に荷担した罪を表明し、過去の罪障を懴悔いた します。
 第二に、現在の遇法を慶喜ぶとは、そのわれらの罪障にも拘らず、如来の本 願はその罪を私たちに知らしめ、罪に向き合い、平和への道を歩ましめるので あります。
 第三に、同朋社会の顕現を期すとは、本願念仏の教法に生きる者は「四海の 内みな兄弟とするなり」という浄土の 荘厳功徳をこの身に受け、死者と生者が 一つに出会い、国家や民族の境を超えた「同朋社会」の顕現に 向 む かって 生 い きる 者 もの となるのであります。 われら 真宗門徒、ここに 非戦平和の誓いを 表 白し、ひとえに、この身とこの世の無明の闇を 照らす仏の教えに随い、ともに生きあえる世界 への道を歩まんことを誓うものであります。 

   二〇二一年四月二日  釋修如

仏が願われた「兵弋無用(軍隊も武器もいらない)」の教え

2021-08-15
Facebook 阪下 大介さん曰く

【 Facebook闘いのページ】のページ、管理者は住職です。

政局について

めざせ、ガラスの天井打ち破れ!!

2021-09-21
こちらの二人は、打ち破りました。

「私たちはいまだ、最も高く、硬い『ガラスの天井』を破ることができていません」。米大統領選で敗北したヒラリー・クリントン氏は、初の女性大統領誕生が幻となったことをこう表現した。翻って日本はというと、世界経済フォーラムが10月に発表した報告書では、男女格差の比較で144カ国中111位(米国は45位)。国会議員の女性比率の低さや女性首相が出ていないことが足を引っ張り、女性の活躍を阻む「ガラスの天井」はさらに分厚い。この国の政治の現場が、「女性の活躍」という掛け声どおりに天井を打ち破れる日は来るのか。自由民主党の野田聖子議員、民進党の蓮舫代表と、政治学者の三浦まり氏に話を聞いた。(ライター・秋山千佳/Yahoo!ニュース編集部)

0:39



欧州連合(EU)の次期主要ポストは、行政執行機関である欧州委員会の委員長にドイツのウルズラ・フォンデアライエン国防相、欧州中央銀行(ECB)総裁にクリスティーヌ・ラガルド国際通貨基金(IMF)専務理事が、それぞれ就任する。欧州統合が始まってから60年以上続いてきた男性優位の人事に終止符が打たれる。アイルランドのレオ・バラッカー首相のコメントと併せ動画でリポートする。

自民総裁選 吉か凶か「菅&石破&小泉」の河野氏支援

2021-09-21
© 産経新聞
2021/09/20 20:30
2021-09-21

自民党総裁選(29日投開票)をめぐり、河野太郎ワクチン担当相が知名度の高い石破茂元幹事長と小泉進次郎環境相の支持を得て〝小石河連合〟で勝利を目指している。党内の無派閥議員に影響力がある菅義偉(すが・よしひで)首相も河野氏支持を表明、世論調査では他の3候補を圧倒する。ただ、石破氏らの支援には党内の遠心力も働いており、河野氏にとって吉と出るかは見通せない。

「議論を通じ国民にいろいろなことを聞いてもらった。さらに数字が伸びるように頑張りたい」。河野氏は20日、報道各社の世論調査で自身の支持率がトップを独占していることを記者団から問われ、こう胸を張った。産経新聞社とFNNの合同世論調査でも「新総裁にふさわしい人物」で52.6%を占めた。河野氏自身の知名度に、石破、小泉両氏らの人気が加わったとみられる。

河野氏は支援に対し「ありがたい」と謝意を口にするが、石破氏らは党内に確執も抱えており、議員票獲得にはマイナスとなる可能性もある。最大派閥の細田派(清和政策研究会、96人)に影響力を持つ安倍晋三前首相や第2派閥の麻生派(志公会、53人)を率いる麻生太郎副総理兼財務相らにとって、石破氏は政敵といえる。ある中堅議員は「石破氏が乗ることで、河野氏を支持できないという議員も出てくるのではないか」とみる。

小泉氏に対しても党内には不満がある。環境相としてエネルギー政策を「脱原発」の方向に進めたことに加え、河野氏支持を表明した記者会見では細田派に牙をむいた。同派が岸
田文雄前政調会長、高市早苗前総務相の支持を打ち出したことに触れ「最大派閥は『河野太郎は絶対にダメ』ということ。党風一新の点からも全力で(河野氏を)応援したい」と語った。仮想敵を自らつくり注目を集める「劇場型」の政治手法に、党内からは「父親の純一郎元首相そっくりだ」と冷ややかな声も上がる。

菅首相の支援が〝逆バネ〟となる可能性もある。8月の横浜市長選では、小此木八郎前国家公安委員長を応援したが惨敗を喫した。新型コロナウイルス対応などをめぐり世論の批判が強まる中、首相の支持が足を引っ張ったとの見方もある。ある閣僚経験者は首相の河野氏支持表明に「横浜市長選で失敗しているのに」と語った。(奥原慎平)

【自民党総裁選】党青年局・女性局主催 公開討論会(2021.9.20)

