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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

◎山一抗争

2021-04-07
Facebook 佐々木信雄さん曰く
*1985.1.26/ 大阪府吹田市で、山口組の竹中正久組長ら最高幹部3人が、一和会系の組員に短銃で撃たれ、死亡する。(山一抗争勃発)
【20th Century Chronicle 1985年(s60)】
◎山一抗争
*1985.1.26/ 大阪府吹田市で、山口組の竹中正久組長ら最高幹部3人が、一和会系の組員に短銃で撃たれ、死亡する。(山一抗争勃発)
 「山口組」三代目田岡組長が亡くなり、後継決定に際して三代目の妻田岡フミ子の意向により、竹中正久が四代目組長に就任する。山口組組長代行を務めていた山本広の山広派は、これに反発して山口組を脱退して「一和会」を結成、いわゆる「山一抗争」へと発展することとなる。
 当初こそ一和会が数的優位と思われたが、武闘派で名を馳せた四代目竹中の怒濤の切り崩しで、一和会は徐々に弱体化し劣勢に立たされてゆく。逆転を狙った一和会は竹中暗殺を計画、少数幹部とともに竹中が愛人のマンションに立ち寄るところを待ち伏せ、竹中組長と若頭というトップ二人を射殺した。かくして2年あまりに及ぶ、日本最大暴力組織の内紛「山一抗争」が勃発する。
 それに対する山口組側からの報復は熾烈をきわめ、一和会は追い詰められる一方で、山本広会長宅に山口組会系組員が大型ダンプカーで突っ込んだりするありさまだった。やがて、稲川会や会津小鉄会の仲裁もあり、山口組側から抗争集結宣言が出されて収束した。抗争を通じて300件を超える大小抗争事件が発生、一和会側に死者19人負傷者49人、山口組側に死者10人負傷者17人、警察官・市民に負傷者4人を出したとされ、抗争の直接の逮捕者は560人に及んだ。
 抗争終結後も一和会への締め付けは厳しく、構成員数200人にまで衰退した結果、山本広会長は引退し一和会の解散を表明した。竹中組長射殺以降、各地の暴力団の武装化が進んだとされるが、山一抗争がのちの暴対法制定の切っ掛けにもなったとされる。
(この年の出来事)
*1985.3.16/ 科学万博「つくば'85」が開催される。(~9.16)
*1985.7.10/ 京都市が古都保存協力税を実施、これに反対する金閣寺などが拝観停止で対抗ストライキ。
*1985.9.22/ 米・英・仏・日・西独の5ヵ国蔵相会議で、ドル高修正のため、為替市場への協調介入強化が合意され(プラザ合意)、円高時代に入る。
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