2021-09-20
自民党総裁選の党青年局・女性局主催 公開討論会をライブ配信いたします。
ぜひご覧ください。

総裁選カギ握る党員の本音・・・決選投票に“注文”も(2021年9月19日)

2021-09-20
[テレ朝news] 2021/09/19
4人の争いとなった自民党総裁選、一足先に投票が始まった党員票の獲得に向け、各候補の動きが激しくなってきています。勝敗のカギを握る「党員」の本音を取材しました。 ▽自民党総裁選 カギ握る「党員票」 卵焼きは、祖父の代から70年、同じレシピで味を守り続けている自慢の逸品です。 横浜市で仕出し弁当店を経営する渡邉清高さん。自民党員歴は16年です。 届いたばかりの総裁選の投票用紙を見せてくれました。 (佐々木一真アナウンサー)「ここに候補者の名前を書くんですね。初めて見ました」 (仕出し弁当「うお時」渡邉清高代表)「党員費払っていないと送られてきませんからね。自民党の総裁=首相というものすごく重みがありますよね。その選ぶ権利を持っているというのは」 今回の総裁選。自民党によりますと、全国で110万人を超える党員・党友が投票資格を持っています。 1人1票を持つ国会議員票382票に加え、党員・党友による投票で配分される382票の合計で争われ、過半数を獲得した候補が当選します。1回目の投票で過半数を獲得した候補者がいない場合、上位2人の候補者による決選投票を行います。 (渡邉清高代表)「僕らのような小さな商売をしていると、どうしても政策とかでもろに商売に影響が出てくる。どう変えていくのか?どうしたいのか?今回の総裁選でも一番気にしているところです」 ▽4候補 告示後初の週末 総裁選のカギを握る党員票。全国各地の党員に対して支持拡大を訴えます。 (石破茂元幹事長)「すみません石破茂でございます。河野太郎でぜひぜひ皆様方よろしくお願いしたいなということで、珍しいことに横に小泉環境大臣というのがおりましてね・・・」 (小泉進次郎環境大臣)「もしもし突然すみません小泉進次郎です」 二枚看板による電話作戦。河野太郎行政改革担当大臣は、知名度の高い2人を全面に押し出し、党員票で他候補を引き離したい考えです。 ハガキ攻勢に出ているのは・・・岸田文雄前政調会長の陣営です。さらに、自らの想いをつづった政策パンフレットまで。 (岸田文雄前政調会長)「特に地方票についきましては、ここ数日が大変重要だと。何とぞお力添えをいただきますようお願いを申し上げます」 前日の大阪に続いて、19日は兵庫。連日、地方議員と意見交換をおこなっています。 高市早苗前総務大臣は保守派の論客とネット配信を行い、保守層固めにも力を入れています。さらに・・・ (高市早苗前総務大臣)「どうしても自分の声でごあいさつ申し上げたく」 録音メッセージによる電話作戦を展開。 (高市早苗前総務大臣)「皆様の命と財産を守り抜くための政策を最優先いたします。大切な、大切な一票、私、高市早苗にお託しくださいませ」 野田聖子幹事長代行は、地元・岐阜の支援者との会合に。 (自民党岐阜市支部 玉田和浩 会長)「少なからずも岐阜市の自民党員の票は5000票、野田聖子を書いてくれと」 (野田聖子幹事長代行)「岐阜市の自民党の仲間の皆さん、おはようございます。岐阜の地方で育てられ、嘘をつかず誠心誠意、岐阜の母ちゃんとして頑張る!」 一方、野党側は「総裁選よりも新型コロナ対策を」と自民党を厳しく批判しました。 (立憲民主党 菅直人 最高顧問) 「野党の一致をした行動の中で総裁選の後に来る総選挙において、いよいよ政権交代を実現しようじゃありませんか」 (立憲民主党 枝野幸男 代表)「いま総裁選挙と称してコロナ対策そっちのけで色々おっしゃっている皆さんも、結局は競争が大事だ、自己責任だ、目先の金もうけばかりに目を奪われる、こんな政治をずっと動かしてきた」 ▽「永田町の理屈が反映されやすい」決選投票に“注文” その総裁選の進め方について、注文をつける党員もいます。 (探求フリースクール・マチラボ 広田悠大代表)「こちらです」 (佐々木一真アナウンサー)「党員証自由民主党と書いてありますね」 20歳から党員になって6年目の広田悠大さんです。 広田さんは自らが不登校になった経験から、同じような境遇の児童や生徒たちの居場所を作りたいという思いでフリースクールを運営しています。 (広田悠大代表)「教育に対して、どういうふうなアプローチが自分ではできるのかを考えるために(党員に)なりました。決選投票でも1票の重みは変えないでほしいっていうところがある」 1回目の投票で過半数を獲得した候補者がいない場合に行われる決選投票。 実は、1回目に382票あった党員票が、都道府県連に1票ずつ割り当てられた47票に減るため、国会議員票の比重が大きくなります。 (広田悠大代表)「永田町の理屈が反映されやすい選挙結果になってしまうと思うので、きちんと党員の意見が反映されるような仕組みがあると民主主義の在り方として健全」 事実上の次の総理大臣を選ぶ自民党総裁選。投開票は29日です。
 [テレ朝news] https://news.tv-asahi.co.jp
